13 卒業旅行
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:35
- 13 卒業旅行
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:37
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淡い月の光が暗い色を帯びて蠢く海面に反射し、粘つくように私に絡まる。ざらざらと
貧弱な音で悲鳴をあげるスクーターのエンジンは今にも弾け飛んでしまいそうなのに、ス
ピードメーターは60k/hにも届かない。
やや強めに耳を撫でる風音の向こうにで唸る波音が私を遠ざけようとする。それとも、
月の光と共に私を誘いこもうとしているのだろうか。不可解な胸のざわめきが一気に私
の自由を奪った。スロットルを握る右手が海岸のほうへ傾いでいく。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:40
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私が石川の変化を知ったのは福岡でのライブを終えた飛行機の中で、ツアー最終日の一
週間前だった。隣にいた麻琴がそれとなく言ってきたことがきっかけだった。
「石川さん、急に綺麗になりましたよね」
飛行機が水平飛行に移り、麻琴が私の寝ていないことを確認して、ぼそっと言った。
は? と聞き返すと、麻琴は意味ありげな笑みを見せ、通路を挟んで隣にいる石川を指
差した。腕を組んで薄く目を閉じている石川は眠ってはいないだろうが、人を寄せつけな
いような厳しい顔をしていた。少し痩せたのだろうか、頬の陰影が浮き上がり、目元には
薄くクマが差していた。綺麗というよりも、生々しい神秘とでもいえばいいのだろうか、
途方もなく性的で奇妙に翳った香気をまとっていて、同性である私でも息を飲み、僅かな
時間ではあるが固まってしまった。
「ね、石川さん、なんかすごいでしょ?」
私の同意を得られたことが嬉しかったのか、興奮して声の大きくなった麻琴を諌め、目
を閉じて思考に耽るふりをした。麻琴は何も考えずに「綺麗になった」としたが、そんな
単純なものではなかった。卒業していったメンバーによくあった、強固な決意による麗輝
でもないような気がした。
ちょっとしたきっかけでもメンバーが石川に反応して涙ぐむようになった卒業の四日前、
偶然だけど、二人で話した。帰り際、楽屋を出たあたりからタクシーに乗るまでの、ほん
の僅かな間。もしかすると、石川は私を待っていたのかもしれない。
「ファンの歓声にまみれるのと、男の精液にまみれるの、どっちが気持ちいいのかな」
偽悪的に頬を歪ませて言った。石川がこんなことを言うのは初めてだった。こういうこ
とを言うことすら、知らなかった。私は動揺を気取られないようにゆっくりと石川を睨ん
だ。
「なに梨華ちゃん、男いんの?」
石川はもったいぶるように首を傾げ、耐え切れずに吹き出す。
「いたらどうすんの?」
「どっちだっていいんだけどさ」
私が興味を放棄したとみると、石川は慌てて訂正した。
「いや、そういう選択もあるな、って矢口さん見てて思ったからさ」
「ほしいの?」
「いや、そういうことじゃなくてね」
「だったらなに?」
「どっちかっていうと、逆かな」
面倒な会話だ。単刀直入に切り出した。リーダーになったばかりの私は余裕がなく、石
川のような気を許せる相手に対しては常にイライラしていた。
「悩みあるなら、聞くけど」
時間と次の日の仕事のことを考えながら、場合によってはどこか別の場所で石川の話を
聞かないといけないな、と思っていた。
石川は「やっぱいいわ」と言ってタクシーに乗った。タクシーの中が暗かったせいか石
川が闇に滑りこんでいったような気がして、嫌な胸のざわめきに慌てて電話をかけたこと
を覚えている。
電話口で笑った石川は、「ちょっと感傷的になっただけ」と言い、大袈裟に心配して電話
までしてしまった私に「ありがとう、大丈夫だから」と言っていた。
本当に大丈夫な人は、大丈夫とは言わない。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:41
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左手にぶらさげた白に金糸の刺繍の入った袋。今になるまで忘れていた存在が、風に煽
られ私の太腿をたたき、急に自己主張をはじめた。左手でハンドルを掴む。
これで片手運転の不安定性が解消されるはずだったが、車体の揺れは酷くなるばかりだ。
白布の袋が風に煽られ、翻る。肩が震えている。波打ち際の泡立ちが、夜の色に濡れて
いる。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:42
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夏なのに冷たい雨の降る日だった。スタジオの空調が低く震わえて湿気を掻き出してい
たけど、私たちから噴き出す汗のせいでほとんど意味を為していなかった。暑さに慣れる
ことはできるけど、湿気はそうもいかない。肌に張りつく濡れたシャツやパンツだけでは
なく、全身にべっとりとまとわりつく空気が不快だった。
そのせいかはわからないけど、ダンスの先生の機嫌が悪かった。いつもならその捌け口、
すべてのメンバーが気付くようなはっきりしたものではないけど、標的は小春になるのだ
がその日は違った。美貴だった。槍玉にあげられるのは珍しく、というか初めてだったか
もしれない。その日の美貴はいつもと何ら変わることのない出来で、私には怒られるだけ
の理由があるようには思えなかった。先生がいつか注意しようと思っていたことを言った
のがたまたまその日だったのかもしれないけれど、誰が見てもおかしな光景だった。
美貴はわけがわからないといった様子で、真に受けることもなく、聞き流すこともなく
ダンスの先生の罵倒を受け止めていた。メンバーが説教に飽きようかという頃、美貴は静
かなトーンで吐き出した。
「お前、少し黙ったら?」
表情を変えずにダンスの先生の頭を掴み、振り上げた膝に打ちつけた。
鈍い音と同時に潰れたような悲鳴が聞こえた。鼻をおさえた先生の手からボトボトと血
が滴り落ちていた。美貴に突き飛ばされた先生は無防備なまま鏡にぶつかって崩れ落ちた。
シゲさんは、狂ってる、と呟いたけれど、私にはとてもとても自然なことのように思え
た。不快なものは排除する。あのときの最も効果的な手段は、理不尽で圧倒的な暴力だっ
た。実際に先生は打ちひしがれ、嗚咽を漏らしていた。
私たちを振り返った美貴は、
「みんなは仲間だからさ、こういうことはしないよ」
なんでもないように言って、鏡に向かって練習を始めた。シンプルな自分本位だ。普通
はそれを自分勝手だとするのかもしれないけれど。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:43
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キーをオフにして、惰性でスクーターを走らせる。耳鳴りのようだったエンジン音が途
切れ、代わりに波音が唸りをあげて襲ってくる。
暖かな潮風がねっとりと私を包み、まるで生きた海の中に放り込まれたような錯覚に首
を振る。傷ついた部分が錆びて腐敗した自動販売機の烏龍茶を飲んだ。涸れきった体に痛
いくらいだった。余った分をどうしようか少し考えてから足元に捨てた。捨てたあとで喉
の渇きを癒しきれていないことに気付いた。思えば、もう何時間も飲まず食わずだった。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:45
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フットサルの休憩時間、戦力として認められてガッタスに入った矢島舞美が、歩み寄っ
た斉藤とボールを蹴る笑顔を眺めながら、私はぼんやりと新メンバー加入について考えて
いた。
安定した時期じゃないと、新メンバーは加入させられない。私が入る以前のことはわか
らないけど、そういう時期があるのだ。私たちが入ったときは絶頂期でメンバーはみんな
忙しいながらも余裕があったし、五期が入ったときはただひたすらに疾走していた。六期
が入ったときは停滞期だったけど五期が成長してみんな笑顔だったような気がする。七期
のときは状況が急転したけれど、募集の告知をしたときはみんなそれぞれに前を向いてい
た。過渡期にメンバーが入るような気がしていたが、それは安定しているからこその変化
なのだろうと、矢島舞美を見ていて思った。今のガッタスは練習の質に、時間の経過と私
たちの経験が追いついて芸能界での敵はいなくなっていた。
私がひとりでいるのを見計らってか、石川が隣に座ってきた。石川がいたのなら、今の
モーニングの状態も少しはよかったのだろうか。その時期のモーニングは、活動するに
は何の問題もないように思えたけど、新メンバーを迎えられるほどではなかった。それ
を自分の力不足だと苛んでいたこともあったが、飯田さんや石川や保田さんや中澤さん
の助けのおかげで、どうにか無力を感じずにいられた。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:46
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「卒業旅行に行かない?」
私のネガティブな思考を溶かすような明るい顔の石川が、汗をかいた肩が触れ合うよ
うな距離にまで身を寄せてきた。
「なんの?」
「わたしの」
怪訝な顔をした私に、石川は恥ずかしそうに俯いている。無責任なわけでも無能なわけ
でもないが、細かな機微に気付かない石川の能天気さに救われているのかもしれないと思
った。
「いやね、わたし、卒業旅行してなかったな、って……」
「誰もしてないから」
「わたしはやりたいの!」
声を大きく言い切った石川は周りの注目が私たちに向いていないことを確認して、大事
にしまってあった秘密を打ち明けるかのように、ゆっくりと言う。
「じつはね、事務所に内緒で免許取り始めたんだよね」
「車?」
「うん。もしも期限内で免許取れなかったら恥ずかしいから誰にも言ってないんだけどさ、
取れたら車に乗ってみんなでどっか行こうよ」
「梨華ちゃんが運転すんの?」
「そう」
「危なくない?」
「危なっかしいかもしれないけどさ、娘。だけでどっか行けるんだよ?」
石川の笑顔に、そういうことができたら楽しいだろうなと思った。
「どう?」
不安そうな目をして聞いてきた。
「いいんじゃない?」
「でっしょ? 免許取れたらすぐに行きたいから、考えておいてね」
「わかった」
石川は、はしゃぎたいのを押さえるように立ち上がってそのまま駆けて、紺野が蹴ろう
としていたボールを蹴った。あー、と口を開けて文句を言う紺野の肩を笑顔でちょんと叩
いた。
ふと前に感じた嫌な予感を思い出し、私が勝手に心配していただけなのだと安心した。
今の石川を見て、再び振り回されてしまったような気がしてしまい、懐かしさの入り混じ
った苦笑が零れ出た。そういえば、石川は迷惑な女だった。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:46
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「これかよ」
声は波音に飲み込まれずに私の中でしっかり響いた。石川が言っていた目印だ。不自然に折れ曲がった標識の裏に、いつだったかの唇のタトゥーシールが貼られている。それが誰の唇なのかはっきりしないけれど、たぶん石川のだろう。指でそっとなぞり、爪で引っ掻く。軋んだ音でシールは僅かに剥がれ、爪の先にオレンジ色の塗料がこびりついた。それを爪ごと握りしめる。
同じ姿勢を取り続けていたために硬直した足でかくかくとスクーターに駆け戻り、ハンドルを握った。爪の食い込んだ部分が甘く痺れている。相変わらず強い引力を持った海が、私をいざなっている。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:51
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美貴の、仲間だから、という言葉に敏感に反応したのは小春だった。そして、いつまで
もそこを乗り越えられないでいた。私は直前までそれに気付かなかった。
年末の慌しい中で、小春の緊張が張り裂けた。ちょっとでも気を抜くと、放心したよう
な顔をしていたという。いつ自分に降りかかるかわからない美貴の暴力に怯え、疲れきっ
ていたのだ。美貴が小春に何かしたわけでもしようとしたわけでもない。ただ、誰にも遠
慮せず、誰に合わせることもなく、豪放に振る舞っていただけだ。行き過ぎた部分はあっ
たけど仕事はそれなりにこなしていたし、それが私たちのぎこちなさの一要因にはなって
いたものの、それだけでしかなかった。程度の差はあるけれど、大人数のグループという
性質上、軋みや歪みは常にあったからだ。だが、小春はそう考えることはできなかった。
最初に気付いたのはガキさんで、どうにもならないという状況になって初めて私のとこ
ろにきた。それを責めることはできなかった。私も美貴も、お互い衝突しないよう、細
心の注意を払って活動してきた。年長二人が衝突することは、そのままモーニングの決
壊に繋がるからだ。
私は私で、ミキティを刺激しないように見守り、年下のメンバーが笑顔でいられるよう
に場の雰囲気を明るくすることだけに努めていた。問題を先送りにしているだけのような
気がしていたが、それ以外はなにもしなかった。美貴がどこまでモーニングの中で抑えの
効かない信念を折衝できるか、その妥協点を必死に探っているように見えたからだ。
美貴自身、自由であることに戸惑っていたのだと、今でも思っている。平衡を失ったパ
ワーバランスは、再び元に戻ることはない。新しく取り直さなければならない。強い才能
を持ち、誇りを持つ人ほど、そのバランスは複雑なのだ。
触れることができず、時間が解決してくれるだろうと思っていた小さなささくれが、当
人の関係ないところで大きな痛みなしには癒すことのできない深い傷を穿っていたのだ。
責任を感じ、暗い顔をしていたガキさんを慰めるのもそこそこに、私はすぐ小春と話し
た。小春は泣きながら自分の不甲斐なさを謝り、謝る必要はないと抱きしめ髪を撫でると
さらに泣き崩れた。小春は休みたいと言ったけど、許さなかった。休養は肉体の疲れにの
み有効で、精神的な脆さや弱さは休んでも回復しない。心の痛みから解放されるのは、乗
り越えて強くなったときか、逃げ出したときだけだ。絶望して死にたくなるくらいに挫け
たときには、私が殺してやると諭した。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:52
-
小春の変化に心を痛めていたのは矢口さんも同じだった。年が明けてすぐのハロプロコ
サートの合間、矢口さんに誘われて二人で食事に行った。
「わたしが言えた義理じゃないんだけどさ、」
慣れた様子でワインを選び、リストをソムリエに返した矢口さんが大きな黒目を神経質
に揺らし、そう前置きして私を窺った。そう思うなら何も言わないでほしい、私がそう言
うと、矢口さんは傷ついたような顔をして、そうだよね、と弱々しく唇を噛んだ。悪いな
とは思ったけれど、私自身、自分の中にすべてを押し込めておけないほどに苛立っていた。
矢口さんの心遣いを立場で圧してしまうことよりも、ずっとずっと酷いことを平気で言え
るくらいに。
その後、私は矢口さんが自分をおいらと言わなくなったことをからかい、矢口さんが明
るい調子で、やっぱおいらさー、とすぐに持ち直した。そして、食事が終わるまで、昔話
をして笑い合った。その日以降、矢口さんがモーニングのことに関わろうとすることはな
かった。私は線を引いたのだ。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:52
-
勾配が急で、スクーターの速度は上がらない。エンジンがブルブルと情けない音で空ま
わっている。山を切り崩して作られた小さくて寂れた住宅地を抜けると、鬱蒼と茂る樹林
が音を吸い込む濃密な闇夜が私を取り囲んだ。
さらに山を登ると、乳白色の霧が発生していた。遠くが煙って見えないくらい閉ざされ
た視界に、センチメンタルが暴力的に私を嬲った。目に見えないほどの無数の水滴が私の
黒い髪を濡らし始めている。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:54
-
石川から電話が着たのは昼過ぎで、免許センターにいてこれから試験の結果発表がある
から話していてほしい、とのことだった。落ち着かない、緊張に震える石川の声を聞くの
は本当に久しぶりだった。石川は九割以上も正解しないと試験をパスできないことや、徹
夜で試験勉強したこと、住民票を実家に戻したから朝早くに出て神奈川の免許センターま
で出向かなければならなかったことを話し、「一緒に原付の免許を取ったときのことを思い
出すね」と懐かしそうに言った。私も同じことを考えていて、それを言おうと思ったけど
石川が喜びそうだったから何となくやめておいた。
あ、発表くる、石川は一方的に話を切り上げて短い沈黙のあとに、「あ」と嬉しそうな声
をあげ、「ちょっと待って」と深刻ぶった間を作って、もう一度自分の合格を確認してよう
やく喜んだ。「受かったー!」ほとんど叫びに近い嬌声で、慌てて口を噤んだのが電話越し
にもはっきりわかった。
その週末、石川にドライブに行こうと誘われ、浜松でのコンサートを終えた私は品川で
新幹線を降りて待ち合わせの場所に行った。インターシティ前の細くて薄暗い道で、免許
を取る前に買っていたという新車に、目深に帽子を被ってサングラスをかけた石川が気取
ったように身を凭せかけていた。
石川は運転中も帽子とサングラスを外さなかった。事故を起こすよりも、自分の存在が
ばれてしまうことのほうが怖いらしい。事故を起こしてしまえばどっちにしろ存在はばれ
てしまうのではないかと思ったけれど、それは確率の問題だろうと考えて聞かなかった。
臆病なほど慎重に慎重を期す石川の運転では、よほど運がない限り事故を起こすことはな
いだろう。
名前は忘れたけど石川の買った車はドイツ製で、とても頑丈に作られていると言ってい
た。新車特有の匂いと石川の甘い匂いのする車内では、しばらく二人とも何も話さなかっ
た。いつも通り日曜深夜の道路はびっくりするくらいに空いていたけど、それでも石川は
運転に精一杯のように見えたし、特に話したいこともなかった。
二人ともまだ21で、石川の運転するドイツ製の新車に乗っているということが不思議で
ならなかった。それは石川の運転する車に二人で乗っているということについてなのか、
21という若さで何百万もするだろう外車を買えてしまうことについてなのかはわからなか
ったけど、付きまとう違和感に何を見ているのかわからなくなった。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:54
- 「ライブどうだった? 楽しかった?」
信号待ちをしている間、石川が牛丼屋のオレンジ色の看板を眺めながら私に聞いた。そ
して、私の返事を待たずに話し始めた。石川が卒業前にアイドルであり続けるのと、それ
を捨てて規制のない中で好き勝手に生きるのとどっちがいいかといった意味のことを相談
したのを思い出したと言い、「覚えてる?」と私を一瞬だけ見て車を発進させた。
覚えてるよ、私がそう言うと石川は嬉しそうに頬を綻ばせ、「あん時よっすぃすごい心配
してくれたもんね」と笑った。
「ねえ、梨華ちゃん」
「ん?」
「言ってよ」
「なにを?」
石川が釈然としない思いを抱えていることが伝わってきたから聞いた。でも、石川自身、
それが何なのかわかっていない、話したいことがあるから私を誘ってわざわざ品川まで車
を走らせてきたんだろうけど、その何かを私に求めている、そんな口調だった。
「わかんないけど、なんかあると思って」
「わかんないのよ、わたしも。言いたいことはあるんだけどね」
まあ、今は今でいいじゃない、石川はそうわけのわからないことを言って、これでみん
なと旅行に行けると、ずっと暖めてきたらしい計画を楽しそうに語った。観光地ではない
ところに高いから人があまり来ないキャビンがあるらしいからわたしたちでも心置きなく
楽しめる、とか、そこから車で30分ほどのところにある漁港では朝獲れた魚を漁師から安
く買える、とか、人里離れているから夜になると真っ暗になって流れ星や彗星が見える、
とか、一番大きなキャビンを借りればみんな泊まれる、とか、普通免許でも乗れる大きく
てかわいい車を借りられる店をメイクさんから聞いた、とか、本当に楽しそうに。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:56
-
霧が濃くなってきて極端に視界が悪い。エンジン音が吸い込まれ小さく聞こえにくくな
った私の意識から外れた。ひんやりと私を包んでいた冷気が容赦なく体温を奪い、歯がガ
チガチ震えた。熱を保持しようとする自動的な反応を押さえ込むと、今度は代わりに頭を
締めつけるような痛みが襲ってきた。
肉体の悲鳴を追いやろうとすると、奥底に隠してあった思い出がにじみ出てきそうな気
がして叫んだ。私が動物だと再認識するには十分な咆哮だった。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:57
-
オフの日、洗濯を終えてしまってすることがない私は、カーテンを閉め遮光した午後の
うす暗い部屋の中で、ソファに寝そべってサッカーを見ていた。こんこんが録画してくれ
たもので、アルゼンチンのサッカーだと言っていた。みんな荒々しいプレーをするが恐ろ
しく上手いということ、シュートやスライディングのような派手なシーン以外は目に留ま
らず、フットサルの参考になるようなプレーを見つけようとする気にはなれなかった。西
陽を受けて膨らんだように明るいカーテンが気になって仕方がなかった。
陽が暮れかかって電気をつけようとした頃、美貴からマンションの近くにいるから行っ
てもいいかという電話が着た。
美貴は大量の酒を買い込んできたけど、口をつけただけでテーブルに置いた。呼吸にも
細心の注意を払うような頼りなさで、頬を噛みしめて組んだ手元に視線を落としていた。
「悪いとは思ってるんだ。でも……」
どうにもならない。そう続けたかったのだろうが、それができるくらいならこんなに状
況がこじれたりはしていなかった。私は慰めることも檄することもできずに、美貴と同じ
ように緊張して隣に座っていた。
どれくらいそうしていただろうか。二時間も三時間も身を固くして隣りあっていたよう
な気がするが、きっと五分か十分くらいだろう。電気をつけ損なった部屋から光が引き、
闇がめり込んでくるのを見ていたからだ。
存在を忘れてしまうほどに自分を追い込み、狂おしいくらいの孤独を感じた私たちは、
ふとお互いを確かめあった。美貴が媚びた目で微笑んだ。そして、弱々しく鼻から息を漏
らした。重すぎる沈黙に情動が弾けた。解放されたい鬱屈は本能に依存しようとする。気
がついたら唇を貪りあっていた。異様であっちゃいけないことだと理性が警鐘を鳴らし続
けていたけれど、精神と分離したように肉体は勝手に動き続けていた。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:58
-
「よっちゃんのことは好きだけど、こういうことはしたくなかった」
戯れとするには不可能なほど、私も美貴も深い部分まで関わってしまった。指を入れた
りするのはまだ痛いから重ね合わせるだけにしてほしいと言った美貴を、私は無視した。
机を跳ね飛ばして絨毯の上でまぐわったあと、美貴は泣いていた。人間ってさ、電気信号
で動いてるんだって。脳から発信されて、それが神経とか筋肉に伝って。詳しいことはわ
かんないけどさ、舐められて気持ちいい、とか、よっちゃんが欲しくなっちゃう、とか、
終わったあとにこうやって悲しくなったりさ、どうにも歯止めが効かないことがあってお
腹とか頭が痛くなったり泣いたり悩んだりしていてもさ、そういうのって全部電気信号な
んじゃないかと思うと死にたくなるんだよ。自分の意思じゃないみたいでさ、プログラム
されたことを忠実にこなしてるだけなんじゃないかって、そういうのがすごく嫌なんだよ。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:59
-
大きく右にうねったカーブを登りきると、霧が晴れた。カーブの突端が山の合間になっ
ていて、風が流れていた。連なっているだろう山々は乳白色に霞んでいて、一番近くの山
しか見えない。
霧の中、普通に走っていたなら見過ごしてしまいそうな脇道で左に折れ、深い轍のある
砂利道をさらに登っていく。
石川は唐突にこの世を去った。深夜の運転中、対向車線のトラックに突っ込んだらしい。
ブレーキ痕がなかったため、居眠り運転だったと警察は発表した。しかし、私を含めた石
川に近しい人やファンは信じなかった。トラックの運転手は何度もクラクションを鳴らし
たと言った。通行人の証言もあることから、それは間違いない。そしてそれが、私たちを
混乱させた。警戒心の強い石川は眠っているとき、どんなに小さな物音でも敏感に反応す
る。自殺ではないのだろうかと誰もが思っていたが、誰も言わなかった。石川が自殺する
理由はどこにもなかったし、あったにしてもそれは石川なりの理由で、今となってはもう
わからないし、わかったとしても理解できないだろう。
私は美貴との一件があったから、みんなとは少し違う風に考えることができる。希望的
観測でも自分の中で説得力を持たせられることが救いだった。
スクーターのエンジンを切って惰性で石川の言っていたキャビンの敷地内に入る。鬱蒼
と茂る樹林の暗闇に浮かぶ大きな建物は威圧感の欠片もなく、暖かな印象だった。陽射し
に緑が明るく透き通る時間帯になれば、さぞかし美しくなるのだろう。メンバーとここに
来ることを想像してみた。
藤本美貴、小川麻琴、紺野あさ美、高橋愛、新垣里沙、亀井絵里、道重さゆみ、田中れ
いな、久住小春。そして加入が決定した、三代美紗、門脇真冬。私は明日、モーニング娘。
を卒業する。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:59
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- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:59
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- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/14(火) 23:59
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