19 ピアノ白昼夢
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:32
- 19 ピアノ白昼夢
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:32
- メッセージを確認したさゆみは、ふう、と溜息をつきながら携帯電話を
折り畳んで閉じた。送り主は絵里。
季節は初夏。本格的な夏の到来に向けて、オフの日に二人で
ミュールを買いに行こうと言う話になった。そして今日はその当日。
何となくさゆみの予想していた通り絵里は三十分ほど遅刻してくるという。
折り畳んだ携帯電話を右手に持ったまま、ふらりと待ち合わせ場所から
離れた。別にどこぞへの用事があるわけでは、いやミュールを買いに
行く用事ならあったが、それは絵里と共に成すべき用事であって、自分
ひとりが赴くものではない。
三十分も同じ場所で待っていられなかったから、時間潰しにどこかへ
行こうとその場から離れた。
絵里のことだからと、十分加味して四十分と見たら余計にじっと待って
いられないと思った。
待ち合わせ場所は、やや街中から外れた場所にある噴水公園。
建物は灰色のものばかりが目に付く。
あても無く公園から出て、歩道を街中の方に向かって歩いて行き、前方で
たまに現れるやたら派手な看板は何だろうと目を凝らすと、よく知った
コンビニのものだった。
オフィス街、さゆみの頭の中にあるあまり多くは無い語彙を探って、
出てきたこの場所の雰囲気にふさわしい名称は、それだった。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:33
- 行きはともかく引き返してくる分の時間を計算していなかったので、
右手の携帯電話を再び開き絵里から届いたメッセージの受信時間を
確認しようとした。操作しながらも歩行は止めなかったが、無意識に
速度は落ちる。
だからこそ、この音がさゆみの耳に届いたのかもしれない。
ピアノの演奏の音だ。
それも、自分にとっては馴染み深い曲の。
さゆみは思わず顔をあげた。
どこから聴こえるのだろう。
あからさまに首を振ることはせず視線だけであちこちを確認するが、視界に
認められるのは濁った灰色の街並みと、上辺だけ洗練した印象を受ける
カラーの乗用車や軽自動車の路上駐車が大半だった。
グランドピアノばりに漆黒の何か、も見受けられたが、エンジン音と共に
さゆみの視界から消えて行った。
「あ、あれも車か」
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:33
- 演奏は確実に聴こえる。
その曲が何であるかもはっきりと認識できるくらいに。
特に左耳がよくその音を捉えている。
左……
もしやと思い立ち止まってゆっくりと左を向くと、歩道から数メートル
奥まった場所に、年季の入った三階建ての建物があった。
両サイドの七、八階建てと思われるビルに挟まれ、幅もあまり無く、
小さな事務所のような佇まいだ。ここからは伺えないがきっと奥行きも
大したものではないだろう。
この建物、ディスプレイのため一階部分の壁面は全て大きなガラスが
嵌められている。
向こう側に飾られていたのはいくつかの楽器だった。
左からヴァイオリン、トランペット、ギター(さゆみにとっては
エレキもフォークも全部”ギター ”だ)と続き、中央の入口ドアを
挟んで右側のスペースには、無人のピアノが一台だけぽつんと置いてある。
グランドピアノではない。山口の実家にあったオルガンに似ている。
音の出所は間違いなくそこからだ。
換気のためか、観音開きの入口ドア(勿論これもガラス製である)が全開に
なっていたので、自ずと音が外側に漏れていたのだ。
音に誘われるままゆっくりとピアノに近付く。
ガラスを挟んで一メートル程奥にあるそれを見、やっと理解する。
「鍵盤勝手に動いてる!これ電子ピアノだ」
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:33
- さゆみは思わず歓喜の声をあげた。
きちんとプログラムどおり動作しているのだから勝手に動いているわけ
ではないのだが、実際まだらに上下する鍵盤を眺めていると、目に見えない
誰かが出鱈目に叩いているように感じるのも仕方ないかもしれない。
楽譜を置くスタンド部分にはPOP置いてあり、
「中古電子ピアノ、ろくじゅうろくまんえん……」
書かれていた文字を声に出して読んでみると、とんでもない大きな額が
小さな口から飛び出した。ミュールが何足買えるだろう。
手の届かない高価な玩具を前にした子供の心と、自動演奏で鍵盤が動き
音が鳴る仕組みは好奇心を大いに刺激し、気付けばガラスに両手を
べったりと付け目は釘付けになった。
曲に合わせて歌詞を口ずさむのにもそう時間はかからなかった。
ピアノにはリピート機能が付いていたらしく、曲が終わって数秒経過すると
また同じイントロを弾き始めた。
さゆみはまだその場を離れる気になれず、それどころか徐々に鍵盤の動きと、
奏でられるメロディに魅入っていった。
この曲は、先輩保田圭が卒業ソングとしてラストコンサートで歌った曲だ。
さゆみ達六期にとっては、初めてのコンサートで歌った曲でもある。
「……もう二年経っちゃったんだ」
気がつけばガラス窓に、
あの時の衣装を着てこちらを見ている自分が映っていた。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:34
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- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:34
-
”忘れないわ あなたの事 ”
……既に一曲歌い終えた後で、さゆみは呆然としていた。
あっという間だった。
お別れのメッセージなんて何を言ったのかよく憶えていない。
”記憶なんて単純だね ”
歌いながら保田がこちらに近付いて来た。隣の藤本に促されてやっと
自分から動くこと思い出す。向こうから同期の二人が手を繋いで
駆け寄って来る。
れいなは既に泣き顔だ。絵里にはまだ余裕があるみたいだ。
そうだろう。あまり一緒の時間を過ごしていない先輩だから、
絵里の気持ちの方がさゆみには理解できた。
きっとれいなは、ああ見えて自分より情が厚くて涙もろいんだろう。
藤本がどういう顔をしていたのかは思い出せない。
”だから悲しみさえも思い出だね ”
保田が離れ、向こう側に固まっていた五期の傍へ歩み寄る。
五期のメンバーは皆、腰を折って泣きじゃくっていた。
加入前から憧れだった高橋愛の姿もそこにあった。
保田に頭を撫でられている。
二人は髪型が一緒なのでまるで姉妹のように見えた。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:35
- 鍵盤の、ランダムだが単調でかつ機械的な『遊び』の無い動きと、
そこから聴こえて来る懐かしい曲。この組み合わせに何かの作用があったのか、
何度も聴いているうちにさゆみは徐々に頭がぼんやりとしてきた。
眠気とは違う何かが瞼を少しばかり降ろす。
視界が狭まり古ぼけた木目のくすんだこげ茶色と、ガラスにべったりと
ついていた両手の指先だけが見えた。
爪にはピンクのラメ入りマニキュアを塗っていて、狭まった視界
(というのも既に定かではない前頭葉のどこか)で異彩を放っている。
そしてそれは、星のように光り出した。
指先のラメから溢れ出した星の洪水が、ゆっくりと水位を上げるように
目の前の自動演奏を続けるピアノを満たしていった。白く瞬く花火に似て、
消え失せてしまうものもあれば後から後から同じ場所で弾け続けて
いるものもある。とても綺麗だと思ったが、ちっとも勢いが衰えない。
それどころか
とうとうピアノを全て飲み込んでしまった。
白銀に満たされた視界の中で演奏の音も徐々に遠のいていった。
ともすればあと少しで意識がどこかへ行ってしまう、さゆみはそこで漸く
我に返り、思わず目を閉じた。
瞼の裏で白い花火の残像がしつこく光っていたが、時間が経つと消えて
いった。ふう、と溜息を吐き目を開けると、
ピアノの前に誰かが座っている。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:35
- 「保田さん?」
「え?」
声をかけられた人物が、さゆみの声にポニーテールを揺らして
振り向いた。保田では、なかった。
「……あ……、愛ちゃんの方だ」
「……ほうやけど。え、方って?」
「ごめんなさい、保田さんと間違えちゃって」
「保田さん?何で」
今日はハローじゃないから居らんよ、
愛はそう続けた。
その言葉に、
さゆみの頬はみるみる赤みを帯びていく。
そう、今はモーニング娘。コンサートツアーの最中で、ここはその
舞台裏で、昼公演を終えたばかりの空き時間で、この後に夜公演を
控えているのだった。
いつも一緒に行動している絵里と廊下を歩いていると、彼女だけが
衣装スタッフに呼ばれて自分の元を離れたので、一人が心許なく
なったさゆみは姉と慕う愛の姿を探し求めた。
廊下を歩き続けると小さなホールに出る。何気なく見渡した時に
目に入ったのは、片隅にぽつんと置いてあったピアノと愛の背中。
あの時ガラス越しに見たそれと似たタイプのピアノ。
あの時思い出したそれとよく似た髪型と後姿。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:36
- 「ほんとごめんなさい、何か妄想してた」
「妄想ぉ?」
「後姿が似てて、あの、こないだ絵里と買い物行った時に、その時絵里
居なかったんですけど待ってる間にフラフラ歩いてて」
「うん」
「そしたら保田さん卒業した時の曲がピアノで流れて来て、見に行ったら
自動的に弾く電子ピアノが中古で売ってて、」
「……」
愛はピアノに向き直りスコアを手に取ってページをパラパラと捲った。
このピアノは、ボイストレーニングや空き時間の気分転換などの
ためにと配慮されここに置かれている。ピアノスコアはスタッフが
用意してくれたもので最初からスタンドに立てかけてあった。
ちなみに、モーニング娘。のシングル曲を収録した市販されている書籍である。
「鍵盤が勝手に動いてるの見てたら何かたくさん思い出しちゃって訳わかん
なくなって、そこに保田さんが居て弾いてるんじゃないかって思っ」
「これ?」
見つけたページを背後のさゆみに掲げて見せると
「そうそれですっ」
背後で大きく縦に首を降っているさゆみの気配が感じ取れた。
愛は振り向かずほんの少し誇らしげに笑みを湛える。
二曲あったうちのどちらかだと思ったが、瞬時にこちらだと直感が
働いて、それが当たったので単純に嬉しかった。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:36
- 「これかぁ、ほやねさゆなら保田さんの曲ってイメージやろね」
「わたし保田さんって言ったら卒業の時のイメージ強くて、
そしたら頭の中で、ピアノ弾いてる保田さんっぽい人の背中に見えたんです。
ポニーテールで、だから」
「今日のあーしとハモったん」
「ダブったんです」
「あ、そっちや間違いた、アハ」
「何か、最近こういうの多い……」
「白昼夢」
「なんですか?それ」
「起きてるのに夢見ること」
「ああ……」
「これ弾けるかなあ」
自分の台詞で神妙な表情になってしまったさゆみを余所に、
愛は試しに最初からその曲を弾いてみることにした。
……のだが、楽譜を真剣に読もうとした途端に、弾くよりも歌うことの方が
容易でかつ自分に合っているのだと悟って、突然椅子から立ち上がる。
いつの間にか真横に居たさゆみと対面し、そして、
「しげさんパス」
「パス2」
スコアをさゆみに押し付けたら、即座に突き返されてしまった。
「……やっぱやめとこっか」
「そうしましょっか」
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:37
- 「あ、そういえばこれね、この髪型、保田さんに言われてやったんが最初やった」
「そうなんですか?」
「うんそうなのぉ。ダンスレッスンの時、邪魔にならんから今度やってみなって。
いつだったっけかな」
あれは加入してすぐだったか、
保田にアドバイスを受けた愛は律儀に髪型をポニーテールにして
スタジオに赴いた。
後輩がアドバイスを受け入れ自分と同じ髪型にして来た事を、保田は
大層喜んでくれた。
「アンタ似合うじゃない!ねえちょっとちょっとうちら姉妹みたいだよ!」
腰に手を回されその場にいたメンバーに大声でそう言われると、
恥ずかしくて顔が真っ赤になり、それを見た誰かが
「圭ちゃんタカハシ真っ赤になって怒ってるよ!一緒にすんなってさ!」
とからかい、スタジオ中に笑いが起こった。
そんなこと無いよね、と保田に尋ねられ、慌てて
「無いっす!」
と大声で返事したら、それがかなり訛っていたらしく笑いが爆笑に
変わり、内心ひどく傷ついたものだ。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:37
- 「それでも似合うって言ってくれたの嬉しかったし、ほんと楽んなったから、
それから気に入ってしばらく同じ髪型にしてた」
「……ずっと前に、さゆに同じこと言ってくれたの、最初は保田さんに言われた
ことだったんですか?」
さゆみが訊ねると、愛は目を丸くした。
憶えてるの?声がやたらと高くなっている。
「憶えてます。憧れてた人からのアドバイスを忘れるわけないじゃないですか」
至って当然のように答えた。
すると相手は剥き出しのうなじを右手で擦りつつ
「いやぁ、あーしもいつか誰かに教えてあげようと思って」
「…………」
「あとはほんのちっとばかしオネーサンぶってみましたっ」
言い放った途端、またさゆみに背中を向けた。
ところが、勢い良く回れ右したその目の前がホールの白い壁だった。
ピアノに向き直ったつもりだった愛は、思わずうおっと叫び
「びびった……ピアノ消えたんかと思た」
とガックリ肩を落とした。
「…………」
「あ〜……もぉ……」
……振り向くに振り向けないらしい。
項垂れた愛の背中と真っ赤な耳を見て、さゆみは思わず呆れ笑いを
浮かべてしまった。
よくよく見れば全然違うではないか。
髪の色、旋毛の位置、耳の形、肩幅、……そして保田と決定的に違うのは、
後姿から滲み出る危なげな雰囲気。
顔つきは大人っぽくなってきたと愛自身が言っていてそれは自分も
感じるが、後姿は相変わらずだ。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:38
- 実際彼女は少々間の抜けたところがあって、わざとそれについて、
『しっかり者じゃない姉です』とカメラの前で冷やかしたこともある。
そして今まさに、それらしいことが起こってしまった。
全く、この平時の頼り無さと言ったら。
昼公演でのステージ上の彼女とギャップが大きすぎて力が抜ける。
姉らしく自分の手を引いてくれる様な存在になる日は来るのだろうか。
それとも。
引いてくれるはずの手は結局そうならずに、
バイバイ、
と左右に振られてしまうのだろうか。
彼女のことだ、もしかしたらその時は、
結局変わらぬままの背中を自分に向けたままで……
「さゆ?あたしそろそろ戻るけど」
まだここに居る?
そう訊ねながら、愛は席を立ちホールから廊下に出ようした。
彼女が一歩進んだ時浮いたその手を慌てて掴みながら、
「一緒に行きます」
濁った声で、さゆみは答えた。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:39
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- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:39
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- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/16(木) 21:40
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