I氏の肖像
- 1 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:46
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I氏の肖像
- 2 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:47
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ファインダー越しにひとみの目が捉えるのはいつでもひとつの笑顔だけだ。
庭先の白いベンチに腰掛けて、ひとみはカメラの手入れをする。
ブロアーで埃を飛ばし、細部まで丁寧に拭うことの繰り返し。
仕舞いに何度かから写しをして各部を作動させる。
物心ついた時には既にカメラと共にあったひとみにとって、
いずれも長年親しみ慣れた作業だ。
カメラはこうしてたまに遊ばせないとすぐにストレスを溜めて調子を悪くしてしまう。
長く使っていない時はしかりだ。
しかし、ほんの少し手を掛けるだけで損ねた機嫌はすぐに直ってしまう。
素直な愛すべき機会なのだ。
「これによく似た人を知ってるよ」
すぐそばの窓辺に向けて笑い掛けると、
白いカーテンが揺れてひとみの一番好きな笑顔が覗いた。
「お茶にしようか、梨華ちゃん」
- 3 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:48
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ダージリン・スタインタールのアールグレイに、
ウェッジウッドのワイルドストロベリー。
むやみに少女趣味の梨華が揃えたお気に入りの組み合わせだ。
ピンクのコスモスを植えたテラスに茶器を運び、梨華の好きな甘いお菓子を添える。
正直、初めてこれを目の当たりにしたひとみは
戸惑いを隠せず、非常に嫌な汗をかいたが、
梨華がにこにこと嬉しそうにしているのを見ると
何も言えなくなり、大人しく座ってお茶を飲んだ。
そんなことも一緒に暮らすうち慣れてきてしまうものだ。
今ではひとみもさほど疑問を持たずに梨華の様式を受け入れている。
こうして梨華と過ごす時間が何より幸せだからだ。
梨華が紅茶に凝りだしてからはしばらくコーヒーを飲んでいないな、とひとみは思う。
この家でふたりで暮らし始めた最初の朝、
梨華が粋がって持ってきたドリップコーヒーを淹れてくれた。
おそらく同じベッドで迎えた朝にモーニングコーヒー、
という臭い演出をしたかったのだろう。
それでもひとみは、恥ずかしそうにコーヒーを勧めてくる梨華に
言い様のないときめきを覚えた。
お互い照れ笑いをしながら飲んだ、あのコーヒーの味は今も忘れられない。
殺人的にまずかったからだ。
結局それ以来、梨華の淹れたコーヒーを飲んだことがない。
しかし時折、くすぐったいあの日の記憶と共に泥水のようなコーヒーを思い出しては、
ひとみは満ち足りた気持ちになるのだ。
- 4 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:49
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幼い頃からカメラを手にしていたひとみだったが、
風景ばかりを撮るのみで人物を対象にすることはほとんどと言っていいほどなかった。
単純に、魅力を感じなかったからだ。
それよりも自然が偶然に醸し出す一瞬の芸術を捉えることに躍起になっていた。
梨華と知り合ったのはその頃だ。
人懐こくて構われたがりの彼女は、
ひとみがカメラを取り出すと犬の仔の様に駆けてきては背後から飛びついたり、
ファインダーの前に躍り出たりして散々ひとみの邪魔をしてくれた。
最初は戸惑い辟易していたが、
ある日フィルムを現像していると驚くほど全開の笑顔の梨華が目に飛び込んできて、
思わず目を奪われた。
こんな笑顔があるのか、と思わずにはいられなかった。
世の中の全てが美しく、明るさで満ち溢れているかのように笑うのだ。
それでいて辛いことをたくさん知っているようにも見えた。
そのすべてを内包し、愛情を湛えた笑顔は
染み入るようにひとみの心を捉え、そして何かを溶かしたのだろう。
「梨華ちゃん」
カメラを構えて呼ぶと、梨華はその度ひとみに向けて笑い掛ける。
ひとみは暖かい喜びと少しの憧憬をもってそれを見つめた。
自然の風景は切り落とされた芸術家の耳ほどの価値でしかなくなり、
いつしかひとみは梨華以外のものを撮ることはなくなった。
ひとみの撮る梨華の写真は、見る人を惹きつけてやまない。
おそらくはお互いがお互いにとって唯一であることが感じられ、
誰もがそこに拠り所となるものを見るからだ。
- 5 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:49
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出来上がった写真を見るのを梨華は好まない。
見せようとすると照れて奇声を上げて暴れたり、捨て台詞を放って逃げ出したり、
何の曲だか判別不能の歌を歌って誤魔化したりする。
なんも恥ずかしがることないのにとひとみが言うと、
梨華は唇をとがらせて
「ひとみちゃんは今、自分がどんな顔してるか分かる?」
と言ってそっぽを向いた。
毎日のように撮り続け、今ではどれだけの量になるのかよく分からない。
その中で一番いい笑顔の写真を白いフォトフレームに入れて飾ることにした。
梨華は恥ずかしい恥ずかしいと騒いだが、
ひとみは可愛い可愛いと言って譲らなかった。
膨れる梨華を笑って眺めていると、
「ひとみちゃんは顔がエッチ」「声がいやらしい」
などと謂われのない中傷を受けたが、ひとみは幸せだった。
写真の梨華の笑顔はいつもレンズの向こう側のひとみに向けられている。
あの笑顔はひとみだけのものなのだ。
- 6 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:50
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気が付けば早くも日が落ち、穏やかな日和は夕闇に消え、風が出てきた。
風邪をひいてはいけないとひとみは茶器を下げ、テラスを引き上げる。
幼い頃に喘息の気があったという梨華は
よく風邪をこじらせ、ひとみを不安にさせた。
冷え切った手を握って一晩中温めたかった。
ときどき心が悲鳴を上げ、真っ暗な深淵に落ちていくことがある。
そんな時でもひとみがいつも自分を取り戻し、ここに戻ってこれるのは
梨華が明るく笑って、
そんな暗くて寒いところからは出ておいでとひとみを呼ぶからだ。
梨華が笑っていてくれる限り、
いつだって世界には光があることを忘れないでいられる。
人を愛するということは、きっとそういうことなのだ。
- 7 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:51
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ひとみは窓辺のフォトフレームを部屋の方に向けた。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/25(日) 22:51
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使い込んだウェッジウッドのカップの端が欠けても、
この家に越してきた日からずっと時を刻み続けていた時計が壊れて動かなくなっても、
ひとみが何より愛した白樺が二度と黄色い葉を付けなくなろうとも、
褪せたフレームの中の梨華はあの頃のまま時を止めて笑っている。
このカメラが使われることがなくなって長くも短くもない年月が過ぎたが、
ひとみはさみしくはなかった。
梨華がいつもひとみのそばで笑っていてくれるからだ。
- 9 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:52
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カビよけの乾いた布袋にカメラを入れ、部屋に吊す。
ひとみは明かりを灯してキッチンに向かい、
気付かないうちにすっかり癖になった鼻歌を口ずさんだ。
壊れたラジオが放った怪電波かと思いきや梨華の鼻歌だったという、
彼女が良く歌っていたなんちゃってビートルズ。
そう「愛こそはすべて」だ。
- 10 名前: 投稿日:2005/09/25(日) 22:53
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この辺鄙な森の一軒家にもときどき客人が訪れることがある。
リビングに通された彼らは一様に窓辺の写真に目をとめて、
昔のひとみがそうだったように少しの憧憬を込めてその笑顔に見入った。
ひとみはいつも穏やかに笑い、
けれど、笑顔の人は誰かと聞かれてもけして教えようとはしないのだ。
- 11 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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