09 白い記憶
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:34 ID:r6/TWiKI
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09 白い記憶
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:35 ID:r6/TWiKI
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よかった。今日も無事に朝が来た。
不自然なほど小さな窓から白い光が差し込んでいる。
今日は晴れみたいだ。
私はベッドの傍らにある小窓から、外の世界をそっと覗き見た。
雲1つない青空と眩しい太陽。
幸せな朝。
ここに来る前、自分がどこに住んでいたのか思い出せない。
家族や友達の顔も忘れてしまった。
私が自分について分かっていることは、名前だけだ。
エリは私のことをヒトミと呼ぶ。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:36 ID:r6/TWiKI
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◇
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:37 ID:r6/TWiKI
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私は、都心部から少し離れた町に、家族と一緒に住んでいた。
両親と3人の可愛い妹たち。
王の治めるこの小さな国は、決して裕福ではない。
もちろん王族や貴族はそれなりに贅沢な暮らしをしているのだろうが、
都の中心から離れれば離れるほど、人々は貧しくなっている。
正直言って、私たちの生活はぎりぎりだった。
まず雨の少ないこの地域では水が貴重品だったし、3食きちんと食べられない日もある。
衣服は2、3種類しか持っていないし、毛布も足りない。
妹たちは中学校を出ているけど、私は小学校にも満足に通わせてもらえなかった。
私は10歳の時から父の大工仕事を手伝い、妹たちは母の内職を手伝って、
少ない収入でなんとか食いつないでいる状態だった。
母とは血が繋がっていない。
実の母親は、私が1歳半の時に死んだ。
父はその後すぐに今の母と再婚し、私には3人の妹が出来た。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:37 ID:r6/TWiKI
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私は幼い頃から、この母に虐待を受けていた。
何をやっても気にくわないらしく、父の知らない所で、私は母のサンドバッグにされた。
確かに前妻の子なんてうっとうしいものだし、仕方のないことだったと思う。
父を心配させたくなかったので、傷のことはいつも友達や妹と喧嘩しただけだと言っていた。
半分だけ血の繋がった妹たちも、それを見て育った。
わりと仲も良かったので直接手を出されることはなかったものの、
「何かあったらお姉ちゃんのせいにすればいい」という概念はあったようだ。
幼い彼女たちに悪気はなかった。
妹たちは、私に罪を押し付ければ自分は怒られずに済む、ということを漠然と知っていた。
1度、真ん中の妹が母の真珠のネックレスを壊してしまったことがある。
嫁入り道具として持ってきたその高価な装飾品は、母の宝物だった。
貧しい生活の中で、ときどき母はそのネックレスを取り出して感慨深げに眺めていたものだ。
それを妹がいたずらして引きちぎってしまい、真珠はばらばらと床にこぼれ落ちた。
姉妹全員で必死で探し集めて直したが、結局2粒ほどは見つからなかった。
数日後、真珠が足りないことに気づいた母は怒り狂った。
妹はいつも通り、「ヒトミ姉ちゃんがやった」と言った。
その後の母の発狂ぶりは、今思い出しても恐ろしい。
私は顔が変形するまで殴られ、肋骨も何本か折れて病院に運ばれた。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:38 ID:r6/TWiKI
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◇
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:38 ID:r6/TWiKI
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去年、私の目の前で父が死んだ。
大工の仕事中に、足場を踏み外して落ちてしまったのだ。
母は自暴自棄になって男遊びを始め、あまり家に帰ってこなくなった。
私の仕事と妹たちの内職だけでは収入が少なすぎて、生活はどん底だった。
幸い私はわりと容姿に恵まれていて、言い寄ってくる男(たまに女)は何人もいたので
私は妹たちに内緒で、彼らと寝てお金を取るようになった。
もちろん罪悪感はそれなりにあったが、飢え死にするよりマシだ。
楽にお金を稼げることに味をしめた私は、徐々にその範囲を広げていった。
それがいけなかった。
その中に、母の遊び相手の若い男がいたのだ。
自分の男をヒトミに寝盗られた、と言って母は激昂した。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:40 ID:r6/TWiKI
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罵詈雑言をわめき散らしながら、母は私を蹴り続ける。
私は体を丸めて耐えた。
腹を思いきり蹴り上げられ、息ができなくなった。
妹たちは部屋の隅で震えている。
やっと肺に空気が入ってきたと思ったら、代わりに口から出てきたのは血の塊だった。
頭をぐりぐりと踏みつけられて、目の前が白くぼやけてきた。
嫌だな、まだ死にたくないな。
母が台所から包丁を持ち出してきた。
悲鳴を上げる妹たち。
母は迷うことなく、私の脇腹にそれを突き刺した。
上の妹と真ん中の妹が母を羽交い絞めにして、私から引き離した。
下の妹はへたり込んで泣きじゃくっている。
私は、脇腹に刺さった包丁をゆっくりと引き抜いた。
焼けつくような熱い痛みとともに、どくどくと血が溢れ出る。
一気に力が抜けて、気が遠くなった。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:40 ID:r6/TWiKI
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自分の娘たちに押さえつけられてもなお、母は暴れて喚き続けている。
「お姉ちゃん早く逃げてー!」
上の妹が叫んだ。
下の妹が、どこからか包帯を持ってきた。
彼女は泣きながら、私の腹に包帯をきつく巻き付けてくれた。
「お願い、早く逃げて」
「このままじゃ、いつかお母さんに殺されちゃうよ」
「もう家には帰ってこないで」
「私たちのことなら大丈夫だから」
「お姉ちゃん、今までごめんね」
妹たちはそう言って泣いた。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:41 ID:r6/TWiKI
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私は腹を押さえ、足の指で地面を踏みしめるように立ち上がった。
一瞬クラッとしたが、なんとか踏みとどまった。
下の妹に体を支えられながら、壁づたいにゆっくり進む。
玄関まで来たところで、私は妹の手を離した。
「ここからは1人で大丈夫だから」
「え、でも・・・」
大丈夫。歩ける。
こんなことで死ぬほど私はやわじゃない。
「今までありがとう。ごめんね」
妹は黙って頷いた。
ドアを閉める。
長い間世話になったこの家ともお別れだ。大工だった父が1人で建てた家。
じわりと滲んできた涙を手の甲でぬぐって、私は歩き出した。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:42 ID:r6/TWiKI
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人通りはなく、町の明かりはほとんど消えていた。
よりによって人々が寝静まった夜中に家を出るなんて、我ながら少し失敗したなと思った。
血は一向に止まらなかった。
白い包帯はすでに真っ赤に染まり、ポタポタと血がしたたり落ちている。
正しい止血の方法なんて妹も私も知らなかったんだから仕方ない。
痛みには慣れてきたが、頭はくらくらしてきた。
とりあえず都の中心へ向かおう。
城まわりは栄えているから、すぐに仕事も見つかるはずだ。
っていうかその前に病院行かなきゃいけないな。
小さな国だ。都心部までは10kmもないだろう。3時間あれば着く。
それまで持てばいい。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:43 ID:r6/TWiKI
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目が霞んできた。
額からは大量の汗が噴き出している。
足元が定まらない。
限界が近づいていることは、自分でも分かっていた。
少し休んだほうがいいのかもしれない。
でも、ここで眠ったら私はそのまま死ぬ気がする。
意識がある限りは歩き続けていたい。
おなかが痛い。苦しい。
頭の中は、靄がかかったようにぼやけて、ぬるくて、重い。
もう足はほとんど上がらず、なんとか引きずって歩いている状態だった。
むしろ立っているのがやっとだ。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:43 ID:r6/TWiKI
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遠くに城が見えた。王族の住む城だ。
今頃、金持ちはふかふかの柔らかいベッドで幸せに眠っているのだろうか。
1人の貧乏人がこんな所で野垂れ死んでも、彼らにとっては全く意に介さないことだ。
家族もなくした今、私は何のために生きているんだろう。
そこまで考えたところで、私は地面に膝から崩れ落ちた。
もう立ち上がる気力も体力も残っていなかった。
そっと目を閉じる。
地獄に落ちないのなら、死ぬのもいいかもしれない。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:44 ID:r6/TWiKI
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◇
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:44 ID:r6/TWiKI
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全身に妙な違和感を感じて目を開けると、目の前に女の子の顔があった。
「うわっ」
思わず声を上げると、女の子もびっくりして飛び退いた。
私は上半身を起こして周りを見渡した。
真っ白いシーツ、ふかふかの羽布団、薄いピンク色のレースのカーテン、豪華なシャンデリア。
床も壁も天井も大理石で出来ていて、そばにある鏡台は金で縁取られていた。
目の前にいる女の子も、シンプルだが綺麗なドレスと高価な装飾品を身に着けている。
布が肌を滑り落ちるような感覚がした。
なんと私はシルクのパジャマを着せられていた。
想像もつかないような高級感あふれる光景に、私は呆然とした。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:45 ID:r6/TWiKI
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「名前は?」
女の子が私に尋ねた。容姿のわりに幼い声だ。
「・・・・・ヒトミ」
「へぇー!ぴったりな名前だね!目が大きくて綺麗だもん」
「あなたは?」
「エリ!」
どこかで聞いたことのある名前に、どこかで見たような顔。
知り合いだろうか。思い出せない。
「エリねー、昨日家出したんだ。お城の生活が嫌になっちゃって。だっていっつも誰かに
監視されてるし、スケジュールも決められてるし、自分の好きなこと全然できないんだよ。
だから夜中にこっそりお城脱け出して町に行ってみたの。冒険しようと思って」
私はぽかんと口を開けたまま固まった。
王女だ。エリはこの国の王女だ。
そしてここは国王の城だ。どうして私がここにいるんだろう。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:46 ID:r6/TWiKI
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「でも夜中だからお店も閉まってるし、開いてるお店には怖そうな人がいっぱいいたから
町のまわり散歩することにしたんだ。そしたらヒトミが倒れてたの!血だらけで!
なんか綺麗な顔してたから拾いたくなっちゃってさ。で、仕方ないから家出は諦めて、
ヒトミのこと連れて帰ってきたの」
私はまだ混乱して頭の中の整理がつかなかったけど、1つの疑問を喉から絞り出した。
「あの・・・どうやって私をここまで連れてきて下さったんでしょうか?」
「ん?エリがおんぶして来たんだよ」
なんてことだ。
私はベッドから飛び降りて、床に頭をこすりつけた。
飛び降りた瞬間、少し脇腹が痛んだ。
「申し訳ありません!大変なご無礼を!」
「やだぁー土下座なんてしないでよぉ。それにヒトミ軽かったから平気だよ」
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:47 ID:r6/TWiKI
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王女は私の前にしゃがみ込んで、私の頭を上げさせた。
「それとね、敬語とか使わないでほしいんだ。エリ、ヒトミのこと友達にするから」
「え?」
「友達同士は対等に話すでしょ?」
「はぁ」
「今までお城に縛り付けられて、周りは大人ばっかりだし、いつも1人で淋しかったんだ。
だからヒトミと友達になりたい」
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:47 ID:r6/TWiKI
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私はそのまま、ここに幽閉された。
ここはどうやら城の一部である高い塔のてっぺんで、この塔は、エリが小さい頃から
自由に使うことを許されているプライベートな空間らしかった。
エリ以外の人物は、たとえ王であってもエリの許可なしに入ることは出来ない。
「ごめんね。ほんとはこんな所に閉じ込めたくないんだけど、ヒトミのことがお父様に
バレたら、絶対追い出されちゃうから」
今までここに入ってきた人物は、エリが全幅の信頼をおいているという年老いた医師と、
ナカザワとヤスダという侍女だけだった。
優しい目をした老医師は1日おきに来て、私の傷の具合を診て帰っていく。
侍女2人は毎日食事を作って持ってきてくれて、私もすぐに仲良くなった。
運動不足で体がなまるのが嫌だったので、傷が治ってからは、
筋トレとストレッチを毎日欠かさなかった。
塔の地下から最上階まで、ダッシュで駆け上がるのも日課だ。
エリとは色々な話をした。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:48 ID:r6/TWiKI
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「ヒトミは何歳なの?」
「22だよ」
「へぇ、エリより4つ年上なんだね!じゃあ勉強教えてよ」
「ごめん、あたし勉強できないんだ。小学校もあんまり行ってなかったし」
「なんで?サボってたの?いいなぁー」
「あはは」
「エリちょっとでもサボると家庭教師に怒られるよ!あとでお父様にも告げ口されるし。
ヒトミは親に怒られなかったの?」
「むしろ小学校行ったほうが怒られてたかな。そんな暇あったらもっと家の仕事しろって」
「えー?なんでなんで?」
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:49 ID:r6/TWiKI
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「今日さー、エリ、お見合いさせられそうになったんだよねー」
「えぇ?まじ?まじ?」
「うんマジマジ。お父様が、お前ももう18だからそろそろって。絶対やだって言ったけど、
確かにエリ適齢期だし」
「そうなんだ」
「王女は昔から16歳から20歳で結婚してるんだって。エリのお母様も、エリのこと
19歳くらいで産んでるんだよね」
「へぇー」
「ヒトミはどうして今まで結婚しなかったの?」
「う〜ん、なんでかな。お金稼ぐのに夢中で、結婚とか考えてなかった」
「結婚すれば旦那さんが働いてくれるからもっと楽になるじゃん」
「あ、言われてみればそうだね」
「ヒトミは人生損したね」
「あははー、そうかも」
「でもエリはまだ誰とも結婚したくないなぁ」
「なんで?」
「だって今はヒトミと一緒に遊んでるほうが楽しいもん」
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:50 ID:r6/TWiKI
-
「今日ね、エリまたお城脱け出してきたよ」
「バレなかったの?」
「変装した!ナカザワとヤスダも協力してくれてさ、警備の人だますの超楽しかったよ!
あのね、実はヒトミの家族に会いに行った」
「・・・な、なんで?」
「お嬢さんを私に下さいって」
「うわ、プロポーズみたい」
「でしょ?そしたらヒトミのお母さんが、いいですよって言ってくれたの」
「そりゃそうだ」
「どうして?」
「あ、ごめん何でもない」
「だから、お礼に家建ててあげるって言ったんだ」
「家!?」
「だって大事な娘さんを貰っちゃうんだから、それくらいのお礼はしないと」
「はぁ・・・」
「でも、ヒトミの妹さんたちが、この家はお父さんが建ててくれた大切な家だから
建て替えたくないって言うの」
「へぇ」
「エリちょっと感動しちゃって、家の代わりにお金いっぱい渡してきたよ」
「・・・ありがとね」
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:51 ID:r6/TWiKI
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エリは素直で可愛くて、私のことを純粋に愛してくれた。
もちろん恋愛感情とかではなくて、ただひたすら大切に想ってくれた。
私もエリが好きだった。
話していると時間を忘れるくらい楽しかったし、心の底からエリが愛しかった。
家族や仲間に会えないのは淋しいけど、私は幸せだ。
母から受けた傷は、刺された傷も心の傷も、気づいたら癒えていた。
エリが母親のような大きな愛情で私を包んでくれたから。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:51 ID:r6/TWiKI
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◇
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:52 ID:r6/TWiKI
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何かがおかしいことに気づいたのは、エリと暮らし始めて半年が過ぎた頃だった。
ある時、エリと話していて、自分の住んでいた町の名前がどうしても思い出せなくなった。
エリが私の先手を打って町の名前を言ったので、会話は滞ることなく進んだのだが、
私の違和感は消えなかった。
それは次々と起こり始める。
初めて貰った給料の金額。
小さい頃よく遊びに行った野原までの道のり。
かつての仕事仲間の癖。
親戚の顔。
末の妹の誕生日。
1歳半のとき死んだ実の母親の名前。
いつの間にか忘れていた。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:53 ID:r6/TWiKI
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思い出そうとすると、頭に浮かんだ物や人がどんどん白く霞んでいく。
ホワイトアウト。
このことに気づいたとき、私はどうしようもない不安に襲われた。
エリにしがみついて泣き叫んだ。
エリはわけが分からずおろおろしていた。
あの医師を呼んだ。
年老いた医師は悲しそうな顔をして、私に病名を告げた。
それは、この王国の周辺地域で感染者の多い病気だった。
名前だけなら私も聞いたことがある。
思い出の浅いものから順に、記憶から消されていく。
睡眠時間が長くなっていく。
1日に起きていられる時間はだんだん短くなり、
最後には眠ったまま2度と目を覚ますことなく、いつの間にか死んでいる。
短くて1年、長くても3年で死に至る。
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:55 ID:r6/TWiKI
-
「感染経路ですが」
「・・・はい」
「非常に感染力の弱い病気です。一緒に暮らしているくらいなら大丈夫ですし。
性的感染か血液感染以外、ありえないですね」
「・・・・・」
「進行具合から見て、感染したのは半年から1年ほど前です。交通事故に遭ったとかで、
輸血をされる機会はありましたか?」
「いいえ」
「麻薬などの注射器を使い回ししたりしたことは?」
「ないです」
「感染の疑惑がある方との性交渉は?心当たりはありますか」
「・・・あります」
「特定はできますか」
「・・・・・・・・できません」
隣で話を聞いていたエリの顔が歪んだ。
私は押しつぶされそうになる胸元をぎゅっと握り、黙って俯いた。
金に目が眩んでバカなことをした天罰だ。
私はあと2年半以内に死ぬ。
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:56 ID:r6/TWiKI
-
医師は一礼して、静かに去って行った。
私は隣にいるエリの横顔を見た。
エリは目を潤ませながら、強い視線でまっすぐ前を見つめていた。
「エリ」
「・・・・・」
「ごめんね」
「・・・・・」
「最低だよねあたし」
「・・・・・」
「こっち向いてよ」
「・・・・・」
「あたしなんかエリの隣にいる資格ないよ」
「・・・そんなことないもん」
「・・・・・あたしは、もう長い間エリのそばにはいてあげられないよ」
「でもエリはずっとヒトミのそばにいるよ」
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:56 ID:r6/TWiKI
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◇
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:58 ID:r6/TWiKI
-
エリは毎日ここに来て、前と同じように私と話をしてくれる。
私はどんどん消えていく自分の記憶をなんとか形に残しておきたくて、
あらゆることをノートに書き綴るようになった。
3ヶ月間で、ノートは10冊を超えた。
あの医師の言った通り、私は眠っている時間が多くなった。
起きて普通にエリと話をしていても、突然眠りに落ちてしまうらしい。
最近は、1日に5、6時間しか起きていられなくなっていた。
目が覚めるとほっとする。
あぁ、まだ死んでなかった、って。
昨日、ついに上の妹の顔を忘れた。
下の妹から順番に忘れていったから、覚悟はできていたけど。
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:58 ID:r6/TWiKI
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記憶を書き起こし続けたノートを読み返してみる。
ノートを見てその思い出の情報を覚えることはできるけど、思い出すことはできない。
覚えたとしても数日後には忘れている。
あの医師とエリ、ナカザワ、ヤスダは毎日来てくれるから、忘れることはない。
毎日ノートを読んで言葉を覚えているから、まだ会話も普通にできる。
ここ何日かは、1日に3時間しか起きていない。
21時間も眠り続けていられるなんて、どれほど贅沢なことだろう。
今日の昼、目が覚めたら、今度は父親の顔を忘れていた。
皮肉なことに、最後まで覚えている家族の顔は、あの母親ってわけだ。
私を殴るときの鬼みたいな形相は、今でも鮮明に思い出せる。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 02:59 ID:r6/TWiKI
-
◇
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:01 ID:r6/TWiKI
-
「・・・・・ミ、・・・ヒトミ!ヒトミ!」
エリの声で目が覚めた。
エリは泣いていた。
私はすでに、エリの顔しか認識できなくなっていた。
医者のじいさんや侍女2人は毎日来るけど、名前も知らない人たちだ。
「・・・エリ、なんで泣いてるの?」
「だって、・・・3日間も起きなかったんだよ、ヒトミ」
「そんなに寝てたの?」
「寝てたよ」
「あはは、知らなかった」
「今ずっと寝顔見てたら、いきなりヒトミの息が止まったから死んじゃったかと思ったの」
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:02 ID:r6/TWiKI
-
そういえば、夢を見ていた。
知らないおばさんが私の首を絞めていて、すごく苦しかった。
私のこと「ヒトミ」って呼んでたから、本当は私の知っている人なのかもしれない。
「すごい嫌な夢みたんだよ」
「・・・うん・・・」
「なんで泣くの?」
「・・・・・ヒトミ、死なないで」
「死なないよ」
「エリのこと1人にしないで」
「するわけないじゃん」
エリは私を抱き起こし、私の背中に腕を回した。
私もエリをしっかり抱きしめた。
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:03 ID:r6/TWiKI
-
ふっと意識が遠くなった。
目の前にあるエリの黒い髪が、だんだん白く霞んでいく。
なぜか、死ぬんだ、と素直に思った。
「エリ、顔見せて」
「・・・やだ」
「いいからこっち向いて」
腕を引き剥がしてエリの顔を上げさせると、エリは泣きながら笑った。
「エリ、今までありがとね」
普通に喋ったつもりだったけど、なぜかかすれた声しか出ない。
エリは笑って言った。
「へへっ、覚えてないくせに」
「・・・よく覚えてないけど、たぶん毎日楽しかったよ」
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:04 ID:r6/TWiKI
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私は、涙でぐちゃぐちゃになったエリの顔を見つめた。
エリはまた微笑んだ。
最後の記憶がエリの笑顔でよかった。
私は幸せ者だ。
「ありがとう」
「・・・エリだって、毎日ヒトミと一緒にいられて楽しかったよ」
「・・・・・」
「大好きだよ」
「・・・・・」
エリの笑顔をしっかり目の奥に焼き付けて、私はゆっくり目を閉じた。
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:05 ID:r6/TWiKI
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- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:05 ID:r6/TWiKI
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- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/07/04(水) 03:06 ID:r6/TWiKI
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