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ト長調の雨に
- 1 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時27分35秒
- 2 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時29分09秒
- 後藤の告別コンサートが開かれるらしい。
そして伴奏者は本人の希望により、学内から選出される模様。
高橋はその話を聞いたとき、絶好のチャンスだと思った。
小川の興味を再びピアノへと向けさせる絶好のチャンスだと。
何しろ後藤と共演できる最後の機会である。
小川には言葉では伝えきれぬ想いがあるに違いない。
それが再びピアノに目覚める好機となれば…
高橋は気を引き締めた。
今、ここで小川が演奏会に出る機会を逸すれば、
彼女のピアニストとしての道は永遠に閉ざされてしまうかもしれない。
それだけは絶対に許せない。
永遠に超えられない好敵手の存在を胸の内に抱えたまま
生きていかねばならないなど。
それはいい。
今はそんなことを考えている場合ではない。
時間はないのだ。
でなければ、興行側でさっさと伴奏者を決めてしまうだろう。
そうなれば、順当にいって自分か石川のどちらか…
小川に伴奏を引き受けさせるためには、一刻も早く後藤自身の承諾を得るしかなかった。
- 3 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時29分53秒
- ヴァイオリンの天才少女後藤真希。
その名前はすでに早くから、好事家の間で知られていた。
だが、普段はクラッシックなど見向きもしない一般人にも
その名が浸透する契機となったのは、3年前、モスクワで開催された
チャイコフスキーコンクールにおける優勝だった。
若干16最の金髪の日本人少女が難曲、アルバン・ベルクのコンチェルトを弾き終えたとき、
コンクール会場では珍しい総立ちで拍手喝采が沸き起こったという。
すべてに並みではない天才少女は周囲の強い勧めにもかかわらず、
海外での就学を拒み、国内の音大に進学して、周りを驚かせた。
だが、その限界は日に日に明らかになっていく。
なにしろ何十年に一度の逸材だ。
国内に後藤を教えられる人材はもう、ほとんど残っていなかった。
そして、彼らが後藤に教えられることも。
- 4 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時30分48秒
- これ以上国内に留まっていては、後藤の演奏家としての成長を阻害すると、
本人自身も認めざるを得なくなり、紆余曲折あって、
このたび、ようやくケルン音楽院への留学が決まった。
学内で行われるその惜別コンサートが、国内での最後の演奏になる。
それはまた、後藤を敬愛する小川にとっても、演奏会の場に戻る
最後の機会となるはずだった。
生来の一本気な気質がたたってか、所属する大学内のオーケストラで
曲の解釈を巡って孤立することの多かった小川。
そのたびに擁護し、励ましてきた後藤。
その後藤がドイツへと発つことを皆の前で告げたとき、
真っ先に涙を流したのが小川だったのもある意味、当然なのかもしれない。
大事な先輩の喪失という大きな心の痛手。
だが、最後にその人と共演できる機会を与えられれば…
それはまた、この5年間の空白を埋めるためのきっかけとして充分ではないか。
- 5 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時31分21秒
- ***
「んん、別にいいけどさ。なんで高橋がやらないの?」
「麻琴は凄い才能があるんです。ただ、今はちょっと自信を無くしていて…」
「小川がピアノ弾くなんて知らなかったよー。大体あの子、楽理科でしょ?」
「後藤さん!ホントに麻琴のピアノは凄かったんです!」
目を閉じると5年前の夏、全日本音楽コンクール、新潟県予選のステージが
目蓋の裏に浮かんでくる。レッスンを受けていた自分の先生の、
そのまた師匠筋にあたる人の弟子が本選に進み、これがまたすごい逸材だという。
先生に勧められて福井からわざわざ聴きに出かけた舞台。
その小柄な少女が両手を鍵盤の上に落した瞬間、聞こえてきた響きの美しさに
高橋はまず、心を奪われた。
ビロードの上に珠を転がしたような、軽やかなタッチ。
その繊細なピアニッシモの音色から極彩色の錦絵のような絢爛たるフォルティッシモまで
単なるデュナーミクの幅を超えた対比の妙。
アルペジオの踊るような手首の動き、駆け抜けるスケール。
かと思えば常に主題を意識した堅牢な響きで音楽の構造をしっかりと具現化する洞察力。
- 6 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時31分53秒
- すべてが、中学生のレベルを超えていた。
高橋は嫉妬することすら忘れて感動にうち震えたあのときの衝撃を
昨日のことのように覚えている。
それが今では無二の親友となる若き日の小川麻琴だった。
「そんな凄い才能が何でまたピアノ止めちゃったんだろね?」
「わかりません。言いたくないらしくって…」
小川との再開はまさに晴天の霹靂だった。
自分の所属する音大に、偶然、同期として入学。
高橋にはひと目でわかった。
なにしろ、5年前の演奏後、如何にしてこの人を超えようかと、
あこがれともライバル心ともつかぬ思いを募らせたまま、
会うことの適わなかった存在である。
結局、小川は全国大会には姿を現さず、その存在が全国に知られることはなかった。
小川のいない全国大会で高橋自身、渾身の出来映えと自負する完成度の高い演奏で
優勝こそ勝ち得たものの、充足感は少しも得られなかった。
なにしろ、自分は、小川麻琴に真の天才を見出したのだ。
小川がいない場での優勝など、何の意味もない。
そう思わざるを得ないほど、小川の印象は鮮烈だった。
- 7 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時32分24秒
- だが、5年振りに高橋の前に姿を現したかつての天才少女は
すでにピアニストとしてのキャリアを捨てていた。
大学では音楽理論を専攻するため楽理科に進学。
小川との再開を喜ぶ反面、落胆もまた大きかった。
自分が適わないと感じた才能が世間に知られぬまま埋もれていく。
そんな理不尽さを高橋は決して受け入れられずにいる。
「わかんないなあ。あたしにとって高橋は充分、凄いピアニストなんだけど」
「麻琴は…私なんかよりも遥かに凄い才能を秘めてます」
「そこまで言うなら、あたしも小川の伴奏で弾いてみたいな、とは思うけどさ」
そう言って後藤は高橋の広いおでこをピンと弾き、
いたずらっぽく微笑んで告げた。
「まずは本人がやるって意思表示してからだよ」
「ハイッ!ありがとうございます!わたし、絶対、説得してみせますから!」
だが、強がって見せたものの高橋は不安だった。
果たして説得できるだろか…
- 8 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時32分56秒
- ***
「ちょっとぉ…愛ちゃん、何、こそこそと動いてるわけ?」
(あちゃぁ…)
今、一番、会いたくない人だった。
石川梨華。
ピアノ科でも一、二を争うピアノの好敵手と互いに認めるだけに、
そのライバル意識は激しい。
いや、激しく敵愾心を煽っているのは石川だけで、
実のところ、高橋はあまり石川のことを気に留めていなかった。
むろん、取るに足らない存在、と切って捨てているわけではない。
石川もまた、若くして全日本音楽コンクールを制した実績を持つ、
天才少女の名に恥じぬ実力者である。
高橋とて意識しないではないのだが、
いかんせん、心の中に占める小川の存在が大き過ぎる。
それだけの話である。
それが、また石川にはどういうわけか伝わるようで、
当人にとっては痛くプライドを傷つけられるらしい。
もともと子供じみた性格なのか育ちが良いゆえの甘え性なのか。
顔をあわせるたびにねちねちと絡んでくる石川が高橋は苦手だった。
- 9 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時33分36秒
- 「あ、いや…あはは、後藤さん、いなくなると寂しいですね」
「告別コンサートの伴奏…なんであなたじゃなくて、まこっちゃんなの?」
「えっと…」
高橋は言葉に詰まった。
石川は逡巡する相手にかまわず畳みかけてくる。
「どういうつもりよ?あなただってこのコンサートの重要性くらいわかってるでしょ?」
「ええ、そりゃまぁ…後藤さんのラストですから」
「そうじゃなくて!」
やや怒気をはらんだ石川の口調に恐れをなして逃げ腰になる。
だが、張り詰めていた空気が弛緩したのを感じて
高橋はその薄黒い地肌のせいか表情の見えにくい石川の顔を見上げた。
眉毛が薄くてわかり難いが、どうやら怒っているわけではなさそうだ。
高橋はホッと胸を撫で降ろした。
「なぜ、そこまでしてまこっちゃんに弾かせたいわけ?」
石川の質問はシンプルだった。
ただ高橋の中で回答がシンプルに出て来ないというだけの話で。
なんだろう…
高橋は答えに窮した。
復活した彼女を見てみたい…
いや、彼女は自分の目標であり、ライバルであり相克すべき存在で…
ちがうな…えっと、彼女が復活しなければあの日のイメージは永遠に超克できない存在で…
- 10 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時34分12秒
- 頭の中では様々な理由がぐるぐると駈け巡っては、いたずらに複雑さを増していくが、
そのような動きと関係なく、口が勝手にこぼした言葉は実にシンプルだった。
「えっと、友達だから…」
「?」
沈黙する石川。
だが高橋にとってもそんな言葉が出てくるとは予想外だった。
そうだ、友達だから。
その単純明解にして、力強い言葉。
それ以上、何の説明が必要だろう。麻琴は友達。
だから、彼女の輝く姿がもう一度見たい。
だから、同じ感覚を共有したい。
ピアノが好きだから、だから大好きな麻琴ともっとピアノについて語りあいたい。
「ハイ!友達だから。だから…」
「ふん。お人好しもたいがいにしときなさいよ」
頬を紅潮させて熱く語る高橋の熱気にあてられたのか、
石川は呆れた、というように手を顔の前で軽く振ると慌ただしく去っていった。
うまく伝えられるだろうか…不安はある。
だが高橋は不思議な高揚感を覚え、
なんだか小川にこのことをうまく伝えられそうな気がしてきた。
待ってて、麻琴…
- 11 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時34分48秒
- ***
「……」
「ごめんやざ、大きなお世話やてわかっとる。けどぉ…」
「愛ちゃん…」
小川は研究室で音楽辞典と首っ引きで課題のレポートに取り組んでいた。
高橋が後藤の告別コンサートの件を切り出すと、黙りこくったまま俯いてしまった。
うつろな視線の先には、先ほど調べたと思しき、音楽用語が並んでいる。
“Regenlied”か…
あれ?たしかこの曲は…
高橋は脈があるような気がしてきた。単なる偶然でなければあるいは。
気を取り直して、後藤が期待していることを伝える。
「後藤さん、すごい楽しみやぁ言うてくれて。
麻琴、後藤さんには言葉だけで伝えられん想い、あるやろ?」
「そりゃ、後藤さんの伴奏できたら嬉しいけど…」
高橋は手応えを感じた。
よし、あとひと押し。
「麻琴のピアノ、凄かった。なんで止めてしまったん?今でも思い出すよ、あの時のショパン。
うちは…あのイメージを目標に練習してきたんよ」
「愛ちゃん…」
小川はまた沈黙してしまった。逆効果だったか。
「自信ないよ…」
「麻琴は凄いよ!麻琴のピアノ聴かんかったら、あんなに練習できなかったもん!」
- 12 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時35分32秒
- だが、高橋の激しい感情の表出にも小川に譲歩する姿勢は見られない。
その表情には諦念というよりは、むしろ駄々をこねる子供を諭すような落ち着きさえ感じられた。
「愛ちゃん…買いかぶりだよ。あたし、愛ちゃんみたく、うまくない。
そりゃ、昔は県の予選で優勝したこともあったけど…でも所詮、その程度だよ」
「麻琴……」
「私、気づいたんだ。胃の中の蛙だって。愛ちゃんみたいにはとても弾けない…」
その瞳に宿る深い悲しみの色に高橋は怯んだ。
何故、そこまで自分を卑下するのか。
高橋にはわからなかった。あれだけの才能を持ちながら、何故もっと努力しない。
何故、自分で自分の限界を決めてしまう。
もっと巧くなるため、ひたすら練習を積むしかなかった高橋には、
小川の謙虚とも取れる姿勢はただの自己欺瞞としか思えない。
才能の浪費だ。
それが高橋には歯がゆくって仕方がない。
「麻琴はずるいよ…」
小川はハっとして顔を上げた。
高橋の声音には寂しさとも怒りともつかない複雑な感情が混ざり合っている。
- 13 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時36分14秒
- 「自分に自分で線引いてたら楽やよ、傷つかんでええもん。でも…」
高橋は言葉を詰まらせた。
その目に光るものを見つけて小川は動揺する。
「麻琴はそれでええの?」
胸に突き刺さる重い言葉を残して、高橋は部屋を去った。
後に残された小川は呆然と開け放たれたドアを見つめている。
だが、しばらくして後、何事もなかったように辞書で用語を調べ始めた小川の胸中を
測り知ることはできそうになかった。
コン、コン。
ドアをノックする音に顔をパッと上げる小川。
高橋が戻ってきたのかと期待してのことだ。
だが、意外にもその相手は…
「まこっちゃん」
「石川さん…?」
呼びかけられて、小川は驚いた。
見ると、ドアに張り付くようにして石川が口元を緩ませている。
聞かれたか…
あまりいい趣味とはいえないが、石川では責めるわけにもいかない。
ピアノの腕は滅法立つが素行の悪さだけは、いかんともし難かった。
だが、その石川が何の用だろう。
- 14 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時36分54秒
- 「ごっちんのラスト、まこっちゃんが伴奏するんだって?」
「愛ちゃんに聞いたんですか?まったく、んなわけないじゃないですか」
「ごっちんも楽しみにしてるみたいだけどね。あの小川がピアノ弾けるんだぁ、って」
その言葉に少しだけ反応したのを見て、石川はさらに言い募った。
こういう機微にかけては、けれんのない高橋と異なり、石川には天賦の才がある。
むろん、ピアノでその才能が発揮されれば申し分ないのだが。
「まこっちゃんがやらないなら、私がさせてもらってもいいんだけどね」
「どうぞ、ご自由に。もともと、私は知らなかった話ですし」
そう言い捨てて、そのままレポート用紙に視線を落とそうとした小川の前に
石川がすっと体を寄せて手元の明かりを遮る形になった。
その口元は相変わらず緩んだままだが、目は笑っていない。
「あんたバカ?」
「えっ?」
小川は少しだけ頬を紅潮させて反応した。
元来、気の短い性分だ。喧嘩腰になったところを見ると
見事に石川の術中に嵌った様子だが、小川自身はそのことに気づかない。
- 15 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時37分32秒
- 石川はその褐色に焼けたおよそピアニストらしくない顔を小川に近付けて、
視線をがっちりと捉えた。
遠めには気づかないが、近寄ってみると案外、その顔は怖い。
眉毛が薄いせいだろうか。
むろん、頭に血が昇った状態の小川はそんなことに頓着する余裕もない。
「ごっちんの公開演奏がコンクール後初めてだって、知らないわけじゃないでしょ?」
「それが何だって…」
「だからバカだって言ってんの」
小川はハッとした。
そういえば、後藤がコンクール後、オーケストラ以外、演奏会の場に出たことはなかったはずだ。
自然と世間の注目を集めるだろう。
そうなれば、伴奏のピアニストもまた名前をアピールする絶好の機会となる。
では高橋は…
「なんで?なんで、愛ちゃんはあたしに?」
「自分で考えなよ。大体、今回の演奏会、来年のチャイコンの審査員も聞くから、伴奏できれば
高橋のピアノでの出場推薦枠、ほぼ確実だったんだよ。その高橋が、自分からこんな絶好の
機会を逃すなんて私だって信じらんないんだからね」
- 16 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時38分10秒
- 小川は呆然として石川の顔を見つめるしかなかった。
その焦点ははるか遠いところで結ばれて、石川が二重に重なって責めているように見える。
急に平衡感覚を失って、ぐらつきそうになる体を小川は必死で支えた。
自分のことばかり考えていて、そんな重要なことにも気付かない愚かさが嫌になった。
高橋は自らが世界に羽ばたく機会をふいにしてでも自分にピアノを弾かせようとしている。
今はその想いが伝わるだけに心が痛い。
「ったく、お人好しにもほどがあるよ、みんな」
つぶやくように言い捨てて、立ち去ろうとする石川。
だが、その身を反転させたところで、一瞬、立ち止まり、
縋るようにして目線でその姿を追う小川に向って告げた。
「まこっちゃんは、あの高橋が認めた才能なんだよ。それだけは覚えといてね」
今度こそ、足早に立ち去った石川の言葉を小川は頭の中で反芻した。
(あの高橋が認めた才能…)
最後の言葉は幾分、優しい口調だった。
どうやら石川まで焼きが回ったらしい。
小川を励ますようにして立ち去った石川にとってもまた、海外のメディアに名前を売る
絶好の機会であることは代わりのない事実である。
- 17 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時38分46秒
- 小川は高橋の真意を測りかねた。
そこは自分などが、足を踏み入れてよい世界ではない。
そう、思い込んできた。
なのに…
小川は遠い昔のことのように、あの夏を回想した。
あの日、自分はピアノの道を諦めたはずだった。
県大会の後、体育のバスケットボールを取り損ねて突いた指の怪我のため、
泣く泣く諦めた全日本音楽コンクール。
参考のために、と上京して聴きに行った本選会場で耳にしたライバルたちの奏でた音楽
それは、新潟の片田舎で想像していた小さな女の子の想像を絶する世界だった。
正確無比なテクニック、繊細な響き、デモーニッシュな表現力、
全体の俯瞰から細部に至るまで計算しつくされた音楽の構成力。
すべてに小川は圧倒された。
中でもそのときの大賞受賞者…
そう、誰あろう高橋愛こそが、圧倒的な才能の差を目の前に突きつけて
小川の自信を失わせた張本人だった。
皮肉なことに小川に引導を渡したはずの高橋がまた、
一旦は諦めたピアノの道へと誘おうとしている。
できるのか…
躊躇いは残る。だが、この心の温もりが何をすべきか教えてくれた。
もう、迷う余地はない。
小川はもう一度、あの夏に戻って自分と立ち向かうことを決意した。
- 18 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時40分57秒
- ***
「後藤さん…あたしから感謝の心を込めて…」
「あはは。大げさだなー、まこっちゃんは。この曲にしたけど、いい?」
小川は後藤の持つ楽譜を覗き込んだ。
風がふわっと後藤の長い髪をさらい、小川の鼻のあたりくすぐる。
その心地よい香りに早くも酔いしれそうになる自分を窘め、楽譜に意識を集中した。
「…また、地味な選曲ですね」
くりっとした瞳をまっすぐに向けて後藤が問う。
「嫌い?」
「いいえ。大好きです」
即答すると、後藤の顔から笑みがこぼれた。
窓から差し込む陽光を背負って、その金色の髪から漏れるキラキラとした光の粒子ごと
無造作に髪をかきあげる仕種にはどこか透明な存在感といったものが感じられる。
よく見たその癖も、もうじき見られなくなると思うと寂しい。
「深いよね」
「深いですね」
顔を見合わせて、ふふっと笑うと、後藤が優しい表情のまま、小川に告げた。
「焦らなくていいから。まこっちゃんの世界に私を誘って」
「頑張ります!」
頬を膨らませて力む小川の姿がおかしかったのか、
今度はぷっと噴き出して、大笑いする。
その姿に小川はこの上ない喜びを覚え、そして急に悲しくなった。
- 19 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時41分39秒
- ***
高橋はその瞬間を心待ちにするとともに、
一抹の不安を拭えずにいる居心地の悪さを持て余していた。
小川が自分の思っていた通り、いやそれ以上の演奏を聴かせてくれることを信じてはいる。
だが、一方で、あれは自分の思い込みだったのではないか。
仮想好敵手として実在の小川よりも美化していたのではないか、との疑念が浮かんでくると
それを否定できる材料がないだけに、不安に押し潰されそうになる。
(心配してもいかんにゃざ。麻琴を信じなきゃ)
高橋の不安をよそに超満員で埋まった講堂の照明が落され、
アナウンスがゆっくりと今日のプログラムを告げ始めた。
『…により、ヨハネス・ブラームス作曲ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78<雨の歌>』
ステージの上に照明が当てられて後藤が堂々とした歩みで袖から現れると、
割れんばかりの拍手が送られ、コンクール後初となる公開演奏への期待の高さが窺われた。
対照的に後藤の影に寄り添うように静々と現れた小川に対する聴衆の関心は薄い。
- 20 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時42分21秒
- 自分のステージ以上に胃がキュっと絞られるような感覚を覚え苦笑いする。
初めての発表会に臨む我が子を見守る母の気持ちはこんなものか。
いらぬ想像をしては気を紛らわせるが、後藤が弓を構えたのに合わせて
意識はその指先一点に収斂していく。
超満員の観衆がその一点を見つめて沈黙する。
耳鳴りがしそうなほどの凄まじい静寂の中、ステージ上の二人が目配せした。
ハッ、と吐かれた後藤の息を合図に最初の弓が送られる。
小川の打鍵は深みのある音色で正確に後藤の旋律をサポートしていた。
ホッとした高橋の意識はさらに、その和音の落としたさざなみの奥深くへと沈んでいく。
朗々と主題の旋律を奏でる後藤のヴァイオリンは確かに見事だ。
だが、それを絶妙な音色と和音のバランスで支える小川のピアノの見事さに
気付いている者が何人いるか…
麻琴…あなたが悩み苦しんだ年月は決して無駄ではなかった。
これほどに深い響きを鍵盤を通して伝えることができるのだもの。
心配が完全な杞憂に終わり、高橋の耳は次第に二人の演奏を楽しみ始めた。
- 21 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時43分04秒
- 新緑の季節に芽吹く若葉の旺盛な生命力を体現するかのように
後藤の弦は伸びやかで澄んだ音色を朗々と歌わせる。
小川のピアノはときに対旋律として、つがいの鳥のように後藤のヴァイオリンと囀り合い
ときに堅牢な和音の響きにより、雄大な山脈のように自由な生命の営みを包み込む。
高橋は二人が生み出す、自然の響きがもたらす静謐な世界に自らの波長を同期させた。
優しく控えめなアルペジオは小川の流れだろうか。
ぎこちない連打はきっと雨だれの屋根を叩く音…
そして、雨の日の薄暗い風景を物憂げに映す短調の世界から、
突然、陽が差して世界が明るさを取り戻す並行長調への転調。
雨が路面に、屋根に、小川の水面に落ちては弾かれて日の光を映して煌く様を
小川のきらびやかなタッチが克明に描いていく。
高橋はいつしか、青々とした艸茂る草原の中、蕭々と降りしきる雨に打たれて、
ゆっくりと歩を進める自分と小川の姿を思い描いていた。
- 22 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時43分45秒
- 降り注ぐ雨、ト長調の雨。それは、曇天のもと、凍えるような寒さを
もたらす冷え冷えとした雨ではない。それは慈愛に満ちた、優しい雨。
静かに、ただ蕭々と二人を包み込み、長き年月にわたり二人の心を縛り付けてきた頚木を
じわじわと溶かしていく。
それは心地よい雨だった。
ト長調の雨は高橋の心を確かに潤わせ、そして、その雨を降らせているのは小川だ。
高橋には見える。
その霧雨のように細かい雨のベールの向こう、小川が溶けそうな笑顔で微笑みかけている姿が。
いつか、その笑顔が曇るとき、今度は自分が降らせてあげよう、ト長調の雨を。
二人の長い物語は、今、始まったばかりだ。
そして、自分が小川の才能を追い続けて彷徨う長い旅もまた、始まったばかりなのだ。
だが、今はもう少し。
もう少しだけ、この心地よい雨に身を委ねていたいと思った。
この心地よいト長調の雨に打たれて…
〜fine〜
- 23 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時44分26秒
- 24 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時44分57秒
- 25 名前:43.ト長調の雨に 投稿日:2002年12月13日(金)02時45分40秒
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