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43 Summer Sphere

1 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時19分20秒

Summer Sphere
2 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時20分11秒
 一匹の羽虫が、けば立った畳の上を歩き回っている。
 羽虫の進路上に左のてのひらを置いて通せんぼをしてみたら、親指と人さし指のあいだの谷間で羽をふるわせて飛んでいった。
 右手でおさえていた文庫を、ページの端を小さく折ってから閉じる。
 六畳間の真ん中で大の字になり、文庫を押しやって、目を閉じた。
 午後、西に面した和室は眠気を催させた。
 障子ごしの光が、瞼に柔らかく、温かい。
 エアコンがたてる断続的なうなりが、すこしずつ遠くなっていった。

 裏の家から混声合唱が聞こえて、目が覚めた。
 幼い兄妹は毎日のように風呂で童謡を歌っている。
 風呂で反響し何倍にも膨れ上がった子供の高い声が、水音とともに塀や壁を擦り抜けて侵入してくる。
 蝉の声を忘れさせてしまうほどの大音量で、和室を揺らす。
「……もう、うっさいよ」
 童謡メドレーを高らかに歌い切ると、父子は最後に50を数えて、湯舟からあがった。
 その50、の声を合図に起き上がる。
 和室はエアコンが効き過ぎている。くしゃみを二度続けてした。
 亀のように首を引っ込めて、鼻の奥のむずがゆさをこらえる。
3 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時21分44秒
 文庫を拾い上げて和室を出た。
 襖の外の熱気をともなった空気に包み込まれると、身体が途端に重くなった気がした。
 Tシャツの襟元をばさばさやりながら、冷蔵庫から烏龍茶の紙パックを取り出す。
 喉を鳴らして紙パックに口をつけたそのとき、玄関のドアが二度ノックされた。
 間延びした作り声が家人を呼んでいる。
「……イさーん、留守ですかー?」
 インターフォンは八月に入る前に壊れて、それから放置したままだ。
「はぁーい」
 顎を濡らした烏龍茶もそのままに、めくれあがったTシャツの裾を直して、玄関に急いだ。
 最初遠慮がちだったノックは、運動会の応援合戦、紅白で交わされるエールのようになっている。
 どんどんスピードにのる三・三・七拍子。遊びすぎだ。
「はいはい、いま開けますよぅって」
 サンダルを踏んで上体を乗り出し、ドアノブに触れる。
「なんだぁ、吉澤。珍しく、ひとりでどうした?」
「インターフォン、まだ修理してないんですね。ずぼらだなあ」
 息を切らせ、もともとは白い頬を火照らせた、後輩が笑顔で立っていた。
 いつも二人組で登場するだけに、ひとりで立っているとその横が寂しく見えた。
4 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時22分27秒
 後藤は?
 訊きかけて、やめた。まるでわたしが、ふたりを待っていたみたいに聞こえる。
「電気屋呼ぶのも面倒だし、別に不便じゃないから。そのまんま」
「そういうのがずぼらなんですよ」
「お互い様」
 夏休みに入ってから脱色した吉澤の短い髪には、ひどい寝癖がついている。特に後頭部。
「で、なに? その格好」
「夏、って雰囲気でいいでしょ。これ、意外に涼しいんですよ。チチオヤの、奪っちゃいました」
 吉澤は、一回り大きいサイズの、深い紺の甚平を見せびらかすように、襟をつまんでみせた。
「そんなことより、入っていいですか? 蚊もいるし、立ち話は嫌だなあ」
 頷いて、ドアにかけた手をどけると、吉澤は三十センチの空間に猫のように身体を滑り込ませ、後ろ手にドアを閉めた。

 甚平姿には和室が似合う。
 西瓜とブタの形をした蚊取り線香があったら、なおいい。
 吉澤は和室に足を踏み入れるなり、寒ィ、と自分で自分の身体を抱き締めて飛び跳ねていた。
 しばらく口を出さずに勝手に飛び跳ねさせていたら、和室を何周かして疲れたように腰を下ろした。
 胡座がえらく様になっていた。
5 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時23分17秒
「市井先輩、寝てたでしょう」
 二つ折りの座布団を指差して、吉澤がニヤニヤ笑う。
 まだわたしの頭を置いたあとの凹みが残っていた。
「ああうん、寝てた」
「ここんとこ、涎のあとついてますよ。けっこう目立つ」
 吉澤は自分の口の右端から顎まで、人さし指で線を引いてみせた。
「失礼な。これは烏龍茶だよ」
「あ、いいなあ。冷えたの、飲みたい」
 両の足首を掴み、身体を前後に揺らしてねだる。
「欲しいんだ?」
「あたし、お客さんですもん。お茶の一杯くらい、飲ませておいて損はないですよ」
「呼んでないっつーの」
 何時間かぶりに喋った。話していると、喉が渇く。
 わたしは自分と、吉澤の分の烏龍茶をコップに注いだ。
「あー、いいねぇいいねぇ」
 嬉しそうに叫び、吉澤は足首を掴んで前かがみになったまま、尻を滑らせて近付いてきた。
 器用な真似をする。
 立ち上がって、わたしの手からコップを一つ取った。
 立ち上がると、吉澤は生意気にも私よりこぶしひとつ分、背が高い。
 あまりにも吉澤がはしゃいでうるさいので、人指し指を畳に突き付けて命令する。
6 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時24分36秒
「市井さん、遠い」
「くっ付いたら暑苦しいよ。吉澤、汗かきすぎ」
「匂います?」
「ちょっとね。まあ、部室よりはずっとマシだよ」
 吉澤は腕を鼻先に持ってきて、犬のように匂いを嗅いでいる。
 この後輩は犬にも猫にも似ていた。が、一番顔が近いのは子狸だと思う。
「……ここまで歩いてきたんですよ、汗もかきます」
「自転車じゃないんだ。新しいやつ、どうしたの。まさかもう壊した?」
「そんなこと、するわけないでしょ。先輩のパンクしたままに放ってあるから、わざわざ合わせてあげたんじゃないですか」
「……合わせて?」
「先輩だけ歩きはしんどいかな、って」
「なんでしんどいの?」
 空になったコップを畳の上に置いて、水滴を指先で延ばしていたわたしは、顔を上げて吉澤を見た。
 吉澤は膝に肘をついて、両手の指を組み、そのアーチで顎を支えている。
 わたしの鈍い反応が不満のようだ。
 頬を膨らませている。
 冬ごもりの準備でもするドーブツにそっくりだ。
 可愛くないけれど。
7 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時25分16秒
 考えてみたが、吉澤と外出の約束をした記憶はなかった。
 手帳の八月のページは真白のままだ。
「吉澤。わたし、なにも聞いてないからね」
「へ。……そうでしたっけ?」
「そうだよ」
「忘れてた忘れてた」
「なんなんだよ、もう」
 吉澤は眉尻を下げて笑いながら、頭を掻いている。
 呑気だ。
「先輩」
「んー?」
「花火。見に行きませんか」
 瞬間、蝉が強く鳴き始めた。
「急だね」
「お昼、素麺をすすってるときに思い付いて。
 ごっちんにも電話したんですけど、なんか忙しいみたいで。
 でもきっと市井さんは暇で寝てるだろうな、って。
 ごっちんもねえ、絶対そうだって言ってたし」
8 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時25分52秒
「あたり」
「じゃあ、お茶もう一杯ください」
「アイスキャンデーじゃないんだから」
 ふたり一緒に立ち上がった。
「矢口でも誘えば良かったのに」
「だって矢口さん、夏期講習でムリじゃないですか。受験生ですよ?」
「……あたしもだってば」
 呟きは届いたのだろうか。
 吉澤は二杯めの烏龍茶を飲み干して、行きましょうか、と目を細めて言った。

 玄関を出る際に、吉澤は団扇を一本くれた。
 二本、団扇を重ねて持っていたことに今更のように気がついた。
「鍵、いいんですか?」
「盗むもの、ないからね」
「そういう油断、危ないと思うなあ」
「それよりさあ、何時? 花火、始まるの」
「んん、何時だったかなあ」
 首をひねっている。
9 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時26分27秒
「それで平気?」
「平気ですよ、まだそんな暗くないですもん。大丈夫大丈夫」
 吉澤は偏平な胸をこぶしで軽く叩いた。
 ふたりで、ほとんど沈んでしまった太陽を背にして歩き出す。
 長く薄い影が、目の前に並んでいる。
 こぶしひとつの差が、ますます広がって見えた。
 本当、こいつは生意気だ。
「夏も終わりですね」
「まだまだ、しばらくは暑いよ。……早く秋にならないかな、とは思うけど」
「どうして? 暑いの苦手ですか?」
「秋は秋刀魚がおいしい」
「市井さん、食い意地はってる」
 吉澤は笑った。
 笑うと眉が下がって、八の字になる。
 つい餌付けしたくなる、子狸の顔。
「花火さぁ、どこで見るの?」
「学校」
10 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時27分20秒
「なら、定期持ってくればよかったな」
「うちらの学校じゃないですよ。
 小学校の、非常階段からよく見えるって、下の弟が教えてくれたんで」
「入っていいんだ?」
「多分。だめでも、見つからなきゃいいんです、見つからなきゃ」
 どうやら吉澤には前科がありそうだ。ちょっと自慢げに、鼻がひくついている。

 額を汗がつたった。
 鼻筋、唇、顎を通って、Tシャツに落ちる。アスファルトにも落ちる。
 斜め上、電線が張られたあたりの高さに視線を置く、吉澤の横顔を見た。
 冬の日本海を前に佇む人間は、こういう表情をするのだろうな、と思った。
 いつも阿呆な発言をして、周囲にやんわり、だけれども容赦なく突っ込まれている馬鹿は、普通こんな顔をしないものだ。
「パイロット、ってロマンをくすぐる言葉ですよね」
 視線に気付いたのだろう。
 突然、吉澤が呟いた。
11 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時28分11秒
 ロマン。
 その言葉を聞いて、どうしてだか、わたしはほっとした。
 相変わらず、阿呆だ、こいつ。
 吉澤のロマン、はありとあらゆる対象にくすぐられて、その度に彼女の無鉄砲な推進力を生み出している。
 永久活動機関と認められてもいい。
「まあ、そうかもね」
「吉澤はですねえ、パイロットになりたかったんですよ。
 ヘリコプターだとか、ジェンボジェットだとかの」
 意外性はあまりなかった。
 なにしろ中学1年、入部の理由を訊ねられて、『セイギのミカタになりたいから』と即答した吉澤である。
 セイギのミカタ希望者には、剣道部よりも後楽園遊園地に行って貰いたい。
「テレビで花火大会を中継するとき、ヘリを飛ばして真上から花火、写すじゃないですか」
「あー、まあ、飛ばしてるね」
「あれ、いいですよね。かっこいいし。
 気分いいんだろうな、チクショウ。ウラヤマシイぜ、と」
12 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時29分22秒
「うん」
「上から見ても、真ん丸なんですよね、花火。
 目の下に真ん丸に、ばーって」
 そこで吉澤は大きく息継ぎをして、わたしの顔を見た。
 秘密を告白する前の生真面目な表情に、わたしの背筋もピンと伸びる。
 吉澤は下唇を舐めて、口で幾度か深い呼吸をした。
 肩が浮き、そして沈む。
 その規則的な動きが止まった。
 吉澤の口が、開く。
「でも、うち、高所恐怖症なんですよねえ」
「……それじゃ、無理だ」
「そう、無理みたいです」
 力の抜けた笑みを口元に浮かべ、吉澤は団扇を揺らして歩いていく。
 わたしも後輩にすこし遅れて、紺の甚平の背中を前に歩いていく。
 甚平の襟は、吉澤の汗でさらに深く、暗い紺色になっている。
 まだまだ、暑い。秋は遠かった。
 喉が渇いた。
 わたしは半開きになっていた口を閉じ、口腔に溜まっていた唾を喉を鳴らして飲み込んだ。
 口の中で、みっつ数えた。
13 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時30分49秒
「うらァ!」
 一声あげて、アスファルトを蹴る。
 のったり歩く吉澤の首に後ろから腕を叩き付け、びよんとはねた後ろ髪ごと頭を抱き込んだ。
「なんスかなんスかぁ」
 暑いんですけどねえ、文句をつけながら、吉澤は前を向いたまま一歩一歩足を進める。
 背中に揺られながら、爪先歩きでくっついていく。
「吉澤」
「はい」
「気にすんな、見上げたって花火は丸いぞ」
 肩越しに覗き込むと、ぱちくり、タレ目がまばたきをした。
「市井さん」
「おう」
「花火は丸くってアタリマエじゃないですか」
 まあ、最近は色々あるけれどもね。ナイアガラなんてのも。
 大概、丸いね。だって打ち上げの華だから。
 球体っていうのは、上下左右斜め、どこから見たっておんなじで。
「ばァか」
 火照って赤い耳元に、こしょっと囁いたら、やっぱり吉澤はヘラヘラ笑った。
 ふたり分の汗の匂いが、ふわふわ漂って、鼻についた。

                        -了-
14 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時32分06秒

15 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時32分56秒

16 名前:43 Summer Sphere 投稿日:2003年07月01日(火)15時33分43秒


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