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恋想
- 1 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時05分32秒
- 1.
夕暮れ。
いつものように、勤め先の板金工場から自宅まで自転車で帰る。その帰り道。
通り道である建売住宅地に入り、その中の児童公園の手前にさしかかったとき、
私の進行方向から「いや〜っ!」という、素っ頓狂な、甲高い女の子の悲鳴が
聞こえてきた。
その声の主は、買い物を詰め込んだビニール袋を胸前に抱え、もうほとんど
泣いているような顔をしながら走っていた。
その彼女の後方には、汚れて灰色っぽくなっているけれど本来は白いのだろう犬が、
彼女を追うようにして──たぶん追いかけて、走っていた。
犬に追いかけられて走って逃げている人というのを初めて目にしてちょっと感動していた
私の姿をみつけた彼女は、泣き出しそうだった目をまっすぐ私に向けて、
「助け──」
転んだ。
- 2 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時06分28秒
- 彼女が抱えていたビニール袋から買い物がぶちまけられ、
公園の入口前に派手に散り広がった。タバコのカートン、
ビールの6缶パック、生ハム、お菓子、ペットボトルのお茶.ets…
彼女の左手の指にひっかかっているビニール袋が、
なんだかとても情けなくヒラヒラと風に揺れていた。
「助け──」を求められた私としては、このまま彼女を放っておくわけにもいかず、
仕方なく、自転車を押しながら彼女のもとへと近づいていった。
一方の、彼女を追いかけていたらしい犬は、転んで突っ伏している彼女の
背中のあたりを一嗅ぎしてから、彼女に対する関心がまったく無くなったかのように、
何事もなかったかのように、スタスタと公園の中に入っていってしまった。
いったい何がしたかったんだ、あいつは?
- 3 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時06分59秒
- 「だいじょうぶ?」
まず確実に「完全なる大丈夫」なわけはないけれども、挨拶代わりにそう声をかけた。
「はい……」
あまり大丈夫そうではない声で答えながら、彼女はゆっくりと顔を上げた。
涙ぐんでいた。ついでに、可愛らしかった。カワイイというか、キレイというか。
「そう、それはよかった」
私は自転車のスタンドを立てて停め、ぶちまけられた買い物の数々を拾い、
彼女の指先でヒラヒラしているビニール袋の中に戻していった。
「あ……。ありがとうございます……」
「いいえ、どうしたしまして」
ユーアーウエルカムだっけ? と、自分の言葉を無意味に英語に変換する。
- 4 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時07分29秒
- 「立てる──よね?」
「あ、はい」
そして彼女は、「あっ、痛っ」と顔をゆがめながら立ち上がり、砂埃を払う。
左のヒジとヒザが擦りむいて血が出ていた。反射的に、ケガするポイントを
片側に集中させたらしい。ただ転んだだけじゃないところがなかなかやるじゃないか
と思ったけれど、転んだという時点でなかなかマヌケだとも思う。
「歩ける?」
「はい」
そして彼女は、唇を噛みながら歩こうとした。
立てるかと訊けば無理にでも立ち上がり、歩けるかと訊けば無理にでも歩こうとする。
素直なのか、意地っ張りなのか、またべつのものなのか。とりあえず、おもしろい。
- 5 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時08分07秒
- 仕方ないか──
見るからにわかりやすく痛そうにしている彼女の手からビニール袋をひったくる。
当然、彼女は驚いた顔を見せる。
「乗って」
私は自転車のサドルをポンポンと叩く。
「え……?」
「たぶん、家、ここらへんなんでしょ? 送るよ。──で、どこ?」
何かを言わせる隙を与えずにまくしたてると、彼女はすぐそばの、
公園の斜向かいにある角地に建つ喫茶店を指さした。
「あれです」
近っ! ちょっとぐらいのケガだったら頑張って歩いて帰れんじゃん──
とは思ったものの、ここで引き下がってしまうのはなんだかカッコ悪いので、
「よし、わかった」と、強引に、彼女をサドルに横座りに乗せ、私はビニール袋を
片手に自転車を押していった。
目指すは、目の前の喫茶店だ。
「あの……」
「ん?」
「私、石川梨華っていいます。あの、ありがとうございま……した」
「どういたしまして。──吉澤です。吉澤ひとみ」
私たちは出会った。
- 6 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時08分56秒
- 2.
彼女──石川さんの家は、目にしたとおりの喫茶店ということで、
「お礼にコーヒーを」ごちそうになった。
私は今までこういう所に立ち入ったことがないので少し緊張した。
しかも身なりは、油や何かで汚れて茶色っぽくなっている本来は白い作業服。
気後れした。
店の扉を開けると、テレビなんかで見聞きするような、カランカランという
「喫茶店の音」がした。ニヤけそうになったのをこらえた。緊張がとけた。
店内では、スーツ姿の男の人が一人、石川さんのお父さんなのだろう人と
カウンター越しに談笑していた。
父と娘の会話のあと、私は石川さんのお父さんに無愛想気味な挨拶をしてから、
奥のテーブル席に座った。というか、座らされた。
そして、石川さんは「ちょっと待っててください」と店の奥に引っ込む。
- 7 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時09分33秒
- 一人取り残された私は、所在無く、落ち着かず、店に入る前のように緊張して
じりじりとした数分を過ごすことになった。そして、その数分後、黒地にコーヒー豆の
キャラクターがワンポイントで入っているエプロンを着けた石川さんが現れ、
カウンターから私のところへコーヒーを持ってきてくれた。
彼女の左のヒジとヒザには応急手当の跡。
そして、彼女は「待たせてしまってすみません。私、先に自分のケガの
手当することしか考えてなくて、それで、あの──どうぞ、ごゆっくり」
と言い置いて、さっさとカウンターへ戻っていってしまった。
こういう場所で「ごゆっくり」することに慣れていない私は、またもや所在無く、
落ち着かなくなる。
で、肝心かどうかはわからないけれどコーヒーの味はといえば、缶コーヒーや
インスタントなんかには比べるべくもなく、おいしかった。
誰かに飲まされでもしない限りコーヒーなんかは飲まない私の思うことだから、
あくまでもコーヒーという飲み物の枠の中の「おいしい」だけれども。
- 8 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時10分15秒
- そんな、コーヒーそのものが好きでもないし嫌いなわけでもない私は、
石川さん家の喫茶店に通うようになった。
最初は週に1、2回。やはり仕事帰りに、ウィンドウ越しに彼女の姿を見かけると、
自転車を反転させて、通り過ぎかけた店へと入っていく。
そして、休日、とくに何もすることなく過ごしていると、彼女の家、店へと自転車を走らせる。
そして、ついには、仕事帰りにはほぼ毎日通うようになった。
私が寄るような時間にはだいたい他にお客さんの姿はなくて、私が一人だけだったりすると、
石川さんは私の向かいの席に座る。
最初に座った、そして私の指定席みたいになった、奥のテーブル席だ。
そして、私たちは話をした。
- 9 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時10分50秒
- かつて高校生だった私は無気力だったという話をした。
何をするにしても、その結果だの過程だのに興味がもてない人間だったという話をした。
あらゆるすべてに対して、どうでもいいと思う人間だったという話をした。
もっともそれは今もたいして変わらないという話をした。
高校を中退したという話をした。
母親に「家でゴロゴロしてないで働け」と言われ、
母親の知り合いの板金工場で働かされることになったという話をした。
そこの社長は私を女扱いしないくせに、ときどき「おまえには色気がなさすぎる」とか、
セクハラまがいの、あるいは思いっきりセクハラなことを言われるという話をした。
もっとも私はそんなことは気にしないし、おおむね社長はいい人なんだと思うという話をした。
そういえば私は人を好きになったことがないという話をした。
特別人が嫌いなわけではないけれど、特別人が好きなわけではなく、
ようするにどうでもいいんだという話をした。
- 10 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時11分21秒
- 彼女は中学を卒業していないという話をした。
卒業はしたのだけれども、卒業していないのだという話をした。
だから高校には行っていないし、受験もしていないという話をした。
だからこの店でウェイトレスをしているのだという話をした。
家の仕事を手伝っていると言わないのは、本当に、自分が手伝っている、
役立っている、助けているとは思えないからだという話をした。
父親は「おまえが店に出るようになってからお客さんが増えた」と言うけれど、
それは自分に気をつかっているんじゃないかと思うという話をした。
彼女は中学卒業以前の話はしなかった。私は訊かなかった。
私にも話していないことはたくさんあった。話したくないことはあった。
たとえば、君のお父さんが言うとおり、
君がいるから増えたお客さんの一人が目の前にいるという話とか。
- 11 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時11分54秒
- 3.
眠れぬ夜に彼女を想う。
いまさらながら、喫茶店に通うのはコーヒーが飲みたいからじゃなく、
彼女に──梨華ちゃんに会いたいからだと気づく。確信する。
おかしい。こんなのは、まるで、恋みたいじゃないか。
べつに、相手が同性だからとかはどうでもよくて、ただ、こんなのは私じゃない。
こんな気持ちを抱く自分は自分じゃない。たとえこれが恋じゃないとしても、
いや、おそらく恋というものではないのだろうけれども、こんなふうに、
誰か他人のことを考えて、誰か他人の顔を思い浮かべて、会いたいと思ったり、
会いに行ったり、そんな気持ちを抱いたり、行動したりするなんて、それはおかしい。
そんなのは私じゃない。そして──
眠れぬ夜に彼女を想う。
自分がわからない。この気持ちがわからない。胸がモヤモヤする。
そのモヤモヤが解消できない。解消の仕方がわからない。私の中にいつも彼女がいる。
ふとした瞬間に彼女を思い浮かべる。仕事中にボーッとしてしまう。
そんなことは、生まれてから今まで一度もなかったことだ。
わからない。眠れない。そして──
- 12 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時12分30秒
- 眠れぬ夜に彼女を想う。
この胸のモヤモヤを解消しなくてはいけない。
真夜中に、0時過ぎに、彼女の家へ電話をかける。
──「こんな夜分遅くに本当に申し訳ありません」
──「ごめん。どうしても話したいことがあるんだ」
彼女の家のすぐそばの児童公園の入口に、彼女を呼び出した。
飛び出した夜には、わずかに雨がパラついていた。
私が公園に着くよりも、彼女の方がはるかに早く公園に着く。
ほんの数秒、家へ戻る時間も惜しく、もどかしく、私は傘もささずに自転車を走らせた。
傘が必要なほどの雨じゃない。
本人を目の前にして、私は彼女に恋をしているのかどうか聞くつもりだった。
私のこの気持ちは何なのか、名前をつけるとしたらそれは何なのか、
それを教えてもらいたかった。
答えが、明確な答えがほしかった。
たとえそのせいで今までの関係が壊れるとしても。
- 13 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時13分01秒
- 小雨だった雨は徐々に勢いを増し、半分ほどの距離を走ったところで
ついには土砂降りになった。
その雨の中、私はただひたすらに、彼女が濡れてしまうじゃないかと思っていた。
だから、たとえ気持ちだけでも、全速力よりもさらに速く、自転車を走らせた。
公園の入口に彼女の姿はなかった。彼女は来ていなかった。
黄色っぽい街灯の下、公園の入口の門柱に背をもたれ、しゃがみこみ、彼女を待った。
二階の、公園の見える部屋が彼女の部屋らしいけれども、その窓のカーテンの向こうは
暗く、明かりは見えなかった。
空を見上げると、目を開けていられないほどの大粒の雨が、容赦なく私の顔に降りかかる。
もう冬も近い冷たい雨が打ちつける。
うつむくと、頭上を、首を、背中を、冷たい雨が打ちつける。
- 14 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時13分33秒
- いったい私は何をしているのだろう? バカみたいじゃないか。
こんなのは私らしくない。いや、でも、きっと、今の私は、私らしい。
バカみたいに雨に打たれている今の私は、彼女と出会ってから今の今までの中で、
もっとも私らしいのかもしれない。
雨音の中に、雨とは違うものが水をはねる音が聴こえた。
それは、たぶん、走っていた。
はね上げる雨水に濡れる靴が見えた。
顔を上げると、彼女がいた。
ピンク色の服に、薄いピンク地に白い水玉の傘。
思わず笑ってしまいそうになるほど、女の子だった。
「ごめんなさい。傘、取りに行ってて……」
それにしてはちょっとばかり時間がかかり過ぎじゃないかな?
もちろん、言葉にはしなかった。
- 15 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時14分11秒
- 私は立ち上がる。
彼女は私に傘をさす。
「いいよ」
傘をさしかけてきた彼女の手を押し返す。
私はもう、傘なんか必要ないほどにずぶ濡れだ。
「でも、カゼひいちゃう……」
「いいよ」
そして、沈黙と雨音がうるさく耳を打つ。
話したかったことを、聞きたかったことを、言葉を、
思い出そうとする。
たくさんあったはずなのに。
とても大切なことだったのに。
- 16 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時14分43秒
- 「ごめんなさい……」
唐突に、なぜか彼女は泣きそうな顔になって謝る。
私が用意していた言葉への答えを先回りされたみたいでドキリとした。
しかし、そんなわけはないと思い直す。
そして、さっきまでの自分の言動を振り返る。
そして、私が怒っていると思ったのかもしれないと考える。
「いや、そうじゃなくて」
表に出てきた言葉だけでは、噛み合った会話になっていない。
何が「ごめんなさい」で、何が「いや、そうじゃなくて」なのか。
もしも君が、私が怒っていると思っているなら、それは違う。
怒ってなんかいないよ。怒るわけないじゃないか。
こんな夜中に、こんな雨の中、無理に呼び出したの私だ。
だから、そうじゃないんだ。君が濡れてしまうじゃないか。
そんなのは私の本意じゃない。
ごめんなさいと言うなら、それは私の方だ。
しかし、それらの思いは、すべて、一つも、言葉にはならなくて、
出てきた言葉は──
「君のことが好きなんだ」
- 17 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時15分22秒
- 確信した。
足元を濡らしながら駆け寄ってきた彼女の顔を見た瞬間に確信していたはずだ。
私は彼女のことが好きなんだと。これは恋なんだと。
もしも雨じゃなければ、この夜はもっと違うものになったかもしれない。
でも、きっと、いや、間違いなく、彼女への想いは変わらない。
たとえこの夜がどんなものであろうとも、彼女のことを好きだと確信したはずだ。
「トモダチとかじゃなくて、君のことが好きなんだ」
満足な会話にはならず、ただ気持ちだけが走っていく。
彼女は泣いていた。それは雨の滴なんかじゃなく、両目からこぼれ、
頬を伝わり流れ落ちていく涙だった。
「私もよっすぃーのこと好き。ちゃんと好き」
- 18 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時15分54秒
- そして、私たちは話をした。
私が抱えていた彼女への想いを。
彼女が抱えていた私への想いを。
彼女は、自分が、他人に好かれる人間じゃないと思っていることを。
自分は誰か他人を好きになってはいけないと思っていたことを。
なぜ私に呼び出されたのかがわからなくて、どんな話があるのかわからなくて、
それを悪い方向へ考えることしかできなくて、とてもとても怖かったことを。
本当はこの場に来たくなかったけれども、雨の中、待っている私を見て走ってきたことを。
私たちは互いに不器用な生き方しかできなくて、他人の目にはイビツに映るかもしれない。
だけど、それが私の、私たちの人生で──何も、哀れだったり、滑稽だったり、
悪いことばかりじゃない人生だ。
- 19 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時16分37秒
- 「手、冷たいよ」
彼女が私の手を握る。
「カゼひいちゃうよ」
彼女の手は暖かかった。
彼女を抱きしめたかった。
彼女のぬくもりを確かめたかった。
このシアワセを確かめたかった。
しかし、私はずぶ濡れだった。
冷たい雨に打たれすぎて、私は水の塊みたいに、氷みたいになっていた。
もしも雨じゃなければ、この夜はもっと違うものになったかもしれないのに。
私はただ彼女の暖かい手を握り返しただけ。
そして、二人の手が離れる。
そして、彼女は飛びこむようにして私に抱きついてくる。
ピンク色の傘が落ちて転がる。
言葉はなく、気持ちだけが走る。
私の両手は彼女を抱きしめることができず、宙にとどまる。
もしも雨じゃなかったとしても、私は彼女を抱きしめることができただろうか?
いや、もう、もしもの話はいらない。
私の濡れて冷たい服越しに、彼女のぬくもりが伝わってくる。
そして私は、彼女の背中に軽く両手を添える。
- 20 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時17分15秒
- <エピローグ>
翌日──
私は見事にカゼをひいた。
高熱にやられ、皆勤だった仕事を休み、ベッドに横たわって
ウンウンうなるはめになった。
「だからカゼひくよって言ったのに」
「うん……」
私がぐったりしているベッドの脇で、梨華ちゃんが笑う。
まあ、君がカゼをひかなくて良かったよ。でも、ここにいたら
私のカゼがうつってしまわないか心配だ。でも──
窓の向こうに見える空は、本当に心の底から憎らしく思えるほど、
視界にある限りどこまでも青く晴れ渡っていた。
きっと、ずっと、その向こうまでも。
・終・
- 21 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時17分55秒
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- 22 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時18分25秒
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- 23 名前:01.恋想 投稿日:2002年12月02日(月)04時18分57秒
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