45 ハート・シェイプト・ボックス
- 1 名前:45 ハート・シェイプト・ボックス 投稿日:2004/03/21(日) 15:52
- 45 ハート・シェイプト・ボックス
- 2 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:52
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「じゃ亜弥ちゃんは、一つ願いが叶うとしたら、なんて?」
愛は好奇心に満ちた瞳を輝かせながら、じっと見つめてきている。
「えー、愛ちゃんだったらどうする?」
「わたし赤い夕日が見てみたい。写真でしか見たことないから」
本気で言う愛の言葉はいつものように訛り丸出しで、妙に甲高い。
揃いの制服でならんで座っている二人。夕刻なのに、空には雲一つなく
東から白い月が昇ってきている。
「だから亜弥ちゃんもそうお願いして」
「そうだねー。叶ったらいいねそれ」
- 3 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:53
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◇◆◇
終業後のロビーには学生たちが暇つぶしに群れていて、やけに騒々しい。
亜弥は制服姿のまま、分厚い本をめくっている。しかし目は、天井から
ぶら下がっているテレビの方を向いている。
「キミいつもいるね」
いやらしい声に、振り向く気もしない。いつもの、頬にブツブツのある
ダルマのように太ったメガネ男が、荒い息を吐きながら視線を送ってきて
いるに決まっている。
「いちゃ悪い?」
「ヒマならいっしょに夕食でも行かない?」
亜弥は溜息をつくと、ページに視線を落とした。鮮やかなカラー写真を
包囲するように、小さな文字がアリのように群れている。
「なに読んでるの?」
「ホン」
二音節の言葉を、亜弥は限りなく無機質に発音してみせる。
男は椅子を引きずりながら近寄ってくる。亜弥はキッとした視線を向けると、
眉を顰めて遠ざかる。
「ちぇっ」
舌打ちしながら、身を乗り出して本を覗き込んできた。
「気象の本? 国家試験でも受けるの?」
「別に」
- 4 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:53
- その時、テレビに映っていたキャスターが、横から差し出された紙切れを
たどたどしく読み始めた。
「またも身元不明の死体が発見されました。恐らく自殺と思われます。場所は……」
亜弥は本を閉じると、慌ただしく鞄に押し込んで立ち上がった。
「好きだねキミも」
いやらしい声が背後から追ってきたが、すでに亜弥はロビーを後にしていた。
青い空に、白くくっきりとした月が浮かんでいる。白い月から放たれる
特殊な波長の光が、若者たちを自殺に追いやっているとまことしやかに
語る学者もいた。亜弥はそういう仮説が大嫌いだったが、月を見ていて
ふっと死に引き寄せられる瞬間は、これまでにもあった。
現場は自転車を全力で飛ばして十五分ほどの、高級な住宅街の交差点だった。
金持ちばかりが住む場所だ。
- 5 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:53
- 黒山の人だかりが出来ている。もう遅いかもしれない……。亜弥は半ば
あきらめ気味に、自転車を乱暴に乗り捨てると人だかりへ潜り込んだ。
「すいません! 友達かもしれないんです! すいません!」
そんな言葉が通用することはないと分かっていたが、言わずにはいられない。
もみくちゃになりながらようやく群衆を潜り抜けるが、すでに路上には
なにも残されていなかった。どす黒く拡がった体液の跡と、細かい人間の
破片がぽつりぽつりと残されているだけだ。
「ゼニゲバどもが……」
背後で誰かが吐き捨てる声が聞こえた。そういう自分だって……と亜弥は
思う。こいつらはみんな、金目当てで死体に群がるハゲタカだ。
原因は、新種のアリの繁殖だった。身元不明の死体には、あっというまに
アリがたかって、食い荒らされてしまう。
そのため、死体が出現したら即座に保存しなければならない。始めはその場
に居合わせた人たちの好意で始まったのに、今では遺族たちへ売りつける
目的で、あっというまに死体はばらばらにされて、持ち去られてしまう。
アリに食われるよりはマシ、とは亜弥は思えなかった。自分だったら、金
目当ての連中にバラされるよりは自然に還った方がよっぽどいい。みなが
嫌っているほど、亜弥はアリのことを悪く思っていなかった。
- 6 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:54
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「すいません」
現場から戻ろうとしている一人を捕まえて、亜弥は尋ねた。
「死体……どういう人でしたか?」
「ああ、おっさんだよ。金髪で若作りしてたけど、身体はくたびれてたな」
男は面倒臭そうに言うと、すでに獲物は残っていないと分かった群衆に
混じって、ぞろぞろと遠ざかっていった。
亜弥は安堵の息を吐いて、彼らの背を見送りながら、なんとはなしに現場へ
目を戻した。と、かすかに動くものが目に入った。
アリだ。まだ群には発見されていなかったものの、一匹だけはやくも紛れ
こんでいたんだ。
周囲を見回す。誰もアリの存在には気付いていない。アリが単独で行動する
なんてハナから信じていない連中だから、見えていないんだ。
亜弥はそっとかがみ込むと、少し弱っているアリを手の中に収めた。
影になった路地まで戻ると、ゆっくりと手を開いて確認する。一回り大きな
カラダ、発達した顎、そして、額から腹部に渡って走っている、ナイフで
抉られたような亀裂。間違いない。
アリの群に手を出そうものなら、大変なことになる。ピラニアのいる水槽に
生肉が放り込まれたときのように、あっというまに骨にされてしまう。
一匹だけをうまく捕獲することは、ほとんど奇跡的なことだった。
気分が昂揚しているせいか、亜弥は無意識にスキップを踏みながら、自転車
を取りに路地へと戻っていった。
- 7 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:54
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◇◆◇
「夕刻の赤い光が消えたことに関しては、多くの仮説が立てられました。
天文学者や物理学者だけではなく、神学的、心理学的、文学的な、多様な
仮説が今でも立てられていますが、依然として決定的な結論は出ていません」
高橋愛は退屈そうに頬を撫でながら、窓から空を見上げた。雲一つない
青い空に、白い月が浮かんでいる。西の地平線に沈みかけている太陽は、
弱くなった光で空全体を薄く照らしているだけだ。
赤いベルトのついた腕時計を見る。極小の歯車が周り、毛細血管ほどの細い
針を動かしている。文字盤を覆うガラスに、横一線の亀裂が入っていて、
時間を真っ二つに区切っているように見えた。
まだ五時を過ぎたばかり。講義が終わるには、あと一時間近く待たないと
いけない。
- 8 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:54
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「大気に含まれる成分が変化したとか、地軸の歪みが左右しているという
仮説は、確たる証拠を得ることがいまだに出来ていません。人間の網膜
に関して、なにか形質の変化があったという仮説もありますが、これも
やはり仮説でしかありません」
干からびたような教授が、長年の講義で手垢にまみれたノートを捲りながら
感情のない言葉を垂れ流している。高橋はあくびをかみ殺しながら、あまり
広くもない教室を見回した。
入りは四分の三ほどだろうか。つまらない講義だが、単位が楽に取れる
ということでこれだけの人間が集まっているのだろう。みな机の下で携帯
を弄ったり、マンガ雑誌を読んだり、ゲームをしたりしている。
溜息をつくと、高橋は手首を見つめた。自分はこれから死ぬ。あれこれと
方法を考えたものの、他の方法は見当たらなかった。
- 9 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:55
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「アリの繁殖が始まったのは、夕日が消えたのとほぼ同時期でした。生態
学者からはこの二つの現象を結びつけて論証しようと言う仮説が多く立て
られましたが、いずれも仮説の域を出ないものです。しかし共通している
ことは一つだけあります。それは、自然界から我々に向けられた、警鐘で
あるということなのです」
小さな頃から、同じ夢にうなされてきていた。手首にナイフを突き立てる。
傷口からは血が流れず、蟻の群が、巣を荒らされたときのように怒り狂って
這い出してくる。何千、何万という黒い群が、あっというまに全身を覆い、
鋭く発達した顎を突き立てる。
赤のボールペンで、軽く力を込めて手首をなぞる。赤いラインが、青く
透けて見える静脈に並んで走る。この皮膚の下に流れているのは、血では
なくてアリなんだ。いつしかそう思うようになっていた。だから、死を
恐れる感情は消えても、アリの群に対する恐怖は消えなかった。
- 10 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:55
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「本来、私たちが真摯に受け止めるべき神学的な仮説が、いまだにまったく
相手にされていないという状況は、憂慮せざるを得ません。私たちは、科学的に
明確にされた世界観に慣れすぎて、崇高なるものを受け入れる余地まで
奪われてしまったのではないでしょうか。赤い夕日ではなく白い月は、今も
若いみなさんと同じくらいの世代を、死に追いやっていると言われています。
群を成したアリには、我々は打つ手を持っていません」
死ぬことを決めたのはもう大分前のことだ。これといった理由はなかった。
強いていえば、あと何十年かを生きていく理由が見付からなかったという
だけの話だ。白い夕刻の月を見ていると、そんな考えはとても自然なもの
のように思えてくる。
しかし手首を切ることだけは出来ない。ナイフを近づけるたびに、無数の
アリが這いだしてくる映像が目の裏にフラッシュバックしてきて、悲鳴を
あげてナイフを落としてしまう。
アリは、死よりも恐ろしく、醜い。自分の体の中には、醜いものがみっしり
と詰まっているんだ。
- 11 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:55
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「夕刻の赤い光は、古代の神話で太陽の流している血として例えられて
来ました。昼に我々に恵みとして与えられる光を生み出すために、太陽は
血を流し、苦しんでいるという神話です。それでは、もはや血を流すことの
なくなった太陽は、我々になにを訴えかけているのでしょう?」
時計を見る。講義が終わるのは五時五十五分だ。あと十分ほどある。しかし
ここで待っていても何の意味もないだろう。
高橋は音を立てないように机の上に出していたノート類を片すと、静かに
立ち上がり、倦怠に満ちた教室を後にした。
- 12 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:56
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◇◆◇
「亜弥ちゃんはなにか飲む?」
少し後ろからの愛の声に、亜弥は立ち止まった。自動販売機の前に愛が
立ち止まって、手を振っている。
「別に喉かわいてないし」
「いいじゃん。一緒になにか飲もうて」
甘えた声になると、自然に訛りが出て来てしまうらしい。亜弥はざっと
商品を見回すと、
「じゃ野菜ジュース」
「ヘルシー指向だ」
面白そうに言いながら、愛は二本分のコインをじゃらじゃらと投入した。
「あれ? おごってくれんの?」
「うん」
変に楽しげに愛は言う。亜弥は不審げな表情を作って顔を覗き込んだ。
「なんかわけありだ?」
「えへへ」
- 13 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:56
- だらだらとウィンドウショッピングをしながら、二人は午後の暇つぶしを
していた。揃いの制服に、通行人たちがちらちらと視線を送ってきている。
亜弥はペットボトルを高く掲げると、白い月に野菜ジュースの赤い液体を
透かしてみようとした。
「濃すぎて見えないや」
「ねえ、亜弥ちゃん」
愛は亜弥がぶら下げている鞄を叩きながら、上目遣いで言う。
「さっき雑貨店に寄ったとき、なんか盗ったやろ」
亜弥はあやうく口をつけていたジュースを吹き出しそうになってしまう。
赤い霧のかわりに、慌てふためいた声が亜弥の口からこぼれ出た。
「み、見てたんだ」
「ダメやよ。そんなんやったら」
「ごめん。なんかつい」
亜弥は鞄を抱きかかえるようにして、植え込みのそばに腰掛けた。愛も
隣にちょこんと座り込む。
「でもすっごい欲しかったの」
「うん。分かる。だって亜弥ちゃんがそんなんするってよっぽどやろうし」
いつもと変わらない無邪気な笑みで、愛は両手を差し出した。
「だから、わたしにも、分け前」
「あー」
亜弥はようやく気付いた様子で、
「さっきのおごりはそれか」
「うんうん」
苦笑いを浮かべながら、亜弥は鞄から木製のケースを取り出した。銅板で
角が縁取りされた、宝箱のようなケースだ。開くと、ハート型とスペード型
の小箱が収められている。
- 14 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:56
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「うわあ、キレイ」
「愛ちゃん、知ってる?」
亜弥は、深く落ち着いた光沢を放っている、ハート型の小箱を取り出して、
愛に持たせた。
「この二つの箱に、世界で一番醜いものを閉じこめたら、一つだけ願い事
が叶うんだって」
「へえー」
目を見開いて、感心したように愛はハートの箱を眺め回している。
「スペードは剣で、ハートは心臓なんだよ。ねえ、愛ちゃん聞いてる?」
白い月が輝きを増して、青い空は次第に深まり、闇へと移行していっている。
- 15 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:57
-
◇◆◇
部屋に戻ると、パソコンを起動させる。その間に、手の中でずっと握り
しめていたアリを開放した。すでに息絶えて、動きを止めている。
「死体を食べてこんなに成長したんだね」
アリを見つめながら、意識せずにそんな言葉が漏れた。亜弥は背中に走った
亀裂を指で撫でると、それをスペードの小箱の中へ収めた。
落ち着いた光を放つ、鏡台に置かれた小さな箱。黒い表面は部屋の照明を
反射して、鈍く光を放っている。
「ハート、分かるよね」
スペードは剣。鋭く尖った先端に気をつけながら、箱を手に取る。
パソコンに向かう。メールが一通届いていた。匿名の差出人。メッセージは
一行しかない。
──やっぱり死ぬことにしました。明日、五号館の屋上から飛び降ります
ごめんね
亜弥は溜息をついて、そのメッセージを消す。もう何度目か分からない。
でも、きっとこれが最後になるはずだった。
「バカ」
一言呟くと、着替えもせずにベッドに潜り込んだ。
- 16 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:57
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◇◆◇
白い月がくっきりと、青い空に浮かび上がっている。
ここはとても寒い。西からの風が髪を揺らし、薄いコートの裾をはためかせた。
フェンスに手をついて、空を見上げる。白い月に、細長い雲が懸かっていた。
腕時計のガラスと同じように、真円を二つに分けている。
五時五十五分、ちょうど講義は終わっている時間だ。
塵の多い空気の層の彼方に、高層ビル群のシルエットが見える。フェンスは
真新しく、ほとんど歪んでいない。愛はゆっくりを足をかけてみる。微かに
軋むような音が聞こえて、すこしだけ傾いた。
こんなフェンスじゃ、なんの防止にも役に立たないだろう。
屋上はゴミだらけだった。ビニール袋や潰れたペットボトル、アルミ缶など
が埃まみれになって散乱していた。まるで、行き場の無くなったものは
みんな自然とここへ集められてくるような気がした。
- 17 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:57
-
背後から抱きすくめられたときも、愛は不思議と驚かなかった。
フェンスにしがみついたまま、月を見上げた。空は青いまま少しずつ光を
薄めていって、やがて闇に沈む。
けど、さっき見たときより少し明るくなったように見える。不思議と、愛の
目にはそう映った。
「亜弥ちゃんは、スペードとハートどっちが好き?」
二つの箱を見比べながら、愛はそう訊いた。
「うーん……スペードかな」
「私ハートが好き」
「どうして?」
亜弥が振り返るのに、愛は首を傾げて、
「どうしてやろ? なんか、黒ってあんま……苦手っていうか」
「ふーん」
- 18 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:58
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スペードの剣。鋭い刃先は繊維を切り裂き、皮膚を切り開いた。胸の奥に
赤く光っているハート型の小箱へ指を伸ばして、ゆっくりと開いた。
アリだ。夢で見たとおり、何千何万というアリの群が、もつれ合うようにして
這い出してくる。愛は声も出せないまま、じっと月を見つめ続けていた。
アリたちは背中の亀裂を開くと、真っ赤な羽根を広げて飛び立っていく。
何千、何万という真っ赤な蝶は、夕刻の空をあっという間に覆い尽くした。
「赤いね」
愛は振り返りもせずに、空を見上げたまま呟く。
「知ってる」
亜弥が耳元で囁く。愛はフェンスにしがみついたまま、胸から舞い上がり
続ける蝶たちの撒き散らす鱗粉に、目を細めた。
「だって、血の色だもん」
- 19 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:58
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急に、眠気が襲った。怖い夢はもうおしまい。そう思った。
愛はフェンスから手を離すと、くたびれた身体をぐったりと亜弥に預けた。
- 20 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:58
- ◇◆◇
- 21 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:58
- ◇◆◇
- 22 名前:45 投稿日:2004/03/21(日) 15:58
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