21 れいなの毒針
- 1 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 21:57 ID:C4gqgUBg
- 21 れいなの毒針
- 2 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 21:58 ID:C4gqgUBg
-
知ってる? ミツバチって、敵を刺すと自分も死んじゃうんだって。
知っとるよ。そんなの、ジョーシキたい。
- 3 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 21:58 ID:C4gqgUBg
- ◇
アビスパ福岡がJ1に復帰した今年は、特別な年だった。
もう博多の森球技場で観戦することはできなくなってしまったが、チームは今もきちんと存続している。
事件発生後やむなく本拠地を下関に仮移転させたが、「福岡」の名前で今も戦っているのが誇らしい。
れいなはかつて福岡で暮らしていたときも、福岡を離れた後も、
そして今、福岡に戻ってきてからも、チームの調子をつねに気にかけてきた。
「J1の壁は厳しかね。先週やっと初勝利だもん。今日はアウェーの鹿島戦かぁ。……キツかねぇ」
毎朝スポーツ新聞を広げて、アビスパの記事を読んでは独り言を漏らす。それがもう習慣になっている。
公園のベンチでれいなは新聞を読み終えると、顔を上げて周囲を見回した。
土曜日の昼前だというのに人の気配は感じられない。隣接する公営住宅は水を打ったように静かだ。
4ヶ月前なら子どもたちが走り回っていたであろうこの公園も、今はれいな以外の足跡はなかった。
これは何もこの場所に限ったことではない。福岡市内なら、どこでもそうだ。
辛うじて都市としての機能はまだ保っている。しかし、以前の福岡とはすっかり姿を変えてしまっていた。
久々に故郷の土を踏んだれいなは、空気が確実に変化していることを感じ取り、思わず足がすくんだ。
ただでさえ曇りがちな街の空の色が、かつてとは明らかに違って見え、ぞくりと背筋が震えた。
逃げ出していく人々、残された人々。正反対の行動をとる両者に共通している感情は「絶望」で、
そうした無数の心が吐き出す不安感が空を覆っている。
ここにあるのは、決して晴れることのない空。
- 4 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 21:59 ID:C4gqgUBg
- ◇
最初の自爆テロが発生してから、ほぼ4ヶ月になる。
福岡市の中心部、いわゆる天神と呼ばれる区域でそれは始まった。
今年最初の土曜日、西鉄福岡駅で起きた爆発は、実に14名の死者と多数の重軽傷者を出した。
ニュースでも大々的に報じられ、福岡県警は真相を究明すべく捜査本部を設置した。
科学警察研究所まで引っぱり出しての慎重な捜査の末に出た結論は、意外なものだった。
犯行に及んだのは、北朝鮮や中国、はたまたイスラム原理主義グループの誰か……ではなく、
市内の私立高校に通う1人の女子高生だった。背後関係の欠片もない、ただの少女が自爆した。
化学薬品に関する知識もない、さらには生活態度に問題があるわけでもない、
どこにでもいるただの16歳の少女がテロを起こした。その事実は、日本国内に大きな衝撃を与えた。
しかし事件はそれだけでは終わらなかった。翌週の土曜日、第2の自爆テロが発生したのだ。
今度の現場は歓楽街、中洲。死者は倍以上に膨れ上がり、政府が対策に乗り出した。
警察は前回以上の規模で捜査し、テレビをつければどの局もつねに福岡市からの中継映像だった。
そして発生から2日後、警察の口から出された犯人の名は、またも匿名での発表だった。
福岡市内の県立高校に通う高校1年生の女子生徒、15歳――。
マスメディアは2つの自爆テロを当然のごとく結びつけて報じた。
2人に直接面識がなかったことから、お決まりのようにネット社会の問題性へと論点はズレていき、
話は結局、「現代社会のゆがみ」という都合のいい一言にまとめられようとしていた。
そもそも動機すらはっきりしておらず、真相はまったく解明されていないのに、誰もが思考を停止して
事件の痛みを忘れてしまおうとしはじめていたところに、第3の自爆テロが発生する。
- 5 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 21:59 ID:C4gqgUBg
- 2月のよく晴れた日曜日の午後、キャナルシティ博多が吹っ飛んだ。
二度あることは三度ある、では済まされない。むしろ、三度目の正直。それほどの規模だった。
福岡市内は完全に混乱状態に陥り、市外へ脱出をしようとする人々で道路は溢れかえった。
自衛隊の出動、鉄道全線の運転休止、福岡空港と博多港の完全封鎖、立入禁止区域の設定。
賑やかだった福岡市内は、わずかな時間でほとんど内戦を思わせる光景へと姿を変えてしまった。
以来、人々は怯え、隠れるように毎日を過ごすようになった。そうして街は沈黙の海へと沈んだ。
やがて警察の総力を挙げての捜査の末、またしても女子高生による犯行、それも面識がなく、
偶然その場に居合わせたとしか思えない5名がそれぞれ誘爆を起こした結果、と断定された。
そして、ここにきてようやく、ひとつの推論が浮かび上がった。
――彼女たちは加害者ではなく、被害者ではないのか?
犯行に及んだとされる被疑者はすべて、1989年4月から1990年3月までに生まれていた。
さらに調べていくと、全員が身長150cm前後、ブリーチで髪を茶色にした者が半数を占めていた。
もし、何者かがこれらの特徴のある者を選別して爆弾を仕掛けたとすれば――?
マスメディアによってこの情報が広められたことで、事件は新たな局面に入った。
日本中を震撼させた連続テロ事件は、猟奇的な殺人事件という様相も帯びてきたのである。
しかし、れいなはそういった流れを信じることができなかった。
猟奇的な殺人事件なら、なぜ女子高生たちの体を跡形もなく爆発させてしまうのだろう?
女子高生だけを狙っておいて、その体を目的としないというのは、いかにも不自然に思えたのだ。
むしろ、犯人は上記の特徴を持った何者かに対して強い恨みを抱いていると考えるほうが自然だ。
だが、それで真犯人の姿が具体的に浮かび上がってくるわけではない。
結局のところ、どの説を支持しても、事件の解決までに非常に長い道のりがあるのには違いなかった。
- 6 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:00 ID:C4gqgUBg
- それからも、4件目、5件目と爆発事件は続いた。やはり女子高生たちがその爆発の中心にはいた。
隔週ペースで土日に起きる事件はまったく防ぎようがなく、今や福岡は、半ば死の都市となっていた。
◇
スポーツ新聞を読み終えたれいなは、まず最初に大濠公園へと向かった。
久しぶりに穿く丈の短いスカートはやたらとスースーして、それだけでなんだかちょっと恥ずかしい。
自転車を立ってこぐたびに、パンツが見えちゃうんじゃないかと落ち着かなくなってしまう。
でもれいなのほかに外を出歩いている人はほとんどいなかった。車もほとんど走っていない。
まれに見かける人々はみな、れいなの姿を認めると慌てて全速力で逃げていった。
無理もない、とれいなは思う。まるでれいなをモデルにして爆発する者を選んでいると錯覚するほどに、
れいなの身体的な特徴は被疑者の女子高生たちと共通点を持っていたからだ。
れいなは避けられる、ということを久々に思い出した。徹底して避けられる、自分の存在を否定される、
そういった経験は、高校に入ってからイヤというほど味わった。そのことを、れいなはぼんやりと考える。
◇
「あいつ、ウザくね?」
そんな簡単な一言がきっかけになり、麗奈は高校入学早々、ゴミ箱になった。
麗奈の机、下駄箱、ロッカー、すべてにゴミが詰め込まれた。
逆に、麗奈の持ち物は床の上に散らかされ、それらにはことごとく汚物や靴の痕が付けられていた。
クラスメイトは麗奈が近づくと、視線を逸らせて鼻をつまむ。そういうルールが校内に広まった。
何か言おうとした瞬間、それを遮ってどこからか「ゴミは口を利いちゃーいかん!」という声が飛んでくる。
蔑みと無視とが、麗奈の高校生活を真っ黒に染め上げていた。
麗奈がイジメに遭ったのに、大した理由などなかった。
なんのことはない、中学時代にいつも目立っていて人気のあった麗奈を妬んでいた連中が、
高校デビューをするにあたって先手を打って麗奈をスケープゴートにしただけのことだ。
しかしそれは徹底していて、麗奈はずっと、孤独でいることを強いられた。
これからの3年間、下らない連中を相手にこんな無為な戦いをしていかなくちゃいけないのか?
考えた末に麗奈は決断し、2学期に入ってすぐに学校をやめた。
- 7 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:00 ID:C4gqgUBg
- 学校をやめるとすることがなくなって、麗奈は毎日あてもなく街をぶらついた。
遊ぶ金なんて持っていなかったから、公園のベンチに座り、歩道の柵に座り、地べたに座って過ごした。
腰を下ろした地面からはひんやりとした感触が伝わって、その冷たさはやがて全身をめぐっていく。
日付が変わる頃までじっと街を眺めていると、自分が深海の底に沈んでいく石ころのように思えた。
やがて夜が明けて周りを眺めると、踏みつけられて汚れきった地面の中心にいることに気づく。
そっか、麗奈はほんにゴミになってしもーたんね。
つぶやいて立ち上がると、ずっと同じ姿勢でいたせいで足がもつれて、その場で転んだ。
もう、服にこびりついた汚れを払う気すら起きなかった。
麗奈はほとんど毎日、博多駅前にあるビルのシャッターの前に座り込んでいた。
電車がなくなったある日の午前1時、麗奈の肩に手が触れた。若い警官だった。
「おいお前、いつもここで何しとると?」
「……なんもしとらんね。ただすわっとるだけたい」
「ウソこけ、お前、ここで誰かが自分のこと買うてくれるんを待っとーとちがうか」
「はぁ?」
警官はゆっくりと麗奈に体を寄せてきた。その胸元からは汗の嫌な匂いがした。
のけぞる麗奈の腕を押さえつけて、警官は耳元でささやく。
「なあ、いくらで売っとんね、自分? なんならワシが買うてやって――」
次の瞬間には相手の股間目がけて蹴りを入れていた。
そして、膝から崩れる警官の鳩尾に、思いきり正拳をねじ込んだ。
うつ伏せに倒れた警官は動かなくなった。麗奈はリボルバーを抜き取る。
足元に転がった塊がどうしょうもなく汚く思えて、撃鉄を起こして引き金を引いた。
それから2日間、麗奈はひたすら逃げ続けた。
昼間はじっと暗がりの中に潜み、夜になると闇に紛れてひと気のない方へと向かう。
すべてが幻のような時間の中で、手のひらにずしりと響く、冷たい金属の感触だけが現実だった。
「おい、いたぞ!」
声が近づいてくる。無数の足音が迫ってくる。麗奈はただ、逃げた。悪夢から逃げようとした。
自分を探す明かりが周りを完全に囲んでいるのを知ったとき、引き金に人差し指を掛けた。
荒い息を吐いて地獄の底で這いずり回る麗奈を、突然、白い色が包んだ。
まっすぐに伸びた光の帯は、巨大な天使の羽に見えた。
そして、拳銃を構えた姿勢のまま、麗奈は身柄を拘束された。
- 8 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:01 ID:C4gqgUBg
- 次に気がついたとき、麗奈は厳重に鍵の掛けられた、曇り空を描いたような灰色の部屋に寝ていた。
ベッドを降りると同時に扉が開いた。入ってきたのは、襟元に星のいっぱいついた制服を着た男だった。
「おはよう」
胸の空洞いっぱいに響かせた、低く深い声。まるでテレビみたいだと麗奈は思う。
「君には福岡を離れてもらう。そして、特殊任務を遂行するためのプログラムを受けてもらう」
目覚めたばかりの麗奈には理解できない言葉が並べられる。
頭を左右に振るが、目に映るものは変わらない。時間は素直に流れている。これこそが現実なのだ。
男は客席の扱いに慣れきった俳優のように、うすら笑いを浮かべて続ける。
「すでに保護者の同意は得ている。あとは君だけだ。君が特殊工作員になることを受け入れれば、
すべてはうまくいく。君は無罪、一家は安泰、警察もメンツが保てる。すべてがうまくいくんだ」
――すべてがうまくいく。
その語感が麗奈の耳には甘く響いた。孤独という際限のない悪夢がジェットの速さで飛び去っていった。
そして今、目の前で雲がかかったようにぼんやりとしている光景を抜ければ、
そこにあるのはきっと、鮮やかな青空と太陽の光! それは麗奈の頭の中に、はっきりと像を結んだ。
麗奈は無言で頷き、取引に応じた。
◇
射撃、格闘技、生存術、教養、演技。
麗奈はこれから生きていくのに必要なものすべてを与えられ、それらを貪欲に吸収していった。
目的を見失っていた人生に突如として現れた、絶対的な目的。
それは強く生きること、まさにそのものだった。
麗奈が今までまったく自覚することなく求め続けていたものが、そこにはあった。
強くなるために、自分の名前を捨てた。コード「07」が新しい呼び名になった。
麗奈は、れいなになった。
- 9 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:01 ID:C4gqgUBg
- れいなは順調にプログラムをこなしていた。実地に出られる日も、そう遠くなかった。
一歩一歩着実に、自信と余裕が全身にみなぎっていく。れいなの毎日は、本当に充実していた。
今年1月になって、事態は少し変化をしはじめる。
れいなの故郷である福岡市で、高性能爆薬を使用したと思われる自爆テロが発生したのだ。
しかしその当時、訓練に集中していたれいなにとって、福岡は遠い存在になりつつあった。
れいなと福岡を結んでいるのは、新聞記事として掲載される、アビスパ福岡の試合結果だけだった。
J2という奈落に沈んだチームが昇格を目指して戦う姿は、自分の現状と容易に重なった。
そしてアビスパが2位に入ってJ1復帰を果たしたことで、すべての風向きが変わったことを実感した。
だかられいなは、同い年の女子高生の自爆という事件の真相を聞いて、
むしろほっと胸を撫で下ろしすらしたのだ。自分が今生きているということに、安心をした。
もしあのまま博多駅前に座っていたら、耐えられずに自爆したのは自分だったかもしれない。
そう思えば、今の境遇を素直に受け入れ、さらに真剣に訓練に取り組むことができた。
翌週、2件目の自爆テロが発生し、れいなの心には微妙な波紋が広がった。
かつて確かにあそこにいたもうひとりの自分が、環境に耐えられなくなって、
福岡という街を傷つけて散っていったように思えてならなかったからだ。他人事に思えなくなっていた。
そして3件目の自爆テロが起きて福岡市内が混乱状態に陥り、アビスパ福岡が下関に移ったことで、
ついにれいなは決心を固める。――福岡を、もうひとりの自分を、守らないといけない!
しかしながら当然、許可は下りなかった。まだ訓練を始めて間もないヒヨッコが、
軽々しくくちばしを突っ込めるような事件ではない。寝言を言うなと一蹴された。
だが爆発事件は続き、自爆テロよりも異常殺人としての色合いが濃くなってくると、
被疑者/被害者と多くの共通点を持っているれいなの存在は、組織内で注目を集めるようになる。
- 10 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:01 ID:C4gqgUBg
- 7件目の事件が捜査の結果、やはり女子高生による爆発と断定されたのを受けて、
ついにれいなに特殊任務の遂行が命じられた。おとり捜査である。
といっても、ひと気のない街で工作員が一日中れいなに貼りつき犯人の接触を待つのは目立ちすぎる。
それまでの成績が非常に優秀であった点を勘案して、イチかバチか、
れいなには単独で犯人の身柄を確保するように命令が下った。
そしてれいなには、それができるだけの能力があった。
ちなみに、このような無茶な作戦が強行されたのにはもうひとつ理由がある。
間近に迫ったゴールデンウィークには、博多どんたくが開催される。
第二次大戦からの復興、福岡県西方沖地震からの復興という位置づけを与えられてきたこの祭りは、
爆発事件に対する博多市民の毅然とした態度を示す象徴となる。
絶対に、博多どんたくは開催されねばならない。どんたくを諦めるのは、福岡が死ぬのと同義である。
そしてこの史上最大の窮地を地元出身の元不良少女が救う。
この上ないストーリーが、本人のあずかり知らぬところで構築されようとしていたのである。
4月24日、月曜日。れいなは極秘のうちに福岡市内に潜入した。
あらかじめ用意されていたアパートの一室を拠点に、これまで得た情報をまとめ、
作戦当日の行動パターンを確認する。また、それと並行して携行する武器のチェックも始める。
翌日から、帽子とTシャツ半ズボンで小学生男子に変装したれいなは、
狙われそうな区域を実際に歩いてみた。市内の繁華街はどこもすでに事件現場となっていたが、
住宅地の爆破をおとりにして広域避難場所に人を集めて犯行に及ぶ可能性も考慮して、
付近の学校や公園もくまなく見て回った。
つい去年まで暮らしていた街がすっかり姿を変えてしまっているのを目の当たりにして、
れいなは顔では無表情のまま、唇をぎゅっと噛み締めて歩き続けた。
- 11 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:02 ID:C4gqgUBg
- ◇
作戦当日――4月29日、土曜日の朝。起きるとすぐ、チームの仲間と本日の巡回ルートを確認する。
ブリーフィングというには長すぎる打ち合わせを終えると、すでに時刻は10時になろうとしていた。
れいなは用意しておいた市内の女子高の制服に身を包むと、手に馴染んだベレッタM92を肩から吊り、
「そいじゃ、行ってくるけん」
そう言ってアパートを出た。
もし爆発事件が発生した場合、市内の交通機関はマヒする可能性が極めて高いので、
れいなは自転車で移動することになっている。
「ママチャリに乗ってるスパイなんて聞いたことなかと!」
ぼやいてみるが、女子高生のリアリティからいっても、納得せざるをえない移動手段だ。
スカートの裾をひらひらさせながら、れいなは変わり果てた街を駆け抜ける。
近くのコンビニでスポーツ新聞を買うと、公園のベンチに腰掛けてアビスパの記事を読む。
今日のアビスパはアウェーの鹿島戦だ。正直この試合、非常に厳しい。良くても引き分けだろう。
だが自分には引き分けなんてない。この土日で本当の犯人を捕まえるか、逃がすか。ふたつにひとつ。
れいなは新聞を読み終えると、顔を上げて周囲を見回した。
土曜日の昼前だというのに人の気配は感じられない。隣接する公営住宅は水を打ったように静かだ。
4ヶ月前なら子どもたちが走り回っていたであろうこの公園も、今はれいな以外の足跡はなかった。
見上げると、空を覆っている雲が異様に黒いことに気がついた。
毎年5月3日・4日に開催される博多どんたくはやたらと雨が降ることで有名だが、
この空はまるで、街に渦巻く「絶望」が祭りを開催させまいと舌なめずりをしているようだ。
れいなはそんな考えを振り払うように勢いよく立ち上がると、自転車にまたがって大濠公園へと向かった。
- 12 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:02 ID:C4gqgUBg
- 大濠公園は福岡市役所のすぐ西側にある。爆発事件の現場群からは、やや離れた位置にある。
公園の面積約40万平方mのうち半分以上を楕円形の池が占めている、日本有数の水景公園だ。
れいなは思いっきりペダルを踏み込み、池を一周して様子をうかがってみた。
どこもひと気はまったくない。売店もレストランも、営業をやめてからかなり時間が経っているのがわかる。
やっぱりここにいてもしょうがない、そう思ったれいなは、勢いよく公園から北へと進路を変えた。
交差点を左に曲がるとヤフードームが見えてきた。金属の鈍い光をたたえた外観は、昆虫を思わせる。
れいなはさっきと同じように、施設の周りを走ってみる。やはりひと気はまったくなく、
このあまりに巨大な建物が、人間よりももっと大きな生物のための空間に思えてきた。
まるで自分が、家々の庭先に咲いている花のあいだを飛び回る蜂にでもなったように、れいなは感じる。
高速道路を挟んだヤフードームの裏側には、シーサイドももちという名前の砂浜がある。
れいなもよく知っているお台場の海浜公園のモデルになったというシーサイドももちは、
海に面した埋立地の北端の一辺を縁取り、途切れ途切れに西へと続いている。
れいなはすっかり無音の世界となってしまった中を、自転車を押して歩いていた。
すると突然、れいなの目に白い点が飛び込んできた。驚いて、まじまじとその点を見つめる。
カッターの刃を思わせるその砂浜のひとつを舞台に、ひとりの少女が踊るように波と戯れていた。
少女は白い帽子に白いワンピースを着ていた。その間では黒くて長い髪の毛が風に揺れている。
さっきまで履いていたであろうミュールは脇に脱ぎ捨てられ、波に洗われるままに横たわっている。
れいなは無音の世界に突然、音楽が流れてきたように感じた。
言葉や音階では表すことのできない音楽が、今、目の前で奏でられている。そう思った。
- 13 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:03 ID:C4gqgUBg
- 突っ立って見とれているれいなに気がついた少女は、足首を海に浸したままで声をかけてきた。
「れいな? れいなだよね? ……久しぶり! 元気だった?」
れいなは驚いて声も出なかった。このご時世に、自分に親しげに話しかけてくる人間がいるなんて。
それから、気がついた。「久しぶり」という言葉の意味。少女はれいなのことを知っている。
「え、えーと」
どう返事したらよいものか思いつかず、口をぱくぱくさせているれいなに対し、
少女は微笑を浮かべると、両手を頭の上に乗せてピースをしてみせた。
「うさちゃんピース……。さゆ? さゆっちゃね!? 元気にしとーと!?」
れいなは駆け寄り、彼女の目の前に立つ。後ろで自転車が倒れる音がしたが、振り返らなかった。
◇
中学1年のとき、クラスにひとりだけ、博多弁をしゃべらない新入生がいた。名前は道重さゆみ。
さゆみはいつも長袖を着ていて、腕をまくった彼女の肌は、透き通るようにとても白かった。
外を走り回って真っ黒に日焼けしていた麗奈は、自分の腕と彼女の腕を交互に見比べて、
同じ人間で同じ日本人なのに、こうも違うもんなのか、と不思議に思った記憶がある。
さゆみは特に誰とも親しくならないまま、淡々と毎日を過ごしていた。
無尽蔵のエネルギーを持て余しているような中学生にとってそれは理解しがたいことだったが、
当時クラスの中心にいた麗奈は、できるだけ優しく接して彼女をクラスの輪に引き込もうと努力した。
最初のうちは、麗奈がたまたま制服の下に着ていたドクロのTシャツにさゆみが怯えるなどして、
なかなかうまくコミュニケーションをとることができなかった。しかし、麗奈は諦めなかった。
やがて、自分の殻に閉じこもりがちだったさゆみも、しだいに心を開いて打ち解けていった。
- 14 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:03 ID:C4gqgUBg
- 夏休みのある日、麗奈はさゆみを誘って街に出掛けた。
午前中は博多駅前であちこちの店を見て回った。かわいい物に反応する点で、ふたりは共通していた。
那珂川沿いの屋台でラーメンを食べて遅いお昼を済ませると、麗奈はさゆみを連れてバスに乗った。
20分ほどバスに揺られて着いたのは、博多の森球技場だった。
さゆみは大勢の人が集まっているのを見て、これから何が起きるのだろうと不思議そうな顔をしている。
「さゆ、こっちこっち!」
声がして、さゆみは慌てて振り向く。そこには、シルバーのキャップとTシャツで身を固めた麗奈がいた。
「さゆも、アビスパを応援するとね!」
そう言って背中のバッグからタオルマフラーを取り出し、さゆみの首に巻いた。
「チケットもちゃんと2人分あるけん、早よ中に入ろ!」
麗奈はさゆみの手を引いて走り出した。さゆみは麗奈のなすがままに、スタジアムの中に入った。
毎年J1・J2の入れ替え戦に出場するものの、なかなか降格しない。J2に「落ちない」。
それで受験生がゲンを担いでグッズを買う、売る方も太宰府天満宮でお祓いをしてから売る、
そんな愉快なエピソードのあるアビスパ福岡だったが、前年J1で15位となり、ついにJ2に降格した。
なんとしても1年でJ1復帰を果たしたいところだったが、この時期のアビスパは前監督の突然の辞任、
後任選びに迷走した末の新監督就任といった混乱のただ中にいた。
「そんでも応援するのが真のサポーターたい!」
サッカーは何人でやるスポーツなのかもよくわかっていないさゆみに対し、麗奈は力説してみせる。
試合開始時刻が近づき、スタジアム内はゆっくりと興奮に包まれていった。
巨大なチームフラッグが頭上ではためき、高い声から低い声まで混じった合唱がスタンドを揺すぶる。
麗奈は自分の体が浮き上がり、この場にいる全員と一緒になって無限の空に広がっていく、
そんな錯覚を感じるこの時間が好きだった。隣のさゆみも口元に微笑を浮かべながら、
自分を包み込む大きなリズムに背中をもたれ掛けるようにしてフィールドを眺めていた。
- 15 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:03 ID:C4gqgUBg
- 「ねえ、れいな、ひとつ聞いていい?」
「なんね?」
「『アビスパ』って、どういう意味?」
「スペイン語で、『蜂』のこと。♪ブンブンブン、ハチが飛ぶ、の『蜂』」
「…ねえ、れいな、知ってる? ミツバチって、敵を刺すと自分も死んじゃうんだって」
「知っとるよ。そんなの、ジョーシキたい」
「うん…」
試合前のさゆみの言葉が不吉な予言だったかどうかはわからない。
しかしこの試合、アビスパは下位の山形相手にスコアレスドローで終わった。
大して見せ場をつくることもできず、最終的には勝ち点を得るのがやっと、という結果に、
サポーターたちは肩を落としてスタジアムを後にした。
それは麗奈も例外ではなく、シャトルバスの乗り場に向かうあいだもずっと溜息を漏らしていた。
「れいな、ちょっといい?」
さゆみが麗奈のシャツの袖を引っぱった。
今度は麗奈がさゆみに連れられて、乗り場の列とは反対の方向へと歩いていった。
博多の森球技場の周囲には、緑しかない。その名のとおり、森に囲まれたスタジアムである。
そのひと気のない一角に、さゆみは麗奈を引っぱり込んだ。
「さゆ、どうしたと?」
「れいな、今日は楽しかった。ありがとね。お礼に、私の秘密を教えてあげる」
そう言ってさゆみはうつむき、指で目を広げた。すると何かがポロリと落ちた。コンタクトレンズだった。
もう片方の目でも同じ仕草をすると、さゆみは顔を上げた。麗奈は息を呑んだ。
「赤い…」
見慣れていたはずのさゆみの顔ではなかった。黒目であるはずの部分が、真っ赤に染まっていたのだ。
思わずつぶやいた麗奈の一言にさゆみは苦笑すると、これが私の秘密なんだ、と小さく告げた。
「その目、いったい何したと…?」
「何もしてないよ。私は生まれつきこうだったの」
「生まれつき?」
「アルビノっていって、私には生まれつき色素がないの」
さゆみは手で前髪を押さえておでこを出すと、そのまま髪の毛をぎゅっと後ろへと引っ張った。
生え際をよく見ると、確かにさゆみの髪の根元は白かった。
「髪は黒く染めてる。そうしないと、白髪になっちゃうの」
麗奈は呆気にとられてさゆみのことを見つめていた。
それまでの自分の経験からは理解のしようのない現実を突きつけられて、ただ黙っているしかなかった。
- 16 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:05 ID:C4gqgUBg
- 言葉を失っている麗奈に対し、赤い目をしたさゆみは
「うさちゃんピース」
そう言うと、両手を頭の上にもっていって、ちょうどウサギの耳を思わせる位置でピースをしてみせた。
しかし麗奈は、その表情からさゆみの隠していた悲しい過去を一瞬で見抜いてしまった。
赤い目に白い肌。色素の欠損という異常性。
きっと彼女は、麗奈の知らない土地でイジメに遭っていた。
さまざまな形の暴力をギリギリでかわすために、彼女はおどけてみせることを覚えた。
そうして、自分をウサギにたとえて卑しい笑いをとることで、自分を守ってきたのだ。
中学に入学すると同時に福岡に来た背景には、そういった事情があったのだろう。
すべてを理解して、麗奈の目からは一筋の涙がこぼれていた。
さゆみは麗奈の流した涙を見て、
「じゃあもうひとつ、サービス」
ポケットからハンカチを取り出し、ぎゅっと手の中で握ると、目を閉じた。
10秒ほどそうして、目を開けたさゆみは、ハンカチを空中に放り投げた。
次の瞬間、ハンカチは白い火花を散らして光ると、メラメラと炎を上げて燃え出した。
風に揺れながら地面に落ちたそれはもはやハンカチではなく、わずかな繊維質を残したただの灰だった。
「私、魔法が使えるの」
ささやくように、赤い目の少女は言った。
「魔法?」
「超能力かもしれないけど、よくわからないから、私は魔法だと思ってる。
触って、燃えろ!って念じると、何でも燃え出しちゃうの。これって、私がアルビノだからかもしれないね」
そしてさゆみは笑った。それは麗奈が今まで見たことのない種類の笑いで、ひどく疲れた印象を残した。
麗奈はどうすることもできず、重苦しい雰囲気が漂いはじめたのを鋭く察知して、
「行こ」
それだけ言って、さゆみの手を引いてバス乗り場に戻った。
その後、ふたりがそれらの話題を口にすることはなかった。
結局、麗奈とさゆみは1年間しか一緒にいることができなかった。
博多駅のホームで、さゆみは麗奈の手を取って言った。
「いつかきっと、アビスパが勝つ試合を一緒に見に行こうね。約束だよ」
麗奈はボロボロ涙を流して頷いた。ふたりとも、いつまでもその手を離そうとはしなかった。
しかし、やがて無情にも列車の発車時刻がやってきて、ドアは閉まった。
去っていく列車に向かって麗奈は、いつまでも手を振り続けた。
- 17 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:05 ID:C4gqgUBg
- ◇
れいなは今、目の前にいるさゆみが、中学校時代とまったく同じ顔をしているのに気がついた。
いや、久しぶりにれいなと会ったことで、一瞬にして当時の関係を取り戻したという方が正確だろう。
そんな瑞々しい表情を見るに、さゆみのその後は順調だったように思える。
地獄に落ちた過去を封印して彼女の目の前に立っている自分が、れいなにはひどく滑稽に思えた。
さゆみの身長が自分よりも一回り大きくなっていたこともあって、その思いはよけいに強くなった。
「会いたかったんだよ。ずっと探してた」
さゆみの言葉には心がこもっていた。れいなは深く頷いて、それに応えた。
「毎週毎週、こっちに来てれいなのこと探してたんだよ。やっと会えたね」
「そう…」
れいなはうまく言葉を返せない。れいなが福岡に戻れたのは、特殊任務があったからだ。
あの悲しい事件が起きなければ、今この再会はありえなかった。素直に喜べないのが悔しい。
「そうだ、久しぶりなんだし、デートしようよ。前みたいに一緒に、この街を回ろうよ」
素敵なアイデアを思いついて、さゆみの顔は明るく輝いた。
でもその光はれいなの心を隅々まで照らすことはできない。れいなには、やるべきことがある。
「え、でもれいなにはこれからやらなきゃいかんことがあるけん…」
「ダメなの?」
「ええと、その…」
ずっと忘れていた“ふつうの女の子”の楽しみの味を思い出し、れいなの心は揺れる。
任務を放り出すなんて選択肢は存在しない。しかし、さゆみとはもっと一緒にいたい。
右耳に詰めている小型のイヤホンから「冷静に任務を続けろ」と男の声がした。
わかっている。わかっているけど、でも――。
「よし! デートしよ! そんかわり、コースはれいなが決めるけん、それでええね?」
「うん!」
れいなはミュールを履いたさゆみの手を引き、倒れている自転車のところまで戻ると、
サドルの後ろにある荷台に座るように促した。
「ふたり乗り!」
ぐっと力を込めてペダルをこぎ出すと、自転車はゆっくりと動き出す。
ひとりで乗っているときよりも、ずっと風が気持ちいい。全身を優しく撫でるようにして去っていく。
れいなは一年のうちで今しかない、春と初夏のあいだだけの特別な匂いを目いっぱい感じた。
- 18 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:05 ID:C4gqgUBg
- ふたりが乗る自転車は、一路東へと向かった。
大名、天神、中洲、博多。れいなは当初の予定に合わせてルートを設定し、任務を続行してみせた。
そしてそのルートは、かつて麗奈とさゆみが歩き回ったルートでもあった。
街は爆発事件の影響で、すっかり変わり果てていた。コンクリートの瓦礫が剥き出しになっており、
暗い空の色を映すように灰色に染まっていた。被害の大きい地域は、戦争や震災の傷跡を思わせた。
土曜日だというのに、商店の8割は閉まっていた。最近の福岡では事件の起きない平日に営業し、
土日には被害を受けないように店を閉めてしまうケースが増えていた。経済的な損失は計り知れない。
通りを歩いている人もまばらで、自転車をこぐ制服姿のれいなを見ると、みんな慌てて逃げていく。
取り返しのつかないところまで来てしまっているのを、れいなは身にしみて実感した。
「店とか、ぜんぜんやっとらんね」
「でも楽しいよ、れいなといると」
「そう?」
「こうしてれいなのいちばん近くにいられる、それだけでうれしくなってくるの」
さゆみは街の景色にさほど興味がないようだった。自転車のスピードに慣れてくると半立ちになって、
両手をれいなの肩に置き、耳元でささやくようにしておしゃべりを始めた。ずっとそれに夢中だった。
あらかた廃墟と化している福岡の中心部をぐるぐる巡回するものの、新たな事件の気配はなかった。
自転車をこぎ疲れたれいなは休憩を要求し、博多駅前でブレーキをかけた。
飛び降りて着地したさゆみは、自販機でペットボトルのジュースを2つ買うと片方をれいなに渡した。
れいなは「サンキュ」と受け取ると、そのまま地面に大の字に寝転がる。
「おぎょーぎわるい」
さゆみが笑うが、れいなは気にしない。かつて希望を失ってここに座っていたことを思い出し、
ふう、と大きく息を吐いた。あのときとはすべてが変わっていた。
「れいな、肩」
突然、さゆみが言った。
「どうしたの? 包帯でもしてるの? なんか硬い感じがしたけど」
れいなの背筋が凍った。
- 19 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:06 ID:C4gqgUBg
- ふたり乗りをしているとき、さゆみはれいなの肩に手を置いていた。
そのとき、銃をさげているのに気づかれた――?
誰にも知られてはならない秘密に、さゆみは無意識のうちに迫っている。
「べつに。気のせいでしょ?」
「そう? ならいいけど」
さゆみは気にするふうもなく、ジュースを飲む。れいなの冷や汗がようやく止まる。
話題を変えるのも不自然なので、そのまま黙っている。
流れていく時間はまるで、透明で、硬くって、でもどこか軽いプラスチックのようだった。
「ねえ、博多の森に行きたい」
沈黙を破ったのはさゆみの方だった。振り向くれいなに、甘えるような声で言った。
「約束したの、覚えてるよね? アビスパの勝つ試合を一緒に見に行こうって」
「覚えてるよ。でも、アビスパは福岡から下関に移ったとよ。爆発事件のせいで仮移転中。
だからもう博多の森に行っても、アビスパの試合は見らんない」
「そうなんだ」
うつむいたさゆみの目に、一瞬、赤い光が灯ったようにれいなには見えた。
「それじゃ、しょうがないね」
溜息まじりの言葉に、れいなまで悲しくなってしまった。せっかく再会できたのに。
それも、奇跡としか言いようのない確率での再会だというのに。
れいなは任務と友情を天秤にかけて、頭をフル回転させて答えを探した。
「……わかった。明日、行くだけ行ってみよ? 博多の森に」
れいなの言葉に、さゆみは顔を輝かせる。
「ホント? いいの?」
「ええよ。試合とかないけど、思い出の場所やけん、一緒に行こ?」
「それってデート?」
「デート」
れいながそう答えると、さゆみは満面の笑みを見せた。
「じゃ、また明日だね」
「うん」
立ち上がると、ふたりで駅のコンコースへと向かう。
さゆみは改札口を抜けて、「また明日」と手を振った。れいなも手を振ってそれに応えた。
やがてさゆみの姿が見えなくなると、れいなは駅前に戻り、再び自転車にまたがって街を巡回した。
午後6時を過ぎて空は暗くなり、大通りに点々と連なる街灯は蝋燭の火を思わせた。
今日は爆発は起きなかった。しかし、街灯が事件の被害者たちの魂を鎮めるように揺れて見えて、
れいなは無力感に襲われる。ずっとうつむいたままで、アパートに帰った。
- 20 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:06 ID:C4gqgUBg
- ◇
翌朝も福岡は曇っていた。
4月最後の日、日曜日。しかし、この街で休日とは恐怖を意味する。
今日決着をつけないと、この街は永遠に恐怖にとりつかれたままになってしまう。
れいなはアパートから外に出る。深呼吸をする。手のひらで顔を叩いて気合を入れる。
自転車にまたがると、「うっし!」と叫んでペダルをこぎ出した。
奇跡的に、さゆみと博多の森へ行く約束は認めてもらうことができた。
ただし、朝9時からの1時間だけという条件つきだ。爆発事件は昼から夕方に集中していたので、
朝なら比較的自由に行動できるというわけだ。任務が本格的になる前の、貴重な息抜きである。
そういえば昨日の試合、アビスパは鹿島に負けた。よりによって4−1というスコアで。
自分は負けるわけにいかない――れいなは奥歯をぐっと噛み締める。
待ち合わせ場所の博多駅前に着くと、さゆみが手を振りながら小走りでれいなのもとにやってきた。
「待った?」
「ううん、今着いたところ」
というさゆみの言葉は絶対に嘘で、1時間以上前に駅に着いていたに決まっている。
そうとう早起きさせちゃったんだろうな、とれいなは少し申し訳なく思う。
昨日と同じようにさゆみと自転車にふたり乗りして、目的地へと向かう。
まずは福岡空港を目指す。そこは事件以来閉鎖され、今は巨大な空き地になってしまっている。
爆発のせいで福岡は穴だらけになってしまった。その影響で、あそこにも大きな空白ができてしまった。
このままどんどんと大切なものが穴から漏れ出していって、福岡は空っぽになってしまうのではないか。
そうして自分の生まれた街は、地図から姿を消してしまう――れいなはふと、そんなことを考える。
「どうしたの?」
肩をつかむ力が強くなる。耳元で優しい声がする。れいなは我に返った。
「ありがと、へーきたい」
できるだけ平静を装って返事をする。たった1時間だけのデート、心配をかけるようなことはしたくない。
そうだ、自分には街を守る使命がある。街を、そしてさゆみも守らなくちゃいけないんだ。
知らず知らずペダルを踏み込む力が強くなる。高速の下をしばらく走ると、空港はすぐに見えてきた。
- 21 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:07 ID:C4gqgUBg
- 大きな交差点を渡ると、スケール感覚が一気に変わるのが面白い。すべてが巨大化するのだ。
昨日と同じように、れいなは大きな花のあいだを飛び回る小さな蜂になったような気分になる。
大雑把なコンクリートの群れを抜けると、景色は急に緑に切り替わる。森だ。
博多の森球技場に着いて、れいなは自転車を停めた。さゆみは音を立てずに降りた。
周囲を見回してみるが、前に一緒に来たときとほとんど変わっていない。時間が戻ったように感じた。
「中には入れないんだね」
残念そうにさゆみが言う。れいなは無言で頷いた。
「ちょっと散歩しよっか」
「いいよ」
辺りにひと気はまったくない。夢の中でしかありえないはずの光景の中を、現実にふたりは並んで歩く。
「でもよかった、またれいなに会えて」
深い息とともにさゆみが言う。れいなはさゆみがこの街を去ってから今に至る経緯を思い、目を閉じた。
「れいなに会えるおまじないが効いたのかな」
「おまじない? それってどんなん?」
「んー…あんまり言いたくないんだけど…」
「えー、ずるいよ、教えてよ」
「内緒だよ。ほかの人にはぜったいに言わないでね。れいなだから教えるんだからね」
「はいはい」
「あのね、本物のれいなを探すために、にせものの数を減らすの」
「え? 何それ?」
数を、減らす。れいなにはその言葉の意味がつかめなかった。
「だからね、れいなに似てるけどちがう人を減らしていけば、れいなだけが残るでしょ? そうするの」
「…減らすって、なに?」
「魔法で、消しちゃうの」
それはまるで、消しゴムのカスを息で吹いて飛ばしてしまうような感触で告げられた。ふっ、と。
その軽さは、れいなの想像できる範囲をはるかに超えていた。
「消す?」
「うん。私が燃えろ!って念じれば、『ぽん』って。週末にこっちに来るたび、にせものを消して帰るの」
- 22 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:07 ID:C4gqgUBg
- ――もはや疑う余地などない。れいなはすべてを悟った。
そして肩にさげたホルダーから銃を抜いた。目の前の少女に狙いをつけた。
「れいな、何それ?」
首を傾げてみせるさゆみに、れいなは声を震わせながら言った。
「さゆ…。さゆやったんね、爆発事件の犯人」
「爆発事件? ちがうよ、私はただ、れいなのにせものを消していっただけだよ」
さゆみは一歩前へと踏み出した。れいなとの距離が詰まる。
「動かんで! 動くと撃つよ!」
れいなはベレッタのスライドを引き、撃鉄を戻す。左目を閉じ、照準を合わせる。
「……れいなは、変わっちゃったんだね」
つぶやくと、さゆみはれいなを睨みつけた。その目の奥には、赤い光が揺れていた。
「本物のれいなは、もういなくなっちゃったんだね」
さゆみはさらに一歩、れいなに近づく。れいなが引き金を引こうとした瞬間、耳元で何かが弾けた。
急に左耳が聞こえなくなった。頬に温かい感触がした。紅い液体が銃身にこびりついていた。
「いやああああっ!」
れいなは叫んでいた。自分の左肩が大きく裂けて、血があふれていた。
「本物じゃなくなっちゃったら、にせものと一緒なの」
さゆみはまた一歩、れいなに近づいてくる。れいなは右腕一本で銃を向けるが、今度は右肩が弾けた。
衝撃で銃が地面に転がった。れいなはその場に尻もちをついてしまう。痛みがようやく襲ってきた。
れいなは立ち上がろうとするが、足が震えて言うことをきかない。怯えるれいなにさゆみは笑い掛ける。
「人間は、炭素と、酸素と、窒素と、水素からできているの。それって爆弾も同じなの。
私、わかったんだ。私の魔法は、そういう仕組みを自由につくり変えられる力なんだって」
さゆみはれいなの足首に触れた。次の瞬間には足が弾けて、感覚がまったくなくなった。
- 23 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:07 ID:C4gqgUBg
- 「昨日自転車に乗せてもらったとき、変だなって思ったんだ。やっぱりれいな、ピストルを持ってた。
あのとき念のためにれいなの両肩に魔法をかけておいて、正解だったね」
「や、やめて…」
「やめないよ。れいなは私のものだから」
そう言って、さゆみはれいなの体を抱き締めた。彼女の白い服には鮮やかな紅い痕がついたが、
それを気にする様子はまったくない。むしろ、紅に染まることを喜んでいるようにすら見えた。
血は止まらない。れいなは自分の体から温度が漏れていくのを感じている。
「ふふふ、今のれいな、かわいいよ。すごくかわいい」
痛みが全身を駆け抜けている中で、れいなは恐怖という感情をすでにを通り越してしまい、
落ち着きを取り戻していることに気がついた。こんな状況で冷静になれる自分が信じられなかった。
れいなは思う。さゆみと自分は、ほかの人間にはない特別な力を手に入れた点で共通している。
しかしそれは大きな犠牲の対価として得たものだ。さゆみは色素の欠損、自分は過去と未来の放棄。
正義のために戦っているなんて思わない。自分はただ、福岡を救いたい、それだけなのだ。
そして今、自分を抱いている親友のことも救いたい。でももう、遅きに失した。
れいなは目を閉じる。覚悟を決めた。
「さゆ、お願いがひとつあると」
「……なに?」
「れいなのこと大好きだって思ってくれてたんなら、その証拠に、キスして。
このまま気を失ってしまう前に、さゆとの思い出、ほしいけん」
れいなの呼吸は荒くなっていた。息をするたび、ヒューヒューと空気の抜ける音が混じっている。
おびただしい出血のせいで顔は青白くなり、それはさゆみの肌の色に似ていた。
「いいよ」
目を細め、頬にはえくぼをつくって、さゆみは答える。
さゆみの唇は真っ白な雪の中に一点だけ咲いた紅い花のようだ。
れいなの視界はすでにぼやけてきていて、世界が磨りガラスの向こう側にあるような錯覚をおぼえる。
自分の血とはちがう温かいものがれいなの唇に触れた。
触れあったふたりの唇はやがて重なり、鉄の味の中に一筋の透明な味が混じった。
それはかつて麗奈が警官を撃って逃げたとき、暗闇の中で自分を照らし出した光にも似ていた。
さゆみの唇は、天使の羽の感触がした。
- 24 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:08 ID:C4gqgUBg
- 「もっと」
れいなはかすれた声で言う。
さゆみは「ん」と喉で答えると、ゆっくりと舌を伸ばした。れいなの口の中へと入っていく。
れいなは朦朧としはじめた意識の中で、さゆみのキスを受け止めながらチャンスを狙う。
今だ
伸びてきたさゆみの舌の先に、れいなは奥歯の間に仕込んであった針を突き刺した。
一瞬の痛みに驚いて、さゆみはれいなから離れる。しかしすでに毒はさゆみの体に入り込んだ。
奥歯に仕込まれた毒針。
敵に情報を漏らすことがないように、それでみずから命を絶つことも、工作員の任務のうちだった。
もともと偶然拾った命、任務に致命的な失敗をしたときには、そうする覚悟はできていた。
ふらふらと後ずさっていくさゆみは、大きく目を見開いてれいなを見つめ続ける。
れいなはその瞳の中に、自分の姿をはっきりと見た。真紅の世界にいる、自分の姿を。
やがてさゆみは、力なくその場にぺたりと座り込んだ。茫然と見つめるその表情は変わらない。
れいなは地面に仰向けに倒れたままで、親友の最期の姿をしっかりと目に焼きつける。
意識が薄れているのと涙とで視界はおぼろげだ。でも、れいなにはさゆみがはっきりと見えた。
「れ、い、な…」
毒のせいでうまく回らない舌で、さゆみはつぶやいた。
やがて、上半身が弧を描くようにねじれて倒れる。それは氷山が海中へと崩れる光景に似ていた。
そしてさゆみは眠るように体を横たえると、ついに動かなくなった。
黒く染めた彼女の長い髪だけが、静かに揺れていた。
- 25 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:08 ID:C4gqgUBg
- 天を仰ぐと、いつのまにか雲は薄くなっていて、青い陰が濃くなっているのがわかった。
やがて雲のあいだから光が差し込み、透き通った空が見えた。5月の空だ、とれいなは思った。
――すべてがうまくいく。
れいなはかつて自分の中にあった、その言葉を思い出した。
爆発事件はもう起こらない。博多どんたくは無事開催される。アビスパも福岡に戻ってくる。
なにより、もうさゆみが罪を重ねることはない。そうして街は元どおりになる。
でも再び訪れるその平穏を、れいなが味わうことはもうない。
れいなは最後の力を振り絞って、倒れているさゆみのそばに寄り添った。
そして手の位置を重ね合わせると、心の中でさゆみにささやいた。
(アビスパの勝つ試合を一緒に見に行こうって約束、守れなかったね)
(でもね、きっとアビスパはまたここに戻ってくるよ)
(そしたら今度は空から、とっておきの特等席で試合が見られるね――)
れいなはゆっくりと目を閉じた。
そして、時間が永遠に止まったまま動き出すのを感じた。
博多の森を抜ける風はいつまでも、れいなの頬を優しく撫で続けていた。
- 26 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:08 ID:C4gqgUBg
- 「れいなの毒針」 おわり
- 27 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:09 ID:C4gqgUBg
- ...
- 28 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:09 ID:C4gqgUBg
- Honey is sweet,
- 29 名前:21 れいなの毒針 投稿日:2006/05/05(金) 22:09 ID:C4gqgUBg
- but the bee stings.
- 30 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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