20 浮揚するガキさん

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:52
20 浮揚するガキさん
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:53



 ぶっつぶしてやろうぜ──
吉澤さんがそうぽつりと、でも不敵に言ったとき、ここ最近の倦怠のせいでクツクツと気が抜けたようなわたしに気が注入され、からだの重みを思い出した。ここのところずっとわたしを悩ませていた、地面から伸びていた糸を断ち切られたような浮遊感が嘘みたいに消えた。
「そうだね」
 頬杖ついていたミキティが同意して、ぱあっと顔を輝かせた小春ちゃんがうんうん頷いて決まっていた話が動き出した。
 愛ちゃんとまこっちゃんがほぼ同時に立ち上がり、それに続いてこんこんが立ち上がろうとしたときには、もうれいなが部屋を出てミキティも部屋を出ようとしていた。
 カメとさゆが、ガキさん行かないの? と座ったままのわたしに声をかけてきた。そうだ、わたしも行くのだと気付いて立ち上がろうとした。吉澤さんの言葉のふいんきはもう薄れていて、心の中で小さく、いやだなー、と呟く。
 ん゙〜、と気張ったような奇声が聞こえた方向を見ると、やっぱり小春ちゃんが吉澤さんに甘えてた。がにまたになった小春ちゃんが、座ったままの吉澤さんを背負い投げるようにして起き上がらせようとしている。小春ちゃんの行動はいつものように甘ったれてるし、吉澤さんの顔はいつものように優しい。でも、ほんの一瞬だけ、吉澤さんの表情が凍りついたように暗くなって、いいかな、と口が動いたような気がした。髪の色をほとんど黒にまで落とした吉澤さんの真剣さは現実味が薄く、それは現実離れして綺麗な顔のせいなのだろうと思った。
「ガキさーん、タクシー待ってるよー」
 愛ちゃんの声が聞こえて、わたしはぐっと力を込めて歩き出した。吉澤さん、先に行ってますね、と普段の口調を意識して。


 地面に引っ張られている。そして、引っ張られたまま滑っている。重さが後ろに流れて、前進しているのか後退しているのかわからなくなる。わたしはそんな感触が嫌で、車窓の海を眺める、帽子を目深に被った愛ちゃんのわき腹をつついた。
「ねえ、愛ちゃん。この前貸してくれた宝塚のDVDさ、昔一緒にミュージカルしてた人出てなかった?」
 こう言っておけば愛ちゃんは勝手に話し続けるはずだ。移動中だというのに今日はみんな寝てないから、迷惑にもならない。マネージャーさんやスタッフさんのいない移動というのは初めてのことだったし、みんなどこか気を張っているのだろう。ひそひそと楽しそうではあるが、緊張した声が絡まりあって沈滞している。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:54
「ん? そやね」
 愛ちゃんはてきとーに返事して、曇り空の下で泡立つ海を見続けている。なんていうんだろうか、深い海の色に灰色を混ぜたような海はわたしを憂鬱にさせ、白く尖った波は心の棘となってわたしを突き刺す。うん、ちょっと詩的。
「愛ちゃん、緊張してるの?」
 話題を変えて聞きなおすと、愛ちゃんは面倒そうだったけど真剣に、言葉を選んで話し始めた。
「うーん、どうなんやろ。緊張はいっつもするけど、それだけやない、っていうか、なんやろぉ、今まで何年もモーニングとしてやってきたわけやけど、……なんやろな、試されてるような気がして重苦しいんかな」
 長く話してるというのに、珍しく早口にならなかった愛ちゃんは、唇を濡らすようにお茶をなめた。
 わたし達の乗っている小さな列車が、車輪を軋ませ大きく右に曲がる。愛ちゃんの視線の先から少しずれたところに、ばかでかい半球形のドームが見えた。海に浮かぶ見たことのない規模のドームは、銀色の大きなチューブで陸地と繋がっている。チューブの中には高速道路とリニアモーターカーが走っていて、リニアモーターカーは東京からここまで、たしか静岡だったと思うけど、37分で着くとテレビで言ってた。
「あ、見えたあ!」
 まこっちゃんの高い声が聞こえてきて、メンバーが車両の左側に寄った。わたしの視界に映っていたドームと銀色のチューブはさゆの背中に隠れてしまった。
「あんなもん作って、なんになるんやろうな」
 てっきりすごーいとはしゃぐと思っていた愛ちゃんは、寂しそうに漏らした。
 格差の象徴。世間の人は皆、あのドームのことを鼻息混じりにそう言う。でも、心の中では羨ましくて仕方がないんだと思う。あのドームの中には快楽のすべてが詰まっているらしい。らしい、というのは本当のところがよくわかっていないのだ。あのドームを作ったのは外国の大財閥の長男とか跡取りとかそんな感じの誰かだということになっている。一般庶民には想像もつかないような享楽的な空間、という呼びかけに金の余っている人達が食いついた。マスコミで発表されたのはそこまでで、もちろんマスコミも情報を得ようと躍起になったのだけれど、下卑るだけだと情報はそれ以上公開されず、工事関係者からの断片的な証言からだけではおぼろげな像すら掴めないでいた。いくらお金があっても、下品だったり文化的でなかったりするとドームの中には入れないらしい。その基準がどこにあるのか、わたしにはわからないけれど……


「よっちゃん、こっからどうすんの?」
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:54
 集団の最後尾にいたミキティが、先頭を歩いている吉澤さんに聞いた。普段ならこう無遠慮に大きな声を出すことはないけど、かつては温泉街だったこの駅の構内にはわたし達以外は誰もいない。
 駅を出るまで我慢できなかったのか、煙草を咥えたこんこんが煙を吐き出しながらミキティに言った。
「タクシーでチューブに入って、そこからはどうとでもなるでしょ」
「いや、どうやってドームに入んの、って話」
「大丈夫だよ、わたし達だって当事者っちゃ当事者なんだから」
「事務所の奴らに見つかったら、ソッコーで追い出されちゃうって」
「だってたしかあのドーム、世田谷くらいの広さはあるんだよね?」
 こんこんがわたしを向いて、それから顔を逸らして煙を吐き出した。急に話を振られたわたしは、そうだね、そんなようなこと言ってたね、とドギマギしながら答えた。
「だから大丈夫だよ」
 重ねて、こんこんがミキティに言った。
 そっかー、ミキティは納得したようで、思い出したようにこんこんの煙草を奪い取った。
「こんなんで体形維持したって意味ないって」
「そういうために吸ってるわけじゃないもん」
「フットサルだめんなるって」
「わたし、プレイヤーじゃないし」
「キーパーだってプレイヤーだよ」
「プロでもバカバカ吸ってる人だっているっしょや」
「美貴そんなの知らない」
 そう言ってもうしばらく手入れがされていないのか、ごつごつと盛り上がってひび割れだらけのプラットホームに捨て、踏み潰した。
 ミキティがこの一本をにじり潰しても、こんこんは煙草を吸い続けるだろう。吸う必要はどこにもないと、五期のわたし達にはよく言うけど、周りの人にとがめられ続けているけど、それでもこんこんは煙草をやめようとしない。
いつも一緒にいるからあまり気付かないけど、こんこんはほっそりして涼やかな雰囲気を持つようになった。目の透明がきらきらしていて、すごく眩しい。
ん? とこんこんがわたしを見て、小首を傾げた。ほっぺにえくぼができている。そこに指を刺した。恥ずかしそうに、くすぐったそうにこんこんが身をよじる。
 なにしてんのよ、ミキティがあきれたようにわたし達を見ていて、早くタクシー乗るよ、と歩を速めた。他のメンバーはもうタクシーに乗っている。ミキティは一番後ろのタクシーのドライバーに投げるようにして鞄を渡した。

5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:55
 両脇の歩道には小さな屋根がついていて、元はおみやげ屋だっただろう店舗が並び、そのどれもがシャッターを閉めていた。店の名前の入った外灯も半分以上が割られて外枠だけになっていた。ぼろぼろの手押し車に支えられるように老婆がゆっくり歩いているだけだった。
 前の車両についていくようにしか言われてないんですけどね、どこに向かってるんですか? わたし達が何も答えず黙っていると、いやこんな寂れたとこに来る人もそうですし、ましてタクシーに乗る人なんていないものですから、ドライバーは取り繕ったように付け足した。
 チューブ。シートに身を深くもたせたミキティが短く言った。
 ああ、そうだったんですか、ドームができたばかりの頃はチューブによくお客さん乗せて行ってたんですがねえ、ドームの中にまで入れる方がいなくてね、そのうちそういったお客さんもいなくなってたんですがねえ、ああ、そうでしたかあ……
 それからしばらくドライバーは大仰になにかくだらないことを喋り続けていたけど、わたし達からの反応を諦めたのか小さく舌打ちして前しか向かなくなった。
 タクシーは温泉街を中心に山間に詰め込まれた住宅地の細い道を抜けて国道に出た。駐車場の広さばかりが目立つボーリング場やパチンコ店、スーパーやドラッグストアやファストフードが隣立している。
 わたしの隣に座っていたこんこんがポツリと言った。
「本当にひどいんだね、田舎のほうって」
「うん、人住んでないみたいだね」
「住んでないってことはないんだろうけどね」
 こんこんはおもしろくなさそうに笑っている。そして、でも安心した、と言って笑うのをやめた。
 安心……。わかるような気もする。けど、そんなんでいいんだろうか。今でもモーニング娘。は春と秋にツアーをしてるけど、札幌、東京、名古屋、 大阪、福岡の五大都市しかまわらない。正確にいえば、まわれないのだ。どのアーティストでもそうだけど、地方都市にライブに行っても採算が取れない。公演数を減らして、比較的アクセスのいい大都市に客を集めて効率よく運営させないと利益が見込めない。そう会社の人に言われてきたし、そういった類のことはニュースでもやってることだけど、どこかで自分達の人気がないせいだと思っていた。でも、目の当たりにしてなかっただけで綻びが弾けて崩壊が始まっている。
 一帯を抜けて景色が変わると、チューブに繋がる国道よりも大きな一本道が見えてきた。タクシーがウインカーを点ける。車内に一瞬、恐怖に似た緊張が走ったような気がした。


 息を呑んだ。チューブの中は白く発光していて、タクシーは滑るように進んでいく。道路を走っているという感覚がほとんどなかった。心地よい浮遊感に身を任せていると、自分がどの方向に進んでいるのかわからなくなる。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:56
 ねえ後ろ見てよ、こんこんが囁きかけてきて、身をひねった。吸い寄せられてしまいそうな真暗闇に、思わず声が出てしまった。ねえねえ美貴ちゃん、こんこんがミキティの肩を揺すったけど、ミキティは興味がないのか動こうとしない。
「この光の通りに進んでいけばいいだけなので、事故もないんですよ。変に前が見えてスピードを出したくなる、ということもないので」
 運転手が得意げに言った。
 苛立っているのだろうか。ミキティの一度だけ荒くなり、落ち着かせるように大きくゆっくりとしたものになった。
「こんこんさ、中に入ったら何したい?」
 わたしは意識して話題を作ってみた。
「中になにがあるかわかんないからなあ」
 目の前にあっても迷うもんね、こんこん、そんなミキティの声だけが届いた。
 今はそんなに迷わないよ、口元だけふくれたこんこんに気付いたミキティが目を細めて、迷ったらまた美貴が決めてあげるよ、と笑った。きっと何でもあるよ、美貴達が欲しいものはなんでも、焼肉も、おいもも、なんか食べ物しか出てこなかったけど。
「そういやまめの好きなものは?」
 こんこんがわたしにそう聞いて、しまったという顔をした。
 わたしの好きなものは、ドームの中にある。でもそれは禁句だ。わたし達はそこに触れぬように、そこを跨いですれすれを楽しむような子どもじみた会話に興じていた。こんこんはついうっかり突付いてしまった。
「わたしの好きなものはねー、なんだろ、今だったら、そうだねぇ……」
 なんだよガキさん、ないんじゃんかよー、ミキティの明るい声が会話の途中で生まれた重苦しさの中にある隙間を埋めたのとほぼ同時に、タクシーは行き先を失ったかのようにゆっくりと停止した。
 タクシーを降りると、先を走っていた二台に乗っていたメンバーがドームの入り口で足止めされていた。ドームの入り口はびっくりするくらい簡素で、そこいらにある鉄柵とそう変わらないようには見えたけど、近づいてみると脱力してしまうくらいに強固で荘厳な雰囲気をたたえていて、わたしは足が震えてすーっと意識が後ろに流れていくような錯覚に崩れ落ちてしまいそうになった。
 でもこれでドームの中に入らずにすむ、と心が楽になったけれど、吉澤さんの、じゃあいいよ、わたし達だけなら入っていいんだろ? 歩いていくよ、という言葉に恍惚と絶望の両方が一瞬にしてわたしを浸した。
 吉澤さんがわたし達を足止めしていた男を押し退けるようにして門の前に立ち、早く開けてよ、と言い捨てた。そして冷笑を浮かべ、格式だけじゃ足りない? 金も払えって言うの? と唾を吐きかけた。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:57
 今こうやって目の前にしていても、次の瞬間には忘れてしまいそうな顔立ちの男は唾をよけようともせずに吐かれるがままに直立したまま、よどみなく話し始めた。
「お金ですか、取りません。このドームの運営はすべて寄付で賄われているので、取っても取らなくても同じですから。そもそも払えない人はこの中に入れません。帰ってから入金される方もいらっしゃいますし、帰るときに払っていく方もおられますし、あらかじめ入金してからは入られる方もいらっしゃいます。信用で成り立っているので、どこでどうお金を払ってくださいとも言いませんし、お金を払ってくださいとも言いません」
 が、もちろんあなたたちも、といったニュアンスで話し終えた男のどこか誇らしげな無表情をくだらないとでも言うように、吉澤さんが、ここタダなんだって、とわたし達を振り返った。
 吉澤さんは門を開けた男の肩を叩き、じゃ、タクシー代も信用で払っておいてね、とドームの中に入っていく。
 吉澤さん、どうしたと? 知んないけどタクシーの中では普通だった。れいなとさゆが、吉澤さんを追いながら小声で話している。その後ろに、素知らぬ顔をしたこんこんがいる。わたしは愛ちゃんに腕を引かれて歩き出す。最後尾から、下を向いたミキティがちんたらわたし達についてくる。
 黙々と、というのはおかしいけど、わたし達はペースを変えずに進んでいく。チューブの中と同じように、わたし達の歩くところだけぼんやりと白く光る。足元は柔らかく、でも恐ろしく透明で歩いている感触がほとんどない。真暗闇の中、白い発光に包まれてわたし達はわけもわからず歩き続ける。不安はない。慣れているからだと思う。目の前だけ照らされていれば、あとは何もわからなくてもやっていける。これまでもそうだった。
「ガキさーん、また暗くなってんのぉ?」
 カメが感情を見せぬよう、えへらえへらと笑ってわたしの横を歩いていた。
「なによカメぇ、暗くなんかなってないよ」
「そう? ならいいんだけど」
「なんでわたしが暗くなんなきゃなんないのよ」
「いや。最近のガキさん、バカじゃなくなったからさぁ……」
「それすっごいムカツク。自分が頭いいみたいじゃん」
 カメは、わたしの荒いだ声など関係ないようにまんまるの顔をほころばせている。
「絵里、頭はよくないけど、いろんなものは見えてるんだよ?」
「難しいこと言わないでよ」
「難しいこと言うの好きなくせに。つーか、全然難しくないし」
 こういうことをカメが言ったのは初めてだった。いつもとは全く違う環境に、滲み出てくる思考も言葉も違うのだろうか。カメは涼しい顔をして、ずっと先を歩くさゆとれいなの背中を見ている。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:57
 れいなの後姿は、今も昔も変わらない。小さくて、その分だけ弾けるような生命力に溢れている。さゆは少し変わった。背はそれほど変わらないけど、半回りくらい、太くなった。女らしい丸みを帯びた、のほうが正確かもしれない。
「カメはさ、優しいよね」
「どしたの? 急に」
「優しいな、と思って」
「そうですね、絵里は優しいですよ?」
 カメはいつまでも変わらない、穏やかな笑顔で分厚くなった体を揺らすようにして歩いている。
「それよりガキさん、藤本さんやばくない?」
 そう欹てられ、チラッと後ろを振り返ってみる。ミキティが、つまらなさそうに下を向いている。張り詰めたものが今にも破れてしまいそうな危うさに、空気をかき混ぜないような慎重さで小春ちゃんがそっとミキティから離れた。
 しょうがないよね、とカメが呟く。
 そう、しょうがない。小春ちゃんがミキティを怖がる理由なんてどこにもないし、むしろミキティは小春をかわいがっている。だけど、小春ちゃんにはミキティの大雑把で乱暴な優しさに気付けるほどの余裕がない。一時期ほど酷くはないけど、それでもやっぱり小春ちゃんは脅えている。ミキティもそれに気付いてるんだけど、どうしようもない。今になって急に何かを変えることなどできない。しょうがないのだ。
 エンジン音と、すーっと静かにゴムが流れる音が聞こえた。道を開けようとわたしとカメは端に寄ったけど、車はすぐ横で停まった。ピンクと黄色が基調の、角のある大きくてかわいいワゴン車だった。完全に停車してから、思い出したようにクラクションが鳴った。
 なになに? カメが声を震わせ、わたしをワゴンとの間に立たせた。カメがしがみついたわたしの肩には、力以上の重みが乗せられていて、意味もなく舌を打ちたくなったけど理性のほうがまだ強かった。
 まこっちゃんがワゴンに近づき目を凝らした。途端、ドアがスライドして、甘く鼻を刺す濃厚な芳香が押し出されるように流れてきた。
「どしたの〜?」
 あいぼんがぴょこんと車から降りてきて、いい空気だ、とチューブの中の無機な空気を大きく吸い込んだ。
「梨華ちゃんとかケメちゃんとか、マジありえねー」
 助手席からのんちゃんがふらふらと降りてきて、そのよろめきをまこっちゃんが受け止めた。
 ぶちんとエンジン音が途切れ、車の向こう側からわたしでも趣味が悪いとわかるピンク色の眼鏡をかけた石川さんが顔を見せた。みんな、どうしてこんなとこ歩いてるの? と冗談ぽくはあったけど車の免許を持っている優越感を前面に押し出して。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:58
 わナンバーでなに勝ち誇ってんだよ、そうミキティがへこむかへこまないか程度の力加減でワゴンの横腹を蹴る。
 ちょっとなにすんのよ、石川さんがミキティの蹴ったところを撫でて確認し、ぷんとした顔でミキティに対峙する。あ? とミキティが冗談とも本気とも取れる好戦的な笑みを浮かべた。
 ばすん。鈍い音と、なんだよこのセンスない車、という声が同時に聞こえた。見るからに遊んでるといった表情の吉澤さんがワゴンのタイヤを押すようにして蹴りまくっている。吉澤さんから漏れる呼気の抜けに連動してワゴンが小さく揺れる。
 ちょっとなにすんのよ、石川さんとは声も口調も全然違うけど、どこか質の似た喉と鼻から出たような声と一緒に保田さんがワゴンの中から顔だけ覗かせた。
「石川、道のまんなかで車停めんじゃないの、吉澤も乗るなら乗りなよ」
乗れるの? 煙草を指で弾いて灰を落としたこんこんが聞いた。つめれば乗れるんやない? あいぼんが首をかしげて降りてきた保田さんを窺った。
 ケメちゃ〜ん、と情けない顔をした石川さんが、引け腰に保田さんのところまで縋り駆けて腕を掴んだ。そして、よっすぃがいじめるー、と吉澤さんを指差した。は? いじめてねーだろ、そう吉澤さんが何かを言いかけたのを遮るように保田さんが、バカなこと言ってないで、さっさと運転席に戻んなよ、と石川さんを放り出し、みんなも乗るなら乗れるよ、とどっちでもいいという風な、でも突き放してない口調で車に戻った。
 一番早かったのは藤本さんで、じゃあ美貴は乗ろうかな、と保田さんにくっついて車内に消えた。そのすぐあと、なにこれ、くさっ! と中途半端に野太い声が聞こえてきた。さゆとれいなが続き、あいぼんに乗ろうと誘われたこんこんも、のんちゃんに手を引かれたまこっちゃんも車に乗っていく。どうすんの? そんな愛ちゃんの甘ったるい声がわたしに向いているのはわかってるけど、わたしは乗るとも乗らないともいえなかった。小春ちゃんが、え? え? と車内のみんなと、ボーっと立ってる吉澤さん、首をまわして両方を見ている。
「わたしは歩くよ」
 言うと同時に、吉澤さんが歩き出す。どういった意図での行動か、まったく読めない自然な動作だった。わたしはカメに目で合図を送り、小春ちゃんの背中に触れるようにして引き寄せ、吉澤さんのあとを追った。絵里も歩くぅ、というカメの気配がわたしの軌跡に重なり、ミキティの、愛ちゃん、なんでもいいから乗るなら早く乗りなって、という声が聞こえた。石川さんが戸惑ったように、吉澤さんに何か言いたそうにしていた。


 小春ちゃんが、吉澤さんの手を引っ張るように斜め後ろを歩いている。吉澤さんはまっすぐ歩調を緩めない。伸ばしきった腕で小春ちゃんの体重を支えながら悠々と歩いている。
「長いよね、遠いよね」
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:59
 カメがおかしな抑揚をつけて一歩一歩踏みしめ、額にうっすら汗を浮かべている。あ、でもあれか、侵入者とか多そうだからわざと長くしたのか、と自己解決した。
 そうじゃないとわたしは思った。ただもったいぶらせてるだけだ、世俗と離れていることを強調するためだけの非現実感の演出であり、意味のない、くだらない長さだ。
 そうだ、とカメがわたしに聞いてきた。
「ガキさん、よかったの?」
「よくないよ」
「え、なにが?」
「この長い通路」
「あ、じゃなくて、車に乗らなくて」
「つーか乗れなかったじゃん、人いっぱいで」
「いや、でも、誰かの上に座るとか、空いたスペースとか……」
「カメが乗ればよかったじゃん」
「べつに乗りたかったって言ってるわけじゃないもん」
 カメが唇を尖らせてそっぽ向いた。こういった幼い癖が抜けきらない。顎の肉がたるんでいてもかわいく見えるのは、カメ生来の気質によるものなのだろう。目がクリクリと動き、首をかしげてわたしを覗きこむ。どうしたの? といった感じで。
 ばかー、どんな流れだったのかわからないけど、小春ちゃんの高い声が聞こえてきた。小春ちゃんが尻餅をついている。わたしの注意が小春ちゃんに向いたタイミングで、カメが鞄の表面に貼られたポケットから小瓶の形をしたラムネの入れ物を取り出した。緑色に透けたプラスティックケースの内側は粉っぽくて中はよく見えないけど、ラムネではない錠剤が半分ほど残っている。カメはそれを手のひらに放り、ガリガリと噛み砕く。口を窄めて唾液を集め、苦そうに飲み干した。
「ねえ、いつも聞くけどさ、それなに飲んでんの?」
「なにって、ただのラムネじゃん」
 カメはえへらえへらと笑いながら、ラムネのケースを振る。
「じゃあ、わたしにちょっとちょうだいよ」
「だめ、ガキさんにはあげなーい」
「なんでよ」
「だって、絵里の大事だもん」
 有無を言わさぬにこやかさでわたしの追及を撥ねのけたカメは、チャックを開けてラムネを鞄の中にしまい、頬を膨らませて吉澤さんを睨み、わたしかカメのどちらかを待っている小春ちゃんを引き起こした。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 04:59
 二人のペースはいつもと変わらない。この二人だからこそ、であってほしい。自分の行動や周囲に集中して考えないようにはしているけど、ふとした瞬間に考えがこれから起こる憂鬱にぶちあたってしまう。ちがう、起こる、のではなく、起こす、だ。吉澤さんの言った「ぶっつぶす」はモーニング娘。の総意であるかのように事が進んでいる。けど実際のところ、どうなんだろう。少なくとも、わたしは、迷っている。お金を入れたのにジュースが出てこない自動販売機を蹴飛ばすくらいの、当たり前の権利の主張なのかもしれない。それでも心にずんと重みがかかり、わたしの体は逃避を欲してふわふわと力が抜けてしまう。カメはぶつくさ文句を言ってるし、小春ちゃんはこのやろー! となんとなく手足を振りまわしているけれど、この終着点の見えない通路がどこまでも続いてくれないか、そうひそかに期待している。ただ闇雲に目の前のことだけを消化し続けるだけの単調には慣れている。知らず知らずのうちだけど、モーニング娘。に入ってからのわたしはずっとそうだったように思う。大変ではあったけど、与えられたことだけど黙々とこなしてきただけなのだ。最後に意志を持ったのは、モーニング娘。に入るんだと臨んだオーディションの時だろう。そして次に意志決定するのは、去る時だ。それも、事務所に言い渡されるよりも前に、でなければならない。きっと何も残らないはずだ。モーニング娘。に入る前の、何もないただの新垣里沙に戻ってみるのだ。
 吉澤さんは淡々と歩を踏んでいる。小走りに小春ちゃんが追いついた。ねえ、これどこまで続くんですか? と鞄で吉澤さんの背中を打った。知るわけないじゃん、吉澤さんが歩調を速めて小春ちゃんの第二撃をかわした。吉澤さんも小春ちゃんも、わたしが追いつけるような速度で歩くカメも、わたしもきっとそうなんだろうけど前に進んでいる。けれど、わたしはどこかで期待している、確実にある入り口への後退という選択肢を選べはしないのだろうか、と。
 吉澤さんがお腹のあたりで携帯を開いた。微かだけど、わたしのところまでミキティの声が聞こえる。こっちはもう着いたよ、と。
「なに、もう着いたの?」
 でも歩くとけっこう長そうだよ。
「今みんななにしてんの?」
 ん? みんなグダグダしてるよ。なんかここ普通でさー、することないんだわ。
「卒業組も?」
 いや、美貴達おろして、どっか行った、あたりまえじゃん。
「そりゃそうだ」
 おもしろくもなさそうに吉澤さんは笑い、歩き出してからの時間を計算して、あと30分か40分くらいで着くから、泊まれそうな場所を探しておいて、とミキティに言った。ホントにそれくらいで着くの? ちんたら歩いてんじゃないの? それくらいなら美貴達なんもしないで待ってるけど、もっとかかるんならどっか遊びに行くけど。
「着くよ。どうせ石川、びびってそんなスピード出さなかったでしょ?」
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:00
 ミキティから電話があって十五分経っても、景色は変わらない。無機質で滑らかなチューブは永遠を思わせるように単調さで、ぼうっと白く発光しているだけだ。カメも小春ちゃんも消耗して言葉少なになってきた。頬をまっかに火照らせた小春ちゃんは何度も汗を拭い、吉澤さんの持っていたお茶まで飲みきってしまった。カメは体中を汗でびっしょり濡らして、それを拭おうともしない。出口までずっとこの調子なのか、聞いてもらえばよかったな、これじゃ疲れちゃうよ、そうカメがこぼした。
「ねえガキさん」
 吉澤さんが強めの声でわたしを呼んだ。わたしが近づくと、カメと小春ちゃんとの距離をさりげなく確認して、声を潜めた。ガキさんは平気?
 直接的な表現を避けて、ニュアンスだけで意味を伝えようとする吉澤さんは珍しく弱気になっている。そんな吉澤さんは初めてかもしれない。顔を見れなかった。吉澤さんもそれ以上はつっこんでこなかった。このままわたしが何も言わなければ、このまま言葉が流れて消えてしまうくらいの、ごく小さな裂け目から零れ落ちた躊躇いの具象、
「わたしは……」
 平気か、平気じゃないか、簡単な二択だ。だけど言葉にするのを躊躇った。答えはほぼ決まっているようなものだけど、でも、どちらも口に出せる。出した瞬間、それが現実だけでなく未来までも拘束してしまうような気がした。二択の圧力が強すぎて、反発するように言葉が逃げた。
「吉澤さんは、今のこの状態よりも緊張……じゃないな、なんていうのかな、怖かったことってあります?」
 そうだなあ、と吉澤さんはわざとだろう、間を作った。
「ガッタスで一般チームとやった時かな」
「スポーツフェスティバルのとき?」
 吉澤さんは偽悪的に頬を歪め、あんなの大したことないよ、と鼻から息を吐いた。
 壮絶な、と言えばうそ臭く響いてしまうけれども、リベンジとして一般チームを招いたさいたまアリーナで、死闘と呼べる試合を目の当たりにした、とわたしは思っている。柴田さんがシュートをブロックして足を破壊され、跳びあがったこんこんが頭から落ちて負傷退場し、素人目にもはっきりすごいとわかるプレイヤーが途中出場にもかかわらず疲弊しきるような濃密な二十分で、吉澤さんは誰よりも強く、走り続けた。スタジアムの外周から見たのなら、女の子がぽこぽこボールを蹴っているだけのように見えてしまうのかもしれないけれど、試合終了間際、ピッチを端から端まで疾走し、滑り込むようにしてルーズボールをゴールに押し込む吉澤さんに、鳥肌が立った。スタジアムを巻き込んだ歓喜の渦の中心にいた吉澤さんは、抱きつく石川さんを引きずりながら何かを叫んでいた。大歓声に消されてわたしのところまでは届かなかったし、ピッチにいたメンバーも興奮しきってきて全然憶えてないと嘯く。
「いや、そん時は向こうがなめてかかってくるって知ってたから、怖くはなかったんだよ。勝つことしか考えてなかった。勝算もあったし。でも、二回目はマジでびびってたね。向こうが最初から本気で来ることはわかってたし、勝ちの見込める実力がないってのも痛感してたし、でも周りは勝てるんだって煽り立てるからさ、こっちはそんなこと千に一つもありえないってわかりきってるからさ、でもみんな期待してるしさ、本気で嫌だったよ」
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:00
 でも吉澤さんはその試合で、相手の決定的チャンスを幾度も潰し、チームの起点となり続けた。防戦一方の陰惨な試合の中、リスクを冒して何度も攻めに転じ、味方を、そしてスタジアムを鼓舞し続けた。
 吉澤さんは話し終えて、わたしの話してんじゃねんだって、と呟き、でも、怖いとかそういうんじゃないけど、あん時よりもずっと嫌な気分だな。そう気を抜くような穏やかな表情でわたしを向いた。
「で、ガキさんはどうなの? 平気?」
 わたしは昔、言われたわけではないけど吉澤さんから聞いたことを思い出した。解放されるのは、乗り越えたときか、逃げ出したときだけだ。
「なってみないとわからないと思います。でも、どうせなら、できるかどうかは微妙ですけど、やらないよりもやったほうがいい」
 どうにか、言い切った。
「言ってることはわかるけど、なんか意味わかんねー」
 にやっと笑った吉澤さんは、いつもの調子で言った。
 カメが、ああ、あれ出口じゃないですか? と声をあげた。発光の向こうにある暗闇のさらに向こうに、ぼんやりした明るみが見えた。
 わたしも吉澤さんと同じようににやっと笑って、言う。
「もう言いなりは嫌なんですよ。自分で決めたい。何をしていいのか、わからないわけじゃないし、こんだけ長くやってりゃ考え方もできてくるじゃないですか。変えたいんですよ。変わらないかもしれないけど、変えようとはできる」


 ドームの中は寒気がするほどに普通だった。すべてを見たわけじゃないけど、整然と長閑と猥雑が重ならないように並べられているだけだった。住宅地を排しただけの街だ。誰でも入れるわけじゃないってブランドだけなんだよ、とまこっちゃんがそう吐き捨てた。
これなら見つけようとしない限り見つからないな、人はずっと少ないけど新宿と池袋を模したような繁華街を歩きながら吉澤さんが言った。じゃあ、あのでっかいホテルにしましょうよ、と塔のような赤茶けた一際大きな建物を指差したれいなに、あれホテルか? とミキティがとりあえず難色を示してみた以外、誰も反対しなかった。
 同室の愛ちゃんは窓の向こうに広がる、ドーム内の異様な夜景をうとうとと眺めている。見えるはずのない夜空に浮かぶ星々も演出なのだろう、ネオンに焼けた赤い空に負けもせずに瞬いている。上に行くほど夜空は暗みを増して星の光が強くなる。それぞれ同じところに貼られているはずなのに、その強弱で遠近がついて、どこまでも続いていきそうな気がする。本当は同じところで行ったり来たりしているだけなのに。その下で煌々と輝く夜景だって光の屑だ。うっとりしてしまいそうな見事な光点の群れも、ただの空洞で中に人がほとんどいないことを思うと途端に冷めた。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:01
 小型の冷蔵庫からスチール缶のコーラを抜き出し、一気に流し込む。モニタの前に立ち、マウスを雑に動かすと落ちていたモニタにばちばちと画が浮かび上がった。ドーム内のご案内、という文字が右下に小さくあって、クリックするとプログラムが開いた。がきさん何してんの、と愛ちゃんの力ない声が鼓膜を振動させただけで消えた。デリバリーの飲食店がないかページをめくっていく。がきさんっ! 愛ちゃんの声が破裂して狭い室内に反響する。わたしは無表情で愛ちゃんを見る。瞳孔が開き、頬と唇が震えていた。愛ちゃんは、本気で怒っている。自分本位に。
 わたしは静かに、言葉だけ吐き出す。
「うるさいよ」
「……ごめんなさい」
 愛ちゃんが顔を暗くさせて唇を噛む。怒られた子どものように。いや、愛ちゃんは子どもそのものなのだ。絶望的に、幼い。もっと広い部屋だってあったのに、狭いほうがわたしに近いからという理由も、わたしにだけ見せるのかは知らないけれど、ちょうど今のような瞳に涙をためたシュンとしょぼくれた表情も。
「ほら愛ちゃん、泣かないの」
「でも、がきさん怒っとる」
「怒ってないって。うるさいって言っただけ」
「それ怒ってるってことやろ」
「そんなことないって」
「ほんと?」
「本当」
「おこってない?」
「怒ってない」
「ぜったい?」
「絶対。怒ってないから」
 唾を飲みこんで区切りをつけた愛ちゃんが、そろそろとわたしに寄ってくる。そして、わたしの横に立って身を摺り寄せてきた。外での愛ちゃんと本質的には同じなのだが、今の愛ちゃんは外部に対する羞恥がない。愛ちゃんは子どもそのものになり果ててしまう。
「がきさん、お腹すいた。ジュースも飲みたい」
「だから今探してるんでしょうが」
 疲れて余裕がなくなっていたのだろう。少しだけ、声が大きくなった。ビクンと肩を震わせた愛ちゃんが俯き、鼻を啜りだした。わたしはぽろぽろと涙をこぼす愛ちゃんをベッドに座らせ、怒ってないから、ごめんね、大きな声出しちゃったね、と髪を撫でながら、愛ちゃんの情動が弛んだ隙に冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、タブを開けて顔の前に持っていってやった。愛ちゃんは嬉しそうに一口だけ飲み、わたしに返すとベッドに寝ころんだ。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:02
「もういらん」
「なんで?」
「これ以上飲んだら、おもらししてまうかもしれん」
 枕に顔の半分を埋めた愛ちゃんはあくびをして強張った全身の力を抜き、はにかんでわたしを見た。その表情は、幼さや甘えを超越している。わたしに依存しきろうとしている。愛ちゃんはわたしの反応を確かめようと、肘をついて僅かに体を起き上がらせる。腰から太腿にかけての豊かな傾斜だけが、愛ちゃんの年輪であるような気さえしてしまう。ドアにコツコツと硬いものが当たり、愛ちゃんに焦りが走った。安息を突然に中断されられたが故の脅えのようにも取れた。コツコツ。愛ちゃんの表情では、幼さと正気が微細に入れかわっている。コツコツ。愛ちゃんに気を取られていたわたしは、三回目でようやくそれがノックだと気付いた。
 チェーンをかけたままそっとドアを開けると、下を向いて腕を組んでいたさゆが顔をあげた。
「愛ちゃんいる?」
 ただそれだけの言葉なのに、すっと冷たい感触がわたしの頬を撫で、過ぎていった。愛ちゃんの相手をしていたからだろうか、さゆの倦怠気味な雰囲気が刺々しく感じられる。さゆは大人びていくに連れ、その容姿はひややかさを持って美しく際立ち、爛漫なかわいらしさは影を潜めていった。相変わらず表情や仕草や好きなものは幼くかわいらしいものばかりだけど、常に笑っていたりかわいくいられるものではない。自分の状態に常に気を使っていられる人間などいない。比較的そういった時間が長いアイドルであっても限界はある。他愛ない会話の中で、最近のさゆってかわいいよりも綺麗だよね、と誰かに言われた時の、さゆの寂しそうな顔をよく覚えている。その時からだと思う。さゆがかわいらしさをひけらかすようなことをしなくなったのは。
「新垣さん?」
 あいちゃんは? さゆが口だけで言う。あ、ああ、と愛ちゃんのことを隠したい気持ちもあってか変に慌ててしまったわたしを見て、さゆが小さく笑う。笑顔はかわいらしいままだ。だけど、さゆはもう、自分で自分をかわいいとは言わない。
「さゆ〜、ここにいるでぇ」
「新垣さんが鍵あけてくれなーい」
 のんびりした愛ちゃんの声が聞こえ、わたしは大丈夫だとチェーンを外した。
 ベッドに寝ころんだままの愛ちゃんは面倒そうに、お姉ちゃんとしてさゆの相手をして、そのままさゆに連れられて外に出て行ってしまった。一緒に行こうと両方に誘われたけど、そんな気にはなれなかった。ひどく危ういバランスで、どうにか愛ちゃんは立っている。今にも崩れ落ちてしまいそうな臨界点ぎりぎりのところにいるのではないのだろうか、わたしとさゆと同時にいたら、愛ちゃんは自分をどこにどう振っていいのかわからずに混乱し、擦り切れてしまうのではないかと心配してしまう。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:02
 A promise of happiness バカげた問いに どうか答えてください、二人が部屋にいた余韻が完全に消えてから、そう口ずさむ。じくじくと嫌な気分に胸が握り潰されたような気がして吐き気を覚える。
 Helloのリハのほんのワンシーン、たったのワンフレーズだった。照明にチェックが入ってリハが中断された時、愛ちゃんが何気なく亜弥ちゃんの曲を歌った声が、誰かのぶら下げたマイクに入ったのだ。A promise of happiness バカげた問いに どうか答えてください、という短い、スタッフが指示しあう声にも掻き消されてしまいそうな小さな歌声だったけど、どういうわけかあの場にいた人すべての耳に届き、飲み込んだ。それはもちろん、客席でわたし達のリハを見ていた亜弥ちゃんの耳にも届いた。一瞬にしてアリーナに静寂が張り詰め、それはすぐに愛ちゃんの、すいませーん、声入っちゃいましたあ、という声と同時に喧騒が戻り、リハは再開された、
 たったそれだけのことが、亜弥ちゃんのプライドを傷つけた。愛ちゃんの歌が技術的に亜弥ちゃんよりも上だったということでは決してない。ただ、よかっただけのことなのだ。あちこちに意志が向いていた会場中を静まり返らせることができるくらいに。残酷な差だ。一瞬の静寂が、どんな時でも漲っていた亜弥ちゃんの自信を根こそぎ奪い取ってしまった。どんなに技術があっても、自失した亜弥ちゃんは抜けていくだけだった。我慢できなくなったのか、亜弥ちゃんは周囲の猛反対を押し切って自らステージを降りた。それが最後のプライドだったのかもしれない。
 亜弥ちゃんの引退間近に、不運な偶然とはいえその原因が自分にあると知った愛ちゃんは苛み、逃げるように幼児化の一途を辿った。消えていく人間らしい部分を食い潰すように、愛ちゃんの歌の才能は開花していき、恐ろしいまでの勢いで聴く人を飲み込んでいくようになった。だけど、愛ちゃんは恐れているのか自戒しているのか、誰も傷つかないと確信した時、たとえばわたし達とカラオケに行くような時じゃないと真剣に歌おうとはしない。
 酷い気分をしまいこむように息を吸って吐いて、窓の外に鎮座する人工的な夜景を眺める。ある時間になると、突然夜が朝に切り替わるのだろうか。さっき、ホテルに入る前にこんこんがそんなことを言っていたような気がするけど、あまり聞いていなかった。
胃がきゅっと収縮した。空腹なのだろうが、そこまで気がまわらない。愛ちゃんの残したぬるいオレンジジュースを飲み干し、二本目のコーラを飲む。空腹に炭酸が泡立ち、満腹を錯覚したわたしはそのまま眠りに落ちる。あと二日が、一日に減ってしまうことに恐怖しながら。


 葉桜の濃厚な緑の下で、ミキティが雑誌を叩いて炭を起こしている。あー、つかね、と端のほうだけ白く灰になった炭に、破いた雑誌のページに火をつけて乱暴に放り、再び雑誌を叩いて風を送る。なんか火炎放射器みたいのでガーってつけれないの? ミキティはそうぼやきながらへたって使い物にならなくなった雑誌を放り出した。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:03
「さっきのところで貸してくれるって言ってたけど、ミキティが断ったんじゃん」
「あん時はそうだったんだけど、今は違う」
 ミキティは、えへへ、と顔をほころばせた。ガキさん、お願い! 行ってきて。
 底の浅い、大きな鯉の灰色の背中がぬらぬら蠢く大きな池に沿って歩く。空気が流れているのか水面が揺れているけど光は跳ねない。天井を仰ぐ。素材なのか光の加減なのかわからないけど、不明瞭でぼやけている。
 無意識に目覚めを拒絶していたのだろう、昼近くまで眠り続けていたわたしが起きた頃には、愛ちゃんはもういなかった。夢現に愛ちゃんがわたしの隣に飛び込んで抱きついてきた髪の冷たさと肌の温みの朧な記憶があるがあるだけで、整えられたままのベッドに愛ちゃんの脱ぎ散らかしが昨日と今日を結びつける痕跡だった。
 尿意よりも空腹のほうが強く、寝過ぎで鈍化した頭をふらふらさせながら、最上階にあるフロアを丸々使ったレストランの入り口のすぐの席にミキティがいて、分厚いハンバーガーのわきに添えられたピクルスと楊枝でつついていた。
 わたしの歩行に合わせて、鯉ががちゃがちゃと飛沫を立てる。池の外周に貼られた鮮やかな芝生のところどころに、濁った緑色がひょろひょろと靡いている。ドームの中で、ここだけ妙に作りが荒雑なような気がする。そのせいか、人気がまったくない。人が来ないことを想定しての、この作りなのだろうか。人目を気にしないと、てきとうになる。なんのことを言ってるんだろう、そう声に出して、管理事務所となっているログハウスに渡る板橋を踏んだ。粗末な板の、軽薄な音がした。
 ログハウスの中には管理人がいて、どこか、アニメかドラマか映画で見たことのあるようなイメージのおじいさんだったけど、それがどこから来るものなのかは思い出せなかった。わたしはハウスの奥壁の木棚に陳列されたアウトドア用品の中からガスバーナーを探し、自分で扱えるか試してみた。炎は思いのほか勢いが強く、木棚を軽く焦がし、わたしも大きな声を出してしまったが、揺り椅子に深く座ったおじいさんはちらとこっちを見ただけで、一言も、存在すら発さなかった。
 中から外へ出ても爽快感などなにもなく、部屋から部屋で移動したようなのっぺりとした変化しかなかった。ガスの残量を気にしながら炎を噴き噴き戻ると、ミキティは呆けたように口を開けて、炭片を指先で弄んでいた。あぐらをかいてぬらぬら揺れる水面に視線を漂わせ、顎が外れたように口を開けている。炭を弄る指だけが別の生き物のように規則的に動き続け、砕けた炭の欠片が指と足首を汚している。ひとつを砕き終え、意識の一部分だけを切り離して次の炭片に手を出そうとしてわたしに気付き、あーやべー、気ぃ抜けてた、とガスバーナーを受け取った。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:03
 噴き上がる炎に炭の真黒な断面が赤く焼けあがり、パチパチ音を立てる。おお、これこれ、とミキティは顔を輝かせている。過剰なまでに炎を浴びせられた炭は高温を発するような焼け様で、ミキティはそれに気付かずバーナーのノブを握っている。
「もう焼こうよ、肉」
 わたしは投げるように網を炭と炎の間に挟み、ミキティがどこからか調達してきた肉を塊のまま袋から搾り出した。
「そういう風情のない焼き方すんなよ」
 おめぇはミノばっか食うれいなかよ、半分本気で怒ったミキティが、慌てて箸を探し出して肉の塊につっこみ、ほぐす。火力が最高潮に達しているから肉はすぐに焼け、ひっくり返す間もなく片面がきつね色に焦げ、脂が泡立ってしまう。
「あーあ、わかってない奴が焼くと、こうなっちゃうんだよ」
 焼けあがった肉を網の端に寄せてつつ、それ以上の勢いで肉を食んでいくミキティの口の中はあっという間にいっぱいになる。口をもごもごさせながら言う。ガキさんもさっさと食べてよ。
「食べるけど、そんなに急がなくてもいいじゃん」
「なんでさ」
「肉まだいっぱいあるし」
「いま焼けてる肉、もったいないっしょやー」
 ミキティがふざけたような口調で頬を膨らませる。
「べつにいいよ」
「なんでさー」
「なんか、あんま関係ないし」
「さっすがガキさーん、かわいてるねー」
「そういう言い方やめてって」
「でも、前のガキさんなら、もっとおもしろいリアクションで返してたよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
「あんまり意識ないけど」
「ま、こんだけ長くやってりゃいろいろあるさ」
 人も変わるよ、そういう風に聞こえた。
 ミキティはしゃがんだまま、なめらかに左右に移動して肉を焼いたり水を飲んだり肉を食べたり水分をたっぷり含んだ草のような野菜を食べたりしている。細長い薄きみどりの野菜を指して、それなんなの、と聞いても、ひみつー、と教えてくれなかった。
「でもガキさん、最近はいつに増してかわいてるよね」
「だーかーらー、かわいてるとかやめてって」
「やっぱモーニング娘。を潰そうとかいうのは躊躇っちゃう?」
「露骨な言い方しないでよ」
「でもそうじゃん、美貴はガキさんより後に入ったからさ──」
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:04
「そんなの関係ないじゃん」
「……でも、よっちゃんが無理かもしれないっしょ。向こう側も知ってる」
「でも今はこっちの人じゃない」
「でも、で重ねるのもバカらしいけどさ、古いモーニング娘。の邪魔しに行くんだから。ぶっちゃけ美貴、上がかったるくてしょうがないんだよね、なんかさ、意味わかんないっしょ、美貴達がモーニングなのにさ、先輩方がモーニングとしてなんか決まってさ、それでモーニング娘。だとか言っちゃってライブするわけでしょ? 安倍さんのこととかあるけど会社も引き受けるし。いい加減、上が重くて肩凝っちゃうんだよね。肉食いながら言っても、なんだかなーって感じだけどさ」
 火力が落ち着いてしめやかに煌る炭の上で丁寧に肉を焼くミキティの表情はいつもと変わらない。変えないようにしている。どこか逃げ道を、なんてね、と笑って誤魔化せるような余白を作っている。
「ちがうよミキティ。先輩方は上にいるんじゃなくて、わたし達の下にいるんだよ。わたし達は先輩の築いてきたものの上にいるわけなんだから。重いのは肩じゃなくて、足とか全身とかで、モーニング娘。っていう重力に引き潰されないように立ってなきゃいけないんだからさ」
 わたしもどこか余白を作ってしまった。ミキティは、ああそうか、といったように無言で頷いている。
「そっか、そっちのほうがなんか納得できる気がする。まあ、なんだっていいけどさ、美貴はガキさんがストップかけるなら、やめるよ」
「なんで?」
「だってガキさんヲタだもん」
 にやっとわたしの反応を待つミキティに期待の色が見え隠れしている。その期待が、ストップにしか思えないのはわたしが誰かに止めてほしいと、そんなことばかり考えているからなのかもしれない。
「わたしは──」
「美貴からすればさ、けっこうくだらないことなんだ。なんだっていいんだよ。美貴は自分がモーニング娘。だって知ってるから、先輩方がどうこうってなってもあんまり何も思わないけどさ、でもやっぱり先輩方のほうが今のモーニングよりも上だって決められんのは癪だよね」
 わたし達が先輩方よりいいパフォーマンスができるなら……
 ミキティは何かを制するように、再び重ねた。愛ちゃんが本気で歌えばとかって言い出すのはやめてよね、希望的観測で動いたって仕方ないじゃん、現実として何ができるのかってほうが大事だからさ、美貴は全然問題ないんだけど、ガキさんが止めるならしょうがないって思えるなって思えるからこういうことを言って……
 鬱屈を逃すように火鋏で小さくなった炭を掻きまわしたミキティは、カボチャやジャガイモやサツマイモをアルミホイルで包み始めた。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:04
 穏やかな風を装ってはいるけれど、ミキティはミキティなりに、本気で、頭にきているんだと思う。元モーニング娘。がモーニング娘。になることを知らされて、わたしは悲しくなった。愛ちゃんは、自分の無力さを呪ったと言っていた。感じ方はそれぞれだけど、みんな思ってることは一緒だと思う。ミキティは死んでも口には出さないだろうけど。
 実はあんまり寝れてないんだ、お腹がいっぱいになったミキティはそう言ったきり、無言で地面に押し込まれそうになりながらホテルへの道をよたよたと辿った。
 ミキティの部屋の前で別れたわたしは、そのまま部屋に戻らず再び外に出た。
 そこは、繁華街が途切れたなだらかな傾斜の先にあった。つなぎめの見えない半球形の小さな建物は、わたしの今まさにいるこの空間の外形を模していて、入るときに奇妙な胸の締めつけと背筋を這う嫌なざわめきを伴った。
 入り口の対極に円の上半分を切ったようなシンプルなステージがあった。客席のようなものも段差もなく、ここに来たときと同じような傾斜がステージに向かって伸びているだけだ。ほとんど感じることのない微小な空気の流れすらステージに収束していきそうなこの半球形の空間の中で、凪いだ海のような限りなく穏やかでやわらかな歌声が底のほう、ステージのほうから吹いてきた。周囲と溶け合っていて気付かなかったけど、凛としているが全体としているが歪な立ち姿がステージの中心にあった。
「だれ?」
 鋭く刺々しい声がして、歌声が途切れた。声の方向が違う。歌声は途切れていなかった。わたしの中から消えただけだ。
「なんだガキさんか」
 声の刺々しさが抜け、その先に安倍さんの笑顔があった。ぴっとステージを指さし、あそこでなっちたち歌うんだよ、とたのしそうに言った。わたしはそこに嘘を見つけたい。
 安倍さんは突然のことに呆気にとられるわたしの背中を押し、圭織もあんな入って歌うことないのにね、と傾斜の中腹に座った。
「ここね、入り口と海面を同じ高さにしてあるから、海の中なんだよ。壁も薄く振動しやすく作ってあってね、ここでの音楽が海の魚たちにも聞こえるようになってるんだ。なっちが設計したわけじゃないけど、なっちのアイディアなの」
 にこにこした安倍さんが頬にかかる黒い髪をはらった。左耳にふたつだけつけたピアスが揺れている。
 安倍さんはどこに泊まってるんですか? 久々に会う安倍さんに緊張していたわけではないが、おかしなことを聞いてしまった。思考がふわふわと浮いてしまって、それだけではなく安倍さんの笑顔や飯田さんの歌声に絡め取られてしまって上手に動かない。
「なっち? なっちはここに家があるんだよ。……そういえば、ガキさんには話してなかったよね」
 きかないでよ、そう言ってるように聞こえた。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:04
「あ、いえ、聞きました。大体。っていうかほとんど」
「だよね」
「信じられる? ナツミが笑顔でいられるだけのお金、お金って直接は言わなかったけどさ、まあ、こんなもん作っちゃってさ、……信じらんないよね」
 明るく自己完結させたけど、どこかにこびりついた恥は拭えない。安倍さんは結果しか言わない。だから、誰も詳細は知らない。どこかの暇ないくせに退屈している外国の大金持ちが、辺鄙なエイジアの端っこにあるサイトの無料の短編映画を見て、それだけのことだ。
 わたしはここに来たことを後悔していた。安倍さんは、わたしのよく知っている笑顔でステージの飯田さんを見つめている。
「ガキさんはさ、戻りたいとかって時期ある?」
 安倍さんはにこやかにわたしを向いている。これもよく知っている安倍さんの顔だ。
「なっちはね、そういう時期があるんだ。こっからここまで、ってことはないんだけど、恋愛レボリューション21のころから、ガキさんたちが入ってきてしばらくくらいのころ」
 わたしは加入当初のことをあまりよく覚えていない辛かったことだけは憶えてる。いつもどこかが痙攣していたような気がする。
「なっちさ、今までこういうお仕事してきて、そういう頃に戻ったりする機会はあったんだけどさ、そういうのって期間限定っていうか、一瞬のことじゃん? でも、今回はそういった頃がそのまま今に帰ってきたみたいでさ、モーニング娘。ってさ、なんかちょっと嬉しいんだ」
 もうやめて、そう叫びだしたかった。どれもこれもわたしの中にある安倍さんの顔だ。沸騰しそうな昂りがそのまま鬱屈へと凝固し、気が狂いそうだった。
「みんなそうだと思うけど、なっちはもう大丈夫だと確信したから離れたんだよ、モーニング娘。はもうなっちたちのものじゃない」
 初めて見る、全く知らない安倍さんの表情に、わたしは死にたくなった。
 なっつぁーん、これどうやったらパネルひらくんかい、ステージの袖から中澤さんが出てきて、安倍さんが行かなきゃと立ち上がった。
 壊してよ、あまりに小さな声でよく聞き取れなかったけど、たしかにそう言った。わたしはその後、どうやってホテルに帰りついたのかはっきり憶えている。だけど、それは記憶としての情報というだけで、すべてが非現実のように思えて、自分の存在が消えてしまいそうな朧さに、なにをどうしていいのかわからなくなった。部屋に戻ったわたしを迎えた愛ちゃんの、こんこんとあいぼんとさゆと中華にいってきたあ、という声とぽんぽんにふくらんだお腹が唯一の救いだった。いや、赦しだったのかもしれない。
 

22 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:05















 
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:06

 わたし達が半球形の会場に入ったのは開演間近で、人で八割ほどが埋まっていた。こういう奴ら、どこにでもいるんだな、さゆがつまらなさそうに言った。いつも会場にいるような人達は半分といったところだろうか。そんなことに関係なく、モーニング娘。のライブに訪れた、わたし達モーニング娘。の一団は、腫れ物に触れるような視線で迎えられた。待ち構えていた事務所の人間が止めにきたけど、無言のわたし達に沈黙し、力ない苛立ちだけをアピールして引き下がった。愛ちゃんが怯えたようにわたしの腕に張り付いている。
 この辺でいいか、入り口とステージを結んだラインのまんなかで吉澤さんは誰の同意も求めず座った。ガキさん、こっち来いよ、そう吉澤さんに隣に呼ばれ、すぐ側後方に腰をおろした。ガキさん、と不安そうな愛ちゃんがわたしを追いかけてくる。
 モーニング娘。に入る前、一度だけ体験したことのある空気を思い出したような気がした。今のこの状況が勝手に既視感を作り変えたのかもしれないけど、こんな感じだったような気がする。会場中のありとあらゆるがなだれこんでいるようなステージはすべてを受け、それでもなお静謐さを湛えて静止している。中澤さんの言っていたパネルのことなのだろうか、ステージの背面がガラスになっていて海中が透けている。不必要に気負ったれいながわたしの前に座った瞬間、死んだようなステージに灯が入った。期待感を高める音が鳴り、目映いばかりの光が幾筋も照射されるが、海の暗い透明さが吸い込んでステージは静かなままだ。存在が閃光し、何もかもが流れ込んでいたステージに何もなくなった。ステージにあるのは後藤さんだけで、会場も同じように後藤さんの存在感に満ちた。恐ろしく切れのある動きはぬるやかな空気を切り裂き、わたしは予感に膝が震えた。
 意識を失くしていたのだろうか。気がつけば、ステージにはモーニング娘。が勢ぞろいしていた。中澤裕子、飯田圭織、安倍なつみ、保田圭、後藤真希、石川梨華、辻希美、加護亜依。圧倒的なパワーに吹き飛ばされそうになる。すぐ目の前にある享楽に身を任せてしまいたい浮揚感を否定する。吉澤さんは、わたしのすぐ隣で脱力している。愛ちゃんがわたしの腕をキュッと掴んだ。ステージには、わたしの大好きなモーニング娘。がいる。ここで踏み出すんだ。わたしは重力を感じている。わたしはモーニング娘。なんだ。

24 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:06
 
25 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:06
 
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:06
 
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/03/09(木) 05:07
                                                      了

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