9 【夕焼けこやけで日は暮れた】

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/14(日) 03:55



9 【夕焼けこやけで日は暮れた】


2 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:01




希美は肺を患っている。
いや、患っていた、というべきか。
彼女がこの世から消えてしまった今、
それを過去形に正すべきなのか、亜依は判断しかねた。
そしてまた、冷静にそんなことを考えている自分自身の感情をも、亜依は判断しかねた。


辻希美が死んだ。

一ヶ月前のことだった。

丁度メールのやり取りが途絶えた頃だ、と亜依は思った。




3 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:02
今朝、ベッドの中で何度も読み返したその手紙を、亜依は再び手に取っていた。


午後3時の日差しは暖かい。
ブラインドの隙間を漏れた光は、亜依の傍らで、ベッドに縞模様の影を落としている。
恐らく姉の亜弥が片付けたのだろう、昨日読んでそのままにしておいた
本や雑誌は、当たり前のように本棚に収まっていた。
なめらかなコルク張りのフローリングにはチリひとつ落ちていない。

掃除の行き届いた、こざっぱりとした部屋には
加湿器がH原子を吐き出す、真面目くさった呼吸音が響くのみ。
時折、住宅街らしく主婦同士が挨拶をする声、車が通る音が混じるが、
亜依の周辺は基本的に、平和な静寂で守られていた。



―ごめんなさい。

そんな一文からその手紙ははじまっていた。

―のんちゃんを救えませんでした。ごめんなさい。

筆跡は弱々しく揺れていた。

4 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:03

手紙の送り主は、2ヶ月も報告が遅れたこと、
初めて亜依に出す手紙の内容が希美の死であることを詫びていた。
弱い筆圧でびっしりとつづられた文字は、淡々と希美の死への経過を語る。
亜依は文面を目で追いながら、朝方に、姉のいれてくれたミルクティーをすすった。
熱を失い、とうに牛乳と紅茶の分離したそれは、味気なく亜依の喉を潤した。


―のんちゃんが亡くなったのは、お正月も7日を過ぎ、
 新年も無事迎えられたと一息ついていた1月9日の午後2時頃のことでした。
 その日は丁度雪が降っていて、のんちゃんは外に出たいと私にせがみました。
 そこ一週間の、のんちゃんの状態は安定していて、その日も彼女はとても元気でした。
 本当に、肺が悪いのが嘘みたいに、元気だったのです。


 真っ白な便箋は、手紙をよこした看護婦の、白い肌を思わせた。
長い黒髪と、背の高い容姿と、未だ十代の少女のように繊細な輝きを宿した瞳を持つ
飯田という看護婦は、ことさらに希美を可愛がっていた。
希美もまた彼女を慕い、事あるごとに「いいらさん、いいらさん」と、
舌足らずな口調でその名を呼んだ。
気のいい、少しおっちょこちょいな新人看護婦。
亜依と希美、二人とも体調のいいときは、
連れ立って飯田にイタズラを仕掛けたものである。
それは、亜依にとって―おそらく希美にとっても―もっとも愉快で幸せな瞬間だった。
5 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:04
一瞬まぶたに浮かんだ過去の情景が、亜依を微笑ませた。
傍らで空気清浄機が、正常に機能しているのを耳で確認しながら、
亜依は3枚目をとりだし、2枚目と差し替えた。


―のんちゃんが表に出たいとせがんだので
 私は一端ナースステーションに戻りました。
 車椅子を取ってくるのと、先生のお許しをもらうためです。
 ただ中庭に出るだけのことでも、私の一任で決めるわけにはいきません。
 程なくして先生のお許しが出て、私は毛布と車椅子を持って
 のんちゃんの病室にもどりました。


 のんちゃんは、病室の出窓の前に椅子を置いて、
 サッシにもたれかかって雪をながめているようでした。
 
 “のんちゃん、外、出ていいって”

 話しかけてみましたが、返事がありません。でも、それはのんちゃんに
 しては珍しいことではありませんから、私はもう一度同じ台詞を
 彼女に投げかけてみました。
 きっと、雪を見るのに熱中して、私の声がよく聞こえていないのだと思ったんです。
 亜依ちゃんも、のんちゃんに関してはよく知っているから分かると思うけれど。
 のんちゃんの、こういう普通よりゆっくりな反応は、日常茶飯事でしょう。
 だから私、いつものように、待ってあげようと思いました。
 のんちゃんが、雪を眺めるのに飽きるまで。
6 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:05
 でも、5分、10分、たっても彼女はピクリとも動きません。
 私も仕事柄、沢山の患者さんのお世話をしなければなりません。
 薄い寝巻きで窓辺にすわるのは、体に悪いとも思いました。

 のんちゃんは腕を枕にして頬杖をついたまま、目を閉じていました。
 寝ているのかと思いました。
 そこで私は肩を揺すります。

 起きません。

 頬をつねってみます。
 流石にこれは起きるかと思いましたが起きません。
 最後には、耳元で大声を出して背中を叩きました。


 やはり起きません。

 
 私は・…






7 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:06
そこから先は、何度も書いては消し、書いては消し、を繰り返したと思われる
痕跡がうかがえ、紙は不自然によれていた。
亜依は、わずかに薬品のにおいのする便せんを光に透かして眺めた。
真っ白な紙の上には点々と、消しゴムで消しきれなかった黒鉛が
灰色の染みとなって、薄く付着していた。
紙面にこぼれた涙をあわててぬぐったのか、鉛筆の粉が尾を引いて
文字がセンテンスの末から斜め方向にぼけていた。
それはそのまま、飯田の深い哀しみを表しているかのようだった。

果たして、この後希美が起き上がることは永遠になかったのだ。
そして、飯田はこの手紙を書いた。

亜依は、便箋を封筒に納め、丁寧に3つにたたんで、スカートのポケットにしまった。
外からは、思い出したように犬の遠吠えが聞こえ、
静寂の合間に子供たちの黄色い歓声が響いた。
亜依は今日が日曜日であることをぼんやりと考えた。

「散歩でも、しよ。」

唐突に、外に出たくなっていた。
めまいをおこさないよう、注意しながら、背もたれにしていた
ベッドの脚に手をかけ、亜依はゆっくりと立ち上がる。
そして、よろよろと部屋の端まで歩いた。
久しぶりに衣装ダンスを開け、取り出した丈の長い淡黄色のダッフルコート。
3年前のクリスマスに父が買ってくれたものだが、
あの日から亜依は殆ど成長していない。
8 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:07
亜依はコートとマフラーを着こんで、階下に降りていった。
いつも起きると迎えてくれる亜弥の姿はなく、リビングは閑散としていた。

「Dear→あいぼん
 おはよう!昼寝してるみたいだから起こさないで行くね。
 おなか空いたら、冷蔵庫に色々あるから。あ、昼の分のお薬忘れずに!
 亜弥はちょっとお買い物に行ってきます。一時間くらいで戻るよ
               
                                亜弥 」

字は、その人の人柄を表すというが、
亜弥の字ほど本人を如実に物語っているものはないだろうと亜依は思う。
食卓に置かれたメモの上に踊る、丸みを帯びた書体は、
いかにも女の子が書いたものを連想させ、またそれはいかにも亜弥に似つかわしかった。

居間の大時計は、1時をさしていた。
亜依は、メモ用紙の端に添えられたペンをとると、亜弥のメッセージの下に
散歩にいくこと、2、30分で戻ることを書き置いた。
視界の端が、空のコップと毎日のルーティーンである、
大量の薬袋を捉えたが、亜依はそれを意識的に見ないようにした。

散歩は大して時間のかかるものではない。
亜弥が帰ってくる頃には、何気ない顔で部屋に戻っていればいいのだ。

なにより今は、無性に外の空気が吸いたかった。
9 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:08



 外は、亜依が想像していたよりもずっと暖かった。
最後にきちんと表に出たのは10日程前だったが、その時から確実に季節は流れている。
亜依は、ゴム製の靴底をわざと鳴らしながら、曇りひとつない3月の晴天の下を
自宅から2ブロック先の市民公園を目指して歩いた。

道中、向かいの白い家に住んでいる男の子と女の子の姉弟が、
友達と5、6人で輪になって遊んでいるのに遭遇した。
その内顔見知りの男の子と、彼の仲間2人が喧嘩を始めて
それを近くで見ていた、男の子の若い母親が慌てて止めていた。
喧嘩相手の子供が怒鳴る声と、周りで見ていた女の子の泣く声、男の子が
持っていた玩具を地面に叩きつける音、それをたしなめる母親のおどおどした調子、
自転車のタイヤがすれる音、どこからか聞こえるエンジン音…――

それらすべてが実に平和で健康的な調和を保ち、ひとつの音楽を奏でていた。
亜依は、歩を緩めて、その光景を遠巻きに眺めていた。


すると、すれ違いざま、母親が、亜依に気付いて会釈した。
亜依も微笑を浮かべ、母親に軽く頭を下げた。
母親の表情からは、困惑と同情と、ほんの少しの驚きが見て取れた。
亜依は、自分のゴム底がアスファルトを蹴るたびに、
不協和音をばらまいているようだと思った。
10 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:09

コートのポケットに手を突っ込んで、亜依は公園までの広い坂をゆっくりと上った。

封筒の感触を、布越しに何度も確かめる。
亜依が叩くたびに、希美の死を記した紙束は、ぽんぽん、と軽い音をたてた。
亜依は、からりと晴れた空を見上げて、母が死んだ日のことを思い出した。
成人までの生存は難しい、と近代医学の使徒より託宣を受けた亜依よりも早く、
母はトレーラーの横転に巻き込まれ、あっけなく逝ってしまった。


3年前の、丁度この季節だった。




その事実を告げ知らされた時の空も、このように澄んでいた。




11 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:10




 公園は、休日ということもあって、ちびっ子達で盛況だった。
亜依のスニーカーは、遊戯場の健康な協調を乱してつっきり、
背の高い樹木のひっそりとそびえる、並木道の方へと向かった。
どこか神秘的で、静かな空気が広がっている亜空間は
彼女のお気に入りの場所だった。

コケの蒸したベンチに座り、亜依は、ほう、と息をついた。
彼女を取り囲むように生えている常緑広葉樹は、昔教科書で見た
ギリシアにあるとかいう、いかめしいドーリア式建築の柱を思い起こさせる。
ひたひたと迫ってくる孤独と寂寥感をむしろ心地よく感じながら亜依は目を閉じた。
しばらくそうして、やがて困ったようにため息をついた。


「なんだ、泣けないじゃん。」


独り笑って、亜依は封筒を取り出した。
狭い場所にねじ込められていたそれは、ぴっしりと線が二本ついている。
やはり、涙は出ない。

希美とは、小児病棟で知り合った。
病気を宣告されたはじめの一年の間にできた、親友と呼べる存在。
悲しくないわけがなかった。
しかし、今の亜依の心のうちは、冷静を通り越して無感動に近かった。
12 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:11
亜依はいらだった。
わざわざ泣きにきたこの場所においても、希美の死を思って
何の変化もおとずれない自分にいらだった。
自分はもはや正常な人間ではないのだ、と亜依は思った。


「飯田さんは、ぎょーさん泣いたんやろか」


亜依よりもずっと健康な、手紙の差出人を思う。
自分の担当患者が死ぬたびに大粒の涙を浮かべていた飯田。
いつも、あとでこっそり婦長に叱られていた。
そんな飯田が、希美の死を亜依に教えたことは、少々意外だった。
彼女の性質から考えれば、越権行為云々以前に、たとえそれが親友の死であっても、
日々命を燃やしている亜依に事実を告げることは、酷だと判断しそうであった。


自分はそういう話もできない、というほどの病人には思われていなかったのか、
と、密かに安堵している自分をみつけて、亜依はまた不快になった。

13 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:11
希美は、生まれつき肺の悪い少女だった。
加えて、乳児時の発熱の後遺症で、うまく発音することが出来なかった。
恐らく、その時頭も少々やられたのだろう、彼女の言動は歳よりずっと幼く思えた。
だからというか、亜依は希美と遊ぶ時、小学校にあがったばかりの男子がするような
悪ふざけをしては、毎回飯田達看護婦を困らせた。
まじめな話をすることはほとんどといっていいほどなかった。

それは、刻々と迫ってくるタイムリミットに対する不安の裏返しでも
あったと亜依は自身を振り返る。



やがてくるサヨナラの予感。
ただはしゃいで日々を消化するしかなかったある日、
ごく近しい少年が発作を起こして倒れたことがあった。

それは突然だった。

先ほどまで一緒にテレビを観ていたその子は、
突然口から大量の泡を吹いてそのまま仰向けに倒れた。

それは、亜依が頭に爆弾を抱えていることを告げられ、
入院してから1ヶ月も過ぎた日のことだった。
14 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:12
すばやく寝台に寝かされ、ICUへと搬送されていく少年を呆然と見送りながら、
亜依は急速に心を冷やしていく死のリアルに震えた。
自分の死の瞬間を思い浮かべる時、そこに甘い感傷をまくことしか出来なかった
当時の亜依は、初めて間近に見る恐怖に大きなショックを覚えたのである。

その時―これが最初で最後だったと亜依は記憶している―
亜依は傍らで同じようにぼんやりとたたずむ希美と、初めて、死について語った。



死が、自分たちを世界から遠ざけていくという恐怖。

それは、地球から遠ざけると共にアンドロメダからも遠ざけ、
ゼロは十倍しても十億倍してもゼロに過ぎないように、
おそらく“私”という存在は、宇宙に一滴も残らないのだという、鈍い確信。

そして、私が死んだ後も、世界は何事もなく続いてゆくのだろう――---
暗黒は、口を開けてすぐそこに控えている。

…死ぬのはいやだ。
あの少年のようになりたくない。
苦しい思いをしたくない。
不安、困惑、焦燥…。
15 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:13
発作的に感情を吐露する亜依の言葉に、ひとつずつうなずきながら
希美は、おもむろに口を開いた。

「あいぼんは、おおきくなったらなにをしたい?」

小首をかしげて、舌足らずな口調で聞いてくる希美はいつもの希美だったけれど、
その言葉の持つ響きは、いつもとは違う語感を持って亜依の耳に届いた。

「ののは、もーにんぐむすめにはいりたい。
 はいって、うたをうたいたい。」

それで、と希美は続けた。


「いろんなひとをはげますんです。いいらさんとかあいぼんとか、
 おとうさんとかおかあさんとか。それと、ののみたいにびょーきのひととか
 げんきなひともみんなみんなぜーんぶ。いっぱいいっぱいはげますのれす。」


だから、病気を早くなおすんです。
あの子もがんばってるよ。おうえんしながら待とう。

…こぼれんばかりの笑顔でそう言う希美に、亜依は底知れぬ力を感じた。
そして、静かな感動を覚えた。
16 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:14
同じ言葉でも、他の人の口から出たものならば素直に受け取れなかったかもしれない。
事実、医者が自分を励ますとき、亜依はいつも、それをどこか空虚な気持ちで聞いていた。
「今の頑張りが、あとの5年、10年につながる」など。
希望を持てない者が、どうして未来を生き生きと語れるのだろうか。

希美は、強い。
その強さは、生まれた時から病と向き合ってきた為にあるのか
あるいは、生来の無邪気さゆえなのか…。
亜依には分からなかったが、その日から希美に対する印象が
微妙に変わったのは確かだった。

時々、思いがけずしなやかな強さを持っていた希美。
亜依は、何気ない日常の彼女のちょっとした所作に励まされたことを思い出す。

ちっちゃな子みたいに怖がりなのの。
時々、まわりが手を焼くほど泣き虫なのの
照れながら、そこに花が咲いたみたいにはにかむのの。


…希美はもうこの世にいない。

希美はその死の一秒前までも、生きることを諦めていなかったのだろう。
息をひきとる最期の瞬間まで、モーニング娘。に入ることを夢見ていたに違いない。
その名に恥じぬよう、“のぞみ”の子として――‐‐
17 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:15

ふいに、胸を押しつぶされるような切なさに襲われて、亜依はたまらず天を仰いだ。

空へとまっすぐ続く木々の吹き抜けは、その緑のフレームの中に
いつのまにか一面の赤を描き出していた。
鮮やかなその色は、希美が時折吐いた血を思い出させた。
雲は、黄金に燃えていた。



壮絶な美しさ。



きれいだ、と素直に亜依は思った。
しかし、闇は東の空から容赦なく迫り、じわじわと確実に空を侵食していく。

急に、ある種の気持ちが、亜依の心を支配した。
美術の授業の最後に、パレットについた水彩絵の具を洗い流す時。
自己主張の強い、カラフルな絵の具が混じり合って、
どす黒く変色していく様を眺める瞬間の、あの、何とも言えず心残りで寂しい感じ。
白がピンクに、ピンクがオレンジに、オレンジが赤に、赤が紫に…紫が灰色に。
入り混じった二つの光。昼と夜。Two lights。Twilight。
18 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:16
「・・・・やめて」

亜依は闇に向かって叫びたい衝動に駆られた。
太陽が、遠い水平を目指して落ちていく。

「やめて・・・・・っ!!!」

非情な闇は、今日という日を少しづつ夜に染める。
たもとの方から、段々と紫色の割合を増していく頭上の雲を見上げて、
亜依は声にならない悲鳴を上げた。
闇は、燃える雲をゆっくりと、しかし確実に灰にかえていく。
木々も、家々も、人々も、青ざめた空気の中へ沈んでいく。

亜依は勢いよく立ち上がり、迫りくる闇から逃げるように、空の明るい方へと走った。


並木道を走る。
人のまばらな遊技場を走る。
坂の下まで一気に駆け下りる。


できることならば、闇の触手を避けて、地平線のむこうまで行ってしまいたかった。

しかし、普段仕事量の少ない亜依の心臓は、
オーバーワークに耐えかね、すぐにきりきりと痛み出す。
亜依は、その場で力なく倒れた。
19 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:17
途端に喉の奥に膜が張り、
なにか大きな力で上から圧迫されたような痛みが、亜依の右胸を襲った。
その苦しみの塊が、気管を通り抜けて落ち着くまで、
どうしようもない息苦しさを、一度やり過ごさなければならないことを
亜依は経験的に知っていた。

背中をしならせ、肩で息をしながら、亜依は体の平衡をどうにか保って
それが去っていくのを待った。
クリーム色のダッフルコートの下では一気に出た冷たい汗が
行き場をなくしてべっとりと肌に張り付いていた。


亜依はよたよたと立ち上がった。
喉もとには、まだ嵐があった。
眩暈を覚え、今しがた本能的にした自分の行為を、亜依は後悔した。
しばらく傍の垣根に寄りかかって、心臓の拍動が再び正常なリズムに戻るのを待つ。

と、髪を振り乱して、少女が、道の向こうから一直線に駆け寄って来るのが見えた。
20 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:18




「あいぼん!」



半ば朦朧とした意識の中、高く名前を呼ばれ
亜依はまだ乱反射の激しい視界になんとかその人物を捉えた。
少女は亜依の前でぴたりと止まると、
その肩を両手で強くつかみ、ぜいぜいと息をついた。
太陽を背にうけた彼女の表情は、逆光でまともに見ることは出来なかった。
しかし、時折西日に反射してきらきらと頬の辺りに光るものが、
彼女が泣いていることを物語っていた。


「あいぼん!どないしたん!?どこいっとったん!?」


亜依は抱きすくめられた。
姉の亜弥だった。
久しぶりに亜弥の関西弁を聞いた、と亜依は思った。
21 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:18



「もういややぁ。誰かがいなくなるとかそんなんは。もうイヤやぁ。」



細く、そうしぼりだした亜弥の腕に、力が篭っていくのを感じながら
亜依は震える姉の肩越しに、闇が自分を追い抜いていくのを見た。

狙ったかのように夕焼けこやけのくぐもったメロディーが5時を伝える。
それは、最終宣告を下す裁判官の木槌の音のようだった。
きっと、自分の棺を運ぶ葬儀車のクラクションも
同じような響きを持つに違いない、と亜依は想像した。
風が吹き、亜依の頭上で、葉っぱが骸骨のリズムをかなでた。


「ごめん。ごめんな、亜弥ちゃん。」


22 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:19




どうして、綺麗な瞬間はすぐ終わってしまうのだろう。




死灰になった雲は、明日が来るまでもう燃えてはくれない。




空を覆いつくしてゆくあの闇よりも早く駆けない限り、




今日ももう太陽は見られない。



23 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:20
「ごめんなぁ、ごめんなぁ。」


亜依のまぶたの裏から熱いものがこみ上げてきた。
目の前の亜弥に謝っているのか、それとも他の誰かに謝っているのか
或いは、そもそもこれが謝罪の言葉なのか、亜依にはもう分からなくなっていた。
ただ「ごめんごめん」とうわ言のように口の中で繰り返した。
やがて言葉は嗚咽となって、こらえきれず透明の液体となって流れ落ちた。


「さよなら、のの。」


家々のいらかが作り出す稜線に、
まさに消えてゆこうとする太陽をみつめて、亜依は呟いた。
まんまるな太陽は、希美の顔となる。
やがて希美は亜依に大きく手を振って夕空の向こうに向かって歩き出した。
亜依には、見える。
希美の笑顔が、寝巻姿の背中が、亜依には見える。
今度はもっともっと心の深いところから亜依は呟いた。
24 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:21






「さよなら、のの。」





25 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:22





すっかり数の減った夕焼け雲をみつめながら、
このまま、斜陽そのものになってしまいたい、と、亜依は思った。


26 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:22


@ノハ@
( ‘д‘)<夕陽なくして


27 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:23




( ´D`)<暁雲はうまれない


28 名前:9 【夕焼けこやけで日は暮れた】 投稿日:2004/03/14(日) 04:23




从‘ 。‘从 <ばーい太宰治



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