30 さようならを言うまえに
- 1 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:12
-
30 さようならを言うまえに
- 2 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:13
- だからイヤだったんだと、誰かがつぶやいた。だからこんなことしたくなかっ
たんだ、と。
それが亀井の耳に反感をもよおさせて届いたのは、こんな状況でそんなことを
言っても仕方がなく、棘のある声色が、誰かに責任を押しつけようとしているよ
うに感じたからである。
「絶対、こんなことになると思ったもん」
声の主はれいなだった。そのことに小さなショックを覚える。確かに彼女はロ
ケバスの中で、やだやだと口にしていた。しかしそれは、はしゃぎ声に近いもの
ではなかっただろうか。
亀井は、隣にいるはずの道重に腕を伸ばした。動作に気がつき、彼女は存在を
強く示すように、手のひらを両手で包み込んでくれた。何しろ辺りは、メンバー
の数を確認できないほどに暗い。そういう場所を選んだのだから、当たり前の話
ではあるのだけれど、本当の闇だ。
「どうなっちゃうんだろう……わたしたち」
そんな道重の不安に答えたのは、亀井ではない。
「とーぜん、全員無事に脱出でしょう。とーぜん」
ふざけてでもいるように、「当然」を間延びした調子で二度も口にしたのは藤
本だ。鼻にかかる、どこかバカにしたような話し方が、こんな状況下ではとても
頼もしい。
「というか、犯人も捕まえるよ。美貴、こういう卑怯なマネするやつが一番キラ
イなんだよね。ホント、絶対に許さないから」
「まあ、それはともかく」
後ろから吉澤の声がした。それで亀井は彼女が近くにいたんだと気がついた。
「どうにかして逃げ出さないとね。うん、大丈夫。守ってみせるから」
その言葉にほんの少し、気持ちが軽くなりながらも、やはり亀井の心には鈍い
不安が貼りついたままだった。粘液のように、内側に跡を残しながら不快にずり
落ちる不安。胸のうちに反芻するのは、道重の疑問の方だった。
どうなっちゃうんだろう、わたしたち。
- 3 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:13
- ∞ ∞ ∞
ここ最近になく壮大なロケ。娘。全員にその説明がなされたのは、実施の前日
の朝だった。スケジュール管理は当然事務所の仕事で、タレントが常にそれを頭
に入れておく必要はない。巡ってきた役割を黙々とこなすことが一番効率のいい
方法であることは、自動車工場のベルトコンベアーで証明済みで、全体を知らな
くても車は完成する。
だからむしろ、少し異例な面があったくらいである。
丁寧だった。いつもは夜に仕事が終わった後、次の日の集合時間とともに内容
を告げられるのだが、わざわざこうして集合をかけて発表がされた。それは小さ
な違和ではあったけれど、大きな意味を持っているよりは全然マシとも言える。
こういう場で、ろくな発表があったためしがない。
矢口の脱退が伝えられた時も、そうだ。ここへ集められた。もっと最近に集合
をかけられた時も、やっぱり胸が悪くなるような事柄でだった。それが念頭にあ
る亀井にとって、むしろ胸をなで下ろす発表になった。
普段あまり立ちよらない勤務地。そこで知らされたのは、ただひとえに規模の
大きさによるという。ハロモニは近頃、ロケづいていた。その先にあったものが、
娘。全員参加の肝試し大会。広い公園を借りきって、これから始まる夏に一時間
をフルに使い、放送するそうだ。力の込めようが窺える。
聞くやいなや、この手のものが苦手な娘が不満の音を上げた。しかしそれで決
定が覆るとは、誰も思っていない。作業に近かった。お決まりの反応には事務所
側も気に留めることなく、話を終え、それぞれの仕事へと戻るのだった。せっか
く朝一番にメンバーが集まっても、向かう先は一つではない。いくつかのグルー
プに分けられ、車で移動。散り散りになる。
しかしこの時、ことはすでに動き始めていたのだ。
- 4 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:14
- ∞ ∞ ∞
全員で歩いては映像的にも番組構成的にも面白くないので、二チームに分かれ
ることになった。もっとも、すぐにそれは意味のないものになったのだけれど。
亀井は後発隊に振り分けられた。午後七時三十分。ようやく辺りが暗くなり始
めたのを確認して、前の組を見送った。リーダー的ポジションに据えられた藤本
の声がかすかに上ずっていたのを、見送り組はみんなして笑う。それから期待し
て耳をすましていたけれど、彼女の悲鳴らしきものが聞こえてこなかった。その
ことを冗談まじりに残念がった。
出発前の心境のコメントを撮り終え、十分後にスタートした時、吉澤は目に見
えて嬉々としていた。彼女はテンションを上げている場合と、上がってしまって
いる場合との違いが分かりやすい。今回は明らかに後者だった。経験則で察する
に、どうやら小学生男子と同じようなものを喜ぶ傾向にある。とはいえ、それに
引きずられるように、亀井の胸も高鳴った。恐怖感と混ぜこぜになった興奮が、
背中から冷たくせり上がってくるのを感じた。
恐る恐る足を踏み入れた第一の関門は、迷路のようになっていた。曲がりくね
り、角に何があるか分からない仕組み。
突然煙が噴き出してくる時もあれば、鏡になっている時もあった。自分の姿に
声を上げて驚いている集団は滑稽で、自然とそこかしこから笑いがこぼれた。し
かし、それはすぐに叫び声に変わる。油断をついて、鏡が忍者屋敷の要領で反転。
中から特殊メイクを施された怪物が飛び出してきたのだ。
幸先がいい。素晴しいロケになりそうだと、現場にそんな空気が流れた矢先で
ある。
- 5 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:15
- 迷路を抜けた地点に、先発の集団がたまっていた。そこは広場になっていたが、
合流するのはゴールでのはずだった。
「あれ、どうしたの?」
状況を察知していない様子で吉澤は、まだ弾みを残している。冷や水を浴びせ
るような、藤本の声と、それは対称的だった。
「どうしたもこうしたもないよ。気づかない?」
言いながら、彼女は自分のグループを振り返った。一様に暗い顔をしている。
「そんなに怖かった? 確かに人が出てくるのは驚いたけどさ。あれだよね、変
な仕掛けなんかより、人間の動きのほうがよっぽど……」
「よっちゃん」
「ミキティもお化けとか苦手だっけ。見かけによらないよねぇ」
「よっちゃんってば」
「……何?」
「そっちの班の、愛ちゃんどうした?」
吉澤だけでなく、全員がその言葉に振り返る。そのまま顔を左右に揺らすのが
決められた行動のようだった。その確認作業を終えると、みんなが疑問符を頭の
上に浮かべているのが、亀井にも分かった。
胸中を代弁するように、吉澤が口を開いた。
「いないね。はぐれっちゃったのかな? それにしてもミキティ、よく気づいた
ね」
「わたしだけじゃない。こっちはよっちゃんたちが見えた瞬間、みんな分かった
よ。だって、まずそれを思ったんだから」
続いた藤本の声は、夜の静寂にやけに響いた。
「こっちもそうなんだ。麻琴、どっかに消えちゃったんだ」
- 6 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:16
- ∞ ∞ ∞
スタッフの申し出を断ち切ったのは藤本だった。娘。はその場で待機すべきだ
と言われた途端、火がついたように怒った。人探しくらい、できる。辺りが暗く
て範囲が途方もなく広い以上、捜索する人数は多いほうがいい。そう主張したの
である。子供扱いされることに、彼女は人一倍敏感なのだ。
なだめるように話し合いがなされ、二人一組、それが条件になった。割り切れ
ずに三人組が一つできたが、亀井は自然と道重を探し、目が合った彼女も同じ様
子だったので、彼女たちはそれで一対でいられた。吉澤と藤本と田中は右方向、
新垣と紺野は左方向へと散る。なので何となく、二人は中央を進むことになった。
奇妙な光景が広がっていた。お化け役の人まで総出となり、そこら辺をウロウ
ロとしている。突然出会ったらパニックに陥っちゃうだろうね、と亀井は道重に
笑いかけるが、彼女はそんな余裕がないようだった。
「どうした? さゆ、怖いの?」
亀井の問いにハッとなった道重は、小刻みにうなずく。
「うん、そうなんだよね。怖いの。怖いんだ。いろんなこと想像しちゃってさ。
ほら、暗いし、お化けの人もいっぱい歩いてるからさぁ」
「それ、さっきわたしが言ったんだけど」
「あれ、そうだっけ? ちょっと怖くて聞いてなかった」
急に早口になった道重にとまどいながら、亀井は眉根をよせた。
「怖いねって話を怖くて聞いてなかったの?」
「あはは、そう考えると、何だか変な話だね。絵里は怖くない?」
「あっ」
「どうした?」
「さゆが怖い怖いって言うから、怖いこと忘れてた」
「……絵里だって変じゃん」
- 7 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:18
- 会話が妙なフィーリングを共有し合う談笑に変化して、次第に周りに人の影が
なくなった。アスファルトだった地面はいつしか土に変わり、背の高い植物で見
晴らしがよくない。そのことに気づいた亀井は、いなくなったはずの恐怖が忍び
よって来たのを感じて、こんな提案をした。
「そろそろ戻らない? これ以上進むと、道、分からなくなっちゃうかもだし」
怖いという言葉は口にしなかった。増幅される気がする。当然道重もそれに気
づいているはずだし、問題なく賛成が返ってくると思った。
「もうちょっとだけ、進もうよ」
しかし、道重は硬い顔をしながらもそう言う。
「ええー、ここから先怖いよぉ。暗いし、静かだしぃ」
「でももしかしたら、高橋さんとか小川さん、一人でそんなところで震えてるか
も」
わざわざ亀井が発した恐怖の言葉も効果がない。道重は亀井の手を取り、一歩
一歩確かめるように足を踏み出す。その動きの重々しさに決意のほどがうかがえ
た。こういう場面で道重が主張するのはめずらしいことだった。
どのくらい奥へ進んだだろう。風に草木が揺れるだけで震え上がるような二人
だ。踏んづけてしまった乾いた枝の音や、耳元を虫が通り抜ける羽音でパニック
になる。もっと直接的なものを目にしたらどうなるか。それを二人は身をもって
知った。
絶句。草むらの向こうに誰かがいることを察知した瞬間、身体を寄せ合い、生
命活動を止めるように黙り込んだ。
- 8 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:18
- 貸切になっている以上、関係者であるはずだということは、ちょっとしてから
考えがいった。そんな理性的な理由からではなく、はい出て来て、キョロキョロ
としているシルエットがあからさまに紺野だということ。それに安堵の息を吐く
結果となった。
「こ、ん、の、さーん!」
「うわぁ、何!? 驚いたなぁ、もう」
逆に驚愕の様相で青白い顔をしたのは、紺野だ。
亀井は泣きそうになりながら彼女に抱きつく。道重も同様である。紺野は大声
を出されたり抱きつかれたりで散々な目に会っているのだが、根がおっとりとし
ていて雰囲気を感じ取ることのできる彼女は、二人の背中をよしよしと叩いた。
「こっちだって怖いんだからね、全く」
「ごめんなさーい」
素直に謝りながら、亀井はあることに気がつく。
「あれ、新垣さんは一緒じゃないんですか?」
本当だ、と道重も顔を上げ、キョロキョロとツインテールを振り回した。確認
するまでもなく、辺りには何もなかった。静寂の他には三人の会話と衣擦れと呼
吸音しかない。
「うん、それなんだよね……」
「もしかして」
亀井の疑問を汲み取り、紺野は首を横に振った。
「いなくなったっていうほどじゃないとは思う。本当、今さっきはぐれたことに
気がついたばっかりだから。この辺にいるはずで、探してたら……」
「わたしたちに抱きつかれた?」
「大正解」
わざと皮肉たっぷりの紺野の語調に、その時はまだ、どこかゆるんだ空気が流
れていた。ジェットコースターの順番を待っているような、安全の中のスリルに、
気持ちが弾むような雰囲気があった。
- 9 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:19
- それが一変したのは、三人が歩き始めて、開けた場所に出た時だった。その先、
三十メートルくらいのところに新垣はたたずんでいた。呼びかけると彼女もこち
らに気づき、恐らくは手を振ろうと右腕を持ち上げた瞬間。
何かが走った。横にある草むらから、人影が飛び出し、彼女をはがい締めの形
で捕らえた。
あっ、と誰かが息を飲む声がした。
影はまさしく影ぼうしそのもののようで、体型の隠れるようなマントのような
ものを身にまとい、そして、銀行強盗がするようなマスクをしている。それがと
ても丹念に、人間味を排除しているようだった。
そのまま反対側の草むらに消えた二人を、顔を見合わせた道重と紺野が追う。
亀井はと言えば、声を上げることしかできなかった。恐怖の感情しか出てこない。
しばらくして首を横に振りながら、泣きそうな顔をした二人が戻ってきてからも
ずっと、ガタガタと震えていた。
何かが起こっている。それだけが理解できる全てだった。
彼女が落ち着きを取り戻したのは、近くにいたらしい、悲鳴を聞きつけたメン
バーが集まってきてからだった。見知った先輩の顔を見て、ほんの少し、安心し
た。状況を説明できる程度には、心の揺らぎが収まった。
- 10 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:19
- 「……やっぱりそっか」
それに対する吉澤の反応は意外なものだった。藤本とうなずき合う。田中はた
だ、不安そうな表情をしていた。しかしどこか、亀井たちとは違った種類の恐怖。
そんなふうに見えた。
第一声を口にして言葉をつまらせた吉澤の後を、藤本が引き取った。
「ウチら、スタッフさんたちが話し合ってるところに遭遇したんだよね。やっぱ
りおかしい、それしか考えられないって」
「どういうことですか?」
亀井が震える声で尋ねる。
「うん、亀ちゃんも覚えてることだと思うんだけど、ほら、あの事件」
「事件? ちょっと話が見えないんですけど……」
藤本は吉澤の方をチラッと窺い見た。それに反応して、吉澤は伏目がちになっ
た。ため息のような声色が、そこからこぼれ出た。
「あたしも関係しちゃってることなんだけどね……」
- 11 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:19
- ∞ ∞ ∞
矢口の脱退が告げられてから、そう時間が経っていなかった。メンバーは再び
事務所に集められた。大きな意味を持った、ろくでもない方の話だった。
ワッチ。それはそう呼ばれるものがこの世の中には存在することを、娘。の誰
もが、初めて知った日になった。ワイヤレスマイクは音を電波としてミキサーへ
飛ばす。つまり、その周波数が合えば、誰でもそれをキャッチすることができて
しまうのだ。
それがワッチというものだという。
会場に流すかどうかはミキサーの手元で切り替えられる。それに油断してピン
マイクのスイッチをオンのままにしていた石川が、ミュージカル中、楽屋での吉
澤との会話を拾われてしまったのである。さらに悪いことに、それはネット上に
公開され、その世界でまたたく間に広がりをみせた。
その話を聞いているあいだ、吉澤のただでさえ白い肌は、蒼白だった。血の気
が引く。その言葉が単なる比喩でないことを証明していた。彼女だけではない。
みんながみんな、同じ心境でその場に黙り込んだ。この仕事をしている限り、い
つ自分に降りかかってもおかしくないミス。そして、それを許さない欲望にまみ
れた舌なめずり。不安気に視線を壁に走らせる娘もいた。話を聞いてる間にも得
体の知れない何か監視の下にいる気がしたのだろう。彼女はきっと、見つけよう
としていたのだ。生活に入り込んでくる、目や耳の形をした何かを。
- 12 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:20
- ∞ ∞ ∞
「こんなにピンポイントで、人がいなくなるのはおかしいって」
吉澤はわざと感情を押し殺したような口調である。暗闇でうかがうことはでき
なくとも、顔も無表情を装っていることだろう。亀井は思った。責任を感じてい
る時、彼女は何故かそんなふうになる。
「結局さぁ」藤本はそんな彼女を気づかってか、こともなげに言った。「あの事
件でウチらもワッチっていうのを知ったけどさ、他の多くの人もそうだったって
ことだろうねぇ」
田中がブルリと身体を震わせた。続く言葉を恐れているようだった。藤本はイ
タズラな目つきでその様子を小さく笑い、それから、口にした。
「これだけ広いと出入り口だけ封鎖しても意味ないし、ロケの場所さえ知れちゃ
えば――それすらそうやって得たのかもしれないけど――それを使って、ウチら
を一人ずつさらうのも簡単、って考えるやつが現れたって、ちっともおかしくな
いってわけ」
亀井は自分の胸に手を当てた。ぶつかるものがある。このぶつかったノイズさ
え、人知れず聞き耳を立て、機会を窺っている者がいる。島に閉じ込められて殺
し合いをさせられる映画を、連想した。あそこでは首輪だった。爆発物の備えら
れている首輪。ピンマイクがそれに思えた。
- 13 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:20
- 「じゃあ、こんなの……」
亀井がオフにしようとすると、藤本はそれを上から手招きするように制した。
「切っちゃうと、問題が一つあるんだな、これが」
「だって……だって、会話で場所を知られちゃいますよ?」
「むしろ、知らせないといけない」
「えっ!?」
藤本はイタズラが見つかった子供の照れるような仕草で頭をかく。
「あの時はこんなことになるとは思わなかったから、って深く考えずに物を言っ
ちゃった美貴のせいなんだけどさ、スタッフさんともはぐれちゃったでしょ?
そこで迎えに来てもらう唯一の連絡方法が、今のところ、これってわけ。一方通
行の業務連絡じょーたい」
ロケの最中に携帯を持っている映り手はいない。ミキサーの存在。つまり、音
を勝手に拾っている誰かと同様に、スタッフにも状況は伝わっている。しかし向
こうからこっちへの連絡はつかない。合流する方法は、見つけてもらうしかない
のだ。今、服にぶら下がっている小さな物体は、危険へと誘う糸でありながら、
救いの道しるべでもある。亀井も含めた全員が、広すぎる園内に帰り道も分から
なくなっていた。
似たような風景。夜の闇。初めて訪れた場所。犯人にとって好条件、娘。にと
っては、これほどにないほどの悪条件が揃っている。
- 14 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:21
- だからイヤだったんだと、誰かがつぶやいた。だからこんなことしたくなかっ
たんだ、と。
それが亀井の耳に反感をもよおさせて届いたのは、こんな状況でそんなことを
言っても仕方がなく、棘のある声色が、誰かに責任を押しつけようとしているよ
うに感じたからである。
「絶対、こんなことになると思ったもん」
声の主はれいなだった。そのことに小さなショックを覚える。確かに彼女はロ
ケバスの中で、やだやだと口にしていた。しかしそれは、はしゃぎ声に近いもの
ではなかっただろうか。
亀井は、隣にいるはずの道重に腕を伸ばした。動作に気がつき、彼女は存在を
強く示すように、手のひらを両手で包み込んでくれた。何しろ辺りは、メンバー
の数を確認できないほどに暗い。そういう場所を選んだのだから、当たり前の話
ではあるのだけれど、本当の闇だ。
「どうなっちゃうんだろう……わたしたち」
そんな道重の不安に答えたのは、亀井ではない。
「とーぜん、全員無事に脱出でしょう。とーぜん」
ふざけてでもいるように、「当然」を間延びした調子で二度も口にしたのは藤
本だ。鼻にかかる、どこかバカにしたような話し方が、こんな状況下ではとても
頼もしい。
「というか、犯人も捕まえるよ。美貴、こういう卑怯なマネするやつが一番キラ
イなんだよね。ホント、絶対に許さないから」
「まあ、それはともかく」
後ろから吉澤の声がした。それで亀井は彼女が近くにいたんだと気がついた。
「どうにかして逃げ出さないとね。うん、大丈夫。守ってみせるから」
- 15 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:22
- 動かないでいることに不安があった。なるべく見渡しがよくて、すぐに分かる
目印がある場所。そこを求めて、歩き始めた。原則は現在地を特定されてはいけ
ないだけなのに、口がすべるのを恐れてか、終始無言が続いた。急に誰かが飛び
出してくるかもしれない。圧迫感は、並大抵のものではなくなっていた。
しばらく再び細くなった砂利道を進むと、腰の高さくらいの看板が、生い茂っ
た雑草に隠れる形であった。ならんだ男女のマーク。矢印は右に伸びている。
「あの、おトイレ、行きたいんですけど……」
こんな場面であるからか、道重は消え入りそうな声で言った。久しぶりの会話
だった。
「うーん、ガマンできない?」
吉澤の問いかけに、彼女は申し訳なさそうにコクリとうなずく。
「えぇー、そんなところ、一番危ない! 絶対つき合わないからね!」
田中は身震いをして、わざと高い声を出しているようだった。耳を刺激する、
ある種攻撃的な鋭さ。不満を漏らしてから、彼女はずっとこの調子だった。態度
が鋭角になっていた。
そんなれいなを、まぁまぁ、となだめ、吉澤は道重に向き直った。
「ちょっと距離がありそうだね。かといって一人での行動は絶対ダメだから、誰
か付いていってもらわないと。あたしでもいいけど、どうする?」
「じゃあ、あの」道重はそれは忍びない、というふうに亀井を見た。「絵里、お
願いできるかな?」
道重が言い出してから、こうなることは予測がついていた。亀井は決意を意識
に沁み込ませるように、たどたどしいながらも、うなずいた。
- 16 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:22
- ∞ ∞ ∞
風を切るようなスピードで、緑の中を颯爽と歩く少女がいた。
彼女は何日か前、この公園に下調べに来ていたのだった。だからこうして、暗
闇の中でも庭のように自由に動くことができる。目指すべき場所を念頭において、
そこへほぼ直線的に進んだ。
自然にできた。バレる心配はまずない。そういう状況下を慎重に選んだのだか
ら。うまくいっていれば、自分も何者かに連れ去られたと思われているはずだ。
少女はその想像に笑いそうになった。愉快だった。そんなわけないのに。むしろ、
それどころか……。
目的地の小屋の木戸は、見た目と違い、力を入れずともすべるように開いた。役
目を終えた。そんな安堵感から彼女は、思わず大きく息を吐いた。反動で吸い込ん
だ酸素には、自然的と言えなくもない木々の香りが混ざっていた。それが眼前の光
景と妙にミスマッチで、小さな違和感を運んでくる。
数人の仲間がニヤリとした視線を送ってくる。その中で小川、高橋、新垣がイス
に座らされているのを目にして、彼女、田中れいなは笑いながら言葉を吐き出した。
「うまくいってるみたいだね」
共犯者たちは、静かに笑みを浮かべる。
- 17 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:23
- ∞ ∞ ∞
トイレは真新しくて、清潔そうな白が印象的だ。この視界の悪さでそう映るのだ
から、設置されて間もないに違いない。
亀井は少しずつ大きくなってきた建物を見て、そんな感想を持った。これならさ
ゆも衛生面では安心に違いない。そう思い、彼女の顔を見やった時だった。
「ここで、待ってて」
道重は立ち止まり、まだ距離のあるベンチを指し示してそう言った。
「えっ?」
「お願い、ここで」
黒目がちな瞳にウムを言わせない意思が見て取れた。それに逆らって、頑ななま
でに中までついていくと主張するのも変な話だ、と思い、亀井は同意した。恥ずか
しがっているのだろうか。ほんの少し、道重の頬は紅潮している。
了解すると彼女は何度も振り返り、亀井を確認した。怖いことは怖いのだろう。
自転車の練習で、父親がつかんでいることを確かめる子供のようだった。亀井はそ
んな想像にクスリとして、道重はトイレに消えようとしていた。
まるで再現ビデオのようだった。その時、同じ場面がくり返されるように、それ
は起こったのだ。
トイレの白い壁の横、ガサガサと茂みが動いたかと思ったら、そこから手が伸び、
道重はそこに引きずり込まれていった。彼女の悲鳴は打楽器のように直後に削られ
た。一瞬の出来事。犯人はやはりマスクのようなものをかぶっていて、さらに奥へ
と移動していくのが、葉の揺れで分かった。
亀井の叫び声に吉澤と藤本が駆けつけてくるのに、そう時間はかからなかった。
- 18 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:23
- 「どうした?」
藤本の質問に茂みを指差すと、彼女は意外そうな顔をした。しかしそれも瞬時に
消え、走り出す。
「ちょっと、ミキティ!?」
吉澤の声に藤本は親指を突きたてた。それを叩きつけるように下に向ける。
「捕まえる!」
「無茶しないでよ!」
「わたしを誰だと思ってんの? あの藤本さんだよ? そんなにやわじゃないんだ
から」
彼女はハードル競争でもしているかのように凛々しく、そして勢いを伴って草む
らの中へと飛び込んでいった。確かに、やわではない。それだけは間違いがないよ
うだった。
「まずいな……」
背中から抱え込んでくれている吉澤のささやきが、亀井には重たく響いた。
「さ、すがに、危ないですかね?」
「ああ、うん、それはもう、絶対」
含みのある物言いに、亀井は辺りを見回した。欠片が収束するように一つの疑問
がつのる。それを見て取った吉澤が先回りのように回答を発した。
「そう、いなくなっちゃったんだ。れいなとこんこん」
亀井は世界から音が消えるのを感じた。それは恐怖の形もしていなかった。あえ
て言葉にするならば、絶望感。それに近かった。
「れいなが消えてすぐ、追いかけるようにこんこんも煙みたいに。はっきり言って、
お手上げだよね、あんな一瞬で事を運べるんじゃ」
吉澤の弱音は初めて聞いた。亀井は場違いにもそんなことを考えていた。少しで
も思考を逸らしていたかったのかもしれない。とにかく早く、この悪夢が終わって
くれることだけを祈っていた。冗談のように全員で笑い、思い出話になることを。
そして、そんな二人の元に、とうとう藤本が戻ってくることはなかった。
- 19 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:24
- ∞ ∞ ∞
これはストーカーの仕業などではない。彼女の頭の中では、全てがはっきりとし
ていた。紺野は自らの意思でグループを離れ、一人で行動しているのだった。
音を立ててはいけない。意外と近づいてしまっていて、気づかれてしまう可能
性がある。彼女はそれを一番恐れていた。
田中が自分から姿を消すのを目にして、それを追いかけた。しかし、次第に遅れ
てしまい、とうとう見失ってしまっている。いつものことながら、自分の行動の遅
さが少々歯がゆい。
しかし、問題はなかった。概要は全て頭の中で完成しているのだ。それを補って、
ショートカットすることだってできる。今、茂みの中で隠れて待っているのがそれ
にあたった。慎重すぎるかもしれない。それでも万が一、予想外のことが起こった
時、姿を見られたら一貫の終わりだ。そしてそうでなければ、そろそろここら辺を
田中が無防備にものんびり歩いてくるはずだった。
考えた途端、紺野は息を飲むことになった。やはり現れたのだ。
彼女は飲み込んだ息を吐き、田中に声をかけようと近づいていく。終わろうとし
ている。もう、これでお終いだ。
全てが彼女の考えている通りだったのは、そこまでだった。呼びかけようと開い
た紺野の口から、声が発せられることはなかった。何者かに口を手で塞がれ、持ち
上げられ、運ばれていく。伸ばした彼女の腕は、助けを求めるように空を切った。
彼女もまた、闇に消えた。
- 20 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:24
- ∞ ∞ ∞
ついに、彼女一人。
呆然自失の後ろ姿を追跡していた。その対象である人物は、すでに泣き出してさ
えいる。期待通りだった。それ以上かもしれない。こうなることを、ある意味では
望んでいたのだから。
本当は彼女を捕らえる役は、別人がやる予定だった。より効果的で、彼女の置か
れた立場が一瞬で分からせることができる人物。しかし、アクシデントでそれが回
ってきた。大事な役回りだ。喉がコクンと小さく鳴るのが分かった。
亀井絵里。何ヶ月か前に髪をバッサリと短くしたその対象を見つめた。不安気な
足取りは今にも立ち止まりそうである。それもそのはずだ。仲間が次々と消え、つ
いには唯一残った吉澤までいなくなってしまったのだから。当然、彼女の身柄はも
う、こっちにある。
心拍数が高まってくるのを感じた。ここまでは全部、うまくいっている。途中、
思いがけないことはあったが、娘。を集めることに成功した。これで終えることが
できる。
目配せで別の茂みにいる仲間に合図を送った。取り決めは五秒だ。
心のうちで五つを数え、飛び出した。悲鳴を上げる亀井に後ろから抱きつき、笑
いながら耳元でささやいた。彼女に悟らせる言葉を。
それを待っていた仲間たちが、四方八方、草むらからなだれ出てくる。
- 21 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:26
- ∞ ∞ ∞
抱きつかれて亀井は、ガムシャラに抵抗した。パニック。それ以外の何物でもな
い。声がした。意外にも女性の声だった。それでも言ってる内容は頭に入ってくる
はずもない。
「ちょっと、亀ちゃんってば!」
急に辺り一面が明るくなる。ライト、カメラ、スタッフ、そして娘。のメンバー
が草むらから出てきて、笑っている。申し訳なさそうな顔もあった。
「亀ちゃん、ひとまず落ち着いて」
声の主である藤本は抑えることをやめて彼女から一歩離れ、動物をおとなしくす
るように手のひらを亀井に向け、二、三度動かした。
「あの、ね、実は……ドッキリでしたぁー! ……ってあれ?」
呆然としている亀井の様子が変化しないのを見て、藤本は少しとまどっているよ
うだった。しかし、当の亀井本人はそれどころではない。色々なことがうずまき、
どれ一つ形にならず、崩壊。つまり、再び泣き始めたのだった。今度は、どこまで
も深く。
慌てたのは藤本、そして、他の娘。たちだった。謝って、抱きついて、頭をなで
てなんとか機嫌をなおしてもらおうとする。それでも亀井は泣きやまない。
「ミキティーの消え方が怖いからだって」
吉澤は場を暗くしないためか、かき回すような口調で笑った。
「強気な人が消えちゃうと、それはそれで怖いもんだからねぇ。裏を知ってるわた
しでも、何かヤだったもん、あれは」
合わせるように、藤本も対抗する。「よっちゃんだって、一番難しい役どころで、
見事にいなくなったじゃん。それもかなりの恐怖だったと思うけどぉ?」
そして、意外にも素直に謝るのは田中である。
「ごめん、感じ悪くって言われててさ。絵里が嫌な思いしてるのは分かったんだけ
ど……」
- 22 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:26
- それでも亀井の崩壊は収まらない。すねたい気持ちもあった。みんなして、と。
しかしながら、彼女の混乱を取り残して、話題はまれにみるスケールの大きな企画
の、打ち上げ話の様相を呈してくる。
「ガキさん誘拐したの、わたしだったんだけど、気づかなかったよね?」
「気づくはずないじゃーん。でもまこっちゃん、見かけより力ないから、さらわれ
ながらわたし、協力したもんね。見えなくなってからは二人して走ったし」
小川と新垣の話は、それだけで聞くと滑稽ではあるが、場合によっては逆効果に
もなることを、二人は知らない。無理もない。先輩だってそうなのだから。注意す
るべき立場の二人もどうしてそんなことしゃべり始めたのか、出発点を見失って、
亀井をからかい出した。
「それにしても亀ちゃん、本当に悲鳴上げっぱなしだったよね。ギャーって。特に
重さんが消えた時なんて、もう、ひどかったもん」
藤本は軽くその様子を実演してみせて、吉澤も乗っかる。
「ねぇ。あそこまで叫ぶかな、普通。慌てるとは思うけどさぁ」
亀井は泣くのも忘れて顔を上げた。当たり前じゃないか。目の前で親友が拉致さ
れたら、パニックにならないほうがおかしい。慌てるなんてことじゃ、とてもすま
ない。少し奇妙な感覚が残る。二人とも、同意見であるらしいのが、よりそれを大
きくした。
「でもまぁ、あんまりなところはカットしてくれるでしょ。ワッチ発言とかも削ん
なきゃだし」
「そうだね。一応は、大成功ってことで。最終的に亀ちゃんを捕まえる予定だった
重さんは、本当にどこかで迷っちゃってるみたいだけど」
「ねえ。美貴も急に大役を任せられて、ちょっとビックリしたよ。まぁ、おいしか
ったといえば、そうなんだけどさ」
- 23 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:27
- 「さゆ、いないんですか?」
亀井の言葉に、二人は平常心に戻ったのだと安心したのか、笑顔を向けた。
「そうなんだよね、大事なところで。でも、本当に信じた? あんなこと。ワッチ
うんぬんとかさ」
藤本が吉澤を見やったので、彼女も笑いながら亀井をバカにするように身振り手
振りを大げさにする。
「そんなのあるわけないじゃん。現実にそんなことされたら、あたしたち、大ピン
チっていうか、打つ手ないもん」
「でも、本当に大変だったよね。夜十時には終わらせないといけないし、亀ちゃん
をなんとか思い通りに移動させないといけないし……」
なおも続く二人の談笑を耳の奥で聞きながら、亀井の中では、ある言葉が反響し
続けていた。もし、本当にそんなことが起こったら。ワッチをして、バラバラにな
った娘。を、飲み込むようにコレクトしようなんて人物が現れたら。
消えた。連れ去られた。不意にささいな言葉の差異が、揺らめくように踊る。亀
井の中で、違和感が次々と形になるのを感じた。二度も自分に拉致の現場を目撃さ
せる必要があっただろうか。もしトイレに細工があって、そこからひっそりと消え
ることができる仕組みになっていたら、それだけでわたしは、さゆが誰かの手に落
ちたと考えるはずなのに――。
彼女は周りを見回した。もう一人、足りていないことが、どこか予想通りに感じ
られた。それくらい、感情が麻痺していた。
吉澤と藤本はまだ笑い合っている。他のメンバーもそうだ。それどころか、スタ
ッフさえもが一世一代の仕事を終えた苦労話に相好を崩していた。次第に片付けら
れていく機材。誰もが気づいていない。誰も知らない。想像しない。もしもそれが、
実際に起こったとしたら。
それじゃあ、紺野さんとさゆは、どこに消えたの?
彼女のつぶやきのような叫び声は、今のところ誰の耳にも届いていない。
夜はまだ、終わらない。
- 24 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:27
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- 25 名前:さようならを言うまえに 投稿日:2005/06/19(日) 19:27
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- 26 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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