きんか
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:18
-
『きんか』
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:18
-
彼女は金柑を見たいと言った。
まるでそれが叶わぬ願いだと知っているかのように。
「絵里も覚えてるでしょ?孤児院にいた頃、
毎年まっ白な花が咲いて綺麗だったじゃない」
さゆみの瞳は輝いていた。
しかし、そのまぶしさと裏腹に彼女の身体は衰えていて、
ベッドに張り付いているようだった。
肌の色も病室の壁と同じくらい無機質なものだった。
「うん、覚えてるよ。よく、その木の周りでさゆと
遊んだりお話したよね」
絵里は穏やかに微笑んで答える。
彼女たちは幼い頃から同じ孤児院で育った。
「冬になると木いっぱいに実がなって…」
さゆみはそこで話すのをやめる。
彼女の脳裏に、そしておそらく絵里の脳裏にも
ある記憶が蘇ったのだ。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:19
-
絵里はさゆみのために金柑の実を取ろうとしたのが見つかり、
その孤児院の院長に体中の髄まで悲鳴をあげるほど打たれたことがあった。
殺伐とした時代を背景に彼は、かんしゃくに任せて孤児院に住む
子供たちを打つことが多々あった。
しかし、さゆみだけはとうとう殴られることはなかった。
彼女は他の孤児たちとは異なっていた。
「夏には白い花が咲いて、冬になる前に金色の実がなって。
さゆと一年中あの木の側で一緒にいた」
絵里はそう言うと、さゆみの方を見て微笑んだ。
さゆみは彼女の気持ちに謝して口角を持ち上げる。
「お父様が寄贈なさったんだって、あの木」
さゆみには父親がいた。
数年前まで戦争が激を増していて、孤児院には親のいない子供が山ほどいた。
しかし彼女には父親がいる。
さゆみは愛人の子だった。
官僚であったさゆみの父は自分の体裁が悪くなることを恐れ、
さゆみの母親と金で縁を切り、さゆみを自分が多額の寄付を行っている
孤児院に送ることで彼女たちを包み隠したのであった。
前述の通り、孤児院の院長はさゆみを決して打たなかった。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:20
-
「…さゆ。お父さんと、会った?」
絵里はやや落ち着かない心持でそう尋ねた。
「ううん、入院したきり会ってないわ。どうして?」
絵里は俯き加減の目線を左右にちらして、
「さゆがお父さんの話するの、珍しいから」
と彼女の問いに答えた。
「…そうね、どうしたのかな」
さゆみは絵里の指摘に苦々しく表情を崩す。
そして絵里の顔を見ないままに口を開いた。
「本当に、どうかしてるわ。体が弱ったからかしら」
すると途端に絵里が眉をしかめる。
さゆみはそれに、はっと気づき
弱々しく、ごめん、と呟いた。
一時の間、二人を沈黙が枠で囲った。
「…さゆがえりに謝ることなんて、何にもないよ」
さゆみが顔を上げると微笑んでいる絵里の姿があった。
何も言えずさゆみは絵里の腕を、きゅっと掴んだ。
それがあまりに力なくて絵里は悲しかったが、じっとたださゆみを見つめた。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:20
-
「もう、行かなきゃ」
しばらくの後、二人に平生が戻ると絵里はそう言って立ち上がった。
「…うん。仕事の時間だものね」
さゆみの口調は、おそらく本人は気づいていないのだろうが、寂しげだった。
「ごめんね。本当はもっとずっとさゆと一緒にいたいんだけど…」
絵里が言うと、さゆみはやや作為的な笑みを見せて
「謝ることなんてないわ」
と言った。
絵里は顔いっぱいに照れたような笑いを浮かべて、さゆみに手を振り、
病室を後にした。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:21
-
さゆみの部屋を一歩出ると、養生所は別世界だった。
廊下いっぱいにみすぼらしい老若男女が横たわり、
無愛想な看護婦が端から順番に適切か定かではない処置を施していた。
さゆみのように病室できちんとした待遇を受けられるのは、
金の支払いが問題なく保障される人間のみだった。
ひどい傷を負った者や、顔色のどす黒い者も絵里の目には映った。
床に寝そべるものは薬はおろか布団さえ与えられず、
意識もうつろにただ、養生所、の一角をなしていた。
「…さゆ」
絵里は一度さゆみの病室を振り返ると、唇をかみ締めて街へ駆け出した。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:21
-
絵里は孤児院を出てから、小さな工場に住み込みで働いていた。
さゆみはそれと同時期に体調を崩し、父親の計らいで養生所に入ったきりだった。
絵里の働く工場は造船のための細かい部品を作っていた。
絵里は夜遅くまでもの作りに励み、昼間の仕事はその出来上がった部品を
上請けの各造船所に届けることであった。
絵里は足が速く、工場主が予想するよりもうんと早く
配達の仕事を終えることが出来た。
その時間を縫って、絵里は毎日さゆみに会いに行っていた。
「ただいま帰りました」
絵里がそう言って工場に入ると、自分の雇い主と立派なスーツを着た男が
神妙な面持ちで話し込んでいた。
その間、工場主の方が一方的に頭を下げることが多々あった。
最後に彼がさらに腰を低くすると、スーツの男は溜息をついて
工場を出て行った。
絵里はどうすればいいのか解らず、ただ傍観していた。
工場主は絵里に気がつくと、一変して態度を大きくして
彼女に、ずかずかと近づいた。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:22
-
「ぼうっとしてねえで、さっさと仕事をしやがれっ」
しゃがれた声を張り上げて叫ぶと、彼は絵里の小腹を蹴飛ばした。
絵里は勢いよく床にしりもちをつくと、腹を両腕で押さえて、
げほげほと咳き込んだ。
その腕の上から踏んづけるようにもう一度、工場主の足が落ちてきた。
絵里は声を出さずに、歯を食いしばって耐えた。
「いいか、そこにあるのが今日の仕事だ。
終わるまで休むな。明日の配達物の確認も早く済ましておけ」
彼はそう言い残して他の従業員たちに指示を出しに絵里の傍を離れていった。
彼は絵里だけに暴力を振るった。
行くところもなく、まだまだ未熟な子供といえる絵里だけを。
傍らで見ていても助ける従業員はいなかった。
資本主義の発展による貧富の差、諸々は
人間の心を簡単に蝕んでいた。
「けほっ…」
絵里は立ち上がろうとして今度は前のめりに倒れた。
苦しそうに咳をしながら、両手をついて体勢を取り直そうとする。
なんとか足がいうことを聞き始めると、絵里はふらつきながら自分の仕事見つめた。
絵里は配達物の確認が好きだった。
次の日さゆみに会うことが想像できるからだった。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:22
-
絵里っ。どうしたの、傷だらけじゃないっ
孤児院の自室で、隅の壁に寄りかかって座り込んでいる絵里に近づきながら、
さゆみは声を上げた。
これはさゆみの記憶でもあり、絵里の記憶でもある。
…また、殴られたの?
腫れあがった絵里の頬をハンカチで押さえ、切れた唇から流れる血をぬぐうと、
さゆみは絵里の目を見て尋ねた。
絵里は曖昧に笑うだけだった。
さゆみの表情がみるみるこうばる。
もう黙ってられない。私、院長のところに…
勇んで立ち上がろうとしたさゆみの腕を、絵里がすっと掴んだ。
さゆみが振り返ると、絵里は静かに首を横に振っていた。
なんで…
絵里はさゆみの動きを制しているのと反対の手で、ズボンのポケット探る。
二、三の間の後、つぶれた金柑を握っている絵里の手が現れた。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:23
-
絵里。あなた、これをとろうとして…
絵里は傷ついた顔を引きつらせながら、苦々しく笑った。
そして金柑をさゆみの方に差出し、
つぶれちゃってごめん、とゆっくり話した。
それを聞いたさゆみの目から、ぽろぽろ、涙が溢れた。
どうして、どうして…
絵里は泣き出したさゆみに一瞬、戸惑った表情を見せた。
しかしすぐに腫れた頬を穏やかに持ち上げて微笑み、
あざができた震える手でさゆみの髪にぎこちなく指を通した。
絵里…
絵里のために涙を流すのがさゆみの仕事で、
さゆみの頭を優しい笑みを浮かべてなでるのが絵里の仕事だった。
ありがとう。でも、もう無茶しないで…
絵里に差し出された金柑を両手で包み込み、やっとさゆみは笑った。
絵里はそれを見て嬉しそうに、うん、と頷いた。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:23
-
「行って来ます」
毎日ほぼ同じ時刻に絵里は配達に出かける。
その日もそれは変わらなかった。
絵里は早くさゆみに会いたくて、一目散に駆けていく。
「だんだん、涼しくなってきたなあ」
絵里はいつも、ぼろぼろでくたびれた長袖のシャツを着ていた。
彼女は体中に濃い青色の、あざ、が出来ていた。
それをさゆみに見られないように絵里はいつもそのシャツで
腕を隠していた。
夏の暑い時期は、さゆみに怪しまれるかもしれない、と、びくびくしていたが、
このところ季節が変わり目を迎え、絵里は胸を撫で下ろしていた。
配達で上請けの者に対面しなければならないせいか
顔だけは殴られないのが、彼女にとっての救いだった。
「さゆ」
仕事を終えた絵里は病室のドアを開け、中を見やり声をかける。
さゆみは彼女と目が合うとベッドで横になったまま、絵里、とにこやかに微笑んだ。
絵里もそれに倣う。
どんなにさゆみの体調が悪くてもそれは同じで、
どんなに絵里の体が傷ついていてもそれは同じだった。
彼女たちにとってお互いの存在を感じあえる瞬間より、
たいせつなものはなかった。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:24
-
「今日は外がとても晴れてるみたいね」
さゆみは病室で唯一、光が差し込む窓に目を細めて言った。
「うん。雲が一つもないよ」
「そうなの。ねえ、窓を開けてくれない?」
絵里の返答に、さゆみは好奇の強い口調で彼女に頼んだ。
微笑み頷いて、絵里は立ち上がる。
古い養生所の窓は立て付けが悪く、なかなか絵里の思うように開かなかった。
絵里が何度か勢いをつけて力をこめると、ようやくそれは、
がらがらと音を立てて開いた。
急に自分の意思どおり動いた窓に踊らされ、絵里は体勢を崩す。
その際、前日工場長に踏まれた腕の傷を丁度窓枠の角にぶつけてしまった。
「うっ…」
絵里は思わず声を上げ、それをさゆみに悟られることを危惧し、
おそるおそるベッドの方を振り返る。
さゆみは窓を開けた絵里に対して、ありがとう、と言っただけだったので、
絵里は平静を装って彼女に近寄った。
「本当にいい天気だね、さゆ」
さゆみはこのとき、人知れず眉間にしわを寄せた。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:24
-
「絵里」
さゆみは絵里の腕をとり、すっとシャツを持ち上げた。
彼女の、細く傷だらけの腕が顕わになる。
絵里は驚いて、とっさにさゆみの手から無理矢理自分の手を離し、
シャツの袖を下ろした。
しかしもう、さゆみは顔をしかめていた。
絵里は唇をかんで、素早く病室から逃げ出そうとした。
「まって」
絵里の背中にさゆみの声が降りかかる。
「行かないで」
絵里は足の動きを止め、さゆみの方を振り返った。
さゆみは、戻ってきて、と絵里を見る。
絵里は俯いてそれに従った。
さゆみはベッドの傍らに来た絵里のシャツの裾を掴み、
ゆっくり上に捲り上げた。
「お腹も…」
肋骨が浮かんだ絵里の腹には、古いものから新しいもの、
色がはっきり濃いものから薄いものまで、目を背けたくなるほど
あざがぎっしりと出来ていた。
「…工場の人に?」
絵里は下を向いたまま何も言わない。
さゆみは溜まった涙を重力に任せながら、口を開いた。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:25
-
「絵里が隠してるからずっと黙ってたけど、
私、もう我慢できない。
どうして?どうして絵里はいつも傷だらけなの?
みんな同じ人間なのに。権力のない子供だって同じ人間なのに。
生きてるのにっ。みんな、同じなはずなのに…」
絵里は確かに、自分の傷をさゆみに見られたくなかった。
それは、さゆみが誰かのために涙を流せるほど優しい人間であることを、
誰よりも一番知っているからだった。
「…えりは、いいんだ」
さゆみは唇を震わせて、絵里の言葉を聞いた。
「えりは、さゆと同じならそれでいいんだ。
さゆがえりのことを、同じだ、って言ってくれれば」
さゆみと同じ、人間、でいられるなら、それでいい。
「絵里…」
絵里のために涙を流すのがさゆみの仕事で、
さゆみの頭を優しい笑みを浮かべてなでるのが絵里の仕事だった。
絵里はまた、仕事に向かって病室から駆けていった。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:26
-
さゆみの容態は日に日に悪くなる一方だった。
さゆみはもうベッドから起き上がることさえ、ままならなかった。
「さゆ。ご飯、食べれる?」
そんなさゆみを、絵里は空いた時間を使っては看病していた。
さゆみが手を動かすことも億劫であろうときには、
いまのように食事の世話もしていた。
「食べたくない。けど…」
「うん、少しでも食べた方がいいよ。元気でないから」
さゆみは青い顔を絵里に向けて、彼女の言葉に従う意を示した。
絵里は飯の入った椀をもち、スプーンですくったそれを
さゆみの口元に運んだ。
彼女は器用に飲み込んでいたが、弱った身体が食物を受け入れず、
咳き込みながら少量を吐き出した。
「さゆっ」
絵里は慌ててさゆみの背中を撫でた。
こほこほ、が小さくなると、さゆみは絵里の手を見て口を開いた。
「あ、ごめん。食べてたの、絵里の手にかかっちゃった…」
「そんなこと気にしないで。さゆは大丈夫?」
絵里は布団に落ちた飯を拾いながら、さゆみに声をかける。
さゆみは絵里の優しさに心が詰まりなかなか、うん、の言葉が出てこなかった。
絵里はまだ心配そうな表情でさゆみを見つめている。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:27
-
「うん、大丈夫よ。ねえ、絵里。仕事は、いいの?」
やっと口を動かすと、さゆみは時間の経過を気にした。
絵里は、あ、と言うと立ち上がる。
「うん。もう、行かなきゃ」
「あ、絵里」
今にも走り出そうとした絵里を、さゆみが呼び止めた。
「このご飯、残ってるの絵里食べて。
絵里、毎日そんなに食べてないでしょ」
さゆみは絵里の細った体を見て言った。
彼女の察したように、工場長から絵里に出される食事は満足なものではなかった。
「…それはさゆのだよ」
「でも…」
「ねえ、さゆが元気出たときに食べて。少しずつでもいいから」
さゆみが応えるより早く、絵里は病室を後にした。
街を走り出すと、腹がなった。
それよりも絵里は、さゆみのやつれた表情が頭に浮かんで胸が苦しかった。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:27
-
さゆみは、絵里がいないときは、ベッドに臥し
病魔が運ぶ体のけだるさに勝てず寝ていることが多くなっていた。
眠りが浅いせいか、その間彼女はよく夢を見た。
絵里、待ってよっ
育った孤児院の庭を二人で駆け出し、
結局さゆみは絵里の背中を追うことになる。
絵里の足は孤児院の誰よりも、そしてさゆみにとっては世界中の
誰よりも早かった。
絵里はさゆみの声に振り返ると、早く、と
いたずらな笑みを見せた。
もうっ…
孤児院での想い出は必ずしも楽しいものではなかった。
院長から特別扱いを受けるさゆみを、他の孤児たちはねたみの対象にしていた。
けれど絵里だけは、いつも彼女の側にいた。
気持ちいいね、さゆ
緑の葉がもえる木の傍らで芝生に二人並んで寝転がる。
見上げる景色に白色花が揺れる。
小さな金柑の木は、二人の特等席だった。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:28
-
絵里、知ってる?金柑の実を食べると元気になれるんだって
さゆみはふと、本で知ったばかりのことを得意げに話した。
絵里はさゆみの言うことを、いつも目を丸くしながら聞いた。
風邪を引いたときには金柑の実を煮たりして食べるの。
でも、ここでは無理ね。
そんなことしたら院長先生に叱られる
実際にさゆみは叱られることはないのだが、さゆみは権力を盾に
自分だけ特別扱いを受けるようなことを好まなかった。
絵里は、そうだね、とだけ呟いた。
そんな話をした冬のことだった、とさゆみは思い返す。
絵里が金柑の実を取って院長に打たれたのは。
きっと、前の晩に咳をつかせていたさゆみのことを思って。
絵里の純粋で綺麗な、こころ、を
夢の中でさえ、さゆみは深く感じた。
ねえ、絵里
さゆみは寝返りをして絵里に近づき、すっと彼女と手をつないだ。
絵里もすぐにそれに応える。
絵里の握る力は自分のより少し強くて、さゆみはそれを心地よく感じた。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:28
-
隣に、いてね
さゆみが金柑の葉の音に飲み込まれそうな声で囁いた。
絵里は静かに彼女の方を向いて、口を開いた。
いるよ
ぎゅう、と手が触れ合う。
いまだけの話じゃないのよ。これからも、ずうっと、ずうっと…
わかってる、と絵里はさゆみを見つめた。
ずっと一緒だよ、さゆ
絵里の言葉は何度もさゆみの胸に響き、やがて小さくなっていく。
そこで夢は終わった。
さゆみはゆっくりと重い瞼を開く。
するとベッドの傍らには、久しく見ない姿があった。
「お父さん…」
さゆみが呟くと、威厳のあるしわを刻んだ顔が渋く笑った。
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:28
-
恩恵の冷たくなった日差しの中を、絵里は走った。
早く仕事を済ませて、さゆみに会うために。
やっと絵里が養生所に着き病室に入ると、
何かしら常とは異なる雰囲気をさゆみから感じ取った。
「ねえ、絵里」
さゆみは重々しく切り出した。
絵里は黙ったまま彼女の次の言葉を待った。
「私、手術することになったわ」
絵里は、さゆみの言葉がどこか遠くに思えてしばらく動かなかった。
さゆみは悲観を隠すように、いささか早口で続けた。
「さっき、お父さんが来たの。私の病気、やっぱり難しいみたいね。
やっと手術の出来るお医者さんが見つかったって。
きっと馬鹿みたいにお金を遣って国中を探したんだわ」
そこまで言うと、無理をした反動か、さゆみは小さく咳き込んだ。
絵里は上下する彼女の背中を、ゆっくりさすった。
「いつ?手術…」
さゆみの呼吸が落ち着くと、絵里はやっと口を開いた。
その言葉の出所を深く見つめると、さゆみは答えた。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:29
-
「明後日。あんまり先延ばしにすると私の体力が持たないんだって」
聞いた瞬間、絵里は眉を歪めた。
さゆみは下を向いて淡々と語った。
「…手術もね、もしかしたら私の体の方が無理かもしれないって。
耐えられないかもしれないって。失敗、する可能性もあるの」
絵里はベッドの横にしゃがみ込んで、さゆみの手を握る。
「ねえ、絵里。お願いがあるの」
呼びかけられた彼女は、切な声の彼女を顔で見つめた。
「手術が成功して私が元気になったら、
あの金柑の木を一緒に見に行ってほしいの」
さゆみはひとつ息をついて続ける。
「嫌なこともたくさん見た孤児院だけど、あの場所だけは、
絵里と過ごしたあの場所だけは特別だから。もう一度見に行きたい」
孤児院は、彼女たちのいる街から真っ直ぐに遠かった。
脚の卓越した絵里でさえ、走っていくのは無謀なほどだった。
汽車に乗るお金もない。
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:29
-
「わかった。一緒に行こう」
不可能は、一人のときの話なのだ。
さゆみが元気になれば、二人になれれば、約束できる。
だから絵里は、満面の笑みで了承した。
「ありがとう」
さゆみは嬉しそうに笑った。
「いけない。仕事に戻る時間だ」
しばらく語らいあった後、ほぼいつもの時刻に絵里が立ち上がる。
ドアに手をかけた彼女を、絵里、とさゆみが呼び止める。
「約束よ」
そして小指を絵里に突き出して笑う。
絵里もその仕草を真似て、約束、と応えた。
さゆみは満足したように微笑んだ。
このところはその唇をつりあげる色にも病気の影が混ざっていた。
汚れきった養生所の廊下を進みながら絵里は、
さゆみの手術が上手くいくことを一心に祈った。
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:30
-
「帰ってくるのが遅いんだ、お前はっ」
怒声と同時に絵里の体が床に沈む。
工場主からの暴力は相変わらず続いていた。
彼の機嫌が悪いときは特にひどく、この日はそれにあたった。
それでも絵里はこの工場を出て行こうとはひとつも思わなかった。
さゆみに会うことが出来れば、自分のことはどうでもよかった。
さゆみの側を、離れたくなかった。
「これが仕事だ。さっさと取り掛かれ」
自分の息があがるほどに絵里を打つと、
工場主はやっとその職務に似合った言葉を発した。
しかして彼の差し出した量は絵里が普段一日にこなすものより格段多かった。
「俺はこれから用事があって2、3日工場を空ける。
その間にそれを組み立てておけ。配達もそこに置いてあるのを
指示通りに終わらせておけ」
絵里は、しめた、と思った。
言われた仕事を早く終わらせてしまえば、後は好きなだけ
さゆみと一緒にいられると考えたのだ。
思わず頬がほころんだ。
工場主はその表情に顔にいっぱいのしわを寄せ、怒鳴った。
「なに、笑っていやがるっ」
彼のつま先が絵里の腹をえぐった。
絵里はたまらず床に咳と呻吟を漏らす。
それでも絵里は、さゆみに会うのを心待ちにした。
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:30
-
さゆみは毎早朝、医者からの検診を受けていた。
彼女は医者が嫌いだった。
同じ養生所で苦しんでいる貧しい人々には手を差し伸べずに、
自分のような、利益になる人間、には打って変わって下手にでるからだ。
さゆみは本当は、そのような人間の世話になりたくなかった。
だが彼女には、絵里に会いたい、という気持ちがあった。
少しでも体の状態を良くしなければ、絵里に会えなくなるかもしれない。
それだけをただ恐れて、さゆみは医者の検診を受けた。
「それで、手術のことなんだがね…」
途中に医者がなにやら話を始めた。
最初こそ手術の内容だったが、だんだんと金のことになっていった。
さゆみはうんざりして、耳を貸していなかった。
彼女は絵里のことを考えた。
絵里は人形みたいにお金の糸で操られたりしない。
さゆみは彼女を立派だと思った。
もう、何もできないに近い自分の看病を
嫌な顔一つせずにしてくれる絵里のことを。
いつも、ぼろぼろでいるが、
金をそのまま身にまとったような形の、人間、たちよりも
ずっと絵里は格好良いとさゆみは思っていた。
「それでは、お大事に」
医者が出て行くとさゆみは吸い込まれるように眠りに落ちた。
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:31
-
絵里は昨晩寝ないで与えられた仕事を全て終わらせ、
朝一番で配達に回り、さゆみに会う準備を整えた。
これで工場主が帰ってくるまでずっと、さゆみの側にいられると思い、
絵里は胸を弾ませた。
普段より早い時間に病院についた絵里は、さゆみを驚かそうと
音を立てずに病室のドアを開けた。
声をかけようとして、絵里は止まった。
さゆみが目を開けず動かないのが見えたからだ。
絵里は顔をこわばらせてベッドに近づく。
さゆみの寝息が聞こえると、絵里は息を漏らした。
そしてそのまま力が抜けたようにさゆみの傍らで座り込んだ。
「さゆ…」
自分にさえ聞こえるか聞こえないかの声で絵里は彼女の名を呼んだ。
当然、寝顔から返事はない。
さゆみの姿はやはり以前より衰えていて、
眠っていると顔色が悪いのがはっきりとわかり、絵里は胸が締まった。
しばらくじっとさゆみを見つめていると、ドアの開く音が聞こえ
絵里は振り返る。
「君は…」
病室の入り口には、背の高い男性が立っていた。
絵里にはそれが誰なのか判った。
遠くから見た記憶しかないが、その物々しい出で立ちから
明らかにそれはさゆみの父親だった。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:32
-
絵里は彼の突然の訪問に思わず立ち上がり、そしてそのままになる。
さゆみの父は何か悟ったように、ゆっくり話し出した。
「いつも娘の看病をしてくれていたのは、君だね」
その落ち着き払った穏やかな声に、絵里は戸惑いながらも頷いた。
さゆみの父は、目を細めてその様子を見る。
「ここの看護婦から聞いているよ。
すまない。本当にいつもありがとう」
目の前の紳士が自分に頭を下げている光景が信じられず、
絵里は目を丸くした。
そして首を振りながら、彼に顔を上げるよう促す。
それでも彼はその体勢のまま続けた。
「私は自分のことだけ考えて娘を見捨てた、どうしようもない父親だ。
さゆみを一人にしてしまったと思っていたが、君のような
心の優しい友達がいてくれて、本当に感謝している」
なるほど彼は、さゆみの父親だった。
権力をなくすことを恐れる、臆病、があっても、義理の厚い男だった。
絵里は黙って彼を感慨深そうに見つめた。
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:32
-
「君には何かお礼をしなければならないと思っていたんだ」
彼が言った瞬間、絵里はとっさに拒もうと足を踏み出した。
構わず彼はスーツのポケットに手を当てた。
「今はこれだけしか持っていないから、とりあえず受け取ってくれ」
彼の手の中を見て、絵里は固まった。
自分がそれまで目に映したことがないくらいの金貨があった。
「そんな、いらないです。
さゆの看病はそんなつもりでやってた訳じゃ…」
「わかってる。でも受け取ってくれなきゃ、こちらの気が
おさまらないんだ」
そう主張するとさゆみの父親は絵里の手をとり、
有無を言わさずその金貨を握らせた。
同時に絵里の頭にある考えがよぎった。
「…ありがとう、ございます」
絵里が言うと、さゆみの父親は満足げに病室をあとにした。
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:32
-
絵里は自分の手の中を覗き込んだ。
溢れんばかりの金貨が乗っている。
絵里はその金貨で汽車に乗ろうと思った。
思い出の、金柑に会うために。
「絵里」
後ろから声をかけられて、絵里は慌てた。
振り返ると、さゆみは震えるような怒りの表情だった。
「さゆ…」
「ねえ、どういうこと?なんでお父さんから金貨を貰ってるの?」
さゆみは目を覚ましていた。
おそらく、絵里の手に金貨が渡った瞬間から。
「さゆ、聞いて…」
絵里が話そうとしても、さゆみは止まらなかった。
「結局、絵里も同じなの?お金のために私に優しくするの?
毎日看病してくれてのも、その金貨のため?
それとも、孤児院にいたときからっ…」
興奮したさゆみは体の方が耐え切れずに咳き込んだ。
絵里は慌てて介抱しようとする。
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:33
-
「触らないでっ」
絵里の手をさゆみが強く払う。
虚をつかれた絵里の顔を一笑し、さゆみはさらにまくし立てた。
「残念ね、どうせ私は明日の手術で死ぬの。
困るでしょ、金ずるがなくなって」
そこまで言って、やっとさゆみは止まった。
彼女の目は、絵里の頬を流れる涙を捉えていた。
さゆみが瞬きをする間に絵里は病室から飛び出した。
呼び止めることはせず、さゆみは彼女の出て行ったドアを見る。
「なんで、泣くのよ…」
さゆみは絵里が涙を流すのを見たことがなかった。
どんなに殴られても、差別されても、絵里は泣かなかった。
それなのに、いま、彼女は頬を濡らしていた。
「絵里なんか大嫌い…」
やはりさゆみが泣くのは、絵里のためだった。
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:33
-
絵里は走った。
とにかく走った。
絵里は、ぐちゃぐちゃだった。
絵里の中のさゆみも、ぐちゃぐちゃだった。
汚れた雑踏に紛れると絵里の足は止まり、座り込むように崩れ落ちた。
舌打ちの足音が彼女の横を通り過ぎていく。
群衆の中で絵里は、ひとり、だった。
「さゆ…」
絵里は、彼女を思った。
さゆみは、自分はもう死ぬ、と言った。
絵里はズボンにしまった金貨に触れる。
その重たさと冷たさが、手になじまなかった。
「しぬ、なんて、言わないで…」
絵里は立ち上がる。
しっかりと前を見て、足を踏み出す。
絵里は走った。
走ることしか知らなかった。
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:34
-
日が傾く前の汽車は、ほぼ満員だった。
それでも景色が赤くなっていくにつれ、街から遠ざかるにつれ、
だんだんと空席ができていった。
絵里は終点で降りた。
不確かな記憶を頼りに、彼女は育った孤児院に向かった。
さゆみは、死ぬ、と言った。
しかし絵里は、さゆみにいなくなってほしくなかった。
あるいはさゆみは自分のことを許してくれないかもしれない。
それでも絵里は、さゆみのために何かしたかった。
あるいはさゆみは自分のことを許してくれないかもしれない。
それでも絵里は、さゆみのために金柑をとりに向かった。
金柑を食べると元気になれる、と聞いた。
さゆみの手術も上手くいくと思った。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:34
-
孤児院の塀をよじ登ろうとしたとき、絵里にふっと
過去に金柑をとったときの記憶が蘇った。
ひどく打たれた絵里にさゆみは、もう無茶をするな、と
言った。
絵里はさゆみの言うことを一番に聞いた。
しかし絵里は孤児院の中に向かう手を止めなかった。
果たして絵里には今回のことを無茶だと思えなかった。
あの時とは違う、と信じた。
きっと上手くいく、と願った。
「うわあ…」
塀の上から覗く金柑の木は変わりなかった。
絵里は思わず感嘆の声を上げる。
しかし彼女には、もの思いにふけっている時間はなかった。
幸い、日も落ちているので孤児院の庭には誰もいない。
この隙に早く目的を果たしておかなければならない。
金柑の木はさゆみが元気になったときに
二人で一緒に見ればいい、と思った。
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:34
-
「誰だっ」
絵里が金柑の木に手をかけた瞬間、遠く背後から大きな声がした。
振り返ると、忘れもしない孤児院の院長の姿があった。
絵里は一目散に駆け出した。
軽い身のこなしで塀の外へ出る。
待てっ、という怒声はもう遠く微かだった。
絵里の手にはしっかりと金柑が握られていた。
ほうら、と絵里は笑った。
上手くいかないはずがないんだ、と得意げに。
「さゆが、元気にならないはずないんだ」
駅に着くと、もう帰りの汽車はなかった。
絵里は仕方なく夜を寒空の下で明かすことにした。
普段から、ろくなところで床に就いていない絵里でも、
さすがに冬の空は体に応えた。
薄いシャツで隠したあざや傷に、冷たい風が突き刺さった。
それでも絵里には金柑があった。
さゆみが側にいるようで、絵里はいくぶんか暖かさを感じた。
早く彼女に金色を見せてあげたいと思った。
独りの中で絵里は、ふたり、だった。
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:35
-
さゆみはその夜、ベッドの中で泣き通した。
曇った胸中で手術の朝を迎える。
「さゆみ」
丁度さゆみが早朝の検診を終えた頃だった。
ノックの音とともに低い声をした背の高い男性が病室に入ってくる。
さゆみの父親だ。
「どうだ、調子は」
さゆみはベッドに横になったまま、何も答えない。
彼の顔を、今日はより一層見たくなかった。
彼は溜息をついて、ベッドに近づく。
「そういえば昨日、あの子に会ったよ」
さゆみの肩が、ぴくりと動いた。
「毎日、さゆみの看病をしてくれている子に」
そして彼女は、やっと口を開く。
「知ってるわよ、給料を渡したんでしょ?」
「給料?」
父親が首を傾げると、さゆみは声を荒げて続けた。
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:35
-
「あの子に、絵里に、お金を渡して私の世話をさせてたんでしょ?
解ってるの。絵里に昨日金貨をあげてるのを見たもの。
ねえ、いつから?孤児院にいたときから?」
さゆみの父親は娘の解釈を察知し、彼女を諭そうとする。
「さゆみ。君は何か勘違いをしているよ」
「何が?まったく、お金でなんでもできると思っているのね。
あんな身寄りのない貧しい子を捕まえて」
「さゆみ、聞きなさいっ」
今までに耳に入れたことのない父親の大声に、
さゆみは閉口した。
「あの子には、確かに昨日お金を渡した。
でもそれは私の、さゆみの父親としての感謝の気持ちであって、
決して給料なんかじゃない。第一あの子は最初、金貨を拒んだ」
「嘘よ」
「本当だ。私は昨日、あの子と初めて会った。
さゆみ、私のことはいくら疑っても構わない。
でも、あの子は、あの子だけは信じてあげてほしい」
さゆみは唇を震わせた。
頭の中に、絵里の顔がまわった。
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:36
-
「あの子はきっと、真っ直ぐだから、真っ直ぐすぎるから
きっと心が弱った人間は彼女を疑ってしまうんだと思う。
だけどね、あの子はさゆみにとって真実だよ」
「絵里…」
「さゆみはあの子を信じていたから、傷ついているんだろう?」
さゆみは首を下に落とす。
「…私、絵里にひどいこと言っちゃった。
きっと、もう会ってくれないわ」
「心配ないさ。謝ればいいんだ。
手術を成功させて、謝りに行けばいいんだ」
「謝る?」
そうだ、と彼は頷いた。
「逆の立場なら、さゆみはあの子が謝りにきたら許すだろう?」
さゆみは強く頷いた。
父親は、それならば心配要らない、と笑った。
「じゃあ、手術が始まる頃にまた来るから」
「あ、お父さん」
ドアに向かった父親に、さゆみは声をかけた。
「…ありがとう」
彼は目を細めて精一杯微笑み、娘に応えた。
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:36
-
絵里は朝一の汽車に乗り、さゆみのいる街に向かった。
旅は順調で、なにもかも順調だった。
汽車から降りると、絵里はすぐに駅から離れて
病院に向かおうと思った。
ところが急ぎ足の彼女の手を、誰かが後ろから掴んだ。
「うわ…」
訝しげに彼女が振り返ると、顔にしわを寄せた男が立っていた。
「工場長…」
一気に血の気の引いた絵里を、彼は力ずくで
人通りのない駅の裏手に連れて行った。
「こんな所で何をやってるんだっ」
怒鳴り声とともに蹴り飛ばされた絵里は、背中から駅舎の壁に衝突し、
そのまま地面に腰を落とした。
「けほっ、けほっ…」
「汽車に乗ったのか。そんな金どこにある?
工場から盗んだんだろう」
絵里は、苦痛のせいで出せない声の代わりに首を振って否定した。
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:37
-
「嘘をつくなっ」
彼は絵里の首もとのシャツを掴むと、無理やり彼女を立ち上がらせる。
「どいつもこいつも、俺のことを馬鹿にしやがって」
息を荒め、彼は拳固で絵里の左頬を殴った。
絵里はまたたく間、視界が真っ白になった。
配達が仕事である自分の顔だけは、今の今まで彼は一度も殴らなかった。
何かが平生と違った。
彼の顔は異常なほど真っ赤だった。
「黙って、俺の言うことを聞いてればいいんだっ」
膝がおれ崩れ落ちる絵里に、工場主はもう一度拳固を飛ばした。
工場主の心は、病んでいた。
現世の闇に飲み込まれていた。
倒れこんだ絵里に容赦なく打撃の雨が降る。
彼の怒りは絵里に向けられたものではなかった。
しかし、傷を負うのは他でもなく絵里だった。
「なぜ俺が、あんな奴らに頭を下げなくちゃならないんだ」
彼は我を見失ったように、駅の作業員が置いていったのであろう
地面の上のシャベルを手に取った。
- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:38
-
「かはっ…」
彼が鋼の硬さを振り下ろすたび、鈍い音をたてて
絵里が砕かれる。
最初のうちは防御を取ろうとしていた絵里だが、
もう思うようには体が動かなかった。
痛みに声を上げることもなくなり、
ついに絵里は、ぴくりとも動かなくなった。
「あ…」
工場主は、絵里の異変に手を止めた。
「おいっ」
呼んでも絵里から返事はない。
流れている血と対照的に絵里の顔色は青く、
体はほころびた布のように傷痍を負っていた。
彼女はただ、地面に吸い込まれるように固く目を閉じていた。
「嘘だろ…」
工場主はうつつ心に戻り、震えた声で呟くと
その場を走り去った。
ぶりきが壊れたように動かない、絵里を残して。
- 40 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:38
-
「絵里…」
さゆみは、自分では正体のわからない胸騒ぎをおぼえていた。
嫌な嫌な予感がした。
手術前の最後の検診、と言って医者が病室に入ってきても
それは同じだった。
さゆみに凶事の感がおしよせていた。
「それじゃあ、手術用の麻酔を打つから」
さゆみの手術は目前に迫っていた。
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:39
-
「う、うう…」
どれくらいかたった頃、絵里の意識が微かに戻った。
指一本動かすだけで、全身に引き裂かれるような痛みが走った。
薄く開いた目には、太陽の光だけが皮肉に輝くのが感じられた。
「く…けほっ、ごほごほっ」
上手く呼吸ができずに咳き込むと、折れた肋骨が泣き叫ぶ。
ぼんやりとした思考で、絵里はおぼろに自分の進むであろう
道を悟った。
もう動くことはおろか、息をするのも苦痛を伴う。
絵里の視界から、すっと輝きが追い払われた。
そこで彼女は、すべてを手放したはずだった。
世界には、何もないはずだった。
しかし絵里は気がついた。
正体のわからない侵入者が、しきりに自分の心を通り過ぎていく。
なぜか、甘味だった。
「さ…ゆ…」
啓示者は、自分のポケットに収められた金柑の香りだった。
動かないはずの唇が、愛しい名を呼んだ。
「さゆ…」
先程よりも、しっかりとした声で。
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:39
-
絵里の体は、動くことができるはずがなかった。
しかし彼女は荒い息をしながらもがく。
立ち上がることなど、到底無理な相談のはずだった。
しかし彼女は壁にしがみついて体を起こす。
歩くことなど、論外のはずだった。
しかし彼女の足は一歩ずつ前へと震えながら進み始める。
呼吸をするたびに肺腑が、ちりちりと痛んだ。
それでも絵里は、さゆみに会いたかった。
足を踏み出すたびに、体がきしんだ。
それでも絵里は、さゆみに会いたかった。
さらに激を増す痛みは、体の真ん中に穴が開いたかと思う程だった。
それでも絵里は、さゆみに会いたかった。
ぴんと張り詰めた意識は、いつ斬れてしまってもおかしくなかった。
それでも絵里は、さゆみに会いたかった。
心身は、限界だった。
それでもそれでもそれでもそれでもそれでも絵里は、
さゆみに会いたかった。
街の通りの壁をつたって、絵里は何とか病院を目指した。
何度も倒れそうになる絵里にさえ
手を差し伸べる通行人などなく、邪魔そうに彼女をよけていった。
絵里はそれで構わなかった。
自分の行く道を塞がなければ、何がどうでもよかった。
進行を妨げている痛みを患う自分の体の方が、
よっぽど絵里には卑下なものに思えた。
- 43 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:40
-
やっと絵里は養生所にたどり着いた。
激しい疼痛に失神しそうになりながら、
彼女は養生所の中を進んだ。
貧しい民が群がる廊下は、誰も絵里を気に止めなかった。
絵里はさゆみの病室のドアに手をかけると、
雪崩れ込むようにその中へ入った。
「ん…だれ?」
さゆみの声に絵里は、微かに唇をつりあげる。
絵里はなりふり構わず、床を這いつくばってベッドに寄った。
そしてベッドに上半身を乗せ、その白いスーツに
いうことの聞かない体を預けた。
絵里はもう、動くことはできなかった。
しかし彼女には、すでに関係のないことだった。
目の前にさゆみがいるのだから。
「さゆ…」
「絵里…絵里なの?」
絵里はさゆみの顔を、すっかり狭くなった視界で捉え、
そこで気がついた。
さゆみは目を閉じていた。
「さっき、手術用のお薬を打って、
なんだか目を開けてられなくて…」
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:41
-
さゆみはこの時、麻酔が効いていて
どうやら絵里の姿は微かにしか見えないらしかった。
とにかく打ちひしがれている絵里の様子には気がつかない。
「絵里…もう来てくれないと思ってた。
私、絵里をひどく傷つけちゃったわよね」
「そんなこと、ないよ」
絵里は言葉を発するのも、重い動作だった。
それでも手術を控えたさゆみを動揺させぬよう懸命だった。
「ううん。絵里は、優しいからそういう風に言うだけよ。
本当に、ごめんなさい。
私はひどい人間だわ。こんなに綺麗な絵里を疑うなんて…」
「さゆは、優しいよ。それに、えりなんかよりずっと、きれい」
「違うわ」
「違わないよ。ねえ、謝らないで。えりは、さゆのこと…」
絵里はそこまで言うと、体腔からこみ上げてくるものを
こらえ切れず咳いた。
同時に、ベッドのシーツが赤く染まる。
絵里は空事のようにそれを眺めた。
「絵里?」
「ううん、なんでもない。ねえ。手、出してくれない?」
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:41
-
「ごめん。なんだかもう、体が動かなくて…」
さゆみの声から感じるに、その言葉も納得がいった。
絵里は、わかった、と言って、自分でさゆみの手をとった。
歯を食いしばって震えを抑えながら。
「これ、なんだかわかる?」
さゆみの手には、金色のまんまるが、ちょこんと乗せられた。
さゆみは触覚も視覚も働かなかったが、懐かしい香りを感じた。
「もしかして、金柑?」
「そう、当たり」
「うそ。どうして…」
「さゆのお父さんの、金貨のおかげだよ」
「まさか、孤児院にとりに…」
絵里は、無言で笑った。
さゆみは、彼女が頷いたのだと判断した。
「どうして、どうして絵里。あなたはいつもそうやって…」
「さゆ、これで、元気になれるよね」
「絵里…」
「少し、つぶれちゃったんだけど…」
絵里が差し出す金柑はいつも、ぐしゃぐしゃで、
しかしさゆみの胸を強く締めつける。
さゆみは何も言えず、絵里の気持ちに感じ入った。
絵里は、調子を落ち着かせるように一つ息を吐く。
- 46 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:43
-
「ねえ、さゆ。約束して。絶対、絶対元気になって」
「うん、大丈夫よ。絵里の金柑があるもの。
元気になったら、絵里の方も約束覚えてる?
今度は一緒に金柑の木を見に行くのよ」
「覚えてる。絶対だよ」
絵里の意識は一瞬間一瞬間完全に消え失せては、
さゆみの声に呼び戻されることで、どうにか繋ぎとめられていた。
それでも、その声にだけは、さゆみを包み込むような広さがあった。
「ねえ、絵里?」
「…ん」
「私、ずっと考えてたの。
病気が治って退院したら、絵里と一緒に暮らしたいって。
もう、絵里と離れていたくないから」
絵里から返事はない。
「絵里?」
絵里にはもう、さゆみの声さえ聞こえていなかった。
朦朧の中で、彼女は小さく高らかに言った。
「さゆ、大好き…」
その詞に安心して微笑むと、さゆみは再び目覚めるための眠りについた。
見送った絵里は、そっとまぶたを落とした。
とても穏やかに、優しく微笑んで。
それが、さゆみと絵里、だった。
- 47 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:43
-
春が追い出された夏の頃、
黄金の咲く木が誇らしげに白い冠をかぶった。
「きれい…」
まっ白な金柑の花を、その傍らに座り込んで見上げ、
さゆみは呟いた。
彼女の体から病魔はすっかり消えていた。
「ねえ?」
隣に並んでいる影に、さゆみは声をかけた。
すぐに微笑みの声が返ってくる。
「本当だね」
もちろん、さゆみの隣は絵里だ。
彼女たちはさゆみの父親の計らいで、共に育ったあの孤児院を
管理しながら、そこで暮らしていた。
権力者としてではなく、父親としてさゆみは彼に頼った。
それでも多くは求めない。
絵里と一緒にいられれば、それでよかった。
「今年もきっと、たくさん金柑がなるわ」
さゆみが言い終わると同時、
絵里の足元に丸いボールが転がってきた。
それを追いかけてくる子供の姿も見える。
絵里は拾ってやろうと、その球に手をかけた。
しかし上手く掴めず、掌からそれは滑り落ちてしまう。
絵里の手は、小刻みに震えていた。
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:44
-
さゆみの手術があったあの日、
傷つき倒れている絵里を見つけたさゆみの父親の手回しで、
絵里はどうにか一命を取り留めた。
しかし、身体は完全には回復しなかった。
これから多少は良くなっていくが、
元の通り動くようになる見込みはないらしかった。
今のように、身体の器官に力が入らないことは度々あった。
すると悪戦苦闘する彼女の手を、そっと暖かさが包み込む。
「さゆ…」
二人の手が重なってボールを拾い上げる。
さゆみが笑いかけ、絵里も向かい合って応える。
少年が、嬉しそうに近寄ってきた。
「はい、どうぞ」
欲しているものを手渡してやると少年は、ありがとう、と言い、
遊びの輪の中へ戻っていった。
孤児院にいる子供たちは、さゆみと絵里が世話をし始めると
よく笑うようになった。
それがやはり、さゆみと絵里の嬉しさにもなった。
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:44
-
「さて、そろそろご飯の準備をしなくちゃ」
さゆみがそう促すと、絵里は頷いた。
さゆみは先に立ち上がると、ふらつく絵里の肩を抱き、
彼女が腰を上げるのを助ける。
そして手を取り合って腕を組み、一歩いっぽ歩き始める。
揺れる絵里の体を支えるさゆみに、
絵里は感謝を込めて微笑む。
彼女のその表情が、さゆみを支えるのであった。
さゆみと絵里、はそうやって歩いていく。
いつまでも、いつまでも。
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/11(金) 22:44
-
ノシ
- 51 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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