22 天狗山赤焼け
- 1 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:42
- 22 天狗山赤焼け
- 2 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:43
- エピローグ
「なんかさ、思い出しちゃったよ」
帰りの道すがら、少し先を歩いていた矢口が足を止め、若々しい青に包まれている天狗山を見つめながら云った。
あの山が赤く燃える、それが信じられなく、また今更ながら信じたくない気持ちが強く蠢いていた吉澤は、
いつの間にか取り残されたようになっていることに気づいて、慌てて矢口に駆け寄り訊ねた。
「何をですか?」
「二年位前だったと思うんだけどさ。
辻が縁日の射的かなんかで、イミテーションのダイヤの指輪当ててきたじゃん」
確かに二年前の話だった。
イミテーションと云うのも憚られるようなおもちゃの指輪だったと吉澤は記憶している。
「あれさ、辻がにこにこしながらなっちに渡して、なっちもにこにこしながらつけてたじゃん。
それだけならまだわかるんだけど、なっちさ、寝る時にはちゃんと指輪はずして、布に包んで小箱に入れてたんだよ」
「それは知りませんでした」
「でも、今日はつけてなかったんだよ。
もしかしたら没収されたのかなぁって少しは思ったんだけど、でもさ……」
矢口は一旦言葉を切り、嘲笑混じりに続けた。
「やっぱり、偽者は偽者なんだよ、きっとね」
* * *
- 3 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:43
- プロローグ
安倍なつみがまったく面識のなかった二人の女性に灯油をぶちまけ火を放ったのは、
七月十二日の夕方四時三十分ごろのことだった。
その日は朝から雨が降り続き、
昼ごろになってあがったものの雲は一向に晴れないと云う重たく湿った天気が続いていたが、
ようやく夕方になって晴れ間が覗き、天狗山の上空には夕陽も顔を出した。
凶行の際に発せられた被害者の叫びは、その夕陽すら割ってしまうのではないかと思われたほどである。
- 4 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:44
- 一
さすがに「日本三夕」の名は伊達ではないと思わせる、鮮やかかつ力強い赤光である。
山裾に並んだ牧舎の赤い屋根が、天狗山に沈み行く夕陽と同化して風景に溶け、見えなくなっていた。
山肌を縁取る稜線が浮かび上がり、林立する木々はただの黒い塊としか目に映らない。
燃え盛る夕陽が滾らせている熱の余波が地上に降り注ぎじっとりと暑い。
吉澤ひとみは竹箒を操る手を止め、額の汗を拭った。
天狗山の真向かいに当たる狛犬神社の方から、縁日の囃子の音が響いてくる。
それに遅れて、祭りの帰りだろうか、子供たちの邪気のない声が届いた。
「よっすぃ」
一通り庭の掃除を終え竹箒をしまっていると、家の中から声をかけられた。
振り返ると、矢口真里が縁側に日向ぼっこよろしく腰を下ろしている。
その手に湯呑みと煎餅があるのを見止めると、吉澤は笑顔を浮かべ小走りで矢口の元に寄った。
「お茶淹れたからさ、少し休みなよ。
探すのは、これ食べてからでも大丈夫でしょ?」
「ええ」
隣に坐った吉澤に、矢口はかいがいしく湯呑みを手渡してやる。
吉澤はゆっくりと口に含んだ。
いつも思うことだが、本当に矢口の淹れるお茶は旨い。
「美味しいです」
ありがと、と呟いた矢口は煎餅を咀嚼しながら遠くを見るように視線を上げた。
連れて吉澤がその視線を追うと、狛犬様の中心に居座っている樹齢何百年といわれる大欅と、
その周辺から幾筋か立ち昇っている白い煙が見えた。
これがたとえば冬ならば、神社で執り行われる護符の奉納などで発生したものだと認識されるかもしれないが、
あいにく今は夏、しかも八月十二日と来れば、煙の正体はひとつしか考えられない。
- 5 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:45
- 「……迎え火ですね」
迎え火、死者を招く儀式。
吉澤は慎重に云った。
似たような光景に、どうしても、ひと月前の出来事を思い出さないわけにはいかない。
矢口の方を盗み見ると、機械的に口を動かしてはいるものの、どこか気が抜けている印象は否めない。
何か考え事をしている風にも見えなくはないが、どちらにしろ声をかけても反応があるとは思えなかった。
煙立つ迎え火や、矢口の普段にはない沈痛な面持ちに触れ、
何かを誤魔化すように煎餅を一枚取り噛み砕きながら、しかし吉澤はさまざまな思いを強くしていた。
安倍が不可解な行動に走った理由、いやそもそも、殺人未遂は本当に安倍の仕業だったのかと云う疑問。
そうなのだ、吉澤にはどうしても安倍がそんな恐ろしい行動を起こす人物とは思えなかった。
まったく見知らぬ人物が被害者と云う点も腑に落ちないし、何より常時の安倍を見ていれば何をいわんやと云うものだった。
安倍とて菩薩ではないのだから当然怒ることもあれば間違えることもある。
吉澤は安倍を憧憬していたはが盲信していたわけではないので、
たとえば自分が比較的安倍の中での優先順位が低いことに対してはわずかながら不満を覚えたりもしていた。
まだこの安倍の家がボランティアの孤児院として稼動していた時分の話だ。
- 6 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:45
- 二
そのころ、安倍は若くして鬼籍に入った両親の莫大な遺産と広大な土地を受け継ぎ、
質素な生活ならば人生を二周できるほどの経済的な蓄えを備えていた。
どう云う考えで孤児院を始めようと思ったのか、安倍は頑として話さなかったのでその真相は藪の中だが、
ともかく安倍の心根の優しさと溺れるほどの金銭がなければ成し得るものではない。
矢口は安倍の親友であり初めから職員として雇われていたが、
吉澤は、元は安倍に孤児として引き取られ、
そのまま子供たちの世話係のような役を引き受けながら現在に至っている。
吉澤は入院当時から比較的高い年齢であったため、安倍の手を煩わせることはなく、
むしろ安倍に頼られ、自分より年下の子供たちの世話に従事していた。
それ自体に不満を覚えることはなかったし、年下の子供たちと遊ぶことも楽しかったので問題はなかったのだが、
すると自然、安倍の関心──言葉が悪ければ注意あるいは視線──は他の子供たちに向けられるようになる。
特に問題児と目されていた辻希美は安倍の悩みの種であり、だからこそ最もかわいがられてもいた。
どうしても彼女のことが気にかかり、言葉をかける回数や行動に他の子供たちと差がついてしまう。
不平等だと文句を云うような子供はいなかったが、安倍自身は気に病んでいたらしく、
吉澤はよく呼び出され、差し出されたお茶菓子と共に弁明の言葉をもらっていた。
- 7 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:46
- その辻がまだ幼い命を落としたのが、昨年の七月初頭、まだ暑さも柔らかいころのことである。
山菜採取とピクニックを兼ねて、安倍と当時六人いた子供たちが天狗山に入った。
矢口と吉澤は安倍に頼まれ留守番をしていたのだが、安倍たちが山に入ってしばらくすると、
嫌な雲が空を覆いだし、程なくして雨粒も落ちてきた。
山の天気が変わりやすいことは身をもって知っているので雨具などの用意に抜かりはなかったが、
次第に雨脚が強まっていき、
それにしては一行の帰りが遅いことに二人が不安を感じ始めたころ、安倍からの連絡が入った。
「ののが怪我をしたから救急車を呼んだ」
電話を受けた矢口は傘を打っているらしい雨だれの激しい音でそれだけを聞き取るのが精一杯だったが、
しかしその一言だけで十分深刻な状況であると云うことは伝わった。
安倍の声が震えて聞こえたからだ。
救急車のサイレンが通り過ぎる音と、吉澤の駆けてくる音が、受話器を当てていない耳に飛び込んできた。
事故は、結論すればすべてが不幸にできていたと云えた。
天狗山は観光山ではないため道の舗装が行き届いておらず、救急車は山裾での立ち往生を余儀なくされた。
安倍たちは丁度山の五合目あたりにおり、救急隊の到着も手間取り、
勢いを強めるばかりの雨が急速に空気を冷やし、辻の体温を奪った。
救急車に運び込まれるころには、辻の心拍数は回復不可能な数値まで落ち込んでいたと云うことだった。
何かに足をとられて転び、後頭部を強く打ち付けたのが直接の死因であった。
- 8 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:46
- 辻の事故があってすぐ、安倍は今まで共に生活をしていた子供たちをすべて、最寄の正式な孤児院へと託した。
辻の一件が安倍の重くのしかかっていたのは想像に難くない。
事故直後の安倍は矢口や吉澤を以ってしても話しかけることすらできないほど塞ぎこみ、
大げさではなく、辻の後を追ってしまうのではないかと危ぶまれたほどだったが、
ひと月もするころにはいつまでも塞いでいても仕方がないと思ったのか、
矢口や吉澤との会話が成立し始め、ぽつぽつと事件についても語った。
辻が、私が一番たくさん山菜を採ってくると自慢げに語っていたこと、
二度三度の登山ではなかったため、安倍に心の隙があったこと、
呼びかけても返事をしないことは多々あったけれど、あんなに空虚な気持ちになったのははじめてだったこと……。
「思い上がってたよなっち。
なっちみたいな人間に、孤児院なんて責任のある仕事ができるわけなかったんだ」
そう云った寂しい横顔は、吹けば消えてしまいそうなほど儚かった。
- 9 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:47
- 三
「……迎え火さ、うちらだけでもやろうか。
先月できなかったから、辻も困ってるかもしれないし」
不意に思い出したように矢口がぽつりと云い、吉澤は回想をやめて矢口の方を見た。
いまだに視線は風にたなびいている迎え火の煙に注がれていたが、その横顔は普段の矢口に戻っていた。
確かに、先月は安倍の事件でそれどころではなくなってしまった。
「……そうですね」
応えて、しかし吉澤は安倍のいない迎え火にどんな意味があるのだろうかと考えた。
吉澤も矢口も辻をないがしろにしていたわけではもちろんないし、辻も二人によくなついていたが、
しかし最も辻に目をかけていたのは安倍だったし、また辻が最もなついていたのも安倍だった。
そんな吉澤の気持ちを察したのか、矢口はすっくと立ち上がると明るく笑って云った。
「なっちには、送り火の時に帰ってきてもらおう。
辻のことだから、なっちがいたら帰りたくないとか云って泣くかもね」
努めている感は拭えなかったけれど、吉澤もそれにあわせて笑った。
「よし、じゃあまた探しますか。
とりあえずこれだけ片付けてくるね」
盆を持って駆け出した矢口の背中を追いながら、吉澤はひとりで頷いた。
そうだ、探さなければ、そして見つけなければならない。
安倍が殺人未遂の犯人ではないという証拠、そうでなくても、安倍に有利になる発見を。
- 10 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:48
- 夕陽は三分ほどを山に沈めていたが、それでも強い光はあまり衰えを見せない。
幾つかの家の軒先に並んでいる鬼灯が、残光の薄い赤をまとっていた。
吉澤は矢口に先んじて外に出ると、建物のぐるりを囲む竹垣を覗き込むようにして腰を落とした。
現場はこの家の玄関前である。
何かを発見するならばこのあたりしかないのだが、事件発生から一ヶ月、
吉澤と矢口が毎日のように探し回っても、一向に何も見つからなかった。
尤も何を見つければいいのかさえわからない手探りの状態なのだから、
もしかしたら重要な物を発見していても見過ごしているかもしれない。
しかし、そんなことを云いだしたらきりがない。
まずは誰の目にも事件に関わりがある、と思われるものを発見しようと二人の意見は一致していた。
吉澤が竹垣にもぐりこんで数分後、くぐもったような声が聞こえてきた。
「おかしいな、このあたりで見つかるはずなんだけど……」
「ありませんね……」
二人の、どうやら女性らしい聞き慣れない話し声である。
安倍の家は界隈から少し外れたところにあり、前に通っている道も狭い。
天狗山へと繋がっているので、山菜などを採りに行く人間が利用することはあるが、
地元の人間以外で、大きな表通りではなくこちらの細い道を使う人は珍しかった。
声の調子がどことなく困っているようでもあったので、吉澤は竹垣から顔を出して声の方向を見やった。
- 11 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:48
- 歩いていたのは、背が高く髪の長い女性と、女性と云うよりは少女と云う呼称が似合いそうな人だった。
背の高い女性の方が身分が上らしく、ないかないかと道端を気にしながら少女に指図している。
少女の方はありませんありませんとやはり足元を気にしながら返答している。
「ドレミーのウタガイがあるんだから、何とか見つけたいんだけどね……」
「やはり山に入るしかないのでしょうか……。
道が複雑で素人は入らないほうがいいと云われたではありませんか……」
「しかし、ドレミーはヤッカイだよ」
「ウタガイですよ。
私は得体の知れない病気のウタガイに振り回されて、山で遭難なんてごめんですよ……」
吉澤は訝しげに首を傾げた。
何とかと云う貝を探しているらしいが、このあたりは基本的に平地で海など臨むべくもない。
しかも少女の方は山に入るとまで云っている。
奇妙だとは思いながら、しかし見るからに困っている以上一声かけないわけにはいかなかった。
「あの、失礼ですがこの辺りに海はありませんよ」
しゃがんでいた吉澤が突然立ち上がり、しかも声までかけたことに驚いたのか、
少女の方は声にならない声を上げて後ろにぴょんと飛び退き、
しかし着地に失敗してしたたかに腰を打ちつけあわあわ云いながら転げ回った。
背の高い女性はそんな少女を一瞥しただけで、
「はぁ、それは存じておりますが……」
「ですから、お話されていた何とかガイとか何とかカイやらも見つからないと思いますよ」
話しながら、どうしても奇矯な少女の方に目がいってしまう。
吉澤が少女の様子を窺っている間に、背の高い女性は何かを考えているのか腕を組んで俯いてしまった。
「先生がウタガイと仰ったからではないですか?」
のた打ち回っていた少女はようやく立ち上がり云った後、慌てて吉澤に頭を下げた。
- 12 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:49
- 「私たちが探しにきたのは貝ではなくて、ドレミーテングダケと云うきのこです。
どうやら私にドレミー氏病と云う奇病の疑い──疑惑があるらしくて、それで……」
少女に見上げられた女性はようやく得心が云ったという風に頷き、隣の少女を見返した。
「私は植物学者の飯田圭織と申します。
ドレミー氏病の早期対策のために、私がこの紺野あさ美をここまで引っ張ってきたのです。
生のドレミーテングダケは、ドレミー氏病の対策に効果が絶大なのです」
吉澤はドレミー氏病という病気に覚えはなかったが、
飯田によるとその名の通りドレミの音が取れなくなる病気らしかった。
どれほどの病気かと思わないでもないが、
してみると紺野は風貌からは想像できないが音楽に携わっているのだろうか。
「ところが予想に反してドレミーテングダケがまったく見つからずに参っていたのです。
このあたりで採取できるはずなのですが……」
飯田は顎を掻いた。
困った顔が妙に様になっているように吉澤には見えた。
「ドレミーテングダケなら、確かに天狗山で取れますね。
私たちはちょくちょく山に入って取ってきていますので、よろしかったらお譲りしましょうか。
乾燥させてありますけども」
こう云ったやさしさは安倍の教えである。
紺野と飯田はいかにも嬉しそうに顔をほころばせた。
「ぜひお願いします」
- 13 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:49
- 一旦家に入り、干して乾燥させたドレミーテングダケを持って戻ってきた吉澤を見て、
飯田と紺野は今にも踊りださんばかりに喜んだ。
「ありがとうございました、助かりました」
紺野は律儀に膝に手を当て、深々と頭を下げる。
「本当に助かりました
生ほど効果的ではないのですが、量を増せば変わりません。
山へ入る手間も省けましたし、何かお礼をさせてください」
飯田もいささか興奮気味の口調でまくし立てたが、吉澤は固辞した。
見返りを求めての行為ではない。
しかし飯田の方もそれでは納得できないと譲らず、しばらく押し問答を続けていると、
「そう云えば、先ほどはこちらで何をされていたのですか?」
紺野が横から訊いてきた。
「あれは……」
云いかけて、しかし吉澤は思いとどまる。
探し物をしていると云ったら、飯田と紺野は勇んで手伝うと云うだろう。
ありがたいことは間違いないが、探し物は何ですかと問われたら応えようがない。
事件のことを赤の他人に気安く話すのは抵抗もあった。
しかし、もし手伝ってもらうことで安倍に有益な何かが見つかればこれ以上はない。
- 14 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:50
- 「あれ?よっすぃどちら様?」
苦悩していた吉澤の背中に、矢口の声が跳ね返った。
草履を突っかけてこちらへと歩いてくる。
飯田と紺野は身分を明かして丁寧に頭を下げ、矢口もそれで警戒を解いたのか挨拶を返した。
「……手伝ってもらうべきじゃないかな」
三人で代わる代わる、飯田と紺野がドレミーテングダケを探していたこと、
ドレミーテングダケを差し出してくれた吉澤にお礼をしたがっていることなどを話し、
最後に吉澤が証拠探しを手伝ってもらうかどうかを問うと、矢口は少し考えた後に云った。
「確かにあんまり進んで話したい話じゃないけど、
今はなっちを解放してあげるのが最優先事項じゃないかな。
だから、手伝ってもらえるんだったら手伝ってもらうべきだと思う。
事情を話して断られたらしょうがないけど」
「お断りなどするはずがありません」
力強く飯田が云い、紺野は少し戸惑いながら同調して頷いた。
「なんなりとお申し付けください」
それならば、と矢口と吉澤は頷きあい、事件の顛末について語り始めた。
- 15 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:51
- 四
被害者は藤本美貴と松浦亜弥と云う女子大生二人だった。
前述のとおり、安倍との面識はない。
二人は近くにある大学の学生で、大学で提示された課題をこなすために天狗山に入っており、
被害にあったのはその帰り道のことである。
二人の証言──全身火傷の重症であったため、事件から三週間がたってようやく証言が取れた──
によると、他愛もない話をしながら帰りの道を歩いていたところ、
突然左側から奇声が聞こえ、振り向く間もなく何かをぶち撒かれたとのことだった。
急の襲撃に怯んで転び、そしてその粘性と匂いから普通の水ではないと気づいた時には、
すでに視界の端にマッチを擦っている安倍の姿を認められたと云う。
それ以降の記憶ははっきりしておらず、気がついたら病院のベッドにいたと云うことだった。
通報者の女性──安倍の家の斜向かいに住む保田圭と云う女性であった──によると、
突然耳を劈く甲高い音が聞こえ、慌てて外に飛び出してみると、既に赤い火達磨が煌々と輝いていたらしい。
同時に飛び出してきていた数人と協力しての消火が迅速かつ的確だったおかげで人命は助かったが、
火の対応に必死で安倍の姿は見ていないと云う。
被害者の他に安倍の存在を証言したのが、きこりの小川麻琴である。
天狗山へは柴刈りのためによく入っていると云う彼女は、事件当時被害者二人の遥か後方を歩いていた。
距離はあったものの奇声は耳にしており、その直後に二人の左側から女が飛び出してきて、火をつけたと語った。
遠目だったので各人の顔まではわからないと云うことだったが、
駆けつけた警察官による現場検証および付近の捜索の結果、
その時間安倍の家には安倍しかいなかったことが確認され、
また安倍自信が事件に関して黙秘を続けていることから、重要参考人として連行される運びとなった。
- 16 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:53
- 五
主観が先行することを前置きした上で、事件のこと、加えて安倍のことを矢口は的確に話した。
「あまり伝わらなかったとは思いますが、安倍は素晴らしい人間なのです。
ですから、私と吉澤は安倍が見ず知らずの人に火をつけるはずなどないと思っています。
けれど、現場や証言はすべて安倍を犯人と名指ししています。
それを覆すには、何かを見つけるしかないんです」
矢口の言葉は語尾に向かうにつれ迫力を増している。
飯田はひどく共感した様子で二度三度と相槌を打っていたが、
紺野は荒野に迷い込んでしまった子兎のような怯えた目で忙しなく辺りを窺っている。
先ほどからどうにも挙動が不審だと吉澤が思っていると、
「あの、小川さんと保田さんは、安倍さんと面識があったのでしょうか」
突然そんなことを訊いてきた。
「保田さんはよく知っていましたね。
週に一度くらいは家に来て、お茶を飲みながらお話をしていたと思います。
小川と云う人に関しては、私たちが知る限りでは面識はなかったはずです」
矢口に代わって吉澤が答えると、紺野は本格的に取り乱し始め、どもりながら言葉を繋いだ。
「で、では、なぜ真夏に灯油とマッチを携帯していたのですか?
まるで計画的な犯行のようですけども……」
聞きようによっては失礼とも思われそうな云い草だったが、矢口は気にせず答えた。
「それは不思議でもなんでもないんです。
その日は丁度迎え火の日でしたから。
昼過ぎまで天気が悪くて、火のつき具合を心配した私が、灯油を出しておいたんです。
私と吉澤は、丁度買出しに出ていまして……」
- 17 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:54
- 「ですが、このあたり一帯は今日迎え火を行っていますよね?
先ほどから鬼灯をよく見かけますし、煙が幾筋も立ち昇っていますし……」
「ええ、基本的には八月に行っていますし、私たちも昨年まではそうでした。
ですが、ここで経営していた孤児院で、昨年子供をひとり亡くす事故が起きまして……。
その事故で安倍が自信をなくしてしまいまして、
子供たちはそれぞれ正式な院に引き取ってもらって孤児院を閉めたのですが、それが丁度七月のことでしたから……」
辻のことだったが、辻の事件に関しては触れる程度にしか矢口は語らなかった。
「まさか……」
紺野は変調を来たしているのではないかと思うほどに身体を震わせている。
さすがに矢口も眉を顰めたが、紺野は構わず自分に問うような調子で云った。
「まさか、その亡くなった子供さんの事故原因は、雪山で遭難とかではありませんよね?」
「何を云ってるの、お二方に失礼よ」
飯田が慌ててたしなめる。
確かに一見突拍子もないように思えた紺野の発言だったが、矢口と吉澤は俄かに動きを止めた。
やがて、ゆっくりと矢口が口を開いた。
「……雪山ではありませんが、天狗山で迷子になったのが事故の原因です。
何かに足を取られて頭を打ったのですが、なぜ、おわかりになったのですか?」
矢口の言葉を皆まで聞かず、紺野は白目を剥きながら、金魚のように口をぱくぱくと動かした。
- 18 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:55
- 六
「……云いにくいのですが、お話を聞いてすぐ、安倍さんが犯人であることは間違いないだろうなと思っていました」
だいぶ落ち着いてきた紺野が低い声で、若干云いにくそうに云った。
飯田は驚きの目で、吉澤は挑むような目で、矢口は食い入るような目で紺野の方を見やる。
「現場の状況もそうですし、証言を見ても疑う余地はありません。
被害者の二人も小川さんも安倍さんと面識がないのですから、虚偽の証言をする必要もないはずですし。
ですが、同じように安倍さんが面識のない二人に火をつける理由も見つかりませんでした。
お話を聞く限り心優しい方のようですし、黙秘を通していると云うことも鑑みると、
突発的な行動で片付けるのもあまりすっきりとしません。
何か理由があるんだろう、そう思った時に引っかかったのが、二人を襲った方法でした。
たまたま迎え火の用意で手元にあったとは云え、灯油をかけて燃やすとは尋常ではありませんし、楽でもないはずです。
ただ単に人を傷つけるのならばナイフでも持って切りかかった方が早いでしょう。
ですから、安倍さんの目的は襲うと云うことではなかったのではないか、
厳密に云えば、火をつけることに意味があったのではないか。
そう考えたら、このあたり一帯に散見される鬼灯などからも、
先ほどお話してくださった事故の件からも、迎え火を連想するのはそれほど難しくないかと思います」
そこまで一息に云うと、紺野は吉澤の方へと向き直り、突然頭を下げた。
- 19 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:55
- 「ドレミーテングダケ、ありがとうございました」
「え、いや、それはいいんですけど……」
今にも食ってかからん勢いだった吉澤だが、紺野のマイペースな挨拶につられて頭を下げてしまう。
紺野は手にしていたドレミーテングダケの入った袋を軽く揺らしながら続けた。
「これのおかげで、ひとつの考えが生まれました。
ドレミー氏病の対策のためには生のドレミーテングダケが一番なんですけれども、
乾燥させたものであっても量を増せば変わりません。
結局はドレミー氏病が治れば問題ないのです。
もしかしたら、安倍さんも同じことを考えたんじゃないかと思うのです」
「それは……」
すっかり話に聞き入っている吉澤がほとんど無意識のうちに訊いた。
紺野は何も云わず、帽子のように夕陽を被っている天狗山の方を振り返った。
「……夕陽、綺麗ですね。
事件のあった日は午前中は雨だったそうですから、余計に映えたでしょう。
あんなに赤くて強い光だと、どうしても目を奪われてしまいますし、
あの牧舎の屋根のように、同系統の色はどうしても夕陽に溶け込んでしまいますよね。
鬼灯も提灯も迎え火も、目立たなくなってしまうのではないでしょうか。
死者の先導を担うそれらが夕陽に埋もれていては、死者は帰りに往生してしまうのではないでしょうか。
ましてや、道に迷って命を落とされた方なら……」
そこまで云って、また紺野は振り返った。
その顔には、憂いとも焦燥とも悲哀とも取れる表情が浮かんでいた。
「まさか、じゃあなっちは……」
詰問調で、けれど搾り出したような矢口の言葉に、ゆっくりと重々しく頷いて、紺野は呟いた。
- 20 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:56
- 「安倍さんが火をつけたのは、死者が道に迷わないようにするため。
それはつまり、夕陽があまりに美しく、眩しかったからではないでしょうか……」
- 21 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:56
- 七
紺野の話を聞いた翌日、矢口と吉澤は連れ立って安倍の向かいに座っていた。
ガラス越しに見る一月ぶりの安倍は若干やつれて見えたものの、それほど変わった様子はなかった。
「久しぶり」
「うん」
軽やかな安倍の挨拶に対する返事もそこそこに、二人は顔を見合わせ、そして矢口が言葉を放った。
「……辻のためだったんだね」
安倍は言葉を聞いても微動だにせず、ただ黙って二人の顔を見つめ返した。
二人も視線をそらさず、睨みあうような格好になる。
そんな沈黙がしばらく続き、やがて安倍が耐え切れなくなったとでも云うように、ため息混じりに云った。
「だって、もうあの子を迷子にするわけにはいかないもの」
- 22 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:56
- あ
- 23 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:57
- あ
- 24 名前:22 天狗山赤焼け 投稿日:2004/03/17(水) 00:57
- い
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