49 耳の残るは君の声だけ
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/21(日) 23:38
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49 耳に残るは君の声だけ
- 2 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:39
- 私は明日の授業で使うプリントをコピーするため職員室へ向かっていた。
目に移るもの全てがすっかり夕暮れ色に染まっていている。
早く仕事を終わらせて帰りたいという思いから、私は人気のない廊下を歩く
足を少しだけ早めた。
でも不意にこの時間に相応しくない騒がしい足音が後ろから聞こえてきた。
その音に体を振り向けるとあの子の姿が視界に入った。
少し短いスカートから覗く白い足、肩まである艶のある黒い髪を揺らし、
そしてどこか懐かしい感じのする正統派な顔立ちは小さく息を吐いていた。
その子とは学校では優等生と言われている高橋愛だ。
それが上辺だけというのは知っているけど、さすがに校内で走るというのは
予想外のことだった。
高橋は私の姿を見ると少し驚いた顔をしたがすぐに嬉しそうに笑った。
そしてスピードを落とさないままこちらに向かって勢い良く走ってくる。
私はその意外すぎる出来事にただ呆然としていた。
- 3 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:41
- 高橋は立ち止まらずすれ違うと同時に「さよなら、先生。」と言った。
そして花のような甘い匂いを残し春風のように私から離れていった。
でも嬉しそうに笑っていたはずの顔は、すれ違う一瞬だけ今にも
泣きそうな切ない顔に変わった。
私はすぐに我に返ると体を反転させ珍しく声を張り上げて叫ぶ。
「高橋!校内は走るなって壁紙見たことないの?」
すると言葉の効果なのか高橋は急に立ち止まって後ろに振り返った。
「ありがとうございます!」
そしてすぐに少し掠れて上擦った声で大声で叫び返してくれた。
でも目が眩むような夕日が窓に反射して、ちょうどその顔の辺りだけ
邪魔するように隠してしまう。
だから一体どんな表情で言ったのかは分からなかった。
そうして高橋はすぐに背を向けてどこかへと走っていってしまう。
私はただ後ろ姿を見送ることしかできなかった。
なぜだかその場から一歩も動けなくて、しばらく人気のない廊下に
立ち尽くしていた。
- 4 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:42
- 「保田先生?みんなもうノートに書き写したんですけど・・・・。」
不安そうなその生徒の声に私は回想から現実に引き戻された。
「へっ?あぁ、ゴメンね。昨日あんまり寝てないから少しボーっとしてた。」
私が頭を掻きながら適当に誤魔化すと教室はすぐに笑い声で満たされた。
自分的には真面目でクールな先生を目指してたはずが、どこで間違ったのか
今はいじられピエロになっていた。
でもそれも生徒との関係が円滑になるならと思えばそれも悪くない。
けれど今はそれが少し度が過ぎてるようにも感じる。
いつもなら軽く怒るけれどあの事を思うと窘めることができなかった。
彼女達なりに色々と気を遣ってやっているのは分かっている。
「はいはい、楽しい時間はここでおしまい。そろそろ授業に戻らないと
チャイムが鳴っちゃうからね。それじゃP63の問題でも答えてもらうかな
・・・・そこで口を開けてる小川に。」
私は溜め息を吐きながら手を叩いて場を治める、そして教科書を片手に持ち
何となく目に入った生徒に当てた。
けれども当てられた生徒は返事すらしなかった。
窓側の少し後ろの席に座っているその子は頬杖をつきながら口を開けている。
そしてどこを見てるのか定かじゃない瞳で外の景色を眺めていた。
でもきっと見てるところは一つしかない。
- 5 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:45
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「お〜い、小川?出席番号12番の小川麻琴。ちゃんと脳みそ動いてる?」
私は軽く溜め息を吐くと呆れた顔して生徒な名前を連呼した。
「えっ?ひゃ、ひゃい!!」
小川はようやく我に返ると声を裏返らせながら席から立ち上がる。
それと同時に教室は再びまた明るい笑いに包まれた。
学級目標である「笑いが絶えないクラス」は達成されているらしい。
小川は現状が分からないらしく困惑した表情を浮かべてこちらを見つめてくる。
「仕方ないから座っていいよ、人選を間違えたのはこっちの責任だし。」
私は深い溜め息を吐き出すと頭を掻きながら手で座るように促す。
「す、すいません・・・・。」
小川は申し訳なさそうな顔をしながら謝って席についた。
この光景は別に目新しいものではなかった。
小川は授業中というか気を抜くと場を弁えずに口を開ける、それはもう
一種のクセなのかもしれない。
けれどここ最近はそれがひどくなったように思える。
でも心当たりがある私としては強く言うことができなかった。
何気なく目線を横に向けると小川の仲の良い紺野も沈んだ面持ちを
している。
まだあれから3日しか経ってないのだから仕方がない。
二人がクラスの中では仲が良かった方の部類に入るのは知っている。
だから今もまだ高橋の死がまだ受けられないのだと思う。
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- 6 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:46
-
彼女は屋上から飛び降り自殺をした。
あの日、私と夕暮れの中ですれ違った後にそのまま飛び降りたのだ。
そのことを翌日に聞いたときは目眩がして倒れるかと思った。
何だか校内がいやに騒がしいとは思ったけれど、まさかそんな事態が
起こっているとは想像もできなかった。
私は小川と紺野はしばらく授業で当てるのはやめようと心に決めた。
そして違う生徒に当てたところで授業終了のチャイムが鳴り響く。
助かったと喜ぶ生徒に「次の時間までの宿題ね」と冷静に告げて
私は教室を後にした。
- 7 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:49
- 職員室に戻って一息ついていると、同期でもある矢口が横の椅子に
腰を下ろして話しかけてきた。
「相変わらず楽しそうだよね、圭ちゃんの授業って。」
と次の授業で使うのかプリントを整理しながら何気ない口調で言った。
「別に。あのクラスが特別なだけだと思うけど?」
私は変に気を遣いすぎて凝った肩を軽く回しながら答えた。
「いや特別良いクラスでしょう。やっぱそれは担任が良いからかな。」
すると後ろから嬉しそうな声が私達の会話に割り込んできた。
「誰も良いクラスなんて言ってないっうの。」
矢口が呆れた顔をしながらもご丁寧に突っ込みを入れる。
「良いクラスなんじゃない?一部に気を遣ってわざと明るく振舞う辺り。」
私は椅子の背もたれに寄り掛かると逆にその言葉を肯定した。
「さすが圭ちゃん分かってるねぇ。あの子達は優しいよ、自分達だって
まだ立ち直れてないんだよ?それでも空元気に振舞ったりしてさ。」
私の少し先輩である飯田圭織は空いてる椅子に座ると、寂しそうな顔を
して少し俯きながら言った。
- 8 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:52
- 「う〜ん、確かに自殺なんて想像すらできなかったよ。」
矢口は急に真面目な顔になると手を顎に当てながら軽く唸った。
「まぁね。意外すぎて聞いたときは冗談かと思ったくらいだし。」
私は深いため息を吐き出すと本当にその当時思った心境を話した。
「そんなタチの悪い冗談言わないって。でも本当に意外だったよ、
だって別にイジメとかはなかったし、部活の合唱部ではエースだよ?」
圭織は軽く私を窘めると不思議そうな顔して高橋について語った。
「成績も校内では5本の指に入るほど優秀で、おまけに他校から
告白しに来た人までいるってほどモテモテだったみたいだしね。
そういえば狙ってた先生もいるって噂もあったねぇ。」
矢口はどこで手に入れたのか相変わらず初耳の情報を教えてくれる。
「でも優等生が仇になったのかな?何か一人で抱え込むところが
あったじゃない?限界まできちゃたのかもね、だから飛び・・・・。」
まるで誰かが仕組んだように圭織の最後の言葉を予鈴のチャイムが遮った。
あまりにもタイミングが良すぎて気まずい沈黙が三人の間に訪れる。
- 9 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:54
- 「さてと、そろそろ行かないと遅れるよ。」
私は上手く誤魔化すように立ち上がると二人を急かすように促す。
「そうだね。ほらっ、圭織もそんな暗い顔してたら生徒が怖がるよ。」
矢口は用意を済ますと冗談を言って逃げるように早足で行ってしまう。
「怖がるって・・・・矢口!普通は寂しがるとか言うんじゃないの?」
圭織は少し顔を顰めるとすぐにその後を追いかけて反論していた。
凸凹コンビと校内で呼ばれてる二人は言い合いながら職員室から
出ていった。
でも口は悪いけどあれでも矢口も結構心配してるし、圭織も話したことで
少しは気が晴れた思う。
二人を微笑ましく見送ると私も自分が受け持つ教室へと向かった。
でも人気のない廊下に出ると不意にあの日のことが頭を過る。
私が高橋と最後に会ったあのときのことを。
本当はあの二人の会話だって聞きたくはなかった。
だってもしかしたら私は高橋の自殺を止められた唯一の存在だから。
- 10 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:56
- 夜の学校は6時を過ぎた今では薄暗く静まり返っていた。
でも少なからずまだ生徒や教師はいるのだろうけど、その喧噪は
校内の隅にあるこの部屋までは聞こえない。
私は準備室の古くさいソファーに座りながら気怠い余韻に浸っていた。
高橋は学校指定のワイシャツだけを着て窓辺に佇んでいた。
黒い髪はシャツにの白によく映えていて、その端正なのにどこか
古めかしい顔立ちにふと哀愁を感じてしまう。
そのせいか見惚れるほど綺麗なのにいつも見ていると切なくなる。
「あぁ〜あ、また外が暗くなっとるわ。」
高橋は口で言うほど残念そうな顔はせずに言った。
相変わらず外見に似合わずその言葉は波のように揺れて訛っている。
でも校内ではあまり口にしない方言を聞けるのは悪くなかった。
まるで自分だけが特別な存在のような錯覚を覚える。
ある意味2人とも地を出しているのだから特別なのかもしれない。
- 11 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/21(日) 23:58
- 「そりゃ悪かったね。っうか高橋があまりにも情熱的に誘ってくるから。」
私は頭を掻きながら渋い顔をして弁解すると、不精なので手だけ精一杯
伸ばして机の上にあるタバコを取った。
「人のせいにすんかのぉ、普通?」
振り返った高橋の顔は膨れっ面になっていて、こちらに来るとソファーが
揺れるほど乱暴に隣に座った。
「いまろはほめらんだって。」
私はタバコを歯の間に挟みながらとりあえず反論しておく。
「何言っとるか全然分からんのやけど?」
すると高橋は小首を傾げると眉間に皺を寄せながら言った。
その言葉をそのまま返そうかと思ったけど話が何となくやめた。
「だから誉めたんだよ、高橋がすっごく魅力的なんだって。」
私はタバコに火をつけ終えると白い煙を軽く吐き出しながら言った。
「本当かぁ?」
高橋は目を細めると絶対に疑ってる視線を向けながら言った。
「嘘だったらこんな関係続いてないって。」
私そんな彼女を自分の方へ引き寄せると腕の中に閉じ込めた。
そして甘えるようにへ白い首筋に顔を埋めると、肩口に垂れた黒髪は
花のような薫りがして思わず軽く吸い込んだ。
「いっつもそうやって誤魔化すんやから・・・・・。」
高橋は少しうんざりした顔をしながらも抵抗はしなかった。
「誤魔化してないって。巧妙な大人の駆け引きって言ってよ。」
私は黒髪を優しく手で掬いながら撫でるように腰に手を回した。
- 12 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:01
- 「でも先生。本当に私のどこが魅力的やと思うん?」
高橋は急に不安そうな顔になると上目遣いで見ながら言ってきた。
「えっ?やっぱそのエロい体かな。」
私は唐突なその質問に少し考え込んでから真顔で答える。
「本気じゃないですよね?」
高橋は穏やかな微笑みながら急に顔を近づけてきて耳元で囁く。
その行動に思わず顔が引き釣ってしまった。
敬語で普通に話しているときが一番恐い、だって本気で怒ってる証拠だ。
「嘘だって。でもそう改まって聞かれると分からないよ、今まで
そんなこと考えたことなかったし。でも強いてあげるならその声かな、
聞いてると落ち着くんだよねぇ。」
私は少し震えた声で即答した、そして今度は真面目に考えて答える。
「・・・・・・先生のこと好きです。」
高橋は少しの間押し黙っていたけれど、急にまっすぐな視線で私を
捕えていつもより少し低い声で言った。
貫かれてしまうくらい真剣な瞳と搾り出したような言葉だった。
だから今のは本気で言ってるのだと思った。
私は頭の中では台詞が浮かぶのに喉で塞き止められたように出なくて、
金魚のように口を開けたり閉じたりしていた。
「まぁそんなの冗談なんやけどな、本気にしたらあかんよ。」
でも高橋は悪戯をした子のように無邪気に笑って自ら言葉を否定した。
「しないよ。だってなれないじゃん、普通の恋人同士の関係には。」
私は長めにタバコの煙を吐き出すと頭を掻きながら顔を顰めて言った。
私達は女同士でありおまけに先生と生徒という間柄だった。
まして高橋は由緒正しき良家の一人娘で、一介の私立教師である
私とは生きていく道が違いすぎる。
「そうやね。」
「そうだよ。」
私達は互いに顔を見合わせて軽く笑うと、淡々とした会話をした後で
珍しく二人の間に沈黙が流れた。
- 13 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:04
- ねぇ、キスしてほしいんやけど?」
それを破ったのは高橋が不意に言い出した突拍子もない言葉だった。
前から多少空気が読めない子だというのは何となく気づいていた。
それとも他に深い意味があったのかもしれない。
でも今は真意は計れなかったし、仮に分かっても素知らぬ振りをしたと思う。
「別にいいけど。ただそんなことしたら後一時間は帰れないよ?」
私は不満そうな口調とは裏腹にその細い体に力を込めて強めに抱きしめる。
そうして答えを自分が望むものに上手く誘導しようとした。
「ええよ、今日もどうせ親は帰って来るの遅いから。」
高橋は少し呆れたような顔をして笑うと身を寄せて体を預ける。
私はまだ先の灰色が僅かなタバコを灰皿の中で擦り潰した。
- 14 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:06
- 「夢か・・・・。」
私は少し汗で濡れた髪を掻き上げると思わず深いため息が漏れた。
何気なく時計を見ると予定より早い時間だったが起きることにした。
どうにも二度寝できるような心境ではなかったから。
ここ最近のことだがよく高橋の夢を見る。
でも実際に関係があったのだから見たって不思議はない。
私と高橋は付き合っていた、わけではなく至って割り切った関係だった。
ちゃんと自分達の現実を弁えた大人の関係。
相手を束縛せず、強引に求めたりしないし、何の見返りも期待しない。
そういうところは少し不倫と似ているのかもしれない。
互いの事情を理解してるから超えてはいけない一線は絶対に踏まない。
だから私達は学校以外で会おうとはしなかった。
きっと学校という閉鎖的な空間に捌け口が欲しかっただけ。
相手なんてきっと誰だって良かった。
- 15 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:08
- 私達がそういう関係になったのも、恋愛感情はなくてその場の勢い
という感じだった。
でも私と高橋はどこか似ていると時々だがふと思うことがあった。
だから何かしら惹かれた部分があったのかもしれない。
他人より深い関係にあった私達だから夢を見ても不思議はない。
でも実際は後悔や贖罪の思いから見ているだけだと思う。
けれど3日連続となる少し苦しい。
『呪い』なんて言ったら怒られそうだけど、そんな冗談も今は笑えそうにない。
だけど本当に呪われたって構わなかった。
私にできることは既にないし、それぐらい気が済むならそれも
いいかと思った。
- 16 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:10
- 夢のせいか朝っぱらからそんなことを思っていた。
そして目覚めの悪い体を起こしてとりあえずシャワーを浴びることにした。
そういうことで少しは気分転換ができればと考えた。
だけどそんな単純なことで気分が変わらないのは実証済みだった。
高橋のことについて色々と頭を巡らせていたせいか、シャワーを浴び
終えると早起きした意味があまりなかった。
それから軽い朝食を済ませると身なりを整えて部屋を出る。
だけどやっぱり爽やかな気分にはなれなかった。
でもそんな私を嘲笑うかのように今日の空は晴天で太陽が輝いている。
車道を横目で見ながら駅までの道をゆっくりと歩いていると、家の玄関の
片隅に一匹の猫を発見した。
それは私の知っているやつでたまに餌をあげたりもしていた。
白と黒のよくいるような柄で顔はあまり可愛いとはいえないけれど、
すごく人懐っこくて甘え上手な猫だった。
でも触れ合っている時間はないのでそのまま通り過ぎることにした。
けれど猫は私が前を通り過ぎると素早い動きで勢い良く車道へと飛び出した。
鈍い音が聞こえたのはその直後のことだった。
私はその音に嫌な予感がする前に反射的に振り返っていた。
- 17 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:12
- 挽かれてはいなかった、ただ頭を打ったらしく血が辺りの道路に
飛び散っていた。
猫は悲鳴みたいな声を上げながら海老のように跳ねて苦しんでいた。
それは人間がのたうち回る姿とよく似ていた。
でもこんな声で鳴く動物を私は今まで見たことがなかった。
猫にぶつかった車は何も知らずに走っていく、その後ろの車はこの事故を
見ていたのか運転手は顔を歪めていたが普通に走り去っていた。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
助けたいけれど病院も分からないし暴れる猫を連れて行くのも困難だ。
お金もあまり手持ちがないし服も汚れる、おまけに私には今から学校へ
行かなければならない。
だからそのまま苦しむ猫に背を向けて歩き出した。
都合の良いそれらしい理屈を並べても見捨てたことに変わりはない。
- 18 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:14
- でも子どもの頃ならこんなことしなかったと思う。
きっとあの頃だったら何も考えず猫を抱きしめ、誰か道行く人にでも
病院を聞き出して猫を運んだと思う。
でもそんなことは今の私にはそんなことはできない。
上手く言うならば責任があるから自分の都合で動くわけにはいかない。
それは確かに正論ではあるけれどどうしてだか納得できなかった。
自分でも抵抗があるのだと思う、嫌な大人になってしまった実感するのは。
幼い頃に持っていた大切なものをいつの間にか無くしていた。
大人になるにつれ荷物が増えるから私はそれを持つために手放した。
もう二度と手には入らない大切なものを。
可愛がっていた猫も、それなりに他人より深い関係にあった高橋でさえ、
私はこの手を伸ばそうとはしなかった。
だからいつも大事なところでみんな手を擦り抜けていってしまう。
- 19 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:17
- 学校に着いてもあの光景が目に焼き付いて離れなかった。
猫と高橋の姿が重なって私の心を重くする。
そのせいか授業も何だか調子が悪くて、また生徒にからかわれたけれど
上手く返せた自信はあまりない。
だからなのか心配されたけれど笑って適当に誤魔化した。
そうして時間は何だかいつもより早く過ぎていき、気がつくと窓の外は
あの日と同じ夕暮れになっていた。
でもそのオレンジ色がさらに私の心に重圧を加える。
きっと夕焼け空を綺麗だと思えるようにはまだ時間が必要なようだ。
私は憂鬱な気分で虚ろに空を見上げながらそんなことを思った。
でも不意に立ち上がると職員室から屋上の鍵がある場所に向かった。
屋上は高橋の事件以後は完全に封鎖されるようになり、自由に生徒達が
出入りできないようになっていた。
でも教師の特権というやつで私なら簡単に入ることができる。
そのときは職員室に誰もいなくて鍵を持ち出すのは本当に造作もなかった。
私は自分で思い立ったことなのに少し複雑な心境で屋上へ向かう。
なぜだか急にあの子の最後の場所へ行きたくなった。
- 20 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:20
- そして3階の階段をさらに上ると錆ついたドアが見えてきた。
そのドア穴に鍵を差し込むと立て付けが悪いので体全体でゆっくりと
押し開ける。
屋上に出ると眩しい夕日が差し込んで私は思わず目を細めた。
少しして目が慣れると何となく辺りを見回したけれど、そこには
ただコンクリートと白いフェンスが夕日に染まっているだけだった。
私の足は自然とフェンスの方へと向かっていた。
そこから見える景色は何の変哲もない普通の町並が広がっていた。
公園で追いかけっこをする子ども達、4人で輪を作って笑っている主婦、
犬の散歩をしているおじさん、帰りを急ぐ他校の学生。
高橋がこの日常の景色を見て一体何を感じたのかは分からない。
それが自殺を後押しするものだったかさえも。
考える限りこの屋上でそれらしきものは何も見当たらない。
でも高橋が何を見たのか知らないけど、きっとこの曇った目じゃ見えない。
大切なものを無くした私にはきっと見えやしない。
- 21 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:22
- 高橋にしてもあの猫にしても私のせいではない。
確かに止められはしたけれど止まる保障なんてどこにもない。
あのとき引き止めていれば触っていれば、どちらとも走り去らなかった
というわけでもないと思う。
だけど今更そんなことを思っても現実はどうすることもできない。
ただ引き止められなかったという事実だけが残ってる。
でもあの猫がまだ生きてる可能性があるのは私には救いだった。
けれど高橋はもうこの世にいない。
そういえば夕日で見れなかったけれど、彼女は最後にどんな顔をして
いたのだろう。
どんな思いであのとき「ありがとうございます」と言ったのか。
その答えはもう永遠に分からないままだ。
私は軽くため息を吐き出すとフェンスに寄り掛かる。
それから徐に内ポケットから残り少ないタバコを取り出して火をつけた。
体に悪そうな気体が肺の中に吸い込むのが気持ち良かった。
- 22 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:25
- 屋上は春が近づいてきたといっても風は冷たくて、私ならあんまり
長居したいとは思わない場所だった。
高橋と自分が似ているなんて思ったけれどそれは勘違いだった。
何一つあの子について私は分かっていなかった。
いつもより大目に煙を吐き出すと灰を地面に落とす。
私が吐き出したタバコの煙は導かれるように夕焼け空へと上っていく。
そんな光景を見つめながら何となく煙を掴もうとした。
でもそれはやっぱりそれは掴めなかった。
「あぁ〜あ、やっぱ手を擦り抜けちゃうんだよねぇ。」
呑気な口調で言いながら不意に見た西に傾いた太陽が滲んで見えた。
END
- 23 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:26
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- 24 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:27
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- 25 名前:耳に残るは君の声だけ 投稿日:2004/03/22(月) 00:27
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