インデックス / 過去ログ倉庫 / 掲示板

雨の時代

1 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時23分21秒
――1――

 大通りに面した部屋では、目が覚めると同時に天気が分かる。
今日は雨だ。車が水しぶきを上げて走っている音が聞こえる。
それは怒っているようで、笑っているようでもあり、
さらには、悲鳴のようにも聞こえていた。

「雨――か」

真里はベッドから出ようともせず、枕元の携帯電話を手に取る。
午前七時。いつもなら、アルバイトに向かう時刻だった。
誰からもメールは入っていないし、留守電も何もなかった。
安普請の中古住宅は、隙間から外の湿気が入ってしまい、
湿っぽい寒さの朝となっている。

「遅刻? ―――もういいんだった」

真里は携帯電話を置くと、布団を深く被った。
あの時も雨が降っていた。今日のような冷たい雨が。
2 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時24分12秒
――2――

「お姉ちゃん、お弁当、忘れてるよ」

幼い頃に両親を失い、親類や施設を転々として来た姉妹。
姉のなつみが成人し、ようやく二人で暮らせるようになった。
妹のあさ美は、食事を作るのが役割だった。

「いけない! 一番大切なものを忘れるところだったべさ! 」

なつみは慌てて弁当を持つと、大急ぎで家を飛び出して行った。
都内の服飾工場に入社して三年目のなつみは、
後輩やパートを指導する係に抜擢されている。
夏の終わりにしては冷たい雨の降る朝だった。
3 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時24分49秒
――3――

「矢口さん、お客さまには、礼儀正しくしてもらわないと困ります」

正社員でアルバイトの教育係である保田は、
生鮮食品売り場のバックヤードで矢口に文句を言った。
現代のコギャルで通して来た真里にとって、
客に対しての敬語などはダルかった。
それ以上に、この埃っぽいバックヤードで、
口うるさい保田に文句を言われるのが嫌だった。

「でもさー、相手は中学生じゃん。敬語なんか使ってられるかってのー」

矢口が口ごたえすると、保田は興奮して声のトーンを上げる。
そんな考えではスーパーマーケット業界では生き残れないだの、
どこへ行っても通用しないだの、しまいには人生哲学まで持ち出す。
真里にとっては退屈な時間だったが、その時間も勤務時間だった。
賃金が支払われるため、真里は話も聞かずに聞き流していた。
4 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時25分21秒
――4――

 馬喰町警察署交通課の飯田圭織は、近くの小学校へ交通指導に来ていた。
生憎の雨模様であり、予定していた校庭での指導ができないため、
体育館でビデオを観ながら、交通事故の危険性を子供たちに話していた。

「これで、お姉さんのお話は終わりです。何か聞きたいことはあるかな? 」

小学生の子供たちであるから、質問の内容も可愛いものである。
どうしてお酒を飲んで運転するの? とか、何で自転車は歩道を走れないの?
とかいった、他愛もない質問ばかりであった。
ところが、六年生の担任教師が質問した内容に、
彼女の顔から笑みが消えてしまう。

「どんな事故が印象的でしたか? 」

圭織は躊躇したが、思い直して話を始める。
その真剣な表情に、誰もが言葉を失った。

「あれは、こんな雨が降る日の朝でした」
5 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時26分10秒
――5――

「いけねー! 寝過ごしたー! 」

真里は時計を見て飛び起きた。
昨夜は友達とカラオケで盛り上がり、
帰宅したのは午前2時を過ぎた頃である。
雨の日の朝は、どうも目覚めが悪いものだ。
生鮮食品売り場でアルバイトする真里は、
8時半に出勤しなければならない。
しかし、もう8時を過ぎているので、
普通に出勤したのでは遅刻してしまう。
そこで、普段は禁止されている車で行くことにした。
車であれば、10分足らずで着いてしまうだろう。

「お父さんの車のキイはっと―――」

真里は父親の車の鍵を持つと、急いで着替えをし、
化粧もしないで家を飛び出して行った。
6 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時26分43秒
――6――

 なつみは毎朝7時50分のバスに乗る。
次のバスでも間に合うのだが、余裕をもって家を出ていた。
それが結果的に、皆勤賞を得るまでになったのである。
妹のあさ美は姉を送り出すと、学校へ行く準備を始めた。

「あれ? このお箸」

あさ美は姉の弁当に箸を入れ忘れたことに気づいた。
このままでは、昼食の時に姉が困ってしまう。
そう思ったあさ美は、箸を握りしめたまま、
雨の中を傘もささずに飛び出して行った。
バス停は環七通りを横断したところにある。
運がよければ、なつみは信号待ちをしているだろう。
あさ美は走る速度を上げた。
7 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時27分23秒
――7――

 圭織は固唾を飲んで彼女をを見つめる子供たちを見回した。
現役警察官である彼女が、最も印象に残る事故であるのだから、
どれだけ悲惨な状況であったか、想像もつかなかった。

「その姉妹は小さい頃に、お父さんとお母さんを亡くしたんです。
やっぱり、交通事故でした」

おもむろに話を始めた圭織に、子供たちは息をするのも忘れて集中していた。
体育館の窓を流れ落ちる雨水を見ながら、圭織は静かに話を進めて行く。
誰ひとり動く者はいなかった。
それほど重い話に違いないと思っていたからである。
8 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時27分59秒
――8――

「チッ! 今日は雨か―――」

ツインカムマニアである真里の父の車は、48年式のセリカ1600GTVであった。
真里が生まれる10年も前の車である。
排ガス規制以前の車であるため、燃費こそ悪いが加速はピカイチだ。
真里は車内の座布団を集めて、運転席のシートの上に重ねる。
それでなくても、この頃のセリカは視界が悪い。
背の低い真里が座ろうものなら、フロントガラスからは空しか見えなかった。

「あちゃー、前の車の屋根しか見えない」

免許をとりたての真里は、車の運転に慣れていない。
しかも、こんな視界の悪い車を運転するのは初めてだった。
それでも、このままではアルバイトに遅刻してしまう。
ただでさえ保田に目をつけられている真里は、
何かあったらクビになってしまうに違いなかった。
9 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時28分35秒
――9――

 あさ美が環七通りに出た時、なつみは横断歩道を渡っているところだった。
信号の先頭には都営バスが停まっており、なつみはこれに乗ろうと、
少し先にあるバス停に向かって走っていたのである。

「お姉ちゃーん! お箸、お箸を入れるの忘れたのー! 」

すでに歩行者用信号は点滅を始めていたが、
あさ美はなつみを追いかけて行く。
横断歩道を渡り終えたなつみは、
大声を上げて走ってくるあさ美に気づいた。
その時、オールドタイプのセリカが右折してくる。
かなりの速度が出ているようだった。

「危ない! 」

なつみはとっさに飛び出し、走ってくるあさ美を突き飛ばした。
急ブレーキをかけたセリカは、濡れた路面をスピンしてしまう。
10 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時29分09秒
鈍い衝突音の直後、セリカはようやく停止した。
人を轢いてしまった。そう思った真里は血の気が引いて行く。
雨でなけば、もっと早く停止できていただろう。
真里はこの天候と自分の身長を恨んだ。
彼女が慌てて車から飛び出してみると、
横断歩道の上に少女が倒れているではないか。
真里は足が震えてしまい、パニック寸前であった。

「ど、どうしよう―――」

真里はとりあえず、倒れている少女を抱き起こしてみる。
少女は大きな目を見開いて、状況を把握しようとしていた。

「痛いべさ―――」

背後から声がするので真里が振り返ると、
そこには頭から血を噴出す女が蹲っていた。
11 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時29分47秒
「す、すいませーん! 今、救急車を呼びます! 」

真里は慌てて携帯電話から119番通報した。
あさ美はなつみを抱き上げ、歩道に移動させる。
なつみの頭から流れた血は、濡れたアスファルトを真っ赤に染めていた。

「運転手さん、車を端に寄せてくれる? 」

バスの運転手に指摘され、真里は慎重にセリカを道路の脇に寄せた。
12 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時30分20秒
――10――

「お姉さんの怪我は、幸いにも軽傷でした」

圭織の顔に笑みが戻ると、子供たちは胸を撫で下ろした。
中学生の妹が天涯孤独になってしまうと予想していたので、
救われた気分になって行ったのである。
方々で子供たちが発する安堵の溜息が聞こえた。

「ところが、思いがけないことになってしまったのです」

圭織の言葉に力が入ると、子供たちは再び手に汗を握って、
彼女の話に集中して行ったのである。
13 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時30分58秒
――11――

 ほぼ同時に救急車とパトカーが到着した。
救急隊員がなつみの怪我を診る一方で、
圭織が真里から話を聞いている。

「衝撃音が聞こえたのね? う〜ん」

圭織は困ったように腕を組んでしまった。
真里は正直に話をしているのだが、
どうも、つじつまが合わないのである。
雨に濡れて怯える真里が可哀想になり、
圭織はパトカーに積んであった傘を渡した。

「ちょっと待っててね。被害者から話を聞くから」

圭織は救急車の中で応急手当を受けるなつみに話を聞いた。
14 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時31分32秒
「あの車とぶつかったんでしょう? 」

圭織は血まみれの箸を握り締めるなつみに聞いた。
いくら小柄であっても、乗用車に頭部が当たるとすれば、
倒れた状態であったか、跳ね上げられたとしか考えられない。

「ぶつかったのは、お弁当だべさ」

なつみは泣きそうな顔で、潰れた弁当箱を差し出した。
どうも話を聞くと、真里が運転する車は直前で停止したのだが、
なつみが持っていた弁当箱にぶつかったらしい。

「でも、何で怪我なんてしたの? 」

圭織はなつみの怪我が不思議でならなかった。
もしかすると、弁当箱が彼女の頭部を直撃したのか?
15 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時32分13秒
すると、なつみは血まみれの箸を差し出した。

「あさ美を突き飛ばした時、頭に刺さったんだべさ」

あさ美が持っていた箸は、なつみの側頭部を直撃していたのである。
プラスチック製の箸であるから、頭蓋骨を貫通するようなことはなかったが、
尖った先端がなつみの頭皮を突き破ってしまったのだった。

「これって、人身事故じゃないじゃん」

圭織は困ってしまった。
危険回避に伴う怪我であれば人身事故になったのだが、
持っていた箸が原因となると立件は困難だろう。
圭織は考えたあげく、交通事故となつみの怪我は、
別件であるということにしてしまった。
16 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時33分52秒
「これは交通事故にできないからさー、轢かれたのはお弁当だけになっちゃうよ」

圭織はなつみとあさ美に説明した。
呑気な姉妹であるから、そんなことはどうでもよかった。
問題は、轢かれてしまった弁当のことである。

「なっちのお弁当―――返せ! 」

なつみはべそをかきながら、真里に抗議したのである。
彼女にとってみれば、怪我なんかどうでもよかった。
会社に遅刻したのも仕方がない。
しかし、弁当が食べられなくなったことが我慢できなかった。

「―――お弁当。ですか? 」

真里が唐揚げ弁当を届けると約束すると、
なつみは途端に笑顔となって行った。
17 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時34分28秒
――12――

「350円で示談が成立した交通事故でしたね」

圭織は最も印象に残った交通事故の話を終えた。
ところが、教師は咳払いをすると、子供たちに指示を出した。

「はい、教室に戻ってください」

「あの、まだ話が―――」

圭織は子供たちを止めようとするが、全く無視されてしまった。
子供たちは期待を裏切られ、圭織を睨みながら教室に戻って行く。
やがて教師までいなくなり、体育館には圭織だけが残された。
静まりかえった体育館には、屋根に当たる雨音だけが響いていた。

「あたしも帰ろうかな」
18 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時38分29秒
――13――

「バイトはクビになるし、お父さんには怒られるし」

真里は溜息をつきながら、求人情報誌を開いた。
あれから数週間、真里はアルバイトの面接で落ち続けている。
部屋の外の雨は、あいかわらず降り続いていた。
いつになったらやむのか。それは誰にもわからない。

「こんな時代に生まれたのが不運だよなー」

真里は布団をかぶり、昼まで寝ることにした。
いつか雨がやむことを信じて。


【終】
19 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時39分04秒
20 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時39分38秒
21 名前:39 雨の時代 投稿日:2002年12月10日(火)11時40分45秒
ソ

Converted by dat2html.pl 1.0