16 紡ぎ坂

1 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:00 ID:AMAdBffA
16 紡ぎ坂
2 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:00 ID:AMAdBffA
この町で生まれ、この町で育ち、あなたと出会って、そして恋に落ちた。
梨華は明日、この町を発つ。
3 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:01 ID:AMAdBffA
彼方の空に藍色が薄く塗されてきた頃、坂の下から梨華を呼ぶ声が響いた。
甲高くチェーンを泣かせながら、自転車を立ち漕ぎする見慣れた姿。
梨華の姿を認めると、彼女は長い髪を揺らして手を振ってきた。

「こんな所にいた」
「……ごっちん」

真希は坂を上りきり、ハンドルを持ったまますとんと地面に足を下ろす。
跳ねるように流れる、彼女の美しい茶髪。梨華は小さい頃から憧れていた。
それそのものが夕日のように、西日を弾いて煌いた。
照り返しが眩しくて、少しだけ目を伏せる。

「探したよ」
「……うん」
「行こ?」

真希が促しても、梨華はなかなか立ち上がらない。
自分の後ろを顧みて、彼女はまぶしそうに眉根を寄せた。

「冷えてきたしさぁ」

やや名残惜しげに視線をはがし、真希がこちらを向く。
片手で自転車を支え、反対の手を梨華に差し出した。
梨華は眉を下げおずおずと手を伸ばす。真希の手をとって、梨華はようやく腰を上げた。
その手から、僅かな力を感じる。
強すぎず弱すぎない、寄り添うような力。

「ほら、乗って」
「わっ」

と、いきなりぐっと引き寄せられ、たたらを踏む。

「もー、ごっちん、危ないよ」

荷台に手をかけて横座りする。視界に広がる、生まれ育った町並み。
その中の一角を占める白く大きな建物に、胸がかりかりと軋んだ。
荷台をきゅっと掴む。

行かなくちゃ。

入日は眩し過ぎた。代わりに真希の髪を見つめる。
胸元を掻きむしる何かが、少しだけくすんだ。

行かなくちゃ。
4 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:02 ID:AMAdBffA
「飛ばすよ」
「うん。……お願い」

声が掠れた。語尾は霞んでいたし、彼女の服の裾を握る力も微かなものだった。
それでも真希はうなずいてくれた。
彼女の細い足がひょいとサドルを跨いで、ペダルを思い切り踏み込んだ。
自転車がきぃきぃと悲鳴を上げる。その音が耳に痛い。
二人分の重みを乗せ、チェーンが噛み合いタイヤが回る。
すぐに下り坂に差し掛かって、風を切り始めた。

「しっかり掴まってねー!」
「え……やっ、 ちょっ、ごっちん、速っ!速すぎ!」

風が耳元でごうごうと唸り、二人の長髪をばさばさとなびかせた。
真希はほとんどブレーキを握っていなかった。きゅぅ、と梨華の喉元が締まる。

「綺麗だねー!」

風の中でも、真希の声は良く通る。

「えー?」
「夕日、綺麗だねー!」

遠吠えのように真希は叫ぶけれど、梨華は答えることが出来ない。
細腰にぎゅっとしがみついて、目を閉じた。
一瞬だけ、視界に淡く柑橘色が広がった。
5 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:02 ID:AMAdBffA
心因性健忘症。
文字にして六文字。

逃げるな、と言われたけれど。
どうして、と問われたけれど。

逃げていた理由など、それだけで十分だ。
6 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:02 ID:AMAdBffA
病院内のその個室に入ると、般若顔の女が仁王立ちしていた。

「遅いよ」

燃え上がりそうな形相をしているのに、その口から放たれる言葉は氷の刃のよう。
梨華は素直に謝った。

「ごめんなさい」
「美貴に謝ってもしょうがないんだけど」

あくまでも冷たいその口調を、真正面に受け止めた。
体の向きを変え、個室の主役、ベッドに向かって改めて頭を下げる。

「ごめんなさい」
「いやー、あたしに謝ってもしょうがないって言うか、ぶっちゃけ覚えてないっていうか……」

ベッドの上で足を吊られている彼女は、気まずそうに視線をそらす。
それもそうだと思い納得する。
だけど、予想以上に重く圧し掛かる六文字。
すとんと落ちてきた喪失感に、足元の床が突如消えたような錯覚を覚えた。
と、さりげなく真希が腰に手を回し、崩れそうな梨華をそっと支える。

「ごっちん」
「ほら、梨華ちゃん。ジコショーカイしないと。よしこ困ってる」
「あぁ……そっか」

膝に力を入れる。感謝の意を込めて、そっと真希の腕を解いた。
ひとみの見えないところで強く拳を握って、体を起こした。

「えーと……石川梨華、です。二人から、聞いてるよね?」
「あ、うん。そっか、あなたが梨華ちゃんか」

少し歯を食いしばったので、うまく笑えているか自信が無い。
対して彼女は気にした風も無く、ベッドの上でニコニコと笑っている。
痛々しく包帯が巻かれた頭部のことも忘れるくらい、屈託の無い微笑み。
7 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:04 ID:AMAdBffA
その笑みに内心、胸を撫で下ろした時だった。
強い力で肩を引かれ、体が後ろに翻る。
ぱん。濡れた布を叩きつけるような音が響く。その音の勢いに、顔が右側へと払われた。
何が起こったのか理解するより早く、もう一度。
ぱん。

周囲には軽快に響いたその音も、梨華の耳には聞こえなかった。
ただ衝撃の名残と熱だけが、思い出したかのように訴えかけてくる。
左頬をそっと押さえて、顔を上げる。
美貴が右手を抱え、表情を歪めていた。
美貴が殴られたわけでもないのに、むしろ殴った側なのに、泣きそうな顔をしている。
じんじんと疼くような、左頬の熱。
彼女の痛みだと思った。

「な、何やってんの!?」

ベッドの上で子犬の如く喚くひとみを黙殺して、美貴は梨華を見つめた。
ほとんど睨みつけるように。

「一個は謝る。ごめんね。でももう一個は謝んないから」
「……うん」
「美貴なりの、けじめだから」

梨華はうなずく。しっかりとした首肯だった。

「てゆーかけじめとか、ミキティヤクザみたーい」

声が飛んできた方に、美貴が鋭く視線を走らせた。人が殺せるのでは、と思える眼光だった。
その視線をため息でかわして、真希は呆れ顔で肩を竦める。
彼女もまた、困惑や混乱とは程遠い場所にいる。

「ちょ、意味わかんねぇー!」

病室の中にたゆたう空気は、驚くほど泰然としている。
三人を一瞥し声を跳ねさせるひとみの姿が、場違いに思えてしまう程に。
ひとみが叫ぶ。ひとみだけが。
8 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:04 ID:AMAdBffA
絆だとか、縁だとか。あるいは結ぶ、とか、約束、とか。
そういう言葉を思い浮かべ、梨華は首を捻った。
全てに糸偏が含まれている。
自分たちのそういった繋がりは、それ程細い物だったのだろうか。
そうだとしたら、それはとても悲しいことだと思った。

狂い始めた歯車なのだ。
帳尻を合わせようと、それぞれがかちりと嵌まる所を探している。

『四人』は、『三人と一人』になろうとしている。
9 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:05 ID:AMAdBffA
「ちょっと、よっすぃ、暴れないの!」
「だって、わっかんねーんだもん!」

ベッドをぎしぎしと揺らすひとみを、慌てて梨華が押さえ込む。
その様子を見て美貴は、今日初めて口元を緩めて微笑む。

「頭冷やしてくる。ごっちん付き合って」
「え、いいよ。ジュースね」
「おごらねーし」
「ごとーはりんごジュースな気分だなぁ」
「や、おごらないっつってんじゃん!」

軽口を叩きあう二人に、数分前までの殺伐な空気は感じられない。
あまりにも悠然と去る後姿に毒気を抜かれたのか、ひとみは口を開けて呆けていた。
その顔が可笑しくて、梨華は小さく噴出す。
だけど、ぴりっと引き攣るような痛みを口中に感じ、顔を顰める。頬の内側を切ったのかもしれない。
敏感に感じ取ったひとみが、心配げに覗き込んできた。

「どした?」
「ん……なんでもない」

ひとみはベッドの上から手を伸ばす。
梨華は黙って、その手を左頬に受けた。

「痛い?」
「平気」

肌を柔らかく擦る感触が頬の熱と相まって、心地よい倦怠感を生む。

「ミキティもひどい事するなぁ」
「ひどくないよ。仕方がないの」

ひとみの手から離れ、うっすらと微笑む。
美貴はきっと梨華を叩いたことで、気持ちが納まるところに嵌まれたのだ。
その竹を割ったような性格が、梨華はずっと好きだった。
10 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:05 ID:AMAdBffA
と、布団の上に、病室に似つかわしくない物たちを見つけた。
鋏、セロテープ。そして4色の紐の束。
梨華は布団の上に手を伸ばし、ひょいと摘み上げた。
それは、4本の紐が複雑に編みこまれた、一本のミサンガだ。
梨華は首をかしげた。

「ミサンガ?」
「うん」

ひとみは苦笑しつつ頷いた。

「何にも覚えてないんだ。でも、体が覚えてる、って言うのかな。ここんとこ」

彼女は自分の胸を指し、シャツをぎゅうと握りこむ。

「鎖で縛り付けられたみたいになって。居ても立ってもいらんなくなっちゃったからさ」
「……そっか」
「ついさっき、急にだよ? 何か大事なこと、あったんだね」

窓の外を見つめながら、淡々とつぶやくひとみ。
ただ、引き出すことが出来ない大切な記憶を、確実に存在していた事実として語っていた。
でも彼女はそれを夢に見ることも、不可能なのだ。
梨華は俯く。錆付いたチェーンのような静けさが、耳の中で甲高く反響した。
脳裏で鐘みたいに鳴り響いて、梨華の三半規管を狂わせる。

「どうしたの?具合悪いの?」

黙り込んでしまった梨華を不審に思い、ひとみがナースコールを掴んでいた。
やんわりと手で押しとどめて、控えめに首を振る。

「大丈夫。……夕日が眩しかっただけ」

顔を上げて薄く笑いかけると、ひとみが豆鉄砲を食らったような顔をした。

「おんなじこと、言ってる」
「え?」
「あたしがさ、夕日綺麗だね、って言ったんだよ。そしたらミキティもさ」

『美貴には眩し過ぎて、見れない。』

面白いね、なんて言いながらひとみは笑う。
だけど梨華は笑えなかった。
11 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:06 ID:AMAdBffA
綺麗だ、と言うひとみと真希。眩しい、と言う梨華と美貴。
二人の間は、その二つの間は、一体何が繋いでる?

脳裏にフラッシュバックする、幼い頃の思い出。
四人で手を繋ぎ、夕日を背に下った、あの坂。

『繋がり』には『意図』があって、『糸』になる。
12 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:06 ID:AMAdBffA
「でもさー」

ひとみの声で我に返った。
梨華が物思いに没頭していたことに気づかなかったのか、ひとみはミサンガを弄んでいる。

「紐が一本足らなくなっちゃって……3本しか作れなかった」

梨華は視線を落とす。布団の上でのたうっている紐は4種あるが、そのうちの一本が明らかに短い。
物足りないとひとみは口を尖らせ、短い紐を引っ張ったりよじったりしている。
あまりに無邪気なその表情が可愛くて。
梨華はふっと、口元を緩めた。

「じゃあ、残りの紐で作ればいいじゃない?」
「うん、そうなんだけどさ……なんか、嫌だ」
「そう?」

特に大した感慨も無く、梨華は首を傾ける。
生返事が気に入らなかったのか。ひとみが眉根を寄せて梨華を見た。
梨華は慌てて手を振って否定する。

「あぁ、違うの。よっすぃの言いたいことはわかるの。そうじゃなくてさ」

ひとみが編みたくないとと思ってくれたことは、とても嬉しい。
失った記憶には頼らない、軸のような物が彼女の中にちゃんと存在しているのだ。
それはやがて、彼女との『つなぎ』になる。
それだけで、救われる。
13 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:07 ID:AMAdBffA
完成したミサンガの一本を手にとって、愛おしそうに目地をなぞる。
横目に見て、ひとみがごくりと喉を鳴らした。

「作り方、教えて?」
「え?」
「私が残りの紐で、編むから。ダメ?」

ずいと身を乗り出して、ひとみの大きな瞳を覗き込む。
きらきら輝いて眩しいけれど、どこか優しい光が宿っている。
目が泳いでも、煌く。

「え、いや、ダメじゃないけど……梨華ちゃん編めるの?」
「失礼ね。これくらいチョチョイって編めるわよ」
「いや、編み目を綺麗にすんの結構大変なんだよ?」
「平気だよ。ちゃんと教えてくれれば出来るって」

椅子を引き寄せて、本格的に腰を据える。
ひとみは嘆息をし、3本の紐をそろえて食事台の上にセロテープで固定した。
紐の先をひとみから受け取り、言われる通り入れ替えながらゆっくり編んでいく。
頼りない梨華の手つきを、ひとみに時々手を添えてもらったりしながら。
胸に去来する思いを、梨華はそのまま一緒に編みこんだ。
14 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:18 ID:AMAdBffA
人と人の間に『糸』があるならば。
絆だってあるはずだ、と思う。
たとえ、その糸が一本少なくて細くなっても、その分たくさん編み込めばいい。
昔の思い出。繋いだ手の汗。事故の痛み。交わした言葉。輝く茶髪。氷の激情。
瞳の中の光と、失くなっても変わらない手触り。

色々なものを、たくさん。
そうすれば、きっと。
15 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:18 ID:AMAdBffA
「できたぁー……」

ひとみが長く長く息を吐いた時、すでに大分日は傾いていた。
濃密なオレンジ色が個室の中を塗りつぶしている。完成品を、光に透かした。
ベッドの上であれやそれやと騒ぎながら、ようやく編みあがった一本のミサンガ。
お世辞にも綺麗とは言えない編み目だったけれど、梨華の胸は満たされていた。
西日にためつすがめつして、

「ね、よっすぃ。これもらっていい?」
「え? いいけど」
「んでさ、ごっちんと美貴ちゃんがもどってきたら、二人にもあげよう?」
「うん……うん、そうだね。でも梨華ちゃん、それでいいの?」

梨華の手にあるのは、紐が一本少ない、編み目も雑なもの。
それでも梨華はうなずいた。

「これがいいの。これじゃなきゃヤだ」

彼女はしばらく口を閉ざしたいたが、やがて小さく微笑んで、

「そうだね。それがいい」

とつぶやいた。
確かに紐は少ないかもしれないけれど、だからこそ、自分で編んだのだ。
梨華は結構、気に入っている。
個室の外から聞こえてきた、聞きなれた声に、梨華は口元の笑みを深くした。
ひとみを見ると、彼女も笑っていた。
16 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:18 ID:AMAdBffA
4本のミサンガを、窓から差し込む夕日が柔らかく包み込んでいる。
薄く滲むのに、鮮烈に明るいその色は、あの日と全く変わらなくて。
涙が出るほど、綺麗だった。
17 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:20 ID:AMAdBffA
18 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:20 ID:AMAdBffA
19 名前:16 紡ぎ坂 投稿日:2006/05/05(金) 09:21 ID:AMAdBffA
結。

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