14 線のナイフ
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:37 ID:zYK8qpYU
- 14 線のナイフ
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:39 ID:zYK8qpYU
- 担任教師はくたびれた笑顔で教室に入ってくると生徒と同数のノートをどさりと置いて、彼
らが席に戻るのをしばらく待った後、近くなったゴールデンウィークについて話し始めた。
だらけた空気の中で彼は「で…去年までは国民の休日だったんだな」とぼやきながら黒板に
チョークを走らせる。生徒たちが聞いている様子はない。
さゆみは、眩しい西日のせいで目を細めている自分の顔を想像し、これではあまり可愛くな
いだろうと思って、瞼に力を入れた。
担任教師のつまらない話はまだ続いている。
さゆみが知りたいのは、そんなことじゃない。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:40 ID:zYK8qpYU
- 返却された連絡帳を開いて、さゆみは今日も溜息をつく。
毎日の提出が義務づけられている連絡帳は多くの生徒には面倒な代物だが、「道重さゆみ」
を演出する道具として彼女は手を抜かない。
今日も連絡帳の「今日の出来事」欄は、彼女が持ち得る限りのペンで飾った「今日の出来事」
がある。なのに「先生からあなたへ」の欄には、赤字で『楽しそうですね』や『頑張って下
さい』といった当たり障りのない言葉が置いてあるだけだ。
先生はもっと、ちゃんと返事をしなくちゃいけない、とさゆみは思う。
仕事の上だけで返事をされるのは、彼女にとってあまり楽しいことではなかった。欲しいの
は注目ではないが、ともさゆみは思う。彼女が思うに、あの狭い教室ひとつで言うならば、
それはもう足りている。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:41 ID:zYK8qpYU
- 現在のさゆみが連絡帳の罫線に数色のペンを走らせる理由は「演出」ではなく、全く別のと
ころにあった。事の始まりは「今日の出来事」欄の最後にさゆみが残した1行と、それに対
する教師の返答だった。
『先生もいろーんなペンつかってみてください!楽しいですよ』
勿論、これもさゆみの本意ではなく演出だったし、担任もいつもと変わらず「そうですね。
でも『先生は赤ペン』という決まりです」と返した。そのはずだったのに、無関心に加えら
れた言い訳が不思議とさゆみの気に障る。日常を歪めるきっかけは些細だった。
気まぐれに生まれた不愉快は、あっという間に膨れ上がる。
「…つまんない」
さゆみは素顔で怒り、自分の膨れた顔を見たくないのでその日は鏡を出さなかった。
この日から、1行の挑発が始まる。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:43 ID:zYK8qpYU
- 『もっとたくさん書いて下さい!』
『先生は赤が好きなんですか?』
『いつも同じですね』
『赤ペンしか持ってないんですか?』
それはあくどい言い回しや幼い言葉を故意に使って、毎日毎日続けられた。
神経質な生徒だと思うだろうか。それとも、子どもの遊びと、気にも留めていないのか。
当然のことながら、さゆみの攻撃はかわされ続けた。
担任教師は挑発に乗ることなく、仕事上の返答を続けた。
『そうですね』
『先生は先生なので』
『赤ペンは決まりですから』
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:44 ID:zYK8qpYU
- さゆみの1行はときおり彼を苛立たせることができたが、多くは難しい言葉でごまかされた。
そうして、さゆみはますます不愉快になっていく。
連絡帳を受け取るたびに、机の下に隠し、さっと開き、中身のない赤い文章に顔を歪ませた。
奥歯がぎりっと音を立てる。左眉が痙攣する。小さく舌打ちする。
つまんない、と呟いた唇が歪む。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:45 ID:zYK8qpYU
- 担任との攻防に飽きつつあるとさゆみが気付いたのは春の終わりだった。
結局、その正体はひとり遊びであるのを自身でそれとなく理解したために、飽きた。
昨日はなんて書いたっけ。カバンに教科書を詰めながらさゆみは文句を思い出そうとする。
担任教師はくたびれた笑顔で教室に入ってくると生徒と同数のノートをどさりと置いて、彼
らが席に戻るのをしばらく待っていた。帰る支度を早々に済ませたさゆみは、無表情を作っ
て前を向く。西日が眩しい。
彼のいかにも教師らしい鬱陶しい口調に耐えながら、さゆみは待つ。薄れたとはいえ仮想の
敵に対する反抗的な感情は彼女の中に漂っていた。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:46 ID:zYK8qpYU
- 「もうすぐゴールデンウィークだ。お前らはいいな、休めて。長い休みだからといって羽目
を外さないように。頼みますよ」
担任はチョークで『5月4日』と書いた。早く教室から出たい生徒たちの不服そうな様子を無
視して、彼は「もうひとつ」と続ける。
「5月3日は憲法記念日。で、5月4日は『みどりの日』になりました。これは今年から」
2行めに『2007年〜』と加えながら「去年までは国民の休日だったんだな」と呟いた。
何人かの生徒が、へぇ、と声をあげたが、さゆみが知りたいのはそんなことじゃなかった。
自らの手で放ったものが子どものワガママか鋭利なナイフか、それだけだ。焦るような期待
するような複雑な感情も今や惰性だと十分に知りながらさゆみは待った。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:48 ID:zYK8qpYU
- 「というわけでお前らが忘れないように先生が気を利かせました。はい日直、連絡帳配って」
戻ってきたそれを、机の下で白い膝を隠すように置き、最後のページへ視線を走らせる。
毎日繰り返されて癖になった仕草の中にいるせいか、教室中の騒ぎは彼女の耳に届かない。
「あっ」
すぐさま、さゆみは手で口元を隠した。
誰かに聞こえなかっただろうか、瞬時に辺りを見回しても目の合う生徒はいない。どうやら
教室中の騒ぎにまぎれたようだ。
そのまま、白い指で唇を捻り潰してしまいそうなほどの勢いでおさえた。
そうしていないと声をあげてしまいそうだったから、強くおさえた。
勝った。込み上げる笑い声を、さゆみは必死で押し殺していた。安い満足感は、ひとり遊び
の結果としては上等だった。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:49 ID:zYK8qpYU
- 「おい席につけ。先生まだ話してるぞ。連絡帳は休みの間は毎日書かなくてもいいです。ゴ
ールデンウィークの思い出をひとつ書いて、休み明けに提出して下さい、以上。日直、挨拶」
作り笑顔で負け惜しみを吐く担任の姿を、さゆみは見届けられなかった。
顔を上げれば気付かれるだろう。ごくりと唾を飲み込んで、さゆみは何度も何度も「先生か
らあなたへ」の欄を読み返す。緑色のペンで書かれた彼の返答は言い訳としては取り分け悪
質なものだった。
『大人もいろいろ大変なんだよ』
読んでは、声なく嘲笑う。可哀想に、先生は、大人は、手を差し伸べてあげなければ本音を
表すことも出来ないのか、さゆみは思う。それなら、ゴールデンウィークは毎日「今日の出
来事」を書いてあげよう。持ち得る限りのペンで白いノート地が見えないほどにあざやかに。
手の中で呼吸を整えると、晴れ晴れとした顔を上げてさゆみは、笑った。
いつものそれと変わらない「道重さゆみ」を演出するための美しい笑顔で、教室を出てゆく
担任を見送った。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:49 ID:zYK8qpYU
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- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:50 ID:zYK8qpYU
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- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/06(金) 20:50 ID:zYK8qpYU
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