29 チキンてのひら
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:06
- 29 チキンてのひら
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:06
- 薬袋には一種類のカプセルが入っていて、朝食後に一錠、夕食後に一錠、を二週間分処方
されている。
私は自分の部屋に着くなりそれを部屋の隅に放り投げて、ベッドに突っ伏した。
「疲れた……」
医院は自宅から徒歩数分の場所にあったが、体力以上に相当精神力を浪費する。
けれどこうなるようになったのも、ごく最近の話だ。
幼馴染の石川さんが、私が小学生の時から通っている医院の医療事務員になってから。
石川医院の娘さんなのだから当たり前といえば当たり前だけど、まさか高校を卒業して
すぐに就職するなんて夢にも思わなかったし、本人から聞いたことも無かったから。
「高校入ってから滅多に会わなくなってたしなあ」
独り言を言いながら仰向けになり天井を仰ぐ。左右の手を上空に翳してじっと見る。
両のてのひら、病的に白い。
触れなくなって、どのくらい経つだろうか。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:08
- 「いつも出てるお薬、二週間分ね。ご近所の薬局で受け取って下さい」
この人にパステルピンクのカーディガンっていうのは、ちょっとバランスが悪い。
彼女はエスニックとかアジアンとか、とにかく日本人の薄い顔立ちにちょっとスパイス
効かせた感じの派手な顔立ちだ。スッと通った鼻筋と描いたの丸分かりの眉毛のせいで、
清潔第一の医療用の衣服だとどうにも浮いて見える。
制服の白が似合わないのは自分でも分かってるみたいで、カーディガンを羽織ってるけど、
色の選択を間違ってる気がする。
どうも場違いなんだ。
それで本人は仕事に対して生真面目すぎるほどだから、たまにそのギャップが笑いを誘う。
「何笑ってるのー」
「前から思ってたけど、カーディガンの色が変」
「えー、いいでしょピンク好きなんだから」
「違う、色は良いんだよ。着てるのが石川さんだから浮いてんの」
「失礼ねー」
「もっと濃い色の方がバランス良いよ」
「ショッキングピンクなんて仕事で着られる訳無いでしょ」
ピンクからは離れられないらしい。昔からこうなんだから。
私は呆れた笑いを漏らしつつも、処方箋を受け取る手の先には細心の注意を払った。
「じゃあ、また二週間後に予約入れておきますから」
院外処方箋と一緒に、かなり使い込まれた診察券を返却される。それを受け取るのにも
毎度命がけだ。表側には当然のことながら私の名前が書かれている。『高橋 愛殿』と。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:08
- だらだらしていたら窓の外が暗くなっていた。
だるくて仕方なかったが起き上がり、カーテンを閉めて部屋の照明を付ける。
壁掛け時計はもう大分前から昼休みの時間帯で止まっている。
携帯電話で時刻を確認しようとしたら、いつの間にやらメールが一通、届いていた。
差出人は石川梨華。幼馴染のフルネームである。
明日の卒業式の後、卒業祝いで食事に連れて行ってくれるらしい。
タクシーで学校近くまで迎えに行くから、適当な時間に連絡するように、との内容だった。
了解の返信をして携帯を畳み、その日の夜は描きかけだった絵の続きを描くことだけに
費やそうと決めた。
描いている間は無心になるかといえばそうでもなく、頻繁に昔のことを思い出した。
思い出すのは決まって、小さい頃、見知らぬ男に誘拐されかけた時のことばかり。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:09
-
▽
その時住んでいた福井県の、あるスーパーの店内で母とはぐれた私は、泣きそうになり
ながら入口の自動ドアの傍で母を待っていた。子供ながらに知恵を絞って、母が絶対に
通るはずの場所で。でも、これがまずかった。
男は目の前を通りすがりざまに、突然私の右手を掴んで無理矢理店の外へ連れ出そうと
した。偶然傍を通りがかったどこかのおばさんが不審に思ったらしく、身内の振りをして
声をかけてくれて、そいつはその場から走って逃げた。捕まえることは、出来なかった。
解放された私がその後どうしたのかは憶えていない。
多分出かかってた涙も引っ込んだんじゃないだろうか。
数日経っても手を伝って瞬時に全身を駆け巡った嫌悪感と恐怖感はなかなか拭えず、素手
でいることが恐ろしくなり、手袋がないと物に触れることが出来なくなってしまった。
それも冬場使うナイロン製の分厚いものだ。持っているのが、それしか無かったから。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:09
- その後すぐに親の転勤で今住んでいるこの土地に越してきた。新しい土地でも手袋をした
ままだった私は、親に連れられて近所にあった石川医院を訪れる。ここの院長さんとうち
の父はもともと友人同士だったようで、精神科に子供を連れて行くのも気が楽だったと、
ちょっと前にそんな親のエゴ丸出しのことを言われて、大喧嘩になった。
勝ったのは勿論、私。
翌日の朝、一緒に学校に行こうと迎えに来たのが、りかちゃんだった。院長先生の娘さん。
歳は一つ上で、転校してきたばかりの私のことをお父さんから聞いて来ました、と自分の
意志で迎えに来てくれた。(後で聞いたら、本当にお父さんから頼まれたからとかじゃ
なくて、自分で決めていきなり来たらしい)
その日から毎日のようにりかちゃんと過ごし、彼女が高校に入ってから三年の空白が
あったけど、またこうして病院でお世話になっている、というわけだ。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:10
- あの男のことを思い出すと叫び出しそうな衝動に駆られつつ絵筆を動かすのだが、これが
大抵、後になっていい感じに仕上がってしまうのだから皮肉なものだ。
大学に進んでも美術部に入るべきだろうか……
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:11
-
▽
高校の卒業式はあっという間に終ってしまった。
証書の入った円筒形のケースを右手と左手でキャッチボールのように弄びながら、友人達
と雑談を交わす。また遊ぼうね、っていうかどうせウチら大学一緒じゃん、何度も似た
ような会話をしては笑っているけど皆やっぱり名残惜しいんだろう。
確かに私達のグループは全員揃いもそろって同じ大学に進むが、学部がバラバラなので、
抱えている不安は平等にあるようだった。
私も例に漏れずその一人だったが、親の世代の大学生でもないし、現代には携帯もメール
もある。
連絡手段はあるのだから、何とでもなると心のどこかで思っていて、だから一足先に皆の
輪から離れた。まあ、石川さんのことを思い出したのが主な理由だけれど。
「高橋さん!」
学校の玄関を出たところで誰かに呼び止められ、振り返ると、半分開いていた玄関ドア
から上半身だけ外側に出してこっちを見ている女の子が居た。知らない子。誰だ?
「待って下さい、待って」
胸元に造花のリボンがついていないし敬語だし、下級生? 何で今日三年以外がここに
いるんだ? 好きな先輩を見届けにでも来たんだろうか。
こちらが気付いたのがわかると、残りの半身で体当たりするようにドアを押し開けて外に
いた私の傍に来た。息を切らしている。割に、乱れた呼吸以外は人形のように整った
顔立ちでアンバランスだ。肌の色も白くて、平たく言えば美形。
「卒業おめでとう、ございま、す」
「……ああ、どうも」
「あのっ、すごい前の話なんですけど、コンクールに入賞した絵、すごく良かったです」
それはあまりにも突然の賛辞だったので、何のことやらと困惑しかけたが、コンクール。
ああ、確かに私は美術部に居た時に市の絵画コンクールで入賞している。
たった一度だけだし、それを他の部員に妬まれて部に居辛くなったので、二年の冬に退部
していた。おかげで今は好きなものが描けているけど、うまいのか下手なのか客観的に
見てくれる人がいないので、たまに困ることはある。だから、進学後また美術部に籍を
置こうかどうかで迷っていた。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:12
- 「それは……どうも有り難うね」
昔のことを言われて思い出すのに時間がかかり、やっとそういう一言が出せるまでの間に、
後輩は矢継ぎ早に色んなことを喋っていた。後になってじっくり反芻してみて何を言って
いたのかをまとめると、今日は卒業式の手伝いで来ていて、証書授与の際に私の名前
(=コンクール受賞者の名前)を聞いて、この人が! と思ったらぜひ声をかけたくて、
ずっと探し回っていた、という。帰る前にお会いできて良かったです! とかなんとか。
余計なことだけど、手伝いはどうしたんだろう。片付けとかの仕事は残ってるはずなのに。
「大学に行っても絵は描きますよね?」
……つい先ほど褒められたばかりにもかかわらず、その一言でいきなり気分が悪くなった。
だから、迷ってるんだって。勝手に決めんな。
「そんなんあたしの勝手やが」
機嫌が悪くなると悪い癖で、つい昔福井にいた頃の物言いが出てしまう。
相当言い方に棘があるので、初めてこの言葉遣いを聞く人は大抵怯んだり引いたりして
しまって、その時初めてやらかしてしまったと後悔するのだが、この子は違って、
「描き続けてほしいです」
なおも食い下がった。
「……だから、わからんって。先のことは」
「あの、お願いがあるんです」
何やこいつ、図々しい。
文句を言いそうになった次の瞬間、その後輩はいきなり私の前に右手を差し出し
「握手してくださ」
「!」
強引に手を取ろうとしたので、咄嗟に私はその手を避けようとして、後ろに両腕を
振った。
一秒か二秒後に、カコン、コン、と空しい音が聞こえた。
……どうやら、持っていた証書入りのケースをどこかに吹っ飛ばしたらしい。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:12
-
「それで、その後どうしたの」
「ごめんなさいって謝られて、その子学校に戻ってった」
石川さんは付け合せの人参をフォークで突き刺しながら、あらあら、とおばさんくさい
相槌を打った。
連れて来られたのは、タウン誌でも紹介されているステーキハウス。
メニューを見て目玉が飛び出そうになった。高い。どれも高い。
こっちはもう働いてるんだから任せなさい、なんて胸を張りつつも、あのくっきり眉毛が
くいっとハの字になったのをうっかり見てしまったもんだから、決めるのに相当迷った。
ステーキハウスなんだから、と他には目もくれずステーキメニュー(の主に右側の数字)
を見て、真ん中らへんを恐る恐る示してみると、私と同じ! と心底嬉しそうな返事が
返ってきた。ほっとしたけど、なんだかそれだけで結構、くたびれた。
あの後、後輩に逃げられたような形になった私は、学校を出て少し歩いたところにある
パン屋さん(ガラス越しに中を覗くと、制服姿の人影がレジのあたりに何人か分、あった。
別れを言いに行ったんだろうか)の前でムッとしながらメールを送った。
タクシーはすぐ迎えに来て、後部座席でピンクのスプリングコートを羽織った石川さんが、
まだ食事するには早いので、買物にでも行こうと言う。
大学に着ていく私服が欲しかったので、街へ出て色々見てまわった。
「愛ちゃん他の色は? ピンクとか」
店内で手に取るトップスの色が黒ばかりなのが気になったのか、右隣に来てそんなことを
尋ねられる。こんな時でも出てくる色はピンクなのか。変なところを徹底してる。
「あんまり好きじゃないし」
「え、でも、ちっちゃい時は好きだったでしょ?」
「……そうだっけ?」
「あの手袋、ピンクだったじゃん」
手袋。
「私いつもあの手袋してる愛ちゃん可愛いって、褒めてたでしょ」
……そうだ。
真夏でもピンクの手袋をし続けた当時の私のことを、学校の友達やクラスメイトは変だ
変だとよくからかってきた。
下校中もそんなんだから、毎日泣きながら石川医院に行って、幼馴染の『りかちゃん』に
縋り付いた。
私に泣き付かれたりかちゃんは決まって「かわいそう」と「可愛いのに」を繰り返す。
一分間に十回くらい。
そういえば時々「可愛いいそう」とか言ったりしてたな。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:13
- 真っ白な皿にのせられたサーロインステーキは、初めこそ滴る肉汁や香りに心が躍った
ものの、半分ほど食べた辺りで急速に魅力を失っていった。
ナイフとフォークを使い慣れていないお箸の国の人が、ぎこちない手つきで切り分けて
いった結果なので、当然といえば当然なんだろう。皿に溜まった油分が泥の染みに見えて
きそうになって、慌てて瞬きをした。そんなんだと思い込んだら全部食べきれなくなって
しまう。
石川さんの皿では一切れの人参やブロッコリーの色が片隅で映えているが、私の皿の上は
すでに全体的にこげ茶色と言ってよかった。
嫌いなものを先に食べる性格が、こんなところで仇になるなんて。
「握手ねー、まだ手は触れないんだね」
「……うん」
「薬はちゃんと飲んでるのにね。ドキドキはしないんでしょ?」
「何か、それとは別のような気ぃする。手は……」
昔と違って手袋は必要なくなったが、それでも人の手に触れることは出来ずにいる。
日常的に不便は感じない。けれどたまに数時間前のような出来事に遭遇すると、当惑
せずにはいられない。いつまでもいつまでも、もしかして死ぬまでこのままだったら、
と思うと、気分も
「こら」
「……あ」
「思いつめないの」
今じっとナイフとフォーク見つめてたよ、と指摘されて私はつい、ごめん、と呟いていた。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:13
- 「こないだ部屋の掃除をしたらね、うちの診察券が出てきた」
「石川さんの……自分の?」
「そうそう。中学の時にね、お父さんが勝手にカルテ作っちゃって。
きっかけなんだと思う? ただの説教。私があんまりにも小さいことでウジウジ
してネガ過ぎるからって、わざわざ診察室に呼び出されてクドクドとさあ……」
石川さんは食後のコーヒーを待つちょっとの間に、そんな愚痴を言い出した。
ああ、やっぱり親が精神科医ってそんなんがあるんだな。
「でもそれっきりだよ! もうカルテ破棄しちゃって残ってないんだから」
「診察券は取っといたんだ。え、じゃあ……『石川 梨華殿』?」
「そうよ『愛殿』」
即座に返答されて思わず笑ってしまった。
それで結局券は捨てたのか、と尋ねると、何だか記念品みたいな感じで捨てられず、財布
の中に入れてしまったと言って、本当に財布の中からボロボロの診察券が現れた。
実際に手書きの患者名を見てみたら、当時事務員をしていたお母さんが書いたものだ、
と説明される。
確かに、それなら捨てるのも躊躇ってしまうだろうな。
再び財布の中に収められたそれは、後になったら彼女にとって『お守り』という存在に
変化することになる。かもしれない。
やがてコーヒーが運ばれてきて、一口飲む。苦手なので積極的に飲むことがなかった
それを、生まれて初めて美味しいと感じて、そのまま素直に美味しいねと言ってみる。
予想通り、私が選んだ店なんだから当たり前でしょー、だって。今のこの人を見てたら、
昔はネガティブだったなんて嘘みたいだ。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:14
- 昔の石川さん……小さい頃だからりかちゃんって呼んでいたけど、子供の癖にやたらと
潔癖で、砂遊びだってしないし、ゴム跳びだってゴムが汚れていたら絶対に混ざって
こないような、ちょっと変な子だった。私は私で家の中以外では手袋を脱がないし、
りかちゃんはそんな私を見て、自分の仲間だと思っていた節もあったんじゃないかと思う。
そしてそれは案外ハズレではなかった。
私達はだいたい、お互いの家の中で、おままごととか塗り絵とかをして遊んでいた。
外で遊ばない一番の理由は、子供が遊び場にするところ(大抵公園だけど)には、
決まってりかちゃんの大嫌いな鳥が居たからだ。鳩でもスズメでもインコでも、何でも
駄目だった。
セキセイインコなんか、色が綺麗だし小さくてくりっとした目が可愛らしいと思うん
だけどな。
一度だけ鳥に遭遇してパニックになったりかちゃんを見たことがある。
学年は違ったけど毎朝一緒に登校していた私達は、いつも通っている道で工事をしていた
ので、少し遠回りして違う道を歩いていた。そこは公園に面した道路で……ガサガサいう
音の方を見てみると、数羽のカラスが公園のゴミ箱の中をあさっていたのだ。
「イヤーッ!!」
見ていたカラスじゃない何かが叫んだ、と思ったら知らぬ間に私の体はカラスの方に
向いていて、左右の二の腕をりかちゃんが後ろからガッチリ掴んでいる。楯にされていた。
「……のお、りかちゃん、あんな遠くにおるしこっち来んって。平気やって」
「わかんないでしょ飛んでくるかもしんないでしょもーやだーあっちいけシッシッ!」
言ってる声も掴まれた二の腕も微かにプルプル震えていた。
お母さん以外でシッシッて言う人に会ったのは初めてだった。
古風を通り越しておばちゃんみたいな女の子。それがりかちゃん。
だから、見た目どおり子供のままで私を責めるクラスメイトと違って、一緒にいると
安心できた。
でもりかちゃんが中学に入学した後は、生活する時間帯が微妙にズレるようになって、
少しずつ疎遠になっていった。
彼女が高校に入学したのをきっかけに完全に交流が途絶えた。その頃にはとっくに石川
医院でもらっていた薬との相性も安定してきていて、あんなに大事にしていた手袋も必要
なくなった。
『りかちゃん』から『石川さん』になった彼女と再会するまでの約三年間で、人付き合い
の仕方もものの考え方も、顔つきもお互い大分変わっているはずなのに、鳥は駄目だし
他人の手が駄目だ。そこだけは変わることが出来なかった。克服するチャンスもなく
ずっと避け続けてきたんだろうな。私もだけど。
ああ、そう考えたらやっぱり、石川さんは基本的にネガティブな性格のままなのか。
本当に変わったのは、抜きすぎて生えなくなった眉毛くらいか。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:14
-
▽
ステーキハウスから一歩外に出ると、刺すような空気に晒された。
「ちょっとぉ、寒すぎない!?」
「地面が凍ってる……異常気象」
歩道の、街灯に照らされキラキラ光っている箇所を指差すと、隣からは空気に負けない
くらいキンキンした声で「有り得ない」と返って来た。同感だ。
雪の降る地域ではあるけど、三月を過ぎてこの体感気温の低さといったら無かった。
「タクシー乗り場まで遠いのにー。も〜さっさと行っちゃお!」
言うが早いか幼馴染は早足で先を行く。足元に注意しながら、付いていく。
乗り場まで数分の道のりを無言で黙々と歩いていた私の耳に、数回のクラクションが
聞こえた。見ていないが車道の方だって凍ってテカテカなんだろう。
「信号!」
その声に顔を上げると、ピンクのコートがグングン小さくなるところだった。視界の斜め
上の方で緑色がチカチカしている。ああ、石川さん、渡るつもりなんだ――そこまで理解
したところでまたクラクションの音が聞こえる。聞こえた、じゃない。ずっと鳴り続いて
いる。
おかしい。待って石川さん。
音が、音が大きすぎるよ。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:15
-
ある日いつものように学校で手袋を馬鹿にされて、めそめそしながら通学路を歩いていると、
十数メートル向こうに見慣れた後姿を発見した。
「りがぢゃぁーん!」
張り上げた声は泣きまくった後でガラガラになっていて、怪獣みたいだった。
りかちゃんがその声に気付かないのも無理はないので、私は全速力で彼女を追いかけた。
あともう少しで追いつくぞ、という時になって、急に、りかちゃんがばったりと地面に
倒れてしまった。
突然すぎて何が起こったのかわからず、倒れた彼女を追い抜かしかけて慌ててブレーキを
かけたが、すぐには止まることが出来なくて、派手にすっころんでしまった。
顔面に砂利のようなブツブツした感触を感じて即座に顔を上げると、どういう転び方を
してそうなったのか、目の前には追い抜かしたはずの倒れたりかちゃんが居た。
「りかちゃんっ?」
「…………た……」
「りかちゃんどうしたの? 転んじゃった?」
転んだのは自分の方だったけど。
私はそのまま這って行って、地面に伏せているりかちゃんの顔に耳を近づけた。
「……痛いよぉ……いたいぃ〜」
「痛い? りかちゃんだいじょうぶ? のお、どこが痛い。言ってくれんとわからん!」
尋ねても、痛い、としか言ってくれない。
答えがわかったところで、きっと小学生の私には大人に助けを求める選択肢しか無かったん
だけど、頭の中はとにかく「どうして」「なぜ」で支配されていて、苦しんでいるりか
ちゃんにどうしてあげたらいいのか、そんなことは一切考えられなかった。
そうこうするうちに彼女の口からは呻き声しか聞こえなくなり、いよいよ私は完全な
パニックに陥って、
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:15
- 「りかちゃん!? りかちゃんって! なんか言えやあ!」
道路に投げ出された華奢な手を強く握り、必死に呼びかけることしか出来なかった。
車はどこかに衝突したらしい。
途中から意識が聞くことを遮断したが、クラクションは一定のボリュームで鳴り続けていた。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:16
-
▽
「私が言うのもなんだけど、病院ってつまんないところだよねー」
病室のベッドの上でも相変わらず石川さんはピンクのカーディガンを着ていた。
てっきりスリップした車に轢かれたと思っていたのに、車はアイスバーンに弄ばれて
はるか手前で方向を変えていて、それに驚いた彼女が滑って転んで、背中と頭を強く
打ち、気絶していただけ。
泣きべそかきながら救急医の話を聞いた時は、完全に力が抜けてしまった。
私は私で、倒れた彼女に駆け寄った時に滑って転んでいた。しかも自分では転んだことに
全く気付いていなかった。横断歩道で蹲っている石川さんしか見ていなくて、そういえば
途中で一瞬だけ彼女の姿を見失ったけど、あの時転んでいたらしい。しっかり右腕を骨折
するほど派手にこけていたらしいが、痛みも衝撃も全くと言っていいくらい記憶に無い。
「もー、これで前より馬鹿になったらどうしよう。頭だよ頭。
気絶するくらい打っちゃって。お父さんに怒られたよ。医者の娘がーって」
「返って頭良くなるかもよ?」
「えー、そうなったらラッキーだけどー」
うふふ、なんて目を細めながら頭に巻いている包帯を指でなぞっている。キモイ。
頭打って天才になれるなら、お寺の鐘を撞く木の奴なんか、代わりに人間がぶらさがっとるよ。
撞かれるために長蛇の列が出来とるで。
ふと、彼女の頭に添えられた指先を見て、あの時の冷たい感触が脳裏を過ぎった。
気絶した石川さんに駆け寄ってから救急車に乗って病院に運ばれるまで、私は彼女の手を
ずっと握っていたのだ。
あれだけ触れるのが怖かった誰かの手なのに、自分から。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:17
- トラウマを抱えてから、日常生活であった出来事の記憶が欠けたりする後遺症が残って
しまった。そういうことがある度に、想像でこうだったんじゃないか、と補っている私
だが(知らないままでいるのは怖い。仮定でもいいから隙間を埋めて、納得しておきたい
のだ)、これに関しては想像でもなんでもなく、本当のことだった。
だって、私はここにお見舞いに来てから、ずっと石川さんの右手をと自分の左手を
繋いだままで会話しているんだ。
今繋がっている彼女の右手の感触は、事故の時とは全く違う。暖かくて、少し親指に力を
入れたらちゃんと反応が返ってくる。それは微かだけれど、へらりと笑ってしまうほど
嬉しくなった。
来て早々その手に触れた時は、流石に驚かれた。
でも「心配したよ」と言ったら、色々悟ってもらえたみたいで、馬鹿丁寧に「ご心配
おかけしました」なんて、頭を下げられたっけ。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:17
- 「あの……こんにちは」
背後からの声に振り返ると、病室の入口カーテンをほんの少しだけ開けて顔を半分
覗かせている女の子が居た。
「? どなたですか?」
石川さんがそう尋ねると、女の子がおずおずと室内に足を踏み入れる。
……卒業式の時声をかけてきた後輩だった。
「あ、こないだの」
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
入って目が合うなり驚くほど大きな声と早足で後輩に迫られ、ベッド脇の椅子に座って
いた私は気圧されて思わず石川さんの方に身を寄せた。
病室の他の患者さん達も驚いたらしく、それまで周りから聞こえていた談笑の声が一瞬、
止んでしまうほど。
当の本人は即座にその空気を読んだらしい。微かに頬を赤らめながら、もう一度控え目に
大丈夫ですか、と私に尋ねた。
右腕吊ってるんだから勿論大丈夫ではないけれど、露骨に心配されると返って大丈夫と
言う言葉しか出てこなくなる。大丈夫ですかほんとにだいじょうぶ、うん大丈夫平気平気ー
なんて、しばらく繰り返していたら石川さんが「友達?」と、割って入ってきた。
「あっ、初めまして。高橋さんの後輩で道重です」
その時初めて名前を知った。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:17
- 「これ、どうしていいか分からなくて一回持ち帰っちゃったんです。
返さなきゃと思って担任の先生に連絡したら、事故に遭ったって聞いて」
言いながら道重さんは、持っていたトートバッグから私の卒業証書が入ったケースを取り
出した。そういえば玄関のところで吹っ飛ばして、拾うの忘れてそのまま学校を出て
いたんだった。
私にとっては結構どうでもいいものだけど、在校生からしたらこれは『卒業した証』で、
大事なものだと思うだろう。担任(卒業したから元担任か)に預けることもうちの親に
預けることもせずわざわざ届けに来たくらいだし。って何でここに居るって知ってんだ。
色々謎の多い子だ。
「はい」
一旦片手で取り出したケースを、わざわざ両手に持ち替えて恭しく差し出され、無意識に
受け取ろうとした右手は、そういえば今自由が利かないんだ、ってことに気付く。
慣れてないからちょっと、あれこういう時どうすれば、と思考停止してしまって、
……ほうや、左手離して受け取ればええんや。
石川さんから手を離して、あまり物を掴むことに慣れていない左手は、上から力強く証書
のケースを掴んだ。
あーこれ、なんかクレーンゲームで景品の箱掴む感じにそっくり。
私がぎこちなく受け取ったのを見て、道重さんは初めて笑顔を見せてくれた。
そういえばまだ二回しか会っていないのに、私のせいで握手を拒まれたり証書を届け
させたりと、結構気の毒な目に遭わせている。
腕もこうだし……と思うと急に申し訳なくなり、さっきの石川さんみたいに頭を下げた。
「ごめんね。右腕こんなんだから、描きたくても当分絵は描けないや」
「……そんな!
あんなに良い絵を描いたのは、高橋さんの腕じゃなくて心です」
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:18
- …………のお、どんな育ち方をしたらそんな台詞が出てくんの。
「えぇー……?」
あ、あかん…………顔が熱い。
「あれー? 愛ちゃん、ほっぺがぽっぽしてるけど大丈夫?」
「うう、うっさい」
後ろの人は余計なこと言うし、後輩は「照れてるんですか?」なんて堂々と聞いて来る。
あー、もー。
ヤケになって証書をベッドの上に放る。そのまま勢いで後輩の手を取って、
「どーも、ありがとねっ」
力の限りその手をブンブン振り回してやった。
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:19
-
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:19
-
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/12(日) 12:19
- おわり
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