08 牡丹園の大きな木

1 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:26
08 牡丹園の大きな木
2 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:27
須藤茉麻は、そばつゆの中で拡散していく七味唐辛子の描き出す模様に見入っていた。
真ん中に注いだはずの赤い粒が、瞬く間にそばつゆ全体へと均一に広がる。
しばらく箸を割るのも忘れ、桃子がいることも飯田圭織がいることも忘れ
ぐるぐると回転するつゆを眺め続けていた。茉麻にはこういう癖がある。

本人にとってみればそれは高尚な何かを考えているときであり
食事や勉強や会話なんかよりも優先順位の高い活動であるのだが
傍目にはぼーっとしているようにしか見えない。いつも桃子は隣できょとんとしていた。
それでも茉麻にとっては意味のあることなのである。

カン

竹の音が庭園の乾いた空気に響いた。
そばつゆの水面では唐辛子は広がるのをやめていた。
今はただ一様に赤が点在するのみである。

「エントロピーが増大しきった、もっとも無秩序な状態ね。」

飯田圭織がそんな説明をしていた。目がどこかに飛んでいる。
この先輩は、ハローの新たな計画を桃子に聞かせるために来ていたのだが
話が迂遠かつ難解であったため、茉麻にも桃子にも、何を言っているかわからない。
そこはモーニング娘。のリーダーだったころから変わっていなかった。

「物質はその秩序を崩壊させることで熱エネルギーを生み出している。
 秩序は熱量に換算されて、やがて無秩序な均衡状態に落ち着くわけ。
 広がっちゃたらそれきり。唐辛子が再び集合しだして秩序を作り始めたら怖いでしょ?
 え?ああ、そうだね。生命体は活動し続けてるね。エントロピーが増大しないの。
 いや、本当は唐辛子みたいにバラバラに崩壊する力は働いているんだけど……
 そうだな、例えばこのそばつゆを箸で掻き回してみよう。するとどうなる?
 ほら、また唐辛子が微妙にまとまりを作ったでしょう?秩序の再構成。
 外部エネルギーによる揺らぎが生まれるね。するとそれに反応して
 秩序が再構成される。箸の入ったそばつゆは外部に開かれた散逸構造体なわけ。」
3 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:27
茉麻は夢中になってそばつゆをのぞき込んだ。飯田の話は全くわからなかったが
渦を巻くように唐辛子が秩序を作ってるのを見るだけで、世界が広がっていく気がした。

「生命も散逸構造体なの。だから外部エネルギーからの揺らぎを受けて秩序を取り戻す。
 パラジットによって揺らぎを引き起こし秩序を保つ高度なシステムなんだ。
 え?パラジットって何かって?
 そうだなぁ、例えば……ほらあそこの鹿威し見える?そうそう水が竹の中に溜まって
 カァーンて鳴る仕掛け。あれってずっと動いてるけど、
 それは水が溜まって竹でできたシーソーの均衡が乱されるからなんだ。
 水が溜まるとバランスが崩れて、竹が傾く。水を全部出しちゃう。
 するともとの均衡状態に戻る。で、戻る瞬間に竹が音を立てる。永遠に止まらない。
 この場合の水がパラジット。水が流れる限り延々活動を続けるでしょ?鹿威し。
 人間も同じ。世界の流れに対抗して秩序を保とうとする」

カン

音が鳴る。茉麻の関心は、すでにそばつゆから鹿威しの方に移っていた。

「水がなくなったら、もう竹には外部エネルギーが流れ込まない。
 均衡状態に揺らぎを与えるパラジットが無くなり、もう音は鳴らない。
 つまり……」

飯田は、茉麻たちの方に一つ身を乗り出すと、急に声を小さくした。

「死んじゃうんだ。揺らぎが少なくなるとだんだんエントロピーは増大して
 新陳代謝の周期が乱れたり遅れたり、そして年老いてやがて死んじゃうの。」


カン

4 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:28


あれから10年経った雪の日、私はももと再会するために牡丹園を訪れた。
雪が降ったら2人で来る約束だった。
2人で来る約束だったが、ももとは連絡が取れないでいた。
もうずっと連絡を取っていない。
ここに来れば会えるかも知れないと思った。
ここで待っていればももが来る。
そう思って、私は1人で牡丹園にやってきた。

牡丹園の入り口の門をくぐった。
門は記憶していたよりもずっと小さかった。
雪が積もっていたし、私の背もあれからまた伸びていた。

中に入っても、園の様子は見えなかった。
雪をかぶった柘植や松が邪魔をしていた。5歩先も見通せない。
通路はやはり門と同じで狭かった。
記憶よりもずっと狭いと感じる。
雪を踏みしめるとギュっと音がした。
その音で耳を愉しませながら、狭く曲がった道を歩いた。

寒さで心まで静まっていく。
皮膚がかじかみ、外の世界を遠く感じた。
視界も白く眩しい。自分がこの世界から離れているのだと感じた。
雪を踏む音だけが近く感じられた。

白い息を吐きながら進んでいく。
私はとにかく歩いた。

少し開けた所から白い小屋が見えた。見覚えのある小屋だった。
3人でおそばを食べた小屋である。懐かしく感じた。
私の足が軽く、速くなった。私は足に任せて走って小屋まで行った。
5 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:28
近づくと小屋の扉が閉まっている。扉には「準備中」とあった。
10年前におそばを食べたのが、ちょうどこの場所だった。
目を閉じると思い出がふと
色鮮やかに閃光のように浮かんだ。
今は真っ白の牡丹園にも、10年前は色がいっぱいあった。

きれいな牡丹、桜、さんしゅゆ、木蓮、花水木、山吹、藤、しゃくなげ。

あのときは今と違って春だったし
土も風も植物も元気だったのだ。

今はどこにも色はない。
冬だから桜や藤の枝が裸なのは当然だったが
柘植の木までやせ細っていたので、私は淋しくなった。
季節の問題ではなく、牡丹園全体が色あせたのだと思い
また淋しくなった。
思えばあれきり、鹿威しの音も聞こえていない。
水のめぐりが悪いのだろうと思った。
老化現象の影響で牡丹園の牡丹が咲かなくなったとテレビで見た。
雪も10年ぶりだった。

10年の間に世界は急激に潤いを無くしていた。
空気は澱み、水は濁り、大地は痩せ細っていた。
牡丹園の変貌はそれをよく表していた。
水も空気も養分も、そのサイクルが緩慢になっている。
鹿威しはまだならない。

私は雪の上にばさっ、と座った。
身体の中から疲れがこみ上げ、喉の外に出てくるような心地がした。
私は疲れている。
最近では寝ても疲れの取れないことが多くあった。
6 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:28
身体の周期が遅いのだ。

子どものころにはないことだった。
子どものころには疲れても、一晩寝ていれば復活していた。
あの頃はレッスンが毎日あったし、ライブなどでも汗をかいた。
時間は忙しく過ぎていた。
将来のことなんて考える暇もなく、ただ楽しかった。
ももと笑っていられれば、後はどうなってもいい。
本気でそう思っていた。

……もも。

そのとき遠くにももが見えた。
ももはピンクの服を着て、小走りに丘を登っていた。
あの頃のままの、元気なももだった。

私は疲れて霞んだ目をこすり、もう一度もものいた所を見た。もういなくなっていた。

急に懐かしくなった。
懐かしい声まで聞こえてくる気がした。
甲高いくせにくすぐったいももの声を思い出していた。

  すごい!真ん中に木がある。

10年前のあの日、おそばを食べ終えた私たちは
飯田さんに「遊んでくる」と言い置いて、丘の上広場まで一緒に駆けていったのだった。


7 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:28
暑い晩春の日だった。
あの頃はまだ、地球老化現象なんかよりも温暖化の方が深刻だった。
とにかく暑い日だった。

私は丘に登っていくももを追った。
ももはピンク色の服を着ていた。
ひょいひょいと階段を登って私を見下ろした。
いつもは私を見上げて、ちょっと首が苦しそうなももが今日は見下ろしていた。
私が追いつく。するとももは、またひょいひょいと飛び跳ねて進んでいった。
ももが私の前で飛び跳ねるたび、私の心も飛び跳ねた。

わたしの気分は、ももの行動が決める。
私はいつでも、ももの行動を見て、ももの元気を見て
その日のテンションを決めていた。
きっとみんなもそうだと思った。

佐紀ちゃんはももの相手をしているうちに自分も乗せられていた。
雅は一緒になってはしゃぐ。
千奈美はもものテンションを追い越そうとした。
私はももと一緒になろうとした。
ももとなるべく一緒の気持ちになりたいと思った。

あのとき、目の前でピンク色が跳ねるのを見て
ああ楽しくなってきたなと思った。
同時に、厄介なことになったと思った。
きっとももはもう、自分でも止まらなくなっている。
きっと2人は今日、汗だくになるまで止まらない。
うきうきを抑えることもせずに
私たちは笑いながら、夢中になって頂上を目指した。
8 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:29
丘の上の広場に到着した。草の敷いてあるちょっとした広場だった。

「すごい!真ん中に木がある。」

広場の真ん中に、ちょっとした盛り上がりがあった。
その真ん中に大きな木が立っていた。
ももは私を見てうなづく。そして木に向かって駆けた。

「がんばっちゃえみたい!」

ももはそう言った。私はなるほどと思った。
この場所は「がんばっちゃえ!」のPVセットにそっくりだった。
でこぼこした広場のたたずまいも、わざとらしい緑色も、
真ん中にそびえる大きな木も。そう考えると親近感が湧いた。
そう考えてみると、あの木を自分たちの手で育てたような気分になる。
不思議な心地だった。あれは映画のエンディングのための撮影であって
本物ではない。それなのに、私は、木を自分たちで植えたと思っている。

がんばっちゃえのPVにはストーリーがあった。
誰かが持ってきた苗を植える。
冬に雪が降ると、寒い中一生懸命幌を立てて木を守った。
みんな一緒にいた。みんなで一緒になって、木を植えた。
やがてみんなの木は大きく成長し、再びみんなは広場に集まる。
星空の下で肩を組んで歌う。そういう話だ。

「まぁ。みんなの木だよ」
「あーほんとだぁー」

私も木の所まで歩いた。
近くまで行く。

「ももー。どこ見てんの?」

私が近づくとももは動くのをやめていた。
動くのをやめて、私の背中よりも後ろを見ていた。
9 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:29
「……すごい」

私は振り返った。
牡丹園の斜面が全部見えた。

「きれい」
「超きれい」

色とりどりの牡丹で埋め尽くされて、賑やかだった。
風が吹くとそれと同じ方向になびいた。
なびく牡丹が七色の波のように見える。
それからちょっと遅れて、香りが吹いてくる。
牡丹や、いろいろな花の混じった匂いだった。
温かくて沁みるような匂いだった。

2人はしゃがみ込んだ。
何も話さなかった。
何も話さず、ただ牡丹が揺れるのを見て
花が匂って
ももの肩がかすかに触れるのを感じた。
2人はこれで充分だった。
2人のデートはいつも、何もしない時間だった。
ももがのんびりすると私ものんびりと安心しきった。

「はぁ……」
「ほぁぁ……」

ため息を交互にした。わざとやっていた。

「くすっ」
「ふふっ」

今度は笑っていた。理由はわからないがももが笑ったので私も笑った。
10 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:29
「ねぇ、ここ、雪降るかな?」

ももが聞いてきた。

「降るんじゃない?」
「降ったら、本当にがんばっちゃえみたいになるね」
「なるね」
「そしたらさ……」

私はももを見た。
ももは照れくさそうに地面を眺めながら言った。

「また来ようよ。2人で」
「うんいいよ。雪が降ったらまた来よう」
「約束だよ」
「うん」

早く雪が降るといいと思った。
またももと、この景色を見たかった。



本当はすでに、ももをめぐる壮大なプロジェクトは動き始めていたのだけれど
その頃の私たちにとっては遠い国の話みたいだった。
それよりも、ステージから見える色とりどりのペンライトや、
ももと一緒に食べるご飯や、汗をかいて座り込んだレッスン場のほこりクサい空気や
ふと夢にみる甘い温かい感じの方が、私には近く大きく感じられた。


11 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:30
そうこうしているうちに、メンバーも年をとった。
メンバーが年を取ったから、ソロになって卒業しなくてはならなくなった。
ももが卒業すると聞いたとき、いよいよかと思ったのを覚えている。
その時すでに、ももは私たちと一緒に活動できる年ではなかった。

それを私に知らせたのは、飯田さんだった。
電話に出るなり「この年になると、こういう仕事まで回ってくる」
と愚痴をこぼしたあと、私にももの卒業を知らせたのだった。


「須藤?今どこにいる?」

私はその電話を自分の部屋で受けた。
どきん、と胸が高鳴った。

「嗣永桃子の身体は、熱エネルギーの出し入れが都合±0になる。
 完全な散逸構造を獲得したよ。世界の揺らぎパターンが
 嗣永の細胞周期と一致していたから実現できたんだよ。」

私は黙ったままだった。受話器を強く握った。

「嗣永の体内にある砂時計は、永久に落ちない」
「どういう……ことですか?」
「生物の遺伝子には、テロメアという寿命を数えるための砂時計が仕掛けられている。
 細胞分裂を起こすたびにテロメアが減っていく。このテロメアがなくなると
 もう細胞は分裂できなくなって死ぬ」
「死ぬためのタイマーってことですか?」
「そういうこと。私たちの身体には生まれたときから
 死へと導く力学がかかっている。
 エントロピーが増大して、秩序が崩壊していくんだよ。
 ひっくり返した砂時計は、やがて砂を流し終えて均衡状態に落ち着く。」
12 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:30
「飯田さん……ももの身体は……」

私はどきどきしていた。飯田さんの説明はやっぱりわからなかったが
とんでもないことが起こったという雰囲気だけは、痛いほど伝わった。

「砂時計をずっと動かし続けるにはどうすればいい?」
「えっと、ひっくり返して……」
「そう、何らかの揺らぎを与えて、砂が落ちきる前にひっくり返す。永久にね。
 鹿威しを永久に動かし続けていくみたいに、時間の流れが嗣永の砂時計を返し続ける」
「どうやって?」
「そう、最初に言っただろ?世界の揺らぎパターンが嗣永の周期と一致したって。」
「つまり……」
「世界の揺らぎを受け止める身体につくりかえたんだ。
 時間の流れを堰き止めて身体を揺らがせることで
 嗣永の身体は秩序を再構成していく」

私は、持っていた電話を取り落としそうになるのを
両手で押さえながら、結論を聞いた。

「もう嗣永は、年を取らない」

私は
受話器を落とした。
13 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:30
説明を受けて、私にもどうにか理解できるようになった。

年を取らない手術。計画は密かに進行していたらしい。
細胞周期がちょうど、世界の揺らぎのタイミングと一致して
ももの身体は「老化」のプロセスだけを器用にスキップする。
不老不死を実現できる非常にレアな身体だった。
その発見を聞いた誰かが「永遠のアイドル桃子」という
とんでもないプロジェクトにしてしまった、ということだった。
水をせき止めて、延々動き続ける鹿威しのように
ももは世界の時間を一瞬せき止めることで、ずっと若いままでいられることになった。

メンバーはそのときすでに成長していた。
これからはももだけが、年を取らずに永久に子どものままでいられるのだ。
メンバーが年を取ったから、ソロになって卒業しなくてはならなくなった。

こんな形での卒業は始めてだ、と飯田さんは言った。

ももが年を取ったのではない。
みんなが年を取ったのにももだけ年を取ることができず
一緒に活動できなくなったのだ。

ももがそれを望んでいたのか、私は聞くことができなかった。
きっと望んではいなかっただろうと思う。
ももが私たちを見捨てて平気なはずがないと、
そう思わないと悔しくなってしまう。
私はももが望んでいなかったのだと思うようにした。

卒業式を終えると、私たちの周りの時間の流れは遅くなった。
ももが抜けてからもグループはあるにはあったが、色あせたのだと思う。
エントロピーは増大し、まとまりを失って、その状態で均衡してしまった。
私の時間は、そのとき止まった。
14 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:30
私たちは変わってしまった。
それと同時に、世界も変わっていた。地球老化現象。
ももが時間を定期的にせき止めているため、流れが撹拌され
時間が乱れてしまったのだ。

鹿威しからあふれ出た水が、地面に水たまりをつくり、澱んでしまう。
水は流れる量が減る。減ると滝に落ちる量も減り、水蒸気になる量も減り
雨の量も減る。循環が悪くなる。

それと同じことが世界に起きていた。

空気は澱み、水は濁り、大地は痩せ細っていた。
水も空気も養分も、そのサイクルが緩慢になっていた。

ももの代わりに世界が年老いていった。

原因のことは世間には伏せられた。ももはずっとアイドルのままだった。
地球老化の世の中で、年を取らない嗣永桃子は希望の象徴みたいなもので
人気がすごかった。おかげでハロプロは成長した。
私たちは置いて行かれてしまった。その頃からももとは連絡が取れなくなった。

それからずっと雪が降らなかった。
これも老化現象だった。


15 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:30
10年ぶりに雪が降ったのを見て、私の心が躍った。
ももとの約束の場所へ、すぐに出かけた。

私は階段を登っていた。
10年前と同じように、ももを追いかけていた。
あのときと同じピンクに身を包んだももが
この上にいるはずだった。
この上の白い雪に覆われた広場に。
この上にいるももを想って、必死に足を進めた。

頂上についた。

ももは木を見ていた。
後ろを振り向きもせず、ももは私を呼んだ。

「まぁ」

目頭が熱くなる。

「……もも」

私が呼ぶと、ももはくるりと振り返った。
ももは本当に10年前のままだった。
凜と何かを主張するような鋭い目と
やわらかく溶けるような笑顔。
冷たさと暖かさの同居した、不思議な表情の少女が
10年前の記憶のまま、私の前に立っていた。
雪の中に映えたピンクの服と、白い顔のもも。
時を超えて、あのころのももに会いに来たのだ。そんな錯覚に陥る。

「約束……覚えててくれたんだ」
「うん」
16 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:30
「ありがとう」
「こっちこそ」
「でも……」

ももはくるりと身体を変えて言った。

「みんなの木、枯れちゃってる」
「……」
「牡丹も柘植も、みんな死んじゃってる」
「しょうがないよ。どこもおんなじ」

私はもう一度しょうがない、と言った。

「私だって年取ったし」

もう25歳になっていた。
年齢ということを意識して、私は急に恥ずかしくなった。
ももからは、大人になった私がどう見えるのかと不安になった。

ももは首を苦しそうにしながら私を見上げている。
そのしぐさも変わっていなかった。

「まぁ、年取った?」

そう聞かれた。

「うん」

私はそう言った。
17 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:31
ももはかすかな声で、ごめんね、と下を向いた。

「私のせいで……牡丹園が死んじゃう」
「……」

私はどう言ったらいいかわからなかった。
もものせいじゃない。ももが望んだことじゃない。
そう言いたかった。
そう言って、ももに「そうだよねー」と笑って欲しかった。
でも言えなかった。
ももはきっと「そうだよね」とは言わないとわかっていた。
私がフォローしても、ももはやっぱり「ごめんね」と言う。
それがわかったから、下手なフォローはできなかった。

私は何も言わずにももの手を取った。
ももの手は冷たかった。
冷たいももの手を引いて、みんなの木の下まで来た。
そして2人で腰を下ろした。あのときと同じ姿勢だった。

「静かだね」
「そうだね」

ももの声が、私の耳をくすぐった。

「なんか、ほっとする」
「うん、ほっとする」
18 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:31
それから2人はいつもどおりだった。
いつもどおり、何も言わないで景色をただ見ていた。
いつものデートだった。
10年経っても何も変わらないのだと思った。
ももの姿も、2人の会話のずれたテンポも、座って感じる肩の感触も
全部があのときのままだった。
それが嬉しかった。
ももは何も変わらない。

ただ、景色だけが枯れて
真っ白に覆われていた。

ももの肩が震えているのに気がついて、私はももを見た。

「ごめんね。本当……ごめんね……」

ももの目は真っ赤だった。
私の胸が乱暴に引きちぎられるみたいに痛んだ。

「ごめん、ごめんねみんな。せっかく植えた、みんなの木を……」
「もも、これは違うよ……」

私は言った。意味のない励ましだと思った。
私は咄嗟に両手を伸ばし、ももを自分の中に抱き寄せていた。
ももが私の中で震えた。
背中をとんとんと叩いたり、さすったりした。
ももの身体は熱く、私の胸の真ん中も熱を持ったように感じた。

「なんかさぁー」
「……」

私は、笑顔になった。
19 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:31

「ももらしいよね」

ももの震えが止まった。

「そういうとこ、すっごくももらしい。
 ステージでも空気読まないで勝手に自己主張して
 そのくせ終わってから1人で後悔してんの。
 そういうのとか、懐かしいな」
「……まぁ」
「あのときはさぁ、走り方面白いとか声が高いとか
 みんなでからかってたよね」
「そうだよ。あれ、傷ついてたんだから」
「ふふっ」

私はももの両肩を持って、よいしょとももを起こした。
ももの目が腫れていた。

「ももはそれでいいんだよ。自由で迷惑で小指立ってて。
 みんな呆れた顔しながら、ももに元気もらってたんだから」

ももはぐすんっ、と鼻を鳴らした。
そして立ち上がった。

「ありがと。また、まぁから勇気もらった」

小走りになって木から離れた。
私も立ち上がった。
20 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:31
「もう、行くね」
「え?もう?」
「本当は、勝手に外出しちゃいけないんだ。
 たぶんここもバレちゃう」
「そう」

ももは、くるりと私に背中を見せた。

「もう一度、ありがとうね」
「どういたしまして」
「私、まぁに恩返しするから。みんなの木に元気を返してあげる」
「え?」

はっ、となった。

「環境庁から事情聴取を何度も受けてるんだ。
 老化現象の原因、もうバレてるみたい。
 私、もう一度手術をするんだよ」
「手術?」
「そう。時間の流れを戻す。
 待っててね。すぐにまぁとおんなじ大人になるからね」

ももは、そのまま背中を見せたまま歩き出した。
その様子は、頼りなく、危うく、脆そうだった。
その後姿は、丘を下って見えなくなっていた。

「……もも」

手術というが、それは成功するのだろうか。
21 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:31
  すぐにまぁとおんなじ大人になるからね

ももの最後の表情が浮かんだ。
目を閉じた。それでも浮かんだ。
ももの時間を戻すのだ。止めていた時間を一気に。
背中がぞくりとなった。
ももは、もう戻ってこないのだと、直感が伝えていた。
ただの鹿威しが鉄砲水に耐えられるわけがない。

私は走りだしていた。

「もも!」

すぐに追いついた。
ももは振り向かずに立ち止まった。

「もも、行っちゃだめ!」

私は、腹の底から叫んでいた。

「行っちゃだめ!だめだよ!」
「……まぁ。だけど……」

喉が痛かった。目が熱かった。
頬がゆがむのを抑えられなかった。

「世界の未来なんてどうでもいいよ!
 もっと……私と一緒にいてよ!」
22 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:31
「まぁ……」

世界が遠のくような眩暈を感じた。
ももの声だけが、私に迫っていた。

「自分の身体が世界を蝕んでるってどんな気分かわかる?」

ももの声が寒空にシンと響いた。
私は何も言えなかった。
ももの背中に気圧されて動くことすらできなかった。

「ごめん。またまぁを困らせること言っちゃった」
「もも」
「じゃあね。みんなの木、大事にしてね」

声が震えていた。ももは最後まで振り返らず、丘を降りていった。
私は呆然と、白い牡丹園の中をももが遠ざかっていくのを眺めていた。
そしてももは、私の前から姿を消した。

「もも……どうして?」

壊れたように独り言を言うしかできなかった。

  どんな気分かわかる?

「わかんない……」

もも……大好き。
この世界よりも、ももが好き。

「わかんないよ!!!」

23 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:32


それから2ヶ月が経った。
ももがテレビに出ることはなくなった。
理由は説明されなかった。
新聞では環境庁が、地球老化現象の収束を宣言していた。

久しぶりに春が訪れた。
春の風が心地よかった。
ふと夢にみる甘い温かい感じに良く似た、春の空気だった。
私は三度、牡丹園にやって来た。
相変わらず門は狭い。

カン

竹の音が園内に響いたので私は立ち止まった。
目を閉じて、耳を澄ませた。しばらくそのまま。

カン

もう一度音が聞こえた。私は満足した。
時間は流れはじめている。

私は数え切れないほどの牡丹に送られながら曲がった道を進んでいた。
花の香りがした。心がふわりと浮かぶような花の香りだった。
24 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:32
丘の上広場に登った。あのときと同じように走って登った。
そしてたどりついた。
丘の上ではみんなの木が、枝をわんと広げ葉を茂らせていた。
いつか見たままの光景だった。

「もも、みんなの木が生き返ったよ」

私は目を閉じた。目を閉じると、そこにももがいる。
私の想像の中、ピンクの服を着たももが走っている。
広場をみんなで駆け回っている。

それは映画によく似た景色だった。

世界の時間は流れ始め
ももの記憶は、この大きな木の下。私の心の中。

私は振り返った。
牡丹園の斜面は
息を呑むほどたくさんの牡丹で埋め尽くされてこの世界を彩っていた。

ももの命が、ここにはある。

私は両手を広げると、牡丹の香りを吹くんだ風を
思い切り吸い込んだ。

25 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:33
END
26 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:33
6月
27 名前:08 牡丹園の大きな木 投稿日:2007/05/07(月) 21:33
30日

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