97 510の女
- 1 名前:97 510の女 投稿日:2004/12/29(水) 04:46
- 97 510の女
- 2 名前:97 510の女 投稿日:2004/12/29(水) 04:47
- 「お会計は510円です」
あたしがそう言うと彼女は手の中にある小銭を差し出す。
「510円ちょうど、ちょうだいします。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
あたしの手から紙袋を受け取ってお礼を言うとにっこりと微笑んで彼女は、オーダーしたドリンクが用意されているバーに向かって歩き出した。
いつも510円だしいつもちょうどの小銭をちゃんと用意しているのだから、あたしが何か言う前にそれを差し出しても良いんじゃないかと思うのだけれど、彼女はいつでも律
儀に、あたしがレジを打って金額を告げてから510円を小さなステンレスのトレイの上に置く。
- 3 名前:97 510の女 投稿日:2004/12/29(水) 04:47
- 彼女のオーダーは毎日同じ。
ホットココアとクッキー。
春も夏も秋も冬も、その2つをこの店で買って行く。
ココアを受け取ってレジにいるあたしの目の前を通り過ぎる時にまた目を合わせて笑って店を出て行くこともあるし、あたしが作ったココアを手に取ってお礼を言ってくれるこ
ともある。
あたしがどこで何してようがとにかく彼女のオーダーは毎日変わらないのだ。
あたしがこの店で働き始める前から、ずっと。
彼女についてあたしが何か言った訳でもないのにいつだったか、中澤さんがそう教えてくれた。
実際それ自体はそんなに珍しいことではない。
特に朝の常連さんはほとんど同じ組み合わせのオーダーを出勤前の朝食として一年中し続けるし、もちろん昼や夜に来るお客さんだって同じ。
お気に入りのドリンクやお菓子なんかを当たり前のように毎日飲んだり食べたりするのだ。
それはたぶん儀式のようなものなんだと思う。
仕事が始まる前や気分を切り替える時の、決められた儀式。
彼女にとってそれはホットココアとクッキーで、名前も知らない彼女がどんな仕事をしているかなんてあたしには見当もつかないけれどとにかく、この店のココアとクッキー
が彼女の日常に欠かせないものであるというのは嬉しいことであるとは思う。
- 4 名前:97 510の女 投稿日:2004/12/29(水) 04:48
- そう言えば彼女が今日は来ていない、と気づいたのは閉店して店内をモップで拭いている途中だった。
いつも決まった時間に来る訳ではないから、この時間に来ないのはおかしい、なんてわかりやすい目印もなく思い出さなかったら気づかない、そんなレベル。
あたしの休憩中に来たのであれば当然あたしは気づかないし、本当に来たのか来てないのかなんてコトは、中澤さんにでも聞いてみないとわからない。
し、それを中澤さんに聞くつもりなんてもちろんないから実際はどうでも良いのだ。
ただ、今日は珍しく彼女が来ていない、そう思っただけ。
けれどそれが何日も続くとさすがにちょっとだけ気になる。
基本的にあたしはお客さんとの距離を置くようにしているから、常連さんにプライベートなコトを必要以上にしゃべったり聞いたりなんてしない。
世間話や天気の話題くらいはもちろんするけれども、同期の女のコみたくお客さんと一緒に飲みに行ったりする仲には絶対にならない。
だから常連さんの1人が何日か続けて来なくたって、それに気づいてはいても大して気にとめたこともなかった。
また店に来てくれた時にいつもと同じように笑顔で迎えて、いつものオーダーを聞いていつものドリンクを作って、いつものように送り出すだけの話。
そう思っていた。
そう思っていたのに。
「お久しぶりですね。お休みだったんですか」
何日かぶりに彼女が来て、いつものオーダーをした時にあたしはつい、そう聞いてしまっていた。
それはほんの数日だったはずなのに彼女の佇まいがいつもと違う、そう思ったからだった。
オフでどこかに出かければリフレッシュして感じが変わることもあるだろうし、ちょっと痩せたりするだけでも印象はだいぶ変わる。
彼女のそれはリフレッシュでもダイエットでもなく、ただ何となく雰囲気が違う、あたしにはそれだけしかわからなかった。
「うん、厳密に言えば休みではなかったのだけれど」
柔らかい彼女の笑顔をこんなに長く見つめたのは初めてだった。
今までは必要以上の会話を交わしたコトがなかったから。
「あたし、新しい仕事をすることになって今日でココは最後なんです」
だから、と彼女は続けた。
この店も最後だからやっぱり行こう、って、この店あたしすごい、好きだったんですよ。
思わぬ言葉にあたしは、何か言わなきゃと思ったけれど何も言えずに、かろうじて、そうなんですか、とだけ答えた。
「そうなんです」
冗談ぽくあたしの言葉を繰り返して笑う彼女と見つめ合っているあたしは、何とマヌケなんだろうと思う。
気の効いたこと1つ言えないなんて。
でも今ここで、ありがとうございます、なんて、薄っぺらく聞こえてしまいそうで、言えない。
- 5 名前:97 510の女 投稿日:2004/12/29(水) 04:48
- 「何やごっちん、そんなんはよ言うてやー。ちょっと、寂しいやんか」
いつもよりレジで時間がかかっているやりとりに気づいたのだろう、中澤さんが彼女のココアを手にしてレジまでやって来た。
「でもほら、言っても言わなくてもそれは変わらないしさ、だから最後にって思って」
2人の会話を聞きながら内心あたしは、中澤さんと彼女が相当親しい口調でしゃべっていることに驚いていた。
あだ名なんかで呼んだりして。
普段はそんな素振りなんてまったく見せなかったのに。
「あ、ねえ藤本ちょっと最後くらい、何かないん?」
「何がですか?」
中澤さんに言われたイミがさっぱりわからない。
「いやーアンタごっちんのこと気になってたんやろ?」
「何言ってんですか!」
違いますよ、と言おうと思ったけれどそう言えば彼女に失礼になるのかもしれない、そう思うと何も言えずに中澤さんは何を言い出すのだろうと思うしかなかった。
「ま、どっちでもいいんだけどごっちん、この藤本に話しかけられるなんてそうそうない経験やし、ちょっとイイハナシくらいには覚えといてくれる?」
はは、そうなんだ、と笑って聞いていた彼女があたしに向き直って、言った。
「もちろん覚えてるよ、どこに行っても。同じ歳くらいのコのプロの仕事を見てるとあたしも負けないって思うの、ずっと、思ってたから」
あたしのことを言われてるんだ、と気づくのにちょっとだけ時間がかかった。
そしてあたしは彼女の目を真っ直ぐに見つめて、ありがとう、ございます、と答えた。
ほんのちょっとだけ、涙が出そうだと思った。
- 6 名前:97 510の女 投稿日:2004/12/29(水) 04:49
- 今まで美味しいドリンクをありがとう、ばいばい、彼女はそう言って小さく手を振って、店を出て行った。
その背中を見送ってあたしはしばらく、動けなかった。
「お客さんと仲良くするのもそう、悪くないやろ?」
優しい口調で隣の中澤さんが言う。
あたしはそうだともそうじゃないとも思わなかったけれど頷いた。
そして新しく始まる彼女とあたしのそれぞれの明日を思って、もう一度小さく、頷いた。
おしまい。
- 7 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
Converted by dat2html.pl v0.2