製鉄のやうに
- 1 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:26
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製鉄のやうに
- 2 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:26
- 梨華のことを桃子は先生と呼んだ。
本人は先生と呼ばれることに慣れていなくて
応答もぎこちなかったが、それでも桃子には
梨華について先生と呼ぶ以外の呼び方が見当らなかった。
桃子の今を作ったと言っても言い過ぎではない。
桃子の成長に、著しい影響を与えたのが梨華だった。
梨華は教育実習生として桃子の通う中学にやってきた。
3週間、桃子のクラスで授業をしてくれる。
若い女の人だったのでクラス中が梨華に湧いた。
実際梨華は中学生を夢中にさせるだけの美貌も愛嬌も備えていた。
桃子は夢中になった。
梨華の担当は社会科だった。
授業の前は友達と一緒にわくわくしたものだった。
この学校にはめったにない、自分達と年の近い先生の授業だ。
楽しみでないはずがない。
- 3 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:27
- 結果を言ってしまうと、梨華の授業には皆がっかりした。
声はキンキンと耳に障るし、言っていることが時折意味不明になる。
必死に説明しようというのはわかっても、
大学生の難しい言葉をそのまま使うもんだから
中学生の桃子たちには理解するのが大変だった。
おそらく学問はできるのだろう。
梨華は自由民権運動が日本の近代化に果たした役割を
延々と生徒たちに語った。
でも語るだけで黒板を使わない。
授業が下手くそとクラス中が判断するのに、時間はかからなかった。
徐々に私語が始まり、内職が始まり、
席を移動する者まで出る始末である。
梨華も生徒たちの様子のおかしいのに気づかぬはずがない。
授業は回を重ねるたびに気まずくなっていった。
生徒というのは現金なもので、自分達の時間を浪費するような教師には
いかに可愛くともついていきなどしない。
生徒たちの心は梨華から次第に離れていった。
- 4 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:27
- 1週間も経つと、梨華に話しかけるのは桃子だけになっていた。
いや、正確に言うと一部の男子生徒は授業中に熱心に話しかけていた。
といっても質問や意見の類ではなく野次だ。
若く、容姿の整った梨華が男子中学生を刺激しないはずはない。
梨華の方でもたまに、身体のラインのよくわかるスーツを着てきたり
丈の短いスカート姿で教壇に立つことがあった。
若いのだからそういう服装になることも当然といえば当然だが
男子は執拗に梨華をからかうのだった。
大人の梨華は相手にしていない様子だったが桃子はたまらない。
自分の好きな先生に対して、クラスメイトが下卑なセクハラ発言をすることに
桃子はどうしても我慢がならなかった。
先生をそんな風に、ただの女として見ることは許されない。
桃子にとって梨華はもっとも立派で尊敬できる女子大生なのに
男子たちの厭らしい視線、厭らしい欲求に梨華がさらされているのを見ると
桃子は泣きそうになった。
先生はそんなんじゃない。先生はそんな変なことしない。
我慢の限界まできていた。
- 5 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:27
- ある日、掃除の時間に男子がとんでもないことを言った。
梨華こそ、その場にいなかったが、
梨華の肉感のみを誇張した欲望むき出しのその発言は
先生の尊厳を全否定するも等しい。
普段の下ネタ発言に、聞いている女子も赤くなることはあったが
その日の発言には皆が引いた。
一人、桃子だけが顔を真っ赤にしていた。
恥じらいに赤くなったのではもちろんない。
桃子は憤りを隠さず、持っていた箒で男子の脳天を叩き下ろすと
ありったけの声で罵ってやった。
桃子があの授業の下手な実習生を庇って怒るなど
誰も考えていなかったのだろう。桃子がキレて教室中が静まり返った。
後に残ったのは、桃子を侮蔑する眼差しばかりである。
実習生に取り入ったりしない、
という暗黙のルールがクラスに出来上がりつつある時のことだった。
桃子がただ一人、そのルールを破って梨華についていこうとしている。
クラスの調和を乱したものには罰が課せられる。
女子は桃子に白い目を向けてひそひそ話し始めた。
殴られた男子の友人が
今度は桃子に対して卑猥な言葉を投げかけた。
「お前もどうせ……」とかなんとか、
後半は桃子にも意味がわからぬほど下品な内容だった。
- 6 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:27
- その言葉に桃子はとうとう泣き出した。
先生の威厳を踏み荒らされた怒りがまだ収まらぬうちに
今度は悪意が桃子に向けられパニックになって泣き叫んだ。
クラスが白けた。
これ見よがしに皆がため息をついて席に戻る。
教師がやってきても桃子が泣いた理由を誰も説明しようとしない。
桃子だけが浮いたまま、クラスは解散になった。
ようやく涙が収まると桃子は一人、昇降口まで来た。
梅雨の時分だ。外を見ると雨が豪快に降っている。
桃子は傘立てに並んでいる中から自分の傘を見つけようとした。
しかしいくら探しても桃子の傘はない。
不審に思い外をみると
校舎の外にピンクの傘が転がっていた。
幌がズタズタに破けているのが見える。
やられた、と桃子は思った。
クラスメイト達による報復だ。
泣かせただけでは飽き足らなかったのだろう。
しばらくは続くかもしれない。
- 7 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:28
- 桃子は職員室に行き事情を説明する。
しかしあまっている傘があるはずもない。
携帯電話で母親を呼び出してもつながらなかった。
つながったところでどうせ仕事だ。
学校が閉まる前に桃子を迎えに来られるはずがない。
この雨の中、濡れて帰るというのも無理があった。
万策尽きて桃子は昇降口で雨止みを待っている。
いや、雨が止む様子のまるでないことは桃子にもわかっていたのだが
どうすることもできない。
だから雨止みを待っているというよりは、
雨を眺めて途方に暮れていた、という方が正しい。
雨で多くの部活が中止のようで学校に残っている生徒はほとんどいなかった。
時計を見ると18時45分。もう下校時間である。外も暗くなっていた。
全力で走れば15分で駅に着く。
桃子は意を決して、雨の中を走り出した。
バシャバシャと何度も水溜りに踏み込むのも構わず
必死に校門を目指していく。
校門に差し掛かったところで背後から声がした。
「嗣永さん」
- 8 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:28
- 桃子は立ち止まって振り返った。
すると、パシャパシャと水を蹴りながら傘を差した梨華が走ってくる。
「せ、先生!」
梨華は桃子のもとまでくると自分の傘を桃子の方に差し出した。
「入んな」
わずかに腰を屈めて桃子と目線を揃えると
梨華は柔らかい笑顔でそう言った。
桃子は無言で梨華の持つ傘の中へと入った。
「うわー、ひどい雨だね。傘持ってないの?」
「……壊された」
「……」
桃子の発言に、梨華の優しい顔が険しいものに変った。
「誰に?」
「知らない。クラスの誰か」
「そっか……」
桃子をポンポンと二度叩いてから
「じゃあ一緒に帰ろっか」
梨華は言った。
- 9 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:28
- 梨華の傘に入って並んで歩いた。
梨華の持つ取っ手を桃子も一緒に持った。
その必要は別になかったが、何か申し訳ないと思ったのだ。
水に貼りついた衣服が桃子の体温を奪い、桃子は身を震わせた。
すると梨華は無言で自分の上着を脱いで桃子の肩にかけてくれた。
「ありがとうございます」
時々、車がライトをまぶしく照らして桃子たちの脇を抜けて行った。
水が跳ねて梨華の脚と桃子の脚にかかった。
「桃ちゃん」
「え?……あ、はい」
突然、名前で呼ばれたことに驚きながら桃子は梨華を向いた。
「家はどこ?」
桃子は最寄駅の名を告げる。
「え?遠いじゃん。風邪引いちゃうよぉ。
家においで、着替えとかあるから」
「先生の家、近いの?」
「ここ、大学から近いでしょう?
近くにアパート借りてんの」
「でも……迷惑じゃ……」
桃子が返答に困っていると、梨華は取っ手にある桃子の手を強く握って
歩調を強めて歩いていく。桃子は半ば引っ張られるようについて行った。
- 10 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:28
- 道は徐々に暗く閑散としてきた。
たまに街灯の下を通ると、まるで別世界のように2人を照らして
桃子の心は不思議とほこほこ温まる。
「先生……ごめんなさい、上着」
「ううん、全然平気」
しかし見ると梨華のブラウスは
片面だけ傘からはみ出してぐっしょりと濡れていた。
桃子は自分だけが全身入っていることに今更気づいた。
その時、調度街灯の下に来た。辺りがオレンジになる。
照らされた中で、桃子は気づいた。
梨華のブラウスが雨に透けて片方だけ中が見えていた。
白いブラウスの中に水色の下着が覘いている。
桃子の目は、そのきれいに整った胸に吸い寄せられる。
これが、大人の女性だろうか。桃子は見とれてしまった。
妖艶な美でもあり、かつ崇高な美しさもある。そう感じた。
桃子の手は最近膨らみ始めた自分の胸に触れていた。
手で柔らかさを感じるくらいには乳房も育っている。
そして、先ほど浴びせられた言葉を思い起こし、胸が痛んだ。
まさか男子が自分に向けて性的な暴言をぶつけてくるなど考えてもみなかった。
そう、あの時桃子は単に梨華のことで泣いたのではない。
自分も、男の性欲の対象になりつつある、ということを突然知らされて
頭の中が真っ白になって泣いてしまったのだ。
- 11 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:28
- アパートの2階に上がって梨華が鍵を取り出していた。
桃子は先ほどから下を向いたまま黙っていた。
桃子は、ぎゅっと拳を握ると、鍵穴に鍵を指している梨華に話し始めた。
「先生、あの、ごめんなさい!私……」
「ん?気にしなくて……」
梨華は振り返って黙った。桃子の異変に気づいたのだろう。
桃子は肩を震わせて泣いていた。
「私……ずっと先生のこと、間違った目で見てた」
「え?」
「石川先生、すっごくかわいいから……私、好きで……
先生が私たちと同じ日本人だって思えなくて……」
「……桃ちゃん」
「天使か何かと勘違いしていた。本当は先生だって普通の人なのに
そんなのは違う。先生はただの女の人なんかじゃないって
ずっと……そういう偏った見方をしてた」
涙はぽろぽろと桃子のブラウスに落ちていった。
桃子の涙も言葉も、想いも止まらなかった。
「私……先生みたくなりたい……」
梨華の「女性」を否定して、アイドルのように扱っていた幼稚な自分。
現実に目を向けずに理想ばかり追っていた、みっともない自分。
中学生になってまで、自分は何をしていたのだろう。
そんな想いがわっと出てきて、桃子はとうとう言葉を詰まらせた。
梨華はそっと桃子の肩を抱いて、部屋の中へ導いた。
- 12 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:29
- 桃子は玄関で目を点にした。
「これが……天使の部屋よ。ふふっ、びっくりした?」
「……汚い」
「君ストレートに言うなぁ」
「あ、ごめんなさい」
梨華はくすっと笑うと、たたんでもいない洗濯物の山から
桃子にタオルを投げてよこした。
桃子は可笑しくなって笑ってしまった。
桃子が身体を拭いている間、梨華は誰かと電話をしていた。
「え?今から?……ちょっと、待ってよ。今来客中で……」
あまり穏やかな雰囲気ではなかった。
通話の間、ずっと梨華の表情が重く翳っているのが桃子を不安にさせた。
あの暗い表情は何だろう。相手は誰なのだろう。疑問ばかりが浮かぶ。
通話を終えて梨華が桃子のところに戻ってくる。
「お風呂そっちね。トイレと一緒だから使いにくいかも知れないけど」
「あの……先生忙しいんじゃないですか?」
「ん?今の電話?いいのいいの」
「ひょっとして……彼氏?」
「ははははは。違うわよ!」
梨華はバシっと背中を叩いて桃子をバスルームに送り出した。
- 13 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:29
- 扉越しに梨華が話しかけてきた。
「使い方わかるー?」
「はい、大丈夫ですー」
湯船に中身は入っていなかったので桃子はシャワーだけにした。
雨に濡れた身体が温まってくる。桃子は並べてあったシャンプーを取った。
「……使っちゃって、平気かな」
大きなボトルだからちょっとならいいだろう。
そう考えて桃子は梨華のシャンプーで頭を洗った。
身体を拭き終わって、
表に出ようというときになって桃子は服がなくなっていることに気づいた。
いきなり扉が開いた。
「終わったー?」
「え?ちょっと……きゃあ!」
桃子は慌てて両手で胸を隠す。しかし梨華は頓着せずに入ってきた。
「何恥ずかしがってんの?女同士じゃない。ほら、これ着替えね」
梨華が出て行った後、桃子は扉を勢いよく閉めた。
- 14 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:29
- 梨華から受け取った服を着て桃子は出た。
「あーやっぱりぴったりだ。あの頃の服、捨てられずに置いといたんだよー」
「あの、先生」
「ん?」
「さっきの電話……誰からですか?」
そんなことを聞いては失礼だという気持ちもあった。
しかし桃子は気になって聞いてしまった。
梨華は表情をちょっと曇らせてから
「知りたい?」
と聞いた。桃子は
「知りたいです」
答えた。実際、梨華のことなら何でも知りたいと思っていた。
梨華はちょっと思案してからゆっくりと、桃子に言った。
「あれはね……もう一人の自分なの」
◇
- 15 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:29
- その翌日から、桃子は梨華の様子に微かな変化を感じていた。
これまでは授業中ずっとわめいていた梨華が
ふと窓の外を眺めて黙る、ということが何度かあったのだ。
だから何だということは桃子にはわからなかったが
桃子には、まるで梨華の心に暗い幕が張ってしまったように思えた。
梨華が自分たちには決して見せない心の闇を抱えているように感じられた。
そう感じた理由の一つには、この間の「もう一人の自分」という言葉があった。
あの時、結局梨華は詳しいことを桃子に告げずに話を終えてしまった。
電話の相手は誰だったのか、もう一人の自分とはどういう意味か、
何もかもが謎のままだった。
桃子の精神は穏やかではない。
憧れの梨華の部屋まで行き、彼女の生活が垣間見えたと思ったと同時に
更に深くに横たわる秘密の存在を知ってしまったのだ。
しかもその翌日から、梨華は何かを悩んだ様子で教壇に立っている。
憂慮の表情を浮かべるその横顔にも桃子はドキドキしたが
彼女から笑顔が確実に減っているのを何も感じないほど鈍感ではない。
日を重ねるごとに桃子の表情も暗くなっていった。
桃子はどうにかして、あの時の電話の相手を知りたいと思った。
- 16 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:30
- しかし、梨華との関係はそれ以上何もないままとうとう実習最後の日となった。
梨華にとって決して良いクラスではなかったはずなのに
最後には大粒の涙を流してお礼をいいながら梨華は去った。
その様子にはクラスの皆、不思議の感に打たれていた。
今の涙は何だったのか。
桃子の中に嫌な感じが溜まっていく。
あれは、あの涙の意味は何だろう。
梨華を散々に扱ったクラスとの別れが惜しいということがあるだろうか。
あるいはもっと別の理由があるのか。
桃子は慌てて梨華の後を追って教室を出た。
職員室まで行くと梨華は中にいる。
桃子は梨華が出てくるまでじっと外で隠れて待っていた。
2時間したころ、ようやく梨華は出てきた。桃子はそっと跡をつける。
校舎の外はすでに夕暮れの薄暗い時分になっていた。
校門を出てしばらくすると梨華は人と落ち合ったようだ。
桃子が遠くから様子を眺めて見る。
相手は、やや小柄な女だった。
梨華よりは年下、おそらく高校生であろうことは
彼女が着ているセーラー服から自然と知れた。
黒いスーツの梨華に、白いセーラー姿の女子高生。
姉妹かと桃子は疑った。
しかし
梨華の表情も女子高生の表情も揃って暗い。
2人は並んで梨華のアパートまでとぼとぼと歩いて行った。
- 17 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:30
- 桃子は後ろを歩きながら、あれが電話の相手だろうかと考えた。
彼女と会ってからの梨華の表情には
あの電話の時と共通した翳りが浮かんでいたのだ。
しかし2人は特に似ているというわけではない。
あれが「もう一人の自分」であるなんてことがあるだろうかと
桃子にはそれが分からなかった。
2人はやがて、梨華の部屋へと入っていった。
桃子はゆっくり音を立てぬようにアパートの階段を上り
梨華の部屋の前まで来た。そうしてじっと扉を凝視した。
じっと見ていれば扉から何か部屋の様子が伝わってくるのではないかと
そんなことを考えてじっと睨んでいた。
すると
そこからは嫌な感じしか伝わってこない。
部屋に入る前に、梨華の思いつめた暗い表情を目撃してしまったから
こんな嫌な予感に襲われるだ、と桃子は何とか自分に言い聞かせたが
不安はどんどん大きくなって収まろうとしてくれない。
もう梨華とはお別れなのだ、と扉は告げているように感じられた。
桃子はほとんど泣きそうになりながら小さく
「先生」
と言い、ノブにそっと手をかけた。
- 18 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:30
- 当然ノブは開かない。続けて扉を叩いた。中からは返事がない。
「先生!」
胸に起こる不吉な予感を振り払うように桃子は強く扉を叩いた。
すると、まるでそれに呼応するように中からドシンと音がしたのだ。
桃子は心臓を掴まれたみたいにぎょっとなった。
「先生!先生!!」
しかしそれ以降いくら叩いても、中からは何の返答も得られなかった。
桃子は絶望した表情をして、ほとんど無意識に扉横にある小窓に手をかけた。
するとこちらは鍵がかかっていない。
するすると横に窓が開いた。
「あぁ……」
桃子は思わず顔を覆った。
部屋の中には、前来たときと同じに洗濯物が散らばっていた。
その上に無数の血飛沫が散っていたのである。
桃子は何もできず何も言えず
ただその場にうずくまった。
窓の中では2人が倒れている。
- 19 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:31
- 桃子は窓から小さな身体を滑らせて室内に入った。
黒いスーツを赤く染めた梨華と白いセーラーを赤く染めた女子高生の2人は
仲良く寄り添って横たわっていた。
2人が手を握り合ったまま倒れている。
顔は真っ白で生気がない。
女子高生の方は安らかな顔で眠ったように動かない。
一方、梨華は微かに苦しそうであった。
桃子はその梨華の苦悶を見て取ると、ようやくまともな思考を取り戻した。
「誰か!!誰かー!!」
叫びを聞きつけて大人たちが大勢駆け込んできた。
すぐに誰かが通報をしたようだった。
喧騒と混乱の中、ふと白い紙の束が桃子の目に入った。
散らかった部屋の中で、
石のようなものを重しに乗せたその紙だけが妙に落ち着いていたのだ。
まるで自分だけは居場所が確保されているとでもいうように
白い紙は存在感を放っていた。
桃子は机まで歩いて、その紙束を手に取った。
紙には鉛筆で細かく書かれた文が並んでいた。
その場では中を読まなかったが桃子は
これがとても大きなものである、梨華と女子高生にとって
非常に重い意味を持つものであると直感的に感じた。
桃子はそれを、石と一緒にそっと制服の中に隠すと
アパートを出て遠く駆け出した。
- 20 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:31
- 紙束の最初には「これは遺書ではない」と書かれていた。
その後に続く
「遺書というにはあまりに煩雑で長ったらしい。
そもそも内容が内容なので誰も遺書とは思わないだろう。
読む人にはこれはできの悪い小説にしか見えないと思う。
それでも私たちはこれをここに残すことにした。
これを読んでもらえれば私たちの行為の意味がわかるから。
そう考えると、やはりこれは遺書なのかもしれない。
- 21 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:31
- 私たちの出会いは夏の初めころだった。
朝にしては強い日差しの中、高等女学校へ向かう道を
颯爽と自転車で駆け抜ける姿があった。
始業時間も近かったため、道には女学生の姿があふれている。
そのなかをカラカラと自転車の音をさせて
後頭部を覆う大きな桃色のリボンをなびかせて
人の間をすり抜けていく彼女の姿には道行く誰もが目を奪われただろう。
その自転車が私の脇をさっと抜けて行ったときの印象は
はっきりと私たちの記憶に刻まれている。
あれから時を経た今でも、あれと同じシャンプーの香りを感じるたびに
あの桃色リボンが私たちの脳裏に鮮やかに再現されるほどにはっきりと。
私は思わずうっとりとして彼女の背中を見やった。
日差しを受けてまぶしい、それがきれいだと思った。
そのときだ。彼女のリボンが髪から解けて、はらりはらりと宙を舞った。
彼女の結い流しの髪も解けた。それが風を受けてふわり広がっていく。
しかし彼女は、それに気づかぬまま遠く走っていってしまった。
私は落ちたリボンの元まで、海老茶袴をバサバサいわせて走った。
急いでいかなくては、他の女にリボンを取られてしまうかもしれないと思うと
自然と足は急いた。なぜ、あのときそんな必死だったのか
思えば不思議な話だった。彼女の匂いに取り憑かれたのかも知れない。
私はどうしても彼女のリボンを自分が取らねばならぬと思ったのだ。
私は身をかがめてリボンを手に取った。
桃色と白のストライプが柔らかい印象の大きなリボンだった。
- 22 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:31
- 「あらやだ、お嬢様のリボンだわ」
背後から声がしたので振り返ると、見知らぬ女学生が続けて
「それ、お高いんじゃないかしら」
と言った。私は
「お嬢様?」
と聞く。すると彼女は
「ええ、だってそうじゃありません?
あの自転車。誰でも買えるというものじゃないわ。
だって自転車って200円はしますもの。
あれは間違いなくいい家柄のお嬢様よ」
と、まあ至極当たり前のことを言うのだった。
「貴女、それをどうなさるお積もり?」
「届けます。リボンがなくては困るだろうから」
「そうねー」
彼女はそういうと、私をおいて行ってしまった。
私は「お嬢様か……」とつぶやいて彼女の行ったあとを見ていた。
朝の木漏れ日が世界をくっきりと浮かび上がらせている。
彼女の匂いがまだ、日差しの中に漂っているかのような錯覚を覚えた。
- 23 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:31
- さて、リボンを届けると言っても
広い女学校の中で先ほどのお嬢様を見つける作業は困難であった。
散々あちこちを歩き回っても見つからない。
周囲の人に「自転車のお嬢様いらっしゃいませんか?」と聞いては見るものの
この時代、女学生にとって自転車は流行なもんだから難しい。
お金持ちのお嬢様は皆、自転車で来ているという話だった。
そこで今度は「リボンをしていない女学生を見ませんでした?」と
質問を変えてさらに聞き歩いた。しかし誰も知らぬという。
困った。今時分、リボンをつけずにいて目立たぬというわけがあるだろうか。
しかし結局、彼女が見つからないまま始業時間になってしまった。
昼休みに入って、私はもう一度彼女を探した。
今度は人に聞くのではなく、直感で動いてみることにした。
頭の中に彼女の後ろ姿を匂いを描いて、思いついたところへ行ってみる。
私はそのとき、彼女との間に運命めいたものを予感していたのだ。
すると驚いたことに一撃で彼女を見つけることに成功したのだから
ますますこれは運命と感じるようになった。
彼女は樫の木の下のベンチに腰掛けてうっすらと目を閉じていた。
ベンチで眠ってしまったのだろうか、首が不自然に傾いている。
私はそっと彼女のところまで駆け寄って気がついた。
「……なんだ」
彼女は予備のリボンを着けていたのだ。
今度は鮮やかな黄色のリボンだった。
それが樫の間から漏れ入ってくる日の光によく似合っている。
- 24 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:32
- 私の予想通り、彼女は眠っていたから
私は再びどうしたものかと迷わねばならなかった。
気持ちよさそうに寝ているところを起こしてしまうのも悪いと考えた。
かといってこのままリボンを預かっているわけにもいかない。
ベンチに置いておけば起きたときに気づくだろうか。
私は彼女の傾いた首を眺めながらいろいろと考えを巡らせた。
そうしていろいろ考えるうちに、はてどうして自分が
お嬢様のリボンなど預かったのだろうと詮無い疑問まで浮かんでくる始末だ。
私は自分の手の中にある桃色のリボンをじっと見つめた。
朝見たときは、この人には桃色以外はあり得ぬと思えるくらい似合っていたが
こうしてみると闊達な黄色のリボンも彼女らしい。
不思議な人。
そう思った。
さんざん考えた挙句、私は眠っている彼女の隣に腰掛けた。
彼女はまるで気づかずに眠ったままである。
初夏の風が横から吹いて、彼女の結い流しの髪が私の顔の前に漂うと
そこからさきほどの匂いがほんのり流れてきた。やはり彼女だ。
暑い日のことだったので彼女の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
それでも彼女は心地よさそうにすぅすぅと寝息を立てている。
午後の授業の開始時刻になっても彼女は起きない。
私もじっと座ったまま、彼女の起きるのを待っていた。
待っているうちにぽかぽかの陽気に当てられて
私のまぶたがゆるりと下がり始めたところまで覚えている。
- 25 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:32
- 「あらやだ」
隣で声がしたので目が覚めた。はっとなる。
「私、寝ちゃってた?」
彼女は隣の私の顔を見てちょっと困ったように眉を寄せた。
「あ、はい。気持ちよさそうに」
「あらやだ」
彼女はまた「あらやだ」と言った。
「あら?そのリボン」
「あ、これを朝拾って、届けようとしたんです。そしたら眠っていたので」
「わぁ…ありがとう」
彼女が私の手を包み込むように握ったので、私は一寸どぎまぎしてしまった。
そして聞いてきた。
「私のことを知ってる?」
私は首を横に振って「知りません」と答えた。
「そうよね……」
すると彼女は再び私の手を握って言った。
「田川麗華。あなたは?」
「石中梨奈です」
- 26 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:32
- 私は自己紹介をしながら彼女を正面から眺めた。
気の強そうな吊り気味の目をしていた。
鼻はそこまで高くなかったが、可愛らしく形が整っている。
頬がふっくらと肉付き良いのはやはりいい家のお嬢様なのだろう。
服装は私と同じく、海老茶色の袴。いわゆる海老茶式部だった。
「予備のリボンを持っていたんですね」
「うん。いつも2種類のリボンを持ち歩いているの。変?」
彼女が聞いてきたので、私は正直に答えた。
「あまり、聞かないよね」
すると麗華さんは私の手を離した。
そして自分の膝の前で手を組むと遠い目をしながら言った。
「なんかね……、無性にピンクのリボンをしたくなるのよ。
自分はピンクなんだ。ピンクしかないんだって。
そう思って着けたリボンなのに、しばらくすると冷めてくるのよね。
なんでこんな色のをしているんだろう?子どもじゃあるまいし。みたいな。
ピンクの自分を小馬鹿にしているもう一人の自分がいるみたい。
だから、いつもピンクの他にもう一つ持っているってわけ」
「それって……自分を客観視しているってこと?」
「そう、なのかな?」
私は、麗華は現代人だと思った。自分の内面を見つめるもう一人の自己。
「自我がしっかり育ってるんだ。女性なのに尊敬します」
すると途端に彼女の顔が翳った。そうして言う。
「あなた、本気で言ってる?」
- 27 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:32
- 「え?」
「自我ができてる?全くそんなんじゃないわ。
むしろ正反対。やはりこんな風に感じるのって私だけなの?」
突然調子の変ったことに固まった私に向けて麗華は更にまくし立ててきた。
「自分は生まれつき、複数だったんじゃないか。
そんな感覚に襲われることがある。
自分をかわいいと思う自分がいて、
でも中には自分なんて可愛くないからせめて元気に、と思う自分がいたり。
……子どものときからそうだった。
悪いことをして叱られているのに、
心の中でそれは自分のせいじゃないって感じることがあったり……」
「それは、私にもあったよ。
過去の自分がやったことで、今の自分には関係ないんだって
心の中でいい訳してることがよくある」
私がそう言うと彼女はちょっと安心した風だった。
「あなたも、そうなんだ」
「ええ。最近では、なくなってきたけど」
「最近?」
「ここに通うようになってからは」
すると彼女はもう一度悲しそうな顔をして「そう……」とつぶやく。
そして聞いてきた。
「ねえ梨奈。あなた、自分のことを内省したことある?
自分のことをどう把握している?」
恐ろしいことを聞いてくるものだと思いながらも
私は目を宙に泳がせて答えた。
「負けず嫌い。わがまま。ぶさいく。……長所は、前向きなところ」
- 28 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:33
- 「そんなすらすら答えられるなんて、梨奈の方がよほど近代人じゃない」
そんな風に誉められた経験のなかった私は大いに戸惑ってしまった。
すると今度は、挑戦的な口調でこう言われた。
「きっと、そうやって自分の可能性を限っていくのよね。女は……」
「可能性?」
「ねぇ梨奈。まったく反対だったかも知れない自分を想起したことはない?」
私は意味がわからず黙ってしまう。
「気が弱い。お人好し。ネガティブ。……長所は、可愛いところ」
「そんな風に思ったことは……」
「ない?」
「……あります」
彼女は嬉しそうに声を高くしてはしゃいだ。
「そうよね!そうよね!やはりそうだわ。
女には正反対の自分になる可能性が潜んでいるのよ」
やはり言っていることがわからなかった。
「梨奈」
「はい?」
麗華さんは再び私の手を取ると、先刻の桃色のリボンを私の手に握らせた。
「あげるわ」
「え?」
「梨奈。着けてみて」
- 29 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:33
- 私は自分のリボンを解いて、彼女の桃色リボンをしてみた。
鏡がないのでよくわからなかい。
「どんな風ですか?」
私が聞くと彼女は目をぱちくりさせた。
目を覗けという意味らしい、そのメッセージに気づいた私は、
彼女の目を覗き込んでそこに写った自分の姿を認めた。
といっても人の目では色までわからない。
にも関わらず、私の精神はたちまち不安定になった。
こんなものを着けるなんて自分らしくない、という冷めた気持ちのどこかに
可愛らしいピンク色をつけて踊っている気持ちがあるようだった。
それは子どものころに感じたものと似ていた。
心の中で、過去の自分と今の自分を切り離していい訳していたときと同じ感覚。
桃色のリボンをした私。
自分であって自分ではないような
不思議な気分を催した。
「うん似合う」
「そうですか?」
「今日はこれ以降、そのリボンで過ごしてよね」
「ええ!?」
「せっかくあげたんだから。ね!」
困ったことになったが、結局私は
彼女の強い口調に押される形でリボンを外すことができなかった。
- 30 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:33
-
その日以来、私たちはしばしば会うようになった。
初対面のときは彼女のマイペースぶりに戸惑っていた私だったが
何度か一緒に散歩をするうちに段々と性格がつかめてきた。
2人には共通点が多かった。
お互い手近なものに細工をして可愛くするのが好きだった。
一方で関心のない事柄に対しては極端に大雑把なのも共通していた。
しかし、全く正反対の部分もあった。
面倒見が良い代わりに非常に押しの強い性格の麗華は
わがままなくせに気弱な私とはまるで逆だった。
見事なまでに対照的な2人だった。
偶々そうなったとは思えないくらいだ。
まるで、元々一つであったものを鋸で分割したみたいなのだ。
2人の中の、強気で外交的な部分はすべて麗華に集中し
2人の中の、弱気で引っ込み思案はすべて私の側に偏っていた。
そんな2人だから一緒にいると歯車がぴたりかみ合うように
話が弾むのだった。
- 31 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:33
- ある日のことだった。
その日は学校もなく、私はそこらを散歩するつもりで外へ出た。
往来には人力車が行き交っていた。その中から私を呼ぶ声があった。
「あら、梨奈!何してるの?」
麗華さんの声に振り向くとそこには
見知らぬ男の人を隣に乗せた麗華さんが座っていた。
「お散歩です。麗華は?」
「朝顔市に行くところ。梨奈、暇じゃない?」
「え?暇たけど……」
私が戸惑っていると麗華さんはよいしょ、と車を降りてしまった。
そうして一人残された男性を見て言う。
「ごめんなさい。私は梨奈と一緒に参りますから
貴方は先に行ってらして」
私はびっくりしてしまった。
「れ、麗華!?」
「いいじゃない。向こうでどうせ一緒になるんですからねー」
麗華さんが車夫にその旨を告げると、
車は男を乗せたまま出発してしまった。
麗華は往来でもう一台車を呼ぶと車夫に「入谷まで」と言った。
- 32 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:34
- 2人して車に乗り込む。
座席の高い人力車に乗ると往来がよく見渡せて気持ちが良かった。
「あの人は?」
麗華が席に着くや否や、私はさっそく質問した。
「あれは私の婚約者。帝大の人よ」
「いいの?」
「……」
彼女は私の質問には答えずにただ、難しい顔をするのだった。
車はガラガラと大きな音を立てて動き出した。
鉄輪が石畳を削るように転がる振動が、座っている私たちまで伝わってきた。
「今どき、鉄輪の車も珍しいわね」
「私はこっちが好き。ゴム輪は何か味気ないわ」
座席はコトコトと揺れる。私は麗華の口調の暗いことが気になった。
車は起伏を越え、辺りの景色が閑散とし始めた。これを更に行くと入谷だ。
私は
自分の腕がつかまれていることに、そのとき気がついた。
ぎゅうと強い力で腕を握ってくる。
「麗華?」
私は彼女の顔を見てはっとなった。
唇を小さく振るわせた麗華は、
何かに怯えたように私をじっと見てきた。私はもう一度「麗華?」と聞く。
しかし麗華はそれぎり、また前を向いてじっと俯いてしまった。
「そうよ……鉄よ」
- 33 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:34
- 入谷の朝顔市まで到着すると朝顔の店が所狭しと並んで
それが通りの奥の方まで延々続いていた。
3人で歩いている間、男はずっと日本の話をしていた。
「英国は一番に中国に目をつけていましたからね。
何としても権益を守りたいということでしょう。
我が国の富国強兵なるを頼みに同盟依頼というわけです。
相手は大国、露西亜ですからね。
日本以外にはこの役割を果たすべくもない」
麗華はその話をつまらなそうに、
私の向きからはつまらなそうとしか映らない顔で聞いては
時折、不機嫌に反論する。
「何か、英国にいいように使われているだけではありません?
主権国家としての自我がまるでない」
「ははは、麗華さんのような若い女性からそんな批判がくるとは。
なに、英国は我が国を頼りにしているのです。
義和団を落ち着かせるのも、あそこは我が国に頼りっきりでしたから。
それに自我がないと仰るがそんなことはない。
実際、開化以来、我が国は脱亜入欧。進展の一途をたどっている。
昨年には北九州に大きな製鉄所ができた。
ついに日本は製鉄産業でも自立を果たしたわけです」
男は麗華の意見など風とも感じぬ様子で自分の主張を浴びせてくる。
その横柄さには彼女だけでなく、私も不愉快になった。
私たちも女とはいえ、高等女学校では最新の学問を学んでいるのだ。
この男の理論の脆弱なことは私にも知れた。麗華は尚も強い口調で反論する。
「脱亜入欧なんて、それこそ西欧と一体化したがっているだけだわ。
西欧を尊敬し、西欧の技術を崇め、西欧の精神を神格化して
日本はそれに近づこうと必死になるばかり。自我なんてあったもんじゃない」
- 34 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:34
- 「……」
男は黙ったが彼女の方は収まらなかった。
「自我の話は女の私でも学んでいるわ。
自分の内面と向き合い、自己の主体としての精神を獲得する」
「ええ、ええその通り。客観的に自己を見つめるもう一人の自分を発見する。
理性によって自分の輪郭を把握するのです。
そして統一体としての自我を得る」
麗華は卒然小声になり「もう一人の自分……」とつぶやいた。
「麗華さん、どうしました?」
聞かれると彼女は、なぜかつっかえつっかえに次のようなセリフを吐いた。
「その……もう一人の自分を……見つけると……
……統一体になるの?……どうして?
主体として見つめる自己。客体として見られる自己。
2人に分裂しているわ。それがどうして統一されて自我になるの?」
「麗華さん……やはり女性には難しい話でした。落ち着いて……」
「私は落ち着いています!きちんと説明してください!」
男は大きくため息をついて「いいですか?」と言った。
「自我というのは自分と向き合うだけではない。
世界と対峙する誇り高い存在だ。
自分と向き合うとは、つまり思索に耽ったりしている状態。
すなわち精神活動です。ここでは自己は見つめられる対象、客体となる。
一方、世界と向き合うとは、つまり働きかけをしていること。
すなわち実践活動です。ここでは自己は世界に向かう主体となる。
その両方のあり方を統一するものが自我、すなわち自己意識だ」
- 35 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:34
- 私たちが出店を通過する度に朝顔売りの声がかかった。
しかし2人は議論に夢中で通り過ぎている。
「なぜですか?」
「麗華さん……」
鉢植えの朝顔は蔓を巻き、そのあちらこちらから顔を出していた。
「それらを統一する必要がどうしてあります?」
「統一しなければ主体にならない」
花は
一つの蔓に、複数の顔を持っていた。
麗華さんは重ねて問う。
「なぜ主体を得る必要があります?」
「主体のない人間はおよそまともな男児とは言えません。
気分に流されているだけの存在なんて西欧世界じゃ通用しません」
「西欧世界?」
「そうです。西欧の男達はとっくに自己主張のできる存在になっています」
話がそこまで来たとき、彼女は急に腹に何かを込めたような
重苦しい調子に変って言った。
「欧化するために主体を得る……。
貴方の論理は矛盾しているわ」
- 36 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:34
- 帰りはゴム輪の人力車だった。
麗華と男は気まずい空気のまま
結局、私と麗華さんの2人で車に乗って帰っている。
「さっき……あの人、八幡製鉄所の話をしてたかしら?」
隣の麗華が疲れきった様子でそう言った。
私は何と答えてよいかわからず黙っていた。
「梨奈……鉄はどうやって作るか知ってる?」
「鉄鉱石を溶かして……」
「そう、いくつもの鉄鉱石を溶かして延ばして形を作るの。
そうやって建築資材ができ、造船ができる」
「……」
「どこからどこまでが……一つの石なのかしら?」
私は相変わらず何と答えてよいかわからない。
ただ、ころころと流れる夕闇の景色に目をやるばかりだった。
「行動する主体としての自分。自己を客観視するもう一人の自分。
…………一体……どこからどこまでが……」
先ほど鉄輪の車に乗ったためか、今は妙にふわふわとして
自分のお尻の感覚がいかにも不確かだった。
夕暮れで視界が効かない。彼女の声だけが妙に存在感を持って
私の頭に響いてきた。
「ピンクのリボンをする私。それを気持ち悪いとからかう私」
麗華さんの声は鳴り止まず、独り言のように続いた。
- 37 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:34
- 「かわいくなりたい。元気でいたい。
面倒を見てやりたい。甘えたい……」
そこでふと間が空いた。不審に思って私が見ると
彼女の方も私を見ていた。
「そうよ……」
彼女の声は何かに気づいた風に活力を帯び始めていた。
「両方が本当なんだ……」
そこで麗華は私の手をすごい強い力で握ってきた。
痛みは感じなかったが、熱くなった。
「どうして現在に至るまで誰も気づかないのかしら……」
彼女が身を私の方にあずけてきた。車がぎしと片寄る。
暗い夜道。
すぐ近く。
髪の匂い。
麗華の息。
「自分の中にいる2人を、どうして誰も見ようとしないの?」
突然ではなかった。むしろ予感があった。
しかし、
- 38 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:35
- 唇がくっついて、2人の鼻先が擦りあわされる。
身体がかあっと熱くなった。
心が、身体が……何かと何かが私の中でぶつかり合って摩擦熱を生む。
精神の奥底から、自分の知らない自分が立ち上がったような……
違う。
彼女の湿った唇から、彼女の存在が流れてくるような……
違う。
どちらも違う。
どちらも……
両方が本当なんだ。
「なんてことするんですか!!」
「……梨奈」
混乱した私は麗華さんを押しのけていた。
全身で汗をかいていた。
自分の筋肉が緊張に小刻みに震えるのがわかった。
麗華は珍しく慌てた顔をしていた。
「降ります!」
「梨奈……ごめんなさい。私……」
「降ろして!!」
- 39 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:35
- 私たちの喧嘩を聞きつけた車夫が歩みを止めて振り返った隙に
私は車を飛び降りて駆け出していた。
「梨奈!待って!!」
「知らない!来ないで!!」
私は甲高いヒステリックな声で叫んでいた。
こんな自分がいたのかと驚きながら。
違う。この自分は違う。
さっきの口づけで呼びおこされた自分なんだと思った。
車が行ってしまうと私はただ涙するばかりだった。
「うっ……ひっく……」
横隔膜の痙攣する滑稽な動きが情けない。
でも
涙は止まらない。
女である麗華にあんなことをされて嫌悪したわけではなかった。
嫌悪したとすれば、あんなことを受けた自分に対してであったかも知れない。
それよりも私は恐怖していた。
私にとって大きな存在だった麗華が迫ってきたことで
自分の中の自分という自分が自分から流れ出してしまうのではないかと
そんな妄想に駆られて
私は恐怖していたのだ。
- 40 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:35
-
それからずっと麗華とは顔を合わせなかった。
気まずくてとても話しかけられなかった。
そのうち私は季節にあわず、
発熱と咳を患ってしまい外出できなくなってしまった。
これで学校に行かずにすむ、麗華と会わずにすむと思っていた。
布団の上で何日も過ごした。
そんなうちに
私に悲しいことが知らされた。
最初は咳ばかりの風邪と思い込んでいた。
しかし一週間しても咳は収まらず、症状は悪化するばかりである。
医者を呼んで見てもらうことになった。
医者の言葉を聞いている私には恐怖も絶望もなく
ただ自分の感情が硬直して反応しなくなったのだけを嫌に覚えている。
夏の盛りの陽気な日
結核を発症していると分かった。
- 41 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:35
-
私の身体は離れに移された。
孤独。
感染の恐れがあるため看病人も最小限しか置けない。
本を読もうにも身を起こせば咳ばかりで落ち着いて読書もできなかった。
それに、
もう勉学を積んだところで結核の身ではどうにもならないという諦めもあった。
することのなくなった私はただ
窓から見える枝の葉が揺れるのを見て過ごした。
日にちを数えるのも面倒だ。
第一、外出しないのだから日付も曜日も私には関係がない。
少し肌寒くなったのだけはわかったので看病人に訴えると
火桶を持ってきてくれた。
窓の外の葉が色をつけ始めると
私はその葉がいつ落ちるかを想像して過ごした。
葉の落ちる瞬間を何としても目撃しようと
ひねもす、じぃっと窓を見つめていた。
- 42 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:35
-
そんな時節、
麗華が私を見舞いに訪れてきた。
人恋しさが募っていたのだろう
私は以前の気まずさをすっかり忘れて涙を流していた。
「梨奈……ごめんなさい。
病気の知らせが届かなくて……心配はしていたけど
こんなことになっていたなんて」
「……麗華……うつっちゃう……」
「大丈夫。気にしなくていい」
彼女は私のそばまで来て正座をした。
そうして「見舞いを持ってきたわ」と言って
布団の中に手を入れた。
そうして私の手になにか硬い塊を握らせた。
「これは何?」
「これは、鉄鉱石よ。北九州産の鉄鉱石」
北九州産、と彼女はおどけて言うのがおかしかった。
「これを枕に置いておきな」
「?」
なんのお守りかわからなかった。
それでも、彼女が来てくれたことを思い出せるからと
枕元に置いてもらうことにした。
- 43 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:36
- 去り際、彼女は私に「実はね……」と言った。
私が黙って彼女の背中を見ていると、彼女の言葉が続いた。
「私……結婚することになった」
その声は冷たかった。熱がまるで感じられない。
彼女の方でわざと、感情を押し殺した言い方をしているのは明らかだ。
しかし、彼女の冷えた理由のわからぬ私には
決まりきった挨拶しかできなかった。
「おめでとう」
「別に……」
彼女は肩を震わせていた。
「めでたいことなんてない」
彼女がそういうのにも、私は決まったようなことしか言えない。
「でも……帝大の人なら生活は安定するわ」
「そんなもの……」
私はそのときになって、自分がショックを受けていることに気づいた。
あんな、
彼女を女としてしか見れないだけの男と一緒になる麗華の気分を思うと
とてもおめでとうなんて言えたはずがなかったのだ。
「ごめんなさい。もう行くわ……」
麗華は結局一度も私を振り向かぬまま、部屋を出て行った。
- 44 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:36
-
それからしばらく経った。
窓から見える葉は橙に色づいた。
紅にならないのを残念がっていた私だったが
その後、嫌というほど赤を見せ付けられることになった。
結核で肺を傷めて咳の中に血が混じるようになったのだ。
咳で布団を赤く染める度に
咽て涙ながらに私は鉄鉱石を手に取った。
そしてしばらくすると気分だけは落ち着くのだった。
涙が止まってからはぐっと鉄鉱石を握り締め
この苦しみの終わる日をじっと待った。
苦しみの終わる日。
それがどんな日なのか、わかっている。
せめて葉の落ちる日までと言い聞かせて
私は鉄鉱石を置いて横になるのだった。
- 45 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:36
-
もういよいよという時節に私の元に手紙が届いた。
麗華からだった。
いよいよ結婚することになるからその前に会いたい。2日後に会いに来る。
そう書いてあった。
私は看病人に頼んで断りを書いてもらった。
もう人と会える状態ではないのだ。
その日が来た。
断りを入れたから来ないだろうと思ったのだが
私は変に落ち着かなかった。
私は彼女からもらった桃色リボンを持ってきてもらった。
病人姿にリボンなど似合うはずもないが
麗華が来るなら桃色リボンで出迎えたいと思った。
リボンをすると
久しぶりに精神が動くのを感じた。
それは以前、元気だったときとは違った動きで
海流のうねりのようにゆっくりと心が攪拌される。
そしてじっと布団の上で身を起こして待っていた。
葉はいよいよ落ちそうに風の中でくるくるくるくる待っていた。
- 46 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:36
- 彼女はやってきた。
感染するといけないと家の者が止めるのも聞かずに
私の居室までやってきて私に笑顔を見せてくれた。
「れいっ……」
私は麗華の名を呼びたかった。
しかし咳き込んでしまいどうしても最後まで呼べない。
彼女は私の側までよって私を抱きかかえた。
「大丈夫。私はあなたと一緒にいるからね」
麗華の肩に顎を乗せた格好で
私は顔を歪めてげほっげほっと咳き込んでしまった。
喀血が衣服に付着して汚れてしまったが
麗華は私を離そうとしない。
彼女は泣いていただろうか。
私の視界に
葉が無くなって寂しくなった枝が映った。
- 47 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:36
- 「梨奈……あなたとずっと一緒にいたい」
震える声でそう言う。
髪の匂いが私を優しく包み込んだ。
そうして
2度目の口づけをしてきた。
私は、目を閉じてそれを受けた。
麗華さんは長く長く唇を重ねている。
喉がむずくのを感じたので、
私は慌てて手を押して彼女の身体を引き離そうとする。
しかし彼女はそれ以上の力で私を離さない。
私は彼女の口の中に喀血した。
唇が離れる。
彼女はうっとりとした目をして悦んでいた。
その満足そうな表情を見て私ははっとさせられた。
彼女が今日ここに来た本当の意図を知った。
そして
私はわんわんと泣き出した。
- 48 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:37
- 「どうして?」
「梨奈……」
「どうして私と死のうとするの!?」
頭の中は真っ白になった。
咳き込みながら泣き喚く私を
彼女が優しく抱きしめて背中をさすってくれた。
「それでいいの……それで……」
柔らかい囁きを耳元で繰り返してくれた。
「同時に行きましょう」
「……どうして…………」
「同時に投げ込まれて
溶けて混ざるの。
私とあなたはそうなるべきなのよ」
私の叫びは一層甲高く、
感情はとても抑えられない。
彼女の体温は私を芯まで温めている。
私は
私たちは
生まれてはじめて
孤独から解放された気がする。
- 49 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:37
-
落ちた葉は土に混じって見えなくなった。
葉はいつかまた生命の一部となり
孤独を忘れ安らぐのかも知れない。
彼女は剃刀を持参していたらしかった。
それを包みから取り出す間も
片方の手はじっと私を抱えていた。
「ご…めん……なさい」
「ん?」
「私のために……」
「いいのよ。同時に行きたいの」
「……れいか」
抱きしめる力が強くなった。
「ずっとわかってた。
あなたに会ったときから決まっていた。
私たちは……そう決まっていたのよ」
私は力いっぱい彼女の肩の服を握り締めた。
そしてかすれ、震える声を必死に絞り出してありがとう、ありがとう、と
同じ言葉を2度、その耳に届けた。
- 50 名前:製鉄のやうに 投稿日:2005/10/29(土) 20:37
-
製鉄のやうに −完−
- 51 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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