5 窘メる

1 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:55
5 窘メる
2 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:56
墓石は雨や砂塵にまみれて煤け、眩かった鼠色に影を落としている。
彫り刻まれている文字の内側には黒い斑点が点々と連なっていて、
白い柔肌につけられた歯列の痕と、それに伴う青黒い鬱血を思わせた。
墓地の周囲を護るように、見張るようにして植え備わっている木々は葉を落とし、
抗うことのできない時の流れに力を失い、ただ侘びしさだけを広げていた。
黄白色の街燈の光は足元の土を濡れたように色濃く描き出している。
私は、コートのポケットから携帯電話を取り出した。
零時を少し回っている。
「あした」になったことを確かめて、再び仕舞った。

「あした」
たった三文字の言葉が送られてきたのは、記録によると昨日の十五時七分とある。
そのころ、私は眠っていた。
厚手の布団を頭からかぶり、一桁しかない室温の中で、身体中に粘液のような汗をかいていた。
ひとりで暮らしはじめて、真昼から眠ることが多くなった。
多分、決まって見る夢のためなのだろう。
3 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:56


「後藤さんに明日は来ていないんですか」
彼女は蕩けているような冷めているようなか細い声でそう訊ねる。
「明日なんて来ないよ、そんなんじゃ、来やしないんだ」
私はそう応じる。
喋りすぎだと喚き散らしたくなる衝動をどうにか抑える。
「バカだね」
目の前にいる少女と圭織は似ても似つかない。
小刻みに震える身体は圭織の方がずっと細くてしなやかだし、
深い黒を湛えている髪も圭織の驚嘆すべき柔らかさには到底及ばない。
「ほんとバカだよ」
彼女を圭織に模する理由はどこにもない。
いや、ある。
彼女は流れるように私に身を任せた。
肩に手をかければほんのりと羞恥の輝きを瞳に宿したし、衣擦れの音に身を縮めた。
圭織の持っていた闇しか灯さない水晶のような瞳も、
着衣に手をかけるたびに見せた諦念も彼女にはなかった。
4 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:56


「飯田家之墓」と刻まれてはいるけれど、今のところ眠っているのは圭織ひとりだけだ。
専用のベッドといい換えても構わないかもしれない。
相変わらず辿り着くことはできそうになく、私は墓石を撫でた。
鋭い冷たさは、圭織の手とは逆の様相を呈している。
白くて、薄い皮膚をしていた圭織の手は、
皮膚全体に血の熱が浸透しているかのようにいつも暖かかった。
墓石を上から撫でる。
肩から腕にかけてのラインを露出することを圭織は嫌悪していて、
夏でも長袖を着用し、表層の秘所は生涯見ることはできなかった。
生涯を終えてから、幾度か見る機会はあったけれど、私は臆して、結局見ることはなかった。
注射針の痕や刺青くらいならば見たところで何が変わることもない。
けれど、もし長袖の下に腕がなかったら、
私は圭織に対して抱いていた感情を根底から覆されてしまうことになるかもしれないのだ。
掌があるのだから腕がないわけはない、と考えることは簡単だったけれど、
視覚も聴覚もなく、言葉すら操ることのできなかった圭織に、他に欠落がないとはいい切れなかった。
5 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:57


「後藤さんに明日は来ていないんですか」
彼女は会話の端々に知的な部分を覗かせる。
そして、現有の知力でできることを知っている。
「明日なんて来ないよ、そんなんじゃ、来やしないんだ」
彼女の知識では、私の存在に現実的な解釈をつけることは不可能だ。
同時に私の知識でも、彼女の行動を言葉で説明することはできない。
明け方の異世界のような校舎で、
本名とも偽名ともつかない「後藤」という言葉だけを頼りになすがままにされる思考は理解できない。
「バカだね」
波間を漂っているせいか、彼女は私の呟きに時折力強く頷いてみせる。
彼女は自分が愚かであることを認めている。
「ほんとバカだよ」
私も自分の愚行を承知している。
だから、強く歯を立てるのだ。
彼女は弾けてしまうのではと思うような声を上げる。
6 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:57


「あした」という言葉に、私は勝手に意味をつけた。
だからこそこうしてこの場にいるのだけれど、もしかしたら私の解釈は間違っているのかもしれない。
それならばそれで仕方のないことでしかない。
私が彼女の意図に添えないという事実が生まれて、いつしか消えてなくなるということだけだ。
彼女なりの解釈の末に出た結論に基づいて彼女がこの場所を訪れた時、
私の姿を認めることができなかったら、彼女はどのような思いを抱くのだろうか。
その時、「あした」とはいつなのだろうか。
もしかしたら、「あした」とは時以外のものを示しているのかもしれない。
7 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:57


「後藤さんに明日は来ていないんですか」
明日は来るものであって、すでに来ているものではない。
その考えは、間違っているのかもしれない。
明日は常に、何よりも先んじて来ているのかもしれない。
「明日なんて来ないよ、そんなんじゃ、来やしないんだ」
明日は揺るぎないものではないのかもしれない。
小雨の中、私を駅前の街路樹の元に立たせて、待ちぼうけを食わせたりするのかもしれない。
「バカだね」
私を待たせるとは愚の骨頂だ。
「ほんとバカだよ」
彼女が泣いて詫びている。
あるいは、声を張り上げて私を呼んでいるのかもしれない。
明日が私より先んじているのならば、遅れているのは私だ。
8 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:57


夢はサイレント映画のように無音を貫いている。
雨音も、隣を歩いている恋人たちの話し声も聞こえない。
私と圭織はひとつの傘にふたりで入って、どこかに向かって歩みを進めている。
私は、私を見ている。
永遠の夜に住んでいる圭織を引き連れて、夢の中の私が躊躇なく歩く。
足元で水が跳ねる。
圭織の白い息が立ち昇って消える。
私が微笑んだ。
圭織の唇に、右の人差し指を這わせた。
何かの合図だったのか、圭織が立ち止まった。
ふたりは街燈の死角に入り、闇に埋もれる。
影だけが動き、艶かしさをいっそう掻き立てる。
私の影と、圭織の影の距離が近づいた。

水音がする。
雨が降りだした。
9 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:58


「後藤さんに明日は来ていないんですか」
彼女を泣かせてみたい。
双眸から涙の雫を滴らせてみたい。
「明日なんて来ないよ、そんなんじゃ、来やしないんだ」
彼女の熱い息を浴びてみたい。
断続的な快楽の欠片を手にしてみたい。
「バカだね」
彼女に卑猥な言葉を囁いてみたい。
別人のように顔を赤らめる彼女を見てみたい。
「ほんとバカだよ」
彼女の言葉を聞きたい。
掠れた生ぬるい声でも、生来の想像もつかない声でも構わない。

少女は喘ぐ。
彼女はこんな声を出すのだろうか。
もう、確かめる術はない。
10 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:58


雨は勢いを増し、大きな粒を注いでいる。
女性が墓石に馬乗りになり、腰を大きく動かしている。
口に卒塔婆を咥え込み、下半身の動きにあわせて出し入れを繰り返している。
唾液が雨水に流れる。
顎を伝って、唾液と雨の混合物は胸元に滑り落ちる。
口から抜いた卒塔婆を、胸にこすりつける。
ささくれ立っている木が皮膚を破り、うっすらと血が滲む。
唾液が傷口に染み込み、女性が歓喜とも発狂ともつかぬ声を上げる。
腰の動きの速度が上がる。
11 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:59


唇を重ねても、そこには虚無しかない。
声の破片すら見つからない。
瞳を覗き込んでも、そこには虚無しかない。
光の種も見つけられない。
耳元に言葉を投げても、そこには虚無しかない。
音はその中にはない。

見ることも、聞くことも、話すこともない。
ねぇ圭織。
「あした」って、なに?
12 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:59
13 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:59
14 名前:5 窘メる 投稿日:2004/07/24(土) 02:59

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