1 そばになくてはならないもの
- 1 名前:そばになくてはならないもの 投稿日:2004/12/24(金) 00:03
- 1 そばになくてはならないもの
- 2 名前:そばになくてはならないもの 投稿日:2004/12/24(金) 00:04
- いいかい、君は大事なことを忘れているんだ。
その声がいつから聞こえていたのか分からない。しかし、認識できた初めての言葉がそれ
だった。
いいかい、思い出さなくてはいけない。絶対にだ。
ずっと語りかけられていたような感覚があった。定かではない。とにかく藤本美貴は身体
を起こし、視線を頭ごと左右に振った。暗闇だった。黒以外の何もそこにはありはしなか
った。座り込んだまま、手を背中の後ろに突く。そこに体重を乗せた。
「……っていうか、アンタ誰?」
僕は君だ。君自身だ。いいかい、君は……。
「答えになってない。というか、ムカつく。そういうゴマかすようなことを言われるのが
一番嫌いなんだよね、ミキ。それに、どうして自分がここにいるのかが分かんない状態も
イヤ。アンタがここに連れてきたの?」
いかにも。そう言える。僕がここに君を運んだ。
声には引っかかりがなかった。何重にもかさねられて録音されたように、取り留めのない
曖昧さだけ通り抜けていった。残響もない。すべるみたいに流れたことから、近くに壁の
ない広い場所であることが伺えた。
- 3 名前:そばになくてはならないもの 投稿日:2004/12/24(金) 00:04
- 藤本の目に怒りに似た火が宿る。
「煩わしいんだよね、そのアンタのしゃべり方。もっと要領よく話せない?アンタがミキ
だとか、意味分かんないし。ホントにここに連れてきたなら、早く元のところに帰してく
んないかな」
もちろん。でも、君は思い出さなくてはいけない。人生には忘れてはいけないものもある。
そうしなければ、一生後悔をするような、そんなものもある。
「人生?美貴はそんな話をしているつもりはないんだけど」
間に合わなくなってからでは遅い。それは君自身、もっとも恐れていることに他ならない。
だからこそ、君自身である僕が、君をここへ運んだんだ。
「何それ。言ってることが気持ち悪いんだけど。本当にストーカーじゃないって言い張る
んだったら、今すぐ美貴を元のところへ帰して。いい?これ以上まだ何かグダグダ言うな
ら、本気で怒るよ?」
短気は損気だということは言える。だけど、たしなめるのは僕ではない。僕は忘れてはい
けないものがあるということを言う行為しか出来ないのだから。いいかい、事は急を要す
る。そうでなければ、こんな形にはならなかった。言いたいのはそれだけだ。では要求通
り、君を元の世界へ戻すことにする。
始まりがいつだかつかめなかったように、声は段々とフェイドアウトしていく。黒が薄ま
っていく。灰色になり、白に近づいていった。そして、純白になる頃、最後の声が聞こえ
た。
いいかい、君は大事なことを忘れているんだ。
▽
- 4 名前:そばになくてはならないもの 投稿日:2004/12/24(金) 00:05
- 白かった。光のような白というより、光そのものだった。直射日光が藤本の顔に降り注い
でいた。
「大丈夫、ミキティ?」
太陽を囲む影が、そうしゃべった。井戸の底にいるようだった。丸く縁取られた影から空
が見える。太陽もそこにあった。
「大丈夫?ちゃんと聞こえてる?」
声には恐怖に似た震えが混じっていた。藤本は応えるように、手を眼前にかざす。それで
ようやく影の正体が娘。のメンバーたちであることが分かった。不思議なことに泣いてい
る顔もあった。メンバーたちが輪郭を取り戻すと、意識のピントも同時に合ってくる。背
中にある固い感触は、どうやらコンクリートだ。そして、横を見ると車が通り抜けていく。
英語が聞こえる。藤本を心配しているようだった。路上。倒れ込んで、メンバーに見下ろ
されているのだった。
「急に倒れるんだもん。心配するよぉ」
「ゴメン……」藤本は身体を起こす。「どうしちゃったのかな」
陽光を目にした時と同じ違和感が藤本の肌を包んだ。空気が違う。比喩ではなく、空気が
カラリと澄んでいた。太陽も灼熱と表現されるのに遜色なく、その身体を燃やしている。
「そっかぁ、ハワイ……」
藤本がそうつぶやくと、石川の声がした。「ミキティ、本当に平気なの?自分がどこにい
るか分からないなんて、ちょっと普通じゃないよ。倒れたのも唐突だったし……」
平気。そう返すと、藤本はあの暗闇の中でしていたのと同じ体勢になった。これからまず、
水着での写真撮影があるはずだった。ロケバスに乗り込み、砂浜まで移動し、そこでメン
バー全員での撮影が予定されていた。ホテルから出て、そのバスに乗るまでのわずかな距
離。そのあいだに彼女は倒れたのだった。
傍らを行く白人の老夫婦が、何やら安堵の表情で輪の外から藤本に声をかけた。とりあえ
ず藤本も頭を下げる。しかし、動悸が早かった。
「つらい?せっかくのファンクラブツアーだけど、休ませてもらう?」
「ううん。大丈夫、ありがとう。それよりミキ、どのくらい倒れてた?」
石川は顎に指を当て、顔を上に動かした。「う〜ん、数分。いきなり前のめりになってさ、
気を失っちゃったから、本当に心配したんだよ?動かしていいものかもわからないし」
- 5 名前:そばになくてはならないもの 投稿日:2004/12/24(金) 00:05
- ありがとう、ともう一度口にしながら藤本は、その数分間のことを巡らした。大事なこと
を忘れてる。だから自分は倒れたのだろうか。健康状態は常に良好で、こんな経験をした
のは初めてである。それを考えると、あの声の主が話したことがにわかに現実味を帯びて
くる。もちろん半信半疑で、忘れ物を頭に思い浮かべた。小さなことならいくらでもある。
いくつもの細かい記憶のほつれが彼女の脳裏を通り過ぎた。しかし、どれも不適当に思え
る物ばかりだった。一生後悔するような、そんな忘れてはいけないものなど、そうない。
そういったものであれば、後味悪く残っているに違いないのだから。
藤本は、あっ、と軽く声を上げた。誰もが心配そうに彼女の顔を覗き込む。周りには人だ
かりができていた。ホテルの自室で水着をきて、その上に洋服をはおっているとはいえど
も、かなりの大人数の女の子が道を占拠しているのだ。見物人が集まってきてもおかしく
はない。スタッフはそれを流すのに労を割いているようだった。だが藤本の目にはそのい
ずれも映らない。彼女が見ていたのは、出国日の日本だった。
松浦亜弥。トップアイドルで、いつも自信満々。自分が誰からも愛されると信じて疑わな
い彼女が、男にフラれた。彼もまたアイドルだったが、詳しい事情は知らない。聞かされ
ても藤本は何故か彼女にきつく当たってしまうし、それが度々続いて、彼女も二人の会話
にそれを混ぜることがなくなった。しかし、どうしても抑えられない時というのも、また
あるのだろう。藤本はあんな彼女を初めて見た。部屋を訪ねてきた松浦は、かすり傷さえ
なかったプライドがボロボロになっていて、相手もはばからずに泣いて、荒れた。藤本は
さすがに不機嫌ではいられずに慰める役に徹したわけだが、ハワイ行きの仕事をすっぽか
すわけにはいかず、傷の癒えない彼女に置き手紙を残し、泣きつかれて眠っている彼女を
起こさないように自分の家を後にした。
- 6 名前:そばになくてはならないもの 投稿日:2004/12/24(金) 00:06
- 痛んだ胸に手を置いたのと、立ち上がったのは、ほぼ同時だった。反射神経が働いたかの
ように藤本は、メンバーや野次馬の輪をかき分けて走り出した。
「ちょ、ちょっとぉ、ミキティ!?」
その石川の超音波をはじめ、様々な声が彼女を追ってきた。それでも藤本は振り返らない。
迷いはなかった。しなければいけないことがはっきりとしていた。
ホテルの自分の部屋に引き返す階段を昇りながら、藤本は確信していた。間違いない。た
しかにあの声の主はミキ自身だったに違いない。絶対に思い出さなくてはいけなかった。
思い出さなかったら、ミキは一生後悔するところだった。
自分自身に、脳の記憶をつかさどる辺りに感謝しながら、藤本はドアを開いた。そのまま、
自分のトランクに手を突っ込む。小さい頃からのクセだった。旅行中に絶対になくしては
いけない物をしまう時には、カバンの底。さらにタオルにくるんでおく習慣があった。
パスポートが手に当たった。
それを払いのけると、その隣にある二つ一組の物体を手に取った。それを抱きしめると、
藤本は安堵のため息を吐いた。
「……あったぁ、胸パッド」
- 7 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
Converted by dat2html.pl v0.2