02 op.10-3
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:34
- 02 op.10-3
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:35
- 三ヶ月前。
晴れた朝、母は笑って買い物に出かけた。
月が明るいその日の夜、母は物言わぬ人となって家へ帰ってきた。
そして鈴木愛理はピアノをやめた。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:36
-
家の中は片づけられていた。
特にグランドピアノが置かれている部屋は片づけられているというよりも、ピアノ以外のものはほとんどなくガランとしていた。
一般的な家庭にはグランドピアノなんてものは置いていない。
だが、愛理の家は一般的な家庭とは言い難い家だった。
母はピアニストを目指していた。
だが、その夢が叶うことはなかった。
母の家が営んでいた会社が倒産し、演奏家への未来は永遠に閉ざされたのだ。
留学先から戻ってきた母の手元にはグランドピアノだけが残った。
その後、父と結婚してからも母は演奏家になる夢を諦めきれず、愛理が生まれてからは愛理にその夢を託した。
だから、愛理の隣には生まれた時からグランドピアノがあった。
そして当然のように母からピアノを習った。
三歳から始めたピアノは中学一年生になった今も続けている。
いや、数ヶ月前までは続けていた。
今、愛理の目の前にはグランドピアノがある。
このピアノには三ヶ月間触れていない。
母が死んだあの日から愛理はピアノに触れていなかった。
今日は母と愛理がずっと使っていたグランドピアノが運び出される日だった。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:37
- 生まれてから今まで、そこにあることが当然だったピアノが今日なくなってしまう。
実感がわかない。
愛理は暖房を入れる。
スイッチを入れてからしばらくすると、暖かい空気が愛理の頭の上を掠めた。
エアコンから吹き出す生暖かい空気に押されるようにして愛理はピアノに近づく。
蓋に触れるとひんやりと冷たくて、背筋がぴくりと震えた。
冷たい蓋を開けて愛理が白鍵を叩くと、本来鳴る音とは違う音が部屋に響いた。
そう言えば、前回調律を入れてから丁度一年がたった。
音も狂うはずだ。
父に伝えて調律を入れてもらわなければ、と考えて愛理は思い直す。
調律は必要ない。
今日、このピアノは運び出される。
そもそも三歳から続けていたピアノは三ヶ月前にやめたのだ。
例えピアノがこのままここに置かれているとしても調律を入れる必要がない。
愛理にはもうピアノを弾くつもりがないのだから。
もう一度、愛理は白鍵を叩く。
微妙にずれた音が耳に残る。
白鍵と黒鍵を順番にいくつか叩いていると、指が自然に動き出した。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:38
- 弾くつもりはない。
けれど、弾くことを覚えている愛理の指が勝手に頭の中にある音符を辿る。
ついこの間まで練習していたショパンのエチュード作品10第3番を指先が紡ぎ出す。
『別れの曲』と言った方がわかりやすいかもしれない。
愛理が母に教えてもらった最後の曲だ。
ゆったりとしていて、何かを包み込むような柔らかな曲。
メロディーラインが綺麗で愛理はすぐにこの曲を気に入った。
だが、タイトルが悪い。
こうやってこの曲を弾いていると、別れの曲なんてものを弾いたから母と別れることになったようなそんな気がしてくる。
悲しかった、と愛理は思う。
母が亡くなった時、確かに悲しかった。
母とは色々あったが嫌いではなかった。
だから愛理は涙が涸れる程泣いた。
だが、それと同時にほっとした自分がいた。
愛理が今、思い出す母の姿。
それはピアノの前で難しい顔をしてるものばかりだ。
上手く弾くことが出来ずに泣き言を言ったら、母に叱られた。
ピアノをやめたいと言ったら、母に叱られた。
母は愛理がピアノをやめることを許してはくれなかった。
託された夢が重くのしかかる。
母にとって愛理がそれを途中で投げ出すことはありえない。
思い出の中の母は愛理を叱ってばかりいた。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:39
- 愛理は三歳の時、母に言われるままピアノがどういったものかわからずに弾き始めた。
最初は鍵盤を叩くと音が鳴ることに興味を惹かれた。
そして生まれる音が曲に変わっていくことが楽しくなった。
練習用の本が先に進んでいくことが嬉しかった。
けれどいつしかピアノを弾くことが苦痛に変わった。
上手く弾きたいと思うのに指が動かない。
練習を繰り返しても自分が想像する音に近づかない。
そのうち楽譜を見ると頭が痛くなるようになった。
たまには友人達と外で遊びたかったし、ピアノばかりを見ている生活にも飽きていった。
そんなことを考えてピアノを弾くとそれは音に反映される。
母は険しい顔をして、愛理は眉根を寄せて涙を堪えた。
ピアノに集中すること。
そんな簡単なことが出来なくなると、指は動かなくなっていく。
そして指はもつれ、曲が途絶えてしまう。
今もそうだ。
鍵盤から心が離れて、思考が過去へ飛んだ。
思った通り指がもつれた。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:39
- ピアノは不協和音を奏でる。
母が自分を叱る姿が思い浮かんで、愛理は乱暴に鍵盤を叩いた。
曲は途切れ、グランドピアノには不釣り合いな粗野な音が部屋に鳴り響く。
弦の余韻が部屋に残る。
音が完全に消えてから、愛理はピアノの蓋を閉じた。
窓の外に目をやる。
窓から見える庭の木に何羽かの鳥が留まっていた。
ピアノの為に防音設備を整えた部屋には外の音が入ってくることはない。
しかし、愛理の頭の中には鳥の鳴き声が聞こえてくる。
外はいつだって部屋の中とは違った音が溢れていて、愛理にとって魅力的だった。
だが、母は愛理に外で遊ぶことを許さなかった。
外で友達と遊ぶ約束をしていても、その約束を断るように言われた。
ドッジボールをする約束をして帰ってきた時に「突き指でもしたらどうするの」と母に止められたことを思い出す。
度が過ぎた愛情。
過保護すぎると母も思っていたかもしれない。
それでも、母は愛理を閉じこめたし、愛理は外に出たかった。
ピアノがあるこの部屋は愛理にとって思い出の詰まった部屋であると同時に、愛理を閉じこめる箱でもあった。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:40
- まるでオルゴール箱の住人になった気分。
来る日も来る日も同じ曲を弾く。
オルゴール箱が同じ曲を奏で続けるように、愛理もこの部屋の中で同じ曲を弾き続けた。
けれど、そんな生活は三ヶ月前に終わった。
このピアノに残された時間は少ない。
三時になれば、このグランドピアノは愛理の家から運び出され、きっと誰か新しい主人の下に引き取られていくだろう。
思い出がこの家から消え去るまであと十五分。
愛理はピアノの蓋を指先でなぞる。
もう一度蓋を開けようかと迷ってやめた。
ペダルを二回踏んでから、愛理はピアノから離れた。
この部屋から出る為に扉に向かって足を進める。
扉を開けると、廊下から聞いたことのない男の声が聞こえた。
愛理はすぐにその男の声が何なのかわかった。
この見知らぬ男は父が呼んだ思い出解体人だ。
本当はピアノ運送業者と呼ぶべき人なのだけれど。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:41
- 今日、この部屋がガランとしている理由の一つ。
それは部屋の大半のスペースを使っているグランドピアノを運び出す為だ。
父が母の思い出を処分することに決めた。
この世にいない母はもうピアノを弾くことが出来ない。
そして愛理も弾くつもりがなかった。
弾く者がいないピアノは心の奥を刺激する存在でしかない。
見ていると誰かのことを思い出しそうになってしまうこのピアノは、痛み以外を生み出さなかった。
声の主は数人を引き連れ、愛理がいる部屋へと入ってくる。
運送業者はピアノとは不釣り合いな体格の良い男達だった。
彼らは愛理に一礼すると、グランドピアノを取り囲んだ。
愛理は出て行くつもりだった部屋から出ることが出来なくなってしまう。
ピアノから目が離せない。
気がつくと父が愛理の後ろに立っていた。
グランドピアノはまずペダルから外された。
そして足が外された時、大きな傷が見えた。
あれは従姉妹の矢島舞美と一緒に付けた傷だ。
舞美が家へ遊びに来た時にピアノの足にお互いの名前を刻んだ。
翌日、母にこっぴどく叱られた記憶がある。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:42
- ピアノが分解されていく間にも思い出は溢れ、こぼれていく。
学校の合唱コンクール、伴奏を頼まれて毎日練習したこと。
結果は二位だったけれど、クラスメイト達は喜んでいた。
母の誕生日にピアノを弾いたこと。
難しい顔をしていくつかの注意をしてから、「愛理ならもっと上手くなれるよ」と遠回しに母が褒めてくれた。
妙に感傷的な気分になる。
涙が溢れそうになるのは気のせいだと思いたかった。
ぐすっと愛理の鼻が鳴った。
涙が溢れる前に拭って、分解されていくピアノをしっかりと見る。
パーツ別に分かれたグランドピアノがゴロゴロと部屋に転がっていた。
運送業者達が運び方を相談している声が聞こえる。
その声を遮るように、開け放たれている扉の向こうから呼び鈴が響いた。
愛理はピアノから離れない。
背後から父の気配が消えた。
父が呼び鈴を押した誰かを家に上げたのか、廊下からかすかに声が聞こえてくる。
それは愛理が毎日のように聞いている声で、姿を見る前に声の主が一つ年上の幼なじみ、有原栞菜のものだとわかった。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:43
- 今日の約束は断ったはずなのに。
今日、愛理は栞菜と出かける約束をしていた。
だが、グランドピアノを運び出す日が今日に決まって、ピアノの最後を見届ける為に愛理はその約束を断った。
廊下から聞こえる栞菜の声が近づいてくる。
愛理はピアノから目を離して振り返った。
「愛理が泣くんじゃないかと思って来ちゃった」
そう言って栞菜が笑った。
愛理はダウンのジャケットを脱いでいる栞菜の隣まで足を進める。
扉のすぐ横にいる栞菜の隣まで来ると、栞菜が外から連れてきたひんやりとした空気が愛理の腕を撫でた。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:44
- 「泣かないよ」
言葉とは裏腹にまた涙が滲んでピアノがぐにゃりとねじ曲がる。
愛理のぼやけた視界の端に何か小さな箱が映った。
壁に据え付けられた本棚に置いてある箱。
それには見覚えがあった。
グランドピアノの形をしたオルゴール。
それは母が愛理に買ってくれたものだ。
貰ったばかりの頃、よくそのオルゴールを聴いた。
しかし、次第にオルゴールを聴くことはなくなり、その存在は記憶の端に追いやられた。
すっかり忘れていた。
こんなものがあることを。
愛理は本棚に向かい、オルゴールを手に取った。
栞菜の隣まで戻って、愛理は壁に背中を預ける。
ネジを何度か巻いて蓋を開けると、聞き飽きる程聞いた曲が鳴り始めた。
すると栞菜が愛理の手の中を覗き込んで言った。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:45
- 「これ、なんて曲?」
「op.10-3」
「え?」
「おーぱすじゅうのさん」
「おーぱすじゅうのさん?」
「うん」
愛理はわざと別れの曲を表す作品番号で答えた。
別れの曲だとは何故か言えなかった。
隣では栞菜が不思議そうな顔をしている。
「この前まで練習してた曲?」
「……うん」
「聴きたかったな、この曲」
愛理が弾いているところを、と言わなかったのはきっと栞菜の優しさだ。
弾いてあげる、とはやはり言えない。
ピアノはもうやめたのだ。
「今度、一緒にコンサート行こう」
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:46
- 愛理が口にした言葉に栞菜は軽く笑っただけだった。
それにどう答えればいいのか困って、愛理はピアノを見る。
もうこの家で弾かれることのないピアノの分解はほとんど済んでいた。
時々、男達がかけ声をかけながらピアノを緩衝材に包んでいる。
分解され、緩衝材に包まれ、愛理を閉じこめていたオルゴール箱が壊れていく。
来る日も来る日も奏でていた音楽が愛理の中から次第に遠ざかっていく。
母のオルゴールは、愛理の手の中で別れの曲を奏で続けていた。
オルゴールは別れの曲の練習を始めたばかりの頃に「綺麗な曲だからオルゴールにぴったりでしょ」と言って母が買ってくれた。
初めてこのオルゴールを二人で聴いた時、母は「やっぱりオルゴールにぴったり」と言って曲のタイトルに不釣り合いなぐらいにこやかな笑顔をしていた。
今思い出しても、それはピアノの横でいつも不機嫌な顔をしていた母とは結びつかない。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:47
- オルゴールが止まる。
愛理はネジを巻く。
何度も何度もネジを巻いた。
別れの曲をBGMに、一つのピアノだった物体はパーツごとに分解され、思い出は緩衝材と段ボールにくるまれて男達に持ち上げられた。
ペダルと足を外されたピアノは布の上に置かれた。
かけ声とともにピアノが動き出す。
愛理の十三年分の思い出は数十分で分解され、この部屋から運び出される。
布の上に置かれたピアノを男達が押す。
布ごと押されたピアノが少しずつ動いていく。
男達が愛理の目の前を通った時、かつて母と愛理のピアノだった欠片が別れを惜しむようにポロンと鳴った。
そして愛理を閉じこめていた見えないオルゴール箱は消えてなくなった。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:48
- 愛理はオルゴール箱をパタンと閉じる。
何故だか、思い出の中の母が笑っているような気がした。
「お母さん、本当に行っちゃった」
ぽっかりと空いたスペース。
ピアノがあった場所の床は少しだけ新しいように見えた。
母がいなくなった日を思い出す。
あの日、家の中が少しだけ広くなった。
「愛理のお母さんはどこかに行ったりしないよ」
愛理の手に栞菜の手が触れる。
左手が温かい。
「ずっと愛理のここにいる」
栞菜が自分の胸に手を当てた。
少し困ったように笑ってから、栞菜が言葉を続ける。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:49
- 「愛理が忘れたって、また思い出すまでずーっとここで眠ってる」
たかがピアノ一つで泣くなんて思わなかった。
母が死んで、その時に涙は尽きていたはずだ。
そう思っていたのに。
愛理の目から涙がこぼれた。
一度、溢れ出した涙の止め方など知らない。
胸の奥が痛いような温かいような。
愛理は不思議な気持ちのまま、ぽろぽろと涙をこぼし続ける。
「行っちゃったのはピアノで、お母さんじゃないよ」
「ほんとに?」
「うん、絶対」
左手を栞菜に痛いぐらいきつく握られる。
伸ばされた手に涙を拭われた。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:49
- そういえば。
子供の頃、ピアノが思ったように弾けなくて今みたいに泣いていたら、お母さんがほっぺたをゴシゴシ拭いてくれたっけ。
母の記憶。
大半は叱られたものばかりだ。
だがそれは最近の記憶で、過去に遡っていけば褒められたこともそれ以上にあった。
愛理が上手に弾けた時は自分のことのように喜んでくれていた。
ピアノがなくなってしまってから思い出すなんて遅すぎると思う。
今さらかもしれない。
けれど、別れの曲を練習して上手に弾けるようになりたい。
母に聞いてもらいたかった。
そしてきちんとお別れをしたい。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:50
- 「あたし、新しいピアノ買ってもらえるようにお父さんにお願いしてみる」
もう一度、ピアノを弾きたいと思った。
ゆっくりと母が眠れるように別れの曲を弾きたい。
愛理は溢れてくる涙を今度は自分で拭った。
「また始めるの?」
「うん、またやってみる」
「そっか。愛理ならきっと出来るよ」
きつく握られている手が温かかった。
もし新しいピアノを買って貰えたら。
まっさきに栞菜に弾いて聴かせてあげよう。
栞菜にぴったりな明るい曲を。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:51
- 愛理は窓の外に目をやる。
庭の向こうにピアノを乗せたトラックが見えた。
窓は防音で何も聞こえない。
それでも、愛理の耳にはトラックが走り去る音が聞こえたような気がした。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:51
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- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:51
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- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/12/24(月) 01:51
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