15 天ぷら帝国――東京の女王
- 1 名前:15 天ぷら帝国――東京の女王 投稿日:2006/05/04(木) 22:44 ID:NvRSVROM
- 15 天ぷら帝国――東京の女王
- 2 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:46 ID:NvRSVROM
- 新宿駅西口を出てから、右に曲がる。そうして、線路沿いの路地へと入る。
そこには「思い出横丁」という看板が出ていて、そのすぐ下には無数の木造の軒先が密集している。
焼き鳥を焼いている煙が路地いっぱいに漂って、まるで霧がかかっているかのよう。
こんなのぜったい匂いついちゃうよー、と尻込みしていると、「ほら早く!」と声がした。
ボストンバッグを肩からさげた安倍さんは、呼び込みの声を笑顔でかわしながらまっすぐ進んでいく。
いつになく頼もしいその背中から離れないように、でこぼこした足元を気にしながらついていく。
「ここ」
安倍さんが指したその先を見ると、良く言えばアジアン・テイスト、
悪く言えば戦後の闇市場の生き残りって感じの定食屋さん。
モルタルの壁にはメニューを書いた紙が貼られていたけど、ことごとく茶色のシミで変色していた。
「いらっしゃい!」
ガラガラガラ、と昭和の音をたててアルミ戸が開き、閉まる。
店の真ん中から奥にかけて厨房があって、それをぐるっと囲んで半円形に席が並んでいる。
隅っこの席にふたり連れ、あとはぽつりぽつりとひとりの客がいて、まずまずの繁盛ぶりだった。
「えっと、どうしよっかなー」
壁のメニューを眺めながら、安倍さんは空いている席に腰を下ろす。
店の雰囲気に呑まれて突っ立っていると、隣に座るように促された。
仕方がないので覚悟を決めて、その席に座った。でも私の頭の中は、
業務用のちっちゃいゴキブリがバッグの中に入ってきたらヤダなあってことでいっぱいだった。
レバニラ炒めとかハムカツとかアジフライとか、定食屋さんのラインナップは妙に家庭的で、
ひとり暮らしを始めて間もない私にはビミョーだ。わざわざお金を出して食べる、って感じじゃない。
でもひとり暮らしが長い安倍さんには、それが懐かしい味なのかもしれない。
「じゃあなっちはね、てんぷらていこく!」
「え? 天ぷら帝国?」
「ん? どしたの?」
「え…や、いま安倍さん、『天ぷら帝国』って…?」
「なにそれ?」
「へ…?」
互いの顔を見合わせて、訪れる沈黙。天ぷら帝国――天ぷら定食。
単純に自分が聞き間違えただけだと気づいたときには、安倍さんが素っ頓狂な声で笑っていた。
「ちょっといきなり何言い出すのさ! もう、おかしいなぁ〜」
声を絞り出しながら、安倍さんは私の肩をぺちぺち叩いた。
- 3 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:48 ID:NvRSVROM
- 新宿駅の東側には巨大な歓楽街が広がっている。
ゴールデンウィークが過ぎ去って少し経ち、街はじっくりとエネルギーを蓄え始めていた。
カラオケや居酒屋の呼び込み、キャバクラ嬢、スカウト、キャッチ、あらゆる夜の人種が、
煙草の吸殻、ガム、吐瀉物、唾、そういった歴史ある黒ずみがこびりついた目地を踏みつける。
月は雲に隠れて見えない。見えたところで、地上の騒がしい光に霞んでしまう。
誰も空なんて見上げやしない、そんな街。ただ自分が今いる場所だけで精一杯、そんな街。
その中でただひとり、高い鼻梁を宙に向けて歩く女がいた。
澱んだ空気を切り裂き、ヒールの音を響かせて彼女は歩く。
未練たらしく後ろ髪に手を伸ばすが、煙草混じりの濁った風は彼女を捕まえることなどできない。
さらりと茶色い髪がなびいて、澱みを華やかな香りに変え、歓楽街の真ん中を突き進んでいく。
「小春」
声をかけられ、後ろについていた少女が返事する。
「はい」
「今日これから行くところ、起こること、ぜんぶ覚えておくんだよ。いいね」
小春の知っている彼女は、いつも優しかった。ふだん人前で笑うときには絶対に見せない、
柔らかいクッションに抱きついたときのような、ふにゃあっとした笑顔。それが大好きだった。
でも今の彼女は、この街で研ぎ澄まされたナイフそのもの。
襟元に巻かれたフェイクファーが一瞬、棘の塊に見えて、小春の呼吸は止まった。
「返事」
「は…はい」
怯えている気配を悟り、彼女は足を止め小春を見詰める。
不安で上目遣いになっている小春の頬に、そっと手のひらを触れる。
そのまま静かに、あどけない唇まで指先を這わせた。口紅の軌跡をなぞって、ゆっくりと動く。
「別に怖いことをするわけじゃないから」
「はい…」
「忘れなければいいだけ。これから先、ずっと。わかったね」
「はい」
きちんとできた返事に満足したのか、彼女はにっこりと口元に弧を描くと、
回れ右してまた颯爽と歩き出す。小春も、慌ててその後をついていく。
金色のドレスに身を包む彼女は、実は物語の世界から飛び出してきたんじゃないか、
そう小春には思えた。それくらい、この汚れきった街には不釣り合いだった。
でも、それはまったく問題ではなかった。なぜなら、彼女の存在感に説得力があったから。
彼女がこうして歩いている、それだけで十分な理由になっていたから。
- 4 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:49 ID:NvRSVROM
- 注文したものは、驚くほど早く出てきた。私は野菜炒め定食、安倍さんは天ぷら定食。
こんな狭くて汚い店だからぜんぜん大したことないんだろうな、なんて思ってたけど、
値段のわりにはけっこう量がある。安倍さんの天ぷらも種類豊富で色彩豊かだ。
「さ、さ、早く食べよ?」
「あ、はい」
割り箸を手に取ると、2つに割って野菜炒めをつまんでみる。口に入れる。おいしい。
炒めるときにこの店特製のソースを使っているようで、さすがはプロの味、と感心させられる。
横を見ると安倍さんが天ぷらを頬張って「ぅんん〜」と声を震わせて唸っている。
目尻に皺をいっぱいに寄せる安倍さん独特の笑顔で、足をジタバタさせて喜んでいる。
私たちは無言のまま、今宵の晩餐を心ゆくまで楽しんだ。
「で、愛ちゃん。相談ってなんなの?」
だいぶペースが落ちてきたところで、安倍さんが聞いてきた。
そうだった、すっかり忘れてしまっていたが、今日はそのために安倍さんと食事をしているのだ。
「学校で課題が出てて…現役の安倍なつみせんせいにお手伝いしてほしいなーなんて」
「天ぷら定食、ごちそうさま。で、どんな課題?」
「絵本をつくるって課題なんですけど…もう全然思いつかないんですよ」
バッグの中から授業で配られたプリントを取り出す。安倍さんは食い入るように見て、言った。
「こういうのはね、子どもにとって身近なところから主人公をつくっちゃえばいいと思うよ」
安倍さんは私のアパートのお隣さんで、近くの保育園で保育士をしている。
ちょっとおっちょこちょいだけど、いろいろと世話を焼いてくれる親切なお姉さんだ。
高校を出て地方から上京したての私は、都会でいろいろと戸惑うことが多い。
そんなとき彼女のアドバイスどおりにすると、まあだいたい上手くいくのと失敗するのと五分五分という、
ビミョーに頼れる存在なのだ。 「――愛ちゃん、何か言った?」 …いえ、とっても頼りにしてます!
「そうだなあ…。ね、これはどう? 天ぷら帝国の女王様の話」
「ちょっと安倍さん、からかわないでくださいよ」
「からかってなんかないよ! なっち真剣だよ!」
私たち以外にもお客さんがいるのに、安倍さんはお構いなしで、自分の思いついた話を喋り出す。
「むかしむかし、あるところに、天ぷらたちの暮らしている国がありました……」
- 5 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:50 ID:NvRSVROM
- 白と、黄色と、ピンクの明かりの中を抜けると、人込みはいっそう激しくなる。
大学生の一団、背広姿のサラリーマントリオ、30代女性のグループ、あらゆる「ふつうのひと」がいる。
まだこの時間なら、この街も他の場所と同じで、数ある東京の繁華街のひとつに過ぎない。
やがて彼らが去っていった後で、ゆっくりと潮が満ちていくようにして、もうひとつの顔が現れるのだ。
小春はある種の懐かしさを感じながら、目の前に広がる光景を眺めていた。
そもそもこんな時間に外を出歩くこと自体、小春にとっては極めて珍しいことなのだ。
初めてこの街に来たとき以来かもしれない。気がつけばもうすっかり、深夜の生活に慣れていた。
環境だけでなく、自分という存在が知らず知らずのうちに大きく変化していたことにも戸惑っていた。
目の前にいる彼女を見る。西武新宿駅の前、信号が青になるのを待っている。
金色のドレスに身を包んだ彼女は異様に目立っている。並んで待つ人の視線を釘付けにしている。
でもそんなことお構いなしに、彼女はまっすぐに背筋を伸ばし、街の明かりを仰いでいる。
不思議な感覚だ。そんな彼女のことが誇らしいし、同時にとても遠い存在に感じる。
彼女のそばに立てることを嬉しく思うと同時に、また畏れ多くも感じる。
だからどうすることもできず、ただ突っ立っている。
ふと振り返るとマクドナルドのポスターが目に入った。人気モデルがえびフィレオを持って笑っている。
(――なんだか、作り物っぽい笑顔)
小春は無意識のうちにポスターの笑顔を、自分の記憶に刻み込まれた彼女の笑顔と比べていた。
彼女と比べてしまえば、この世のどんな物でも霞んでしまうように思えた。
それくらい、小春にとって彼女の存在は、他の何物にも代えがたい、大切な宝物だった。
「小春」
彼女の声に、はっと我に返る。
「青だよ。ボーッとしてないで」
「ごめんなさい…」
肩を落としたのを見て、彼女は小春の手を取る。そのまましっかりと握って、横断歩道を渡った。
「いい? これからは、みんなが小春と一緒にいたい、小春に元気づけてもらいたい、
そう思うようになるんだから。いちいち小さなことでくよくよしてたら、つとまんないよ」
「はい」
「よし!」
大きく頷くと、彼女は再び前を向いて歩き出した。
- 6 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:52 ID:NvRSVROM
- むかしむかし、あるところに、天ぷらたちのくらしている国がありました。
ごはんのじかんになると、ふんわりと白いゆげがあたりいちめんにただよってきて、
ごまのあぶらのいいにおいでいっぱいになります。
こんがりときつねいろにあがった天ぷらたちが、おしくらまんじゅうをしながらならんでいます。
どれもみんなおいしそう。ほくほくわらいながら、おきゃくさんがたべてくれるのをまっています。
天ぷらたちの国には、いろんな天ぷらたちがすんでいます。
いか、かぼちゃ、さつまいも、なす、きす、ししとう、あなご、かきあげ、しいたけ、ちくわ、ほたて、
ほかにもたくさんの天ぷらたちがあつまって、みんなでなかよく、たのしくすごしていました。
天ぷらたちの国には、女王さまがいました。えびの天ぷらです。
おきゃくさんたちにいちばん人気があったので、えびが女王さまにえらばれたのです。
えびはほかの天ぷらをいじめたり、いばったりするようなことはありませんでした。
だから天ぷらたちは、えびの女王さまのことが大すきでした。
えびの女王さまも、みんなのことが大すきでした。
きょうもおみせは大はんじょうです。
おきゃくさんたちがおいしくたべてくれるたび、天ぷらたちはうれしくなります。
えびの女王さまも大よろこびで、みんなでにこにこわらいながら、一日がおわります。
- 7 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:53 ID:NvRSVROM
- 「やっぱりね、事件が起こらないと話が始まらないよ」
「事件ですか」
「いちばん手っ取り早いのは、敵を出すことかな。敵が出てきて、主人公たちのジャマをするの」
「天ぷらの敵って……想像がつかないんですけど」
「ご飯やお味噌汁じゃ味方になっちゃうもんねえ。なんかいいのないかなー」
安倍さんも私もすっかり食べ終えてしまって、カウンターの上には湯気の立っているお茶があるだけ。
いろいろと天ぷらの敵になりそうなものを考えてはみるんだけど、いかんせん満腹で集中できない。
それでも安倍さんは真剣で、「お茶でもダメだなあ」なんて手元の湯呑茶碗を撫でながら呟く。
その仕草を見て、何故か懐かしい気持ちになった。
ずっと前、同じような光景をどこかで見たことがあるような気がする。
記憶の糸をたどっていく。包むように湯呑茶碗を持つ手。私の小さな手と、もうひとつ、しわしわの手。
熱いお茶が入った湯呑は、雪遊びで冷え切った手を温めるのに丁度良いのだ。
炬燵に入ってお茶を飲みながら、あれこれ昔話を聞くことが、私は大好きだった。
――ああ、そうだ。おばあちゃんだ。確か、田舎のおばあちゃんが言ってた。
「安倍さん、スイカなんてどうです?」
「スイカ?」
「ほら、天ぷらとスイカは食べ合わせが良くないから一緒に食べちゃダメって」
「あ、そういえばそうだったかも。なっち聞いたことある。天ぷらの油とスイカの水分が相性良くないって」
「じゃあスイカ軍団が天ぷらの国に攻めてきた……これで決まりですね」
「でもなんかさ、スイカって夏限定な感じがしない? 今の季節にはちょっと合わないかなあ」
「えー…じゃあどうしましょう…」
「スイカっぽい果物ってことで、メロンなんてどうかな?」
「メロンかあ。じゃ、それで考えてみましょうか」
とりあえずほっと一安心。
とはいっても設定が決まっただけで、本題である今後の展開についてはここからが肝心なのだ。
メロンだったらどういう攻撃になるんだろう、やっぱりコロコロ転がって体当たりなのかな、
それともジュースを噴き出してサクサクだった天ぷらの衣をシナシナにしちゃうのかな、
なんて私なりにいろいろ考えていたら、安倍さんが突然思いもかけないことを言い出した。
「なっちの実家で飼ってる犬の名前ね、メロンっていうんだ」
- 8 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:54 ID:NvRSVROM
- 彼女は靖国通りを西へと向かう。山手線の大ガードをくぐる。
ガードを抜けてすぐ左手の「思い出横丁」という看板を見て彼女はわずかに口元を緩めると、
赤信号で立ち止まる。やはりまた、毅然とした姿勢で待つ。その姿は衆目を集めてやまない。
「先輩、真希先輩」
小春の呼び掛けに、彼女は無表情のままで応えた。
「その、やっぱり、あの人たちのことですか?」
「メロン? メロンは関係ないよ。これはあたしの問題」
冷たく言い放ったように聞こえるが、それはいつものことで、彼女は本当に言葉通りに思っている。
よく誤解されるが、実際には単純に、彼女は自分を取り繕うのが下手なだけなのだ。
いつも素直で、いつも正直で、絶対に信念を曲げない。小春が最も尊敬しているところだ。
信号が青になって、彼女は歩き出す。
「でも、なんていうか、飼い犬に手を噛まれたっていうか…」
「あたしゃメロンを『飼ってた』なんてつもりはないよ。いいかげんなことは言わないほうがいいよ」
声が微かな怒気を帯びているのを悟り、小春はうつむいた。そして迂闊な発言をしたことを恥じた。
「メロンにもメロンなりに思うところがあったんだよ。たまたまタイミングが重なっただけ」
彼女は振り向きもせず、歩道橋の階段を上り始めた。
メロンというのは、彼女が今いる位置を虎視眈々と狙っていた4人組のことだ。
フルーツ盛り合わせを注文してはメロンばかり食べている、ということでそんなあだ名になった。
「まるであたしの引き立て役、バックダンサーみたいな扱いが嫌になったんでしょ。
そりゃそうだよ。人間誰って、主役になりたい。ヒロインになりたい。ナンバーワンになりたい」
そして力強く彼女は言った。
「メロンが何を考えたのか、何をしたのかなんてどうでもいい。
そんなこととは関係なく、小春、あんたは自分のやるべきことをやればいいんだ」
「…先輩、すみませんでした」
「あたしに謝ってもしょうがないよ。いい? 自分が不利にならないように振舞うこと。
そうすれば、周りに対してどう接すればいいのかがわかる」
歩道橋の上から眺める新宿西口の街並みは、東口に比べると圧倒的に暗い。
人の気配は比べ物にならないほど少なく、街灯の明かりがぽつりぽつりと等間隔で点いている。
汚れを落とす暇すら無い東口とは対照的に、無機的な清潔感が辺り全体に漂っていた。
- 9 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:55 ID:NvRSVROM
- ところがある日、おもいもかけないことがおこりました。
天ぷらたちのすんでいる国に、メロンのへいたいたちがせめこんできたのです。
天ぷらのみんなは大あわて。
いちもくさんににげだす天ぷらもいれば、がんばってたたかう天ぷらもいます。
でも、メロンのへいたいたちにはかないません。
ごろごろころがってつきとばしたり、ジュースをとばしてびしょびしょにしたり、
あっというまに天ぷらたちをやっつけてしまいました。
メロンのへいたいたちは、えびの女王さまをつかまえようとしています。
つかまってしまったら、たいへんなことになってしまいます。
「女王さま、早くおにげください!」
メロンのへいたいは、もうすぐそこまできています。
のこった天ぷらたちは、いそいで女王さまをにがそうとしました。
「まって! わたしひとりにげるわけにはいきません」
「いいから、早く!」
メロンのへいたいがどんどんせまってきます。
女王さまはやっとのおもいで、かきあげの天ぷらの中から小さな子どものえびを一ぴき、
手をひいてたすけてあげると、いのちからがら天ぷらの国からにげだしました。
- 10 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:56 ID:NvRSVROM
- お店を出ると、腹ごなしにちょっと散歩しようよ、と安倍さんが言う。
まだ全然遅い時間じゃないし、このまま帰るのもつまらないので、その提案に乗ることにした。
「あーあ、メロンの話をしたらふるさとが懐かしくなっちゃったよー」
小田急や京王といった大きな百貨店を左手に眺めながら、私たちはぶらぶら歩く。
「ふるさとっていえば、愛ちゃんもどっか寒いとこだったよね」
「福井です」
「そうなんだ。全然訛りが抜けないね」
――よりによって安倍さんに言われた。
「安倍さんこそ、訛ってるじゃないですか」
「なっちが訛ってるのは、道産子の誇りだべさ」
「その『だべさ』ってなんですか、『だべさ』って。イナカモン丸出しですよ、それ」
「愛ちゃんこそ、イントネーションおかしいよ。言葉じたいは標準語でも、しゃべり方が変だもん」
そんなことを言いながらじゃれ合っていたら、急に明るい場所に出た。
原色で埋め尽くされて眩しいヨドバシカメラの向かい側には、高速バスのターミナルがあった。
停車しているバスの奥で、大きな荷物を持った人たちが並んでいるのが見える。
連休が終わったとはいえ、まだまだ東京と地方を行き来する人は多いようだ。
「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」
耳元をふわりと風が通り抜けた。と思ったら、安倍さんが、静かな声でつぶやいたのだった。
「なんです、それ?」
「石川啄木が詠んだ歌。田舎から上京してきた啄木が、ふるさとを懐かしんで詠んだ短歌だよ」
「はぁー…」
それまで一緒にふざけていたはずの安倍さんは、いつの間にか真面目な顔つきになっていた。
その変わりようにびっくりしてしまい、思わず言葉が漏れてしまった。
「安倍さんって、実は物知りだったんですね」
「『実は』ってなにさ、ひどいなあ愛ちゃん」
苦笑しながら安倍さんは、「昔の知り合いにこの歌が好きだった人がいたのさ」と教えてくれた。
それから安倍さんは、さらに新宿駅から離れる方向へと歩いて行った。
周囲がどんどん暗くなっていくかわりに、頭上では高層ビルの窓たちが規則正しく光り出す。
「どこへ行くんですか?」
不安にかられて尋ねると、安倍さんはボストンバッグを違うほうの肩にさげ替えて言った。
「イナカモンはイナカモンらしく、東京の名所を見物しようよ」
そして、どんどん先へと進んで行った。
- 11 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:58 ID:NvRSVROM
- 西新宿の高層ビル群を歩いていると、まさにコンクリート・ジャングルという言葉を実感する。
無数の窓から漏れる光の向こうにはひとつひとつ天井が見えて、まるで無限の迷路の底にいるようだ。
小春は、東口にいたときと比べて自分の体が小さくなってしまったような気分になる。
「この辺は昔、大きな浄水場だったんだよ。淀橋浄水場って名前だったんだ」
先を歩いていた彼女が振り返った。
「大きな道路を引いてね、11の区画に分けて売り出した。それで今、高層ビルが並んでる。
でも売れ残っちゃった区画が3つあって、そこにほら、あそこに見える都庁を建てたってわけ」
「物知りですね、真希先輩」
「受け売りだよ。いろんな人の話を聞いてるうちに、覚えちゃっただけ」
そう答えると、大きくひとつ息を吐いた。
「小春」
「はい」
「これからは、日経新聞を毎日チェックすることくらいが自慢のオジサンやおじいちゃんたちと、
うまく話を合わせていかなきゃならないんだよ。きちんと勉強しとかないと通用しないよ」
声音は柔らかいが、その奥には彼女が今まで研いできた鋭さが隠れている。
自分のことを案じてくれているのが痛いほどわかって、小春はそれが嬉しくて辛かった。
「わかり…ました」
「うん」
彼女はうつむき加減になって、でもすぐに背筋を伸ばすと、正面に小春を見据える。
「これからは、自分独りしか頼れなくなるんだから。いいね」
「……」
「返事」
「……はい」
ビルの群れから弱々しく地面に届く明かりを反射して、金色のドレスは蛍のように淡く光っている。
彼女の体が小さく見えた。急に彼女がしぼんでしまったように小春には感じられた。
新宿駅の西側に来てから、羽根が一枚一枚抜けていくように、彼女の体から何かが失われている。
それまで形を保っていたものが、風に吹かれてさらさらと脆く崩れていくような印象を受ける。
“終わり”
口に出されることのないその言葉を、これほど強く実感していることは初めてだ。
「こっち。慣れないと迷っちゃうんだよね」
小春の心の中を察してか、彼女はわざとおどけた調子で言ってみせる。
「展望室へ行くには1階から入らないと不便なんだよね。ホント立体迷路だよ、こりゃ」
でもそういう気の回し方が、事態がもう決定的なところまできていることを証明している。
優しさが、たまらなく悲しい。
- 12 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:58 ID:NvRSVROM
- にげだしたえびの女王さまは、とほうにくれてしまいました。
いままでいっしょだった天ぷらのなかまたちと、はなればなれになってしまったのです。
メロンのへいたいにせめこまれて、みんなはぶじなのか、どこにいってしまったのか、
まったくわからなくなってしまったのです。
そのとき、女王さまの手をだれかがひっぱりました。
あわてていっしょににげてきた、かきあげの小えびでした。
小えびはふあんそうに女王さまのことを見ています。
そうだ、ここでくよくよしていても、しょうがないんだ。
またみんなとなかよくくらすんだ、そのためにがんばらないといけないんだ。
女王さまはそっとうなずくと、小えびにむかっていいました。
「小えび、にしのほうにはまほうつかいのすんでいるおしろがあるっていうよ。
そのまほうつかいにたのんで、天ぷらのなかまをみんなあつめてもらおう」
それをきいて、小えびはにっこりわらってうなずきました。
これからは、ふたりきりのたびがつづきます。
小えびがあんしんしていられるように、わたしがまもってあげないといけないんだ、
女王さまはそう、かたくけっしんしました。
小えびのちっちゃな手をひいて、女王さまはにしへとあるきだしました。
- 13 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 22:59 ID:NvRSVROM
- 安倍さんが私を連れてきたのは、東京都庁だった。
こんな時間に役所なんかに来てどうすんだろ、と思ったけど、エレベーターに並ぶ列を見て納得した。
地上45階の展望室は夜11時まで開いていて、東京の夜景を楽しめるようになっているのだ。
安倍さんの言ってた「東京の名所」とは、ここのことだったのだ。
耳がツーンとなっているのを唾を飲み込んで直すと、扉が開く。
抑えめの照明の下、吸い寄せられるようにガラス窓まで歩き、そのまま外の景色を覗き込む。
コンクリートと鉄とアスファルトが闇をつくり、その隙間で淡いクリーム色が無数の光点をつくっている。
注意を促して点滅する光のほかは、静かな熾火のように息を潜めて熱を湛えている光しかない。
「きれいだね」
横に立つ安倍さんが言った。私は頷くと、闇と溶け合っている地平線の先を追った。
足元から四方に広がる地面は緩やかに反り返っていて、巨大なすり鉢の底にいる気がした。
東京――。
ここから見渡せる範囲よりも、東京はずっと大きく広がっている。
この東京というすり鉢は、とてつもなくでっかくて、私たちみたいなイナカモンを中心へと引き寄せる。
私は福井から、安倍さんは北海道から、転がるままに東京に来た。今もそのまま暮らしている。
そんな人たちがひとりひとり、毎日穏やかな熾火を灯している。
「あっちの方角が、なっちたちの家だよ」
安倍さんは私の手を引いて、別のガラス窓の前まで歩いていくと、指を差した。
やはり同じように、数え切れない熾火が地面のあちこちに咲いていた。
上京してからずっと、田舎に生まれたことを悔やみ、それを忘れるように過ごしていた。
田舎は、つねに「囲まれている」。山に囲まれ、海に囲まれ、逃げる場所などないように思えた。
対照的に東京はどこまで行っても東京で、それがどれだけ私に解放感を与えてくれただろう。
でも、こうして夜景と向かい合ってみると、東京も私を取り囲んでいることに気がついた。
しかも、どっちを向いても東京は東京のままで、後ろの正面もまた東京なのだ。
「愛ちゃん、どうかした?」
「なンでもないですよ」
私の返事には訛りが混じっている。
訛りは嘘臭く響いたし、またそれと同じだけ真実味も帯びていた。どっちを信じようと私の自由だった。
「なっちたちの家さ、きっとあの辺だよ」
――安倍さんの訛りで、答えを思い出した。
- 14 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:00 ID:NvRSVROM
- それを目にした者たちは、みな息を呑んだ。
エレベーターの扉が開くと、まばゆいばかりの金色のドレスに身を包んだ女性が現れたからだ。
この地上45階の展望室は外の景色が主役であり、来訪者が主役なのではない。
しかし、そんな道理を引っ込めさせてしまうほどに、彼女の存在感は際立っている。
ピンと背筋を伸ばしてゆったりと歩き出した彼女の背中を、誰もが溜息をついて眺めていた。
「小春、こっちだよ」
そう声を掛けて、彼女はさっき歩いてきた方角のガラス窓の前で立ち止まった。
「東口……見えないね」
彼女が呟いたとおり、視界は高層ビルに塞がれていて、ふたりの普段いる街は見えない。
わざと歓楽街を隠している、なんて勘繰りができそうな事実が、小春には少し悔しかった。
「このまままっすぐ東に行くとね、あたしが生まれた街。たぶんこっからでも見えないけど」
彼女は軽い口調で言った。
小春は上京して1年になる。東京にも慣れて度胸もついてきたのだが、
それはひとえに彼女の存在があったからだ。彼女がいなければ、今の自分はない。
初めて彼女を目にしたときのことは、今も鮮明に覚えている。
“きれい”――そんな言葉を完璧に体現している人間がこの世にいるのを知り、愕然とした。
でも慣れてくると、顔つきも、喋り方も、立ち居振舞いも、すべてリラックスした態度そのもの。
緊張感を微塵も感じさせないその姿に、いつしか油断をしていた。甘く見ていた。
それから小春は彼女に付いて身のまわりの世話を命じられ、半ば弟子のような立場となる。
彼女の隠された努力を目の当たりにして、自分と比較しては眩暈を覚えている、そんな毎日。
そして。
「こうやって東京を独り占めするみたいな気分でいられるのも、今日でおしまい」
彼女は彼女でなくなり、ただの「後藤真希」に戻る。
東京の女王は、今夜をもってこの街から消える。
彼女は小春の手をぎゅっと握る。
「覚えておいて、あたしがいたことを。そして、あなたも誇りを持って生きて。いいね?」
小春たちは、世間に対してどこか後ろめたさを感じながら暮らしている。
でも、だからって卑屈になることはないんだ――それが女王からのメッセージ。
やがて慣れ親しんだ庭を背にすると、彼女はエレベーターへと戻っていく。
その手前で立っている女の人を見つけると、白い歯を見せてひらひらと手を振った。
- 15 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:01 ID:NvRSVROM
- よるになって、あたりはすっかりくらくなってしまいました。
それでも、えびの女王さまと小えびはあるきつづけました。
どんどんひとけがなくなって、まわりにはたかい山がそびえています。
みちにまよってしまいそうになりながら、ふたりはあるいていきました。
やがて、にしのまほうつかいのおしろにたどりつきました。
それはとってもたかいたてものでした。まわりの山よりも、もっとたかいのです。
ふたりは、おそるおそる中へと入りました。
すると、ふわりとゆかがうきあがって、あっというまにおしろのてっぺんにつきました。
そとには、いままであるいてきたみちや、のはらや、森が、小さく見えます。
そのむこうには、女王さまと小えびがにげてきたまちもありました。
「よくきたね。ずっとまっていたんだよ」
こえのしたほうをふりむくと、わかい女のまほうつかいが立っていました。
まほうつかいはふたりがくることをしっていたようで、ゆっくりと手まねきをしました。
「わたしたちはメロンのへいたいからにげてきました。
なかまたちとはなればなれで、この小えびとふたりになってしまったのです。
どうか、まえとおなじように、みんなでなかよくくらせるようにたすけてください」
それをきいて、まほうつかいはいいました。
「そのねがい、かなえてやってもいいよ。
でもそのかわり、おまえのたいせつなものを一つもらおう」
たいせつなもの。女王さまと小えびはかんがえました。
でもこたえは出てきません。だってふたりはなにももっていないのですから。
すべてをうしなって、ここにやってきたのですから。
そのとき、小えびは気づいてしまいました。じぶんにはたいせつなものが一つだけあることに。
そして女王さまも気がつきました。じぶんにはたいせつなものが一つだけあることに。
- 16 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:02 ID:NvRSVROM
- 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだ。
まず、都庁の展望室に全身金色のド派手なドレスを着た女の人がいたこと。
次に、その女の人がとんでもなく美人だったこと。いや、美人というよりかわいい…でもやっぱり美人。
そして何より、安倍さんがその美人さんと親友で、久し振りの再会を果たしたということ。
すべてが私の想像を遥かに超えた出来事で、何が起きているのかしばらく理解ができなかった。
後藤さんというその美人さんは、一見、この世界の現実から遠く離れた手の届かない場所にいる人
――そんな印象を残すんだけど、こうして安倍さんと話している彼女の姿からは、
外見とは正反対の甘えん坊な面が見えて、なんとも不思議な気分になる。
凛々しくたたずんでいるときと柔和な笑い顔とでこれだけ差のある人って、なかなかいない。
「話、済んだ?」
「うん。終わったよ、ぜんぶ」
「そっか」
安倍さんがふっと息を吐いて後藤さんを見詰める。後藤さんも笑みを浮かべて見詰め返す。
ふたりはどれくらいそうしていただろう。
「それじゃ、行こっか」
いかにも重い口を開きました、という感じで安倍さんが切り出した。後藤さんは無言で頷いた。
安倍さんと私と後藤さんとそれからもうひとり、後藤さんについてきた「小春」って名前の子と、
4人でエレベーターに乗り込んだ。上ってきたときと同じように耳がツーンとなる。
でもそれ以上に、中には重苦しい空気が充満していて、それで耳が痛くなったように思えた。
1階に戻ってくると、安倍さんは肩からさげていたボストンバッグを後藤さんに手渡した。
受け取った後藤さんはまっすぐトイレに歩いて行った。残された小春ちゃんに安倍さんが話し掛ける。
「大丈夫。今は別れても、きっとまた会えるよ。…また会える」
後藤さんと小春ちゃんの間にどんな信頼関係があったのか私は知らない。
でも、安倍さんにはまるでそれがわかっているようだった。
「お待たせ」
声のした方を見ると、そこには普段着に着替えた後藤さんが立っていた。
まるで一瞬にして魔法が解けたように、彼女はごくふつうの女の子に変わってしまっていた。
その手にはさっきまで身に着けていた金色のドレスがあった。ふわふわのファーがちょこんと乗っていて、
見ているうちになんとなく、安倍さんの食べていた天ぷらの衣を思い出してしまった。
- 17 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:03 ID:NvRSVROM
- えびの女王さまと小えびは、おたがいのかおを見あわせました。
ふたりのたいせつなものは、ふたりとも、いま見ているあいてのことでした。
なにもいえずにだまっていると、まほうつかいがいいました。
「わたしはずっとここでひとりぼっちだったんだ。すごくさみしかったんだ。
だから、ふたりのうちどちらかが、ここにのこってくれないか。
そうすれば、ねがいをかなえてあげよう」
すると、すぐに女王さまはこたえました。
「わかりました。わたしがここにのこります。
だから、小えびがぶじにかえって天ぷらのなかまにあえるようにしてください」
小えびはおどろきました。
女王さまは小えびを見ると、やさしくいいました。
「だいじょうぶ。わたしはまほうつかいといっしょに、ここであなたをまもってあげる。
だから小えび、あなたはひとりでもどって、もういちどなかまを見つけるんだよ」
小えびはいやいや、とくびをふりますが、女王さまはいいました。
「あなたをまもってあげることが、いまのわたしのやくめなの。
さあ、まほうつかい、ねがいをかなえてください」
「いいでしょう。それじゃ、いくよ」
まほうつかいは女王さまにまほうをかけました。
あたりがまっ白なひかりにつつまれて、小えびはおもわず目をとじました。
そして、なみだでにじんだ目をひらいたとき。
もうそこには、女王さまはいませんでした。
- 18 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:03 ID:NvRSVROM
- 私たち4人は、揃って都庁を出るとそのまま新宿駅西口につながる地下通路を歩いて行った。
通路の脇にある店たちは営業を終えてしまっていて、鉄格子のようなシャッターを閉めていた。
薄暗く殺風景な場所を歩いているせいか、どうにも私たちは間がもたない。
4人ともどんな話を切り出せばいいのか全然見当がつかず黙っている、そんな感じだった。
西口地下広場に出た。私みたいに東京に慣れていない人間には難易度の高い場所だ。
自分の今いる場所が地上のどこに対応しているのか、来るたびにわからなくなる。
安倍さんが先導して階段を上りはじめた。後藤さん、小春ちゃん、私の順でそれに続いた。
地上に出ると、小田急百貨店前だった。さっきここに来たときと同じように、線路沿いの路地に入る。
すると「思い出横丁」の看板が見えた。焼き鳥を焼く煙は、あれからちっとも衰えていない。
「ごっちん、覚えてる?」
「覚えてるよ、なっち」
ふたりは懐かしそうに店の密集している路地を見ている。よくここに食べに来たんだろうか。
安倍さんは私を見て言った。
「ぜんぜん女の子向きの場所じゃないんだけどね、こういう懐かしい感じ、なっち割と好きなんだ」
「昔はけっこうここに、なっちと一緒に来たね。ふふ、ぜんぜん変わってないなあ」
後藤さんの言葉に、ふと疑問が浮かぶ。
「安倍さん、今のところに引っ越す前はこの辺にいたんですか?」
「まあね」
それだけ言うと安倍さんは、狭くて天井の低い小さな通路へと入っていった。私たちも後を追う。
トンネルを抜けると、そこはアルタ前だった。
たくさんの人が行き来するさまは、まさに川のよう。流れの速さに、思わず足がすくんでしまう。
人々の喋り声、ざわめきが辺り一帯を覆い尽くしていて、あらためて東京というものを実感する。
「それじゃ、ここでお別れだね」
その声だけは、はっきりと私の耳にも刺さった。
見ると、後藤さんの言葉を聞いて、小春ちゃんが今にも泣きそうに目を潤ませていた。
「もうあたしはここからそっちには行けない。靖国通りからそっちは、もうあたしの居場所じゃないんだ」
靖国通りの北側には、日本でも最大の歓楽街がある。
それはつまり、後藤さんが金色のドレスのおねえさんを辞めて、ただの「後藤真希」に戻るということ。
魔法の解けてしまった女王は、もう城へ戻れない。
- 19 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:04 ID:NvRSVROM
- 大すきだったえびの女王さまがいなくなってしまって、小えびはなきだしました。
そのとき、小えびのあたまのおくから、こえがきこえました。
「小えび、なくのをやめて。ないてもわたしがもどってくるわけじゃないよ。
それよりも、天ぷらのなかまを見つけてまえとおなじようにくらさなきゃ」
おどろいていると、まほうつかいがいいました。
「そうだよ。ないてたっていいことなんて一つもない。
さあ、なみだをふいて、たびに出るんだ」
「でも、いままで女王さまがいてくれたからがんばれたけど、
わたしひとりじゃもうなんにもできないわ。じしんがないの」
小えびはしゃがみこんだまま、うつむいてくびをふります。
するとまほうつかいは、力づよいこえで、げんきづけるようにいいました。
「じしんがなくても、いますぐなかまをさがしに出かけなきゃいけないよ。
そうしないと、女王さまがかなしむだろう。おまえが女王さまのかわりになるんだ」
小えびは天ぷらの国でのまいにちをおもいだしました。
ここでずっとないていたって、あのころのたのしさがもどってくるわけではありません。
小えびはおそるおそる立ちあがると、まっすぐにまえを見つめました。
「小えび、やくそくするよ。おまえが天ぷらのなかまたちといっしょにがんばって、
まえとおなじようにくらすことができるようになったら、かならず、おまえにあいにいくよ」
女王さまのこえがもういちどきこえました。
小えびはうなずいてみせると、ゆっくりとあるきだしました。
「ねがいどおり、わたしはここでおまえをみまもっていてあげよう。
さあ、あんしんして、なかまをさがしにいきなさい」
小えびはまほうつかいにおじぎをすると、おしろのそとへと出ました。
- 20 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:05 ID:NvRSVROM
- 「はい、これ」
後藤さんは手にしていた金色のドレスを差し出した。
小春ちゃんは恐る恐るそれを受け取り、胸元に寄せた。
「今日のこと、絶対に忘れません。先輩、いつかきっと、また――」
「うん」
後藤さんは右手の小指を差し出した。小春ちゃんは頷くと、自分の小指を絡ませる。
一度、二度。繋いだ小指が揺れて、宙にふわりと静止した。喧噪が消え、世界は無音になった。
やがて月食が終わるように、ふたつの手は離れる。
小春ちゃんは後藤さんと私たちにそれぞれお辞儀をして、歓楽街へと歩き出した。
力強い足取り、ピンと伸ばした背筋。その後姿は堂々としていて、とてもカッコ良かった。
そう、カッコ良かった。
人込みに消えるまで、私たちはずっと、彼女を目で追い続けた。
それから、黙ったまま新宿駅へと下りて、切符を買って電車に乗った。
後藤さんにはもう、帰る場所がない。案の定、面倒見の良い安倍さんの部屋に泊まることになった。
ホームで電車を待っている間も、私たちは無言だった。
山手線から別の路線に乗り換えると、乗客もだいぶ少なくなって、私たちは3人並んで座った。
揺られているうちに後藤さんはうつらうつらし始めて、すぐに安倍さんに寄り掛かって眠ってしまった。
「なっちはね、ごっちんの先輩だったんだ」
安倍さんがそっと言った。
「4年前、今日のごっちんがしたみたいに、なっちもあの街と、後輩のごっちんと別れたんだ」
意外な告白だったけど、私は自然に受け入れることができた。
安倍さんの肩に頬っぺたをこすりつけて眠る後藤さんの寝顔を見ていると、すべて理解できた。
頭上の網棚では、まるでじっと耳を傾けているように、年季の入ったボストンバッグが横たわっている。
「いろんな人と出会ったし、いろんな人と別れた。本当に目まぐるしい毎日だったな」
ガタン、ゴトンと電車が揺れるたび、明かりが行き過ぎる。
絶え間ないその運動に、安倍さんはかつての日々を重ねて見ているのかもしれない。
「ねえ、愛ちゃん。懐かしい出会いが新しくなって帰ってくるのって、すごく素敵なことじゃない?」
「そうですね」
後藤さんの寝顔を見ながら、私は心の底からそう答えた。
「なっちはね、上京して辛い思いをいろいろしたけど、でもこういう素敵な出会いがあると、
本当に幸せな気持ちになれるんだ。そしてまたがんばろうって思えるんだ」
- 21 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:06 ID:NvRSVROM
- おしろを出ると、山のふもとにははたけがひろがっていました。
小えびがあるいていくと、じぶんをよぶこえがしました。
見てみると、はたけの中に大きなさつまいもがころがっていました。
「小えびさん、かわいいふくをきているね。ぼくもそのふく、きてみたいなあ」
さつまいもはどろだらけのかっこうをしていました。
天ぷらのころもがついている小えびのことを、うらやましそうに見ています。
「いいよ。わたしについてきたら、きっとおしゃれにしてあげる」
そうして、さつまいもが小えびのなかまになりました。
ほかにもかぼちゃ、れんこん、いんげんといったやさいたちが、小えびのなかまになりました。
みんなでたびをつづけていると、うみが見えてきました。小えびのふるさとです。
なつかしくおもっていると、おきのほうからこえがしました。
「あれ、えびが山のたべものといっしょにあるいているよ。ねえ、いったいどうしたの」
小えびにそうたずねたのは、ししゃもでした。
えびはうみのなかまなのに、山のたべものとなかよくしているのがふしぎだったのです。
「わたしたちは、これから天ぷらになりにいくの。よかったらあなたもいっしょにきてよ」
小えびたちがたのしそうだったので、ししゃももいっしょにたびをすることにきめました。
「ねえ、わたしたちもつれていってください」
小えびよりももっと小さなえびたちが、たくさんあつまってきました。
小えびはじぶんがかきあげの天ぷらになったときのことをおもいだしました。
「いいよ。それじゃ、みんなでまちにいこう」
気がつけば、なかまはいっぱいにふえていました。
みんなでわいわいおしゃべりしながら、天ぷらになるために、まちをめざしました。
- 22 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:06 ID:NvRSVROM
- 次の日お昼過ぎになって、お隣から人の出てくる気配がして、すぐに私の部屋のドアがノックされた。
安倍さんは仕事に出かけているはずなので、残る可能性はひとつしかない。
昨晩のことを思い出して、立ち上がるとちょっと緊張気味に返事をする。
開けてみると、そこにはすっかりカジュアルな服装に身を包んだ後藤さんが立っていた。
「昨日はどーも」
彼女ははにかんだ笑みを浮かべて、それがもう吸い寄せられそうになるくらいかわいかったもんだから、
「あ、どうぞ。上がってください」
なんて言葉が口から出ていた。彼女はふにゃあっ、て柔らかく大きく笑うと、
「おじゃましまーす」と言ってサンダルを脱いだ。
やっぱり最初はお互いのことを探り合う感じになった。
でも後藤さんは人と接するプロだっただけあって、話を引き出すのがとても上手だった。
私は都庁での彼女の印象、地元のこと、東京での安倍さんとの暮らし、
それらのことを洗いざらい喋った。後藤さんはその間、ずっとにこにこしながら耳を傾けてくれていた。
喋りながら、ふと思った。私はこうして誰かに話を聞いて欲しかったんだって。
一緒に時間を過ごす相手がいることで、霧が晴れるようにして不安が消えていく。
そういう人を見つけられるかどうかってことが、実は一番大切なことなんじゃないかって。
偶然、安倍さんがもたらしてくれた出会いが、かけがえのないものへと変わっていく。
目の前にいる彼女が頷いてくれるたび、私の心は躍り出す。
後藤さんとはすっかり打ち解けて、今晩安倍さんも入れて3人でパーティをする約束をした。
「ごとー、こう見えても料理は得意なんだよ? つくってあげるからさ、なんかリクエストある?」
「はぁ」
食べたいものをいろいろ考えてみる。
オムライスとかソースカツ丼とか思い浮かんだけど、どれもパーティ向きじゃない。
そもそも「ソースカツ丼」と言ったところで理解してもらえるのかわからない。
地元では当たり前のメニューでも、こっちにはどこにも置いてない。
というか、もう結論は出ていた。私の頭の中では、実は最初から答えは決まっていた。
安倍さんは「なっちこれ昨日も食べたよー」なんて文句を言いそうだけど、でも人が好いから、
結局笑いながらおいしく食べちゃうんだろうなって思う。
「――後藤さん、私、天ぷらが食べたい」
- 23 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:07 ID:NvRSVROM
- 小えびたちはまちにつくと、すぐにさくせんをねりました。
メロンのへいたいたちをやっつけて、天ぷらの国をとりもどさなくてはなりません。
ようすをうかがうと、メロンたちはゆだんして、のんびりねころがっています。
小えびがなかまをつれてもどってくるなんて、ちっともかんがえていないようです。
「ようし、それじゃ、いくよ」
小えびのかけごえをあいずに、山のたべものもうみのたべものも力をあわせて、
メロンを1こ、おもいっきりおしました。
おされたメロンはびっくりして、いきおいよくころがりはじめます。
「あれ、あれ、あれあれあれ……」
いちどころがりだすと、メロンはとまれません。
べつのメロンにあたって、いっしょにころがって、
またべつのメロンにあたって、いっしょにころがって、
またまたべつのメロンにあたって、いっしょにころがって、
それをくりかえして、メロンのへいたいたちはみんな天ぷらの国からとびだしていきました。
「やった、やったよ」
メロンのへいたいがいなくなって、つかまっていたなかまたちももどってきました。
いか、かぼちゃ、さつまいも、なす、きす、ししとう、あなご、しいたけ、ちくわ、ほたて、
なつかしいなかまたちが、小えびのもとにあつまってきました。
「さあ、もういちど天ぷらの国をつくりなおそう。みんなでおいしい天ぷらになろう」
小えびがいうと、みんなよろこんでうなずきました。
まえみたいにたのしいまいにちが、きょうからはじまるのです。
- 24 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:08 ID:NvRSVROM
- テーブルの上には画用紙が広がっている。来週の授業までに、課題の絵本をつくらないといけない。
構想はもう固まっていて、ラストシーンまで思いついているんだけど、なかなか書き出せないでいる。
書いちゃったら勿体無いように思えるのだ。書き始めたら、あとは終わりに向かって突き進むだけ。
そうしてゴールにたどり着いた後、現実に戻ったとき、きっと淋しい感じがするだろう。
その感じから離れたくって、二の足を踏んでいる。
それに後藤さんや安倍さんといると、無限にお話の続きが出てきそうな気もするのだ。
彼女たちといると、お話がどんどん広がっていきそうで、今の状態で書いてしまうのが惜しく思える。
とにかく、すごくわくわくしている。わくわくしている気持ちが強くって、書き出せない。
キッチンでは後藤さんが天ぷらを揚げる準備を始めている。
換気扇の回る音が聞こえ出すと、やがてゆっくり、ごま油の香りがこっちの部屋にも漂ってくる。
さっき後藤さんと話しているうちに、私の心の中にひとつの確信が生まれていた。
東京は、私に新しい出会いを与えてくれる。
田舎にはありえない、いろんな形の出会いを、私に経験させてくれる。
都庁の展望室で安倍さんの訛りを聞いたとき、わかった。
炬燵でお茶を飲んでいた私も、いま画用紙に向かっている私も、どっちも本当の私。
福井にいた私も、東京にいる私も、どっちも本当の私。
私は私らしくしていればいいんだ。そうして、他の誰かの新しい出会いになれればいい。
後藤さんの歌声がキッチンから聞こえてくる。
「にゃにゃにゃごまあぶら〜 ごまごまいぇい」
昨日までならこの無邪気な歌を聴くなんてことは、絶対にありえなかった。
でも今、私がこの部屋でこの歌を聴いていることが、とても幸せなことに思えてくる。
それだけ私は前に進んでいるんだ、そう考えることができるから。
昨日よりも素敵な今日を過ごしているんだ、そう実感ができるから。
ジュウッ、パチパチパチパチカラカラカラ……。
天ぷらを揚げる音が後藤さんの歌に重なる。ごま油の香りがいっそう強く届いてくる。
そろそろ安倍さんが帰ってくる時間だ。
私は目を閉じて、この部屋に入ってくる安倍さんの笑顔を想像する。
そして3人で「いただきます」と声を揃える光景を想像する。
もうすぐそれは、現実になる。
- 25 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:09 ID:NvRSVROM
- じゅうっ、ぱちぱちぱちぱちからからから……。
ころもをつけて、みんないきおいよくあぶらの中にとびこみます。
こうばしいかおりがひろがって、ころもがすっかりきつねいろになると、
おいしい天ぷらのできあがりです。
小えびもころもをつけて、あぶらの中にとびこみました。
そしてきれいなえびの天ぷらになったとき、たまねぎの天ぷらがいいました。
「きみがいなかったら、ぼくたちはおいしい天ぷらになれなかったよ。
この天ぷらの国の、あたらしい女王さまになってくれないかい」
すると、まわりにいたほかの天ぷらたちも、さんせい、さんせい、とこえをあげます。
そしてみんなにこにこしながら、じっとへんじをまっています。
もうそこには、いままでの小えびのすがたはありませんでした。
あたらしい女王さまにふさわしい、とてもうつくしくりっぱなえびの天ぷらがいるのです。
「わかりました。みなさん、これからもよろしくおねがいします」
ぺこりとあたまを下げると、みんなが大きなこえでばんざい、ばんざいとさけびました。
こうして、あたらしい天ぷらの国に、あたらしい女王さまがたんじょうしたのです。
それからは、まえとおなじようにたのしいまいにちがつづきました。
あたらしい女王さまとなかまの天ぷらたちは、力をあわせて、
いまよりもっとおいしい天ぷらになれるようにとがんばりました。
おかげでおみせはいつも大はんじょう。たべにくるおきゃくさんも、たべてもらう天ぷらたちも、
みんながしあわせな気もちでいっぱいになって、一日がおわります。
でも、女王さまはひとりになると、そっとにしのほうをながめます。
そうして、はなればなれになってしまった、まえの女王さまのことをおもいだすのです。
「いつかきっと、またあえるよね」
あたらしいえびの女王さまは、にぎやかなまちのまん中で、いまもそうしんじています。
ふたたびあえる日がくるようにと、そっと目をとじ、ねがっているのです。
- 26 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:09 ID:NvRSVROM
-
「――ただいま。」
天ぷら帝国――東京の女王 −終−
- 27 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:10 ID:NvRSVROM
- ごち
- 28 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:10 ID:NvRSVROM
- そう
- 29 名前:15 投稿日:2006/05/04(木) 23:10 ID:NvRSVROM
- さま。
- 30 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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