35 カレーの歌
- 1 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:42
- 35 カレーの歌
- 2 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:44
- 車窓から見える風景は既に闇に染まっていて、洋にはここがどこなのかわからない。た
だ駅と駅の間のどこかなのだということだけが洋に知り得る事実で、だからもうとうに外
の景色からは興味が失われていた。
所在無くさ迷う視線はいつしか宙吊り広告に止まり、無意識にその文面を読み上げる。
「政治家I愛人発覚」「アイドルM実は失踪?」そんな週刊誌の見出しを読むと日本はま
だまだ平和だな、などとどうでもいい考えが浮かぶが、最寄の駅までの時間つぶしにはこ
れが意外と重宝するのだった。
洋が単身赴任でここに越してきてから、既に半年近くが経つ。新しい物に馴染めないの
は昔からだが、未だに通りぬける駅の名前も覚えられないのは、四十を重ねた年のせいか
とも思い、微かな寂しさがこみ上げてくる。
単身赴任になるにあたり、ついて来るといって聞かなかったのが妻で、娘を転校させる
のは可哀想だからと一人で家を出ることを主張したのが洋だった。
娘は今年で十五になるが、洋には自分とは別の生き物であるかのように写る。娘の話す
言葉も、好きな物も、全てが洋には遠い物で、いつからか娘の世話は妻に任せっきりにな
っていた。洋には娘をなでたことすらないのだ。
娘に関して洋が知っているのは、今流行りのアイドルに夢中であるらしいということだ
けで、それすらも娘ではなく妻から聞いたものだった。そして妻はその後にこんなことを
言った。「久美子のおかげで流行りに置いて行かれなくて助かるわ」洋には、妻のような
器用さはない。
- 3 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:45
- 電車はようやく最寄の駅に到着し、吐き出されるように夜の街に降り立つ。酔っ払いに
紛れながら、同じように頼りない足取りで歩く洋の目に、金に輝く蝶の指輪が映った。そ
れは駅前の大通りに陣取った出店にいくつも並べて置かれており、その金は見るからにメ
ッキだとわかるような安物だった。
蝶は娘の好きな物だ。正確には、幼かった娘の好きだった物。今でも蝶を好きなのかは
わからない。その記憶がいつのものなのか辿っていって、少なくとも小学校に入る前だな
と思い出した時、洋の背筋に悪寒が走った。もう十年も娘の好きな物すら把握していない
のだ。
洋は指輪から目をそらし、強い足取りで歩を進める。逃げるように。視線を時計に移し、
いつもより三十分ばかり遅くなった帰宅時間を言い訳にした。
- 4 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:45
- ようやく家に辿り着くと、玄関の前には今日もさゆがいた。洋に気付くとさゆはにこり
と笑って「遅いよ」と甘えた声を出した。
さゆは数日前の雨の晩に偶然拾った。
傘も差さずに雨に打たれる少女に「風邪を引くよ」と声を掛けると「寒い」とだけ返さ
れた。断わられるだろうと思いながら「うちに来るかい?」と言った。そして、言った後
に後悔した。四十にもなる男のする行動ではなかった。少女が今悲鳴をあげたなら、洋が
善意を主張したところで、一方的に悪になるだろう。もうそういう年になったのだ。
しかし少女はコクリと頷き洋に従った。洋を見返すその瞳は幼く、それ故に危うかった。
その日はタオルを貸してやり、暖を取らせた後、そのまま家に返した。恐らく娘と同じ
位であろうその少女は洋の性欲の対象にはならなかったが、それでも後ろめたい気持ちに
なってしまう。
そんな洋の気持ちをよそに、少女は次の日も来た。
「君は昨日の……」
「君じゃなくて、さゆ。さゆって呼んで」
それからは毎日だ。別に何をするわけでもない。洋の作った簡単な料理を食べて、ポツ
ポツとお喋りをしてさゆは帰っていく。
恐らく二回り以上も離れているさゆの言葉は、洋にとって外国人のそれと何ら変わりな
かったが、楽しそうに話すさゆを見ているのは悪い気分ではなかった。
- 5 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:46
- 「今日はどうして遅かったの?」
そう言って覗き込むさゆの顔は少女の物で、洋はこっそりと安堵の息を漏らす。
さゆは時々、洋が驚く程に女の顔になる。それは彼女が意識してやっているわけではな
いようで、それが余計にさゆを危うく見せた。
洋の言葉に何の疑いもなくついてきたこともそうだが、さゆにはどこか浮世離れしたと
ころがあった。それは、教育も受けていない程の幼子が優しい大人についていってしまう
のと同じだ。
しかし、洋が十代の少女の何を知っているのかと聞かれたら、何も返すことは出来ない。
「残業だよ。仕事で色々あってな。ともかく、いつまでも外にいたら風邪を引くし、家に
入ろうか」
さゆは洋の言葉に黙って頷き、洋の後に続いてアパートに足を踏み入れる。
帰ったばかりのアパートは暖房が効くまで少々肌寒く、さゆの為にこたつを入れてやる。
そうして晩飯を作ろうと台所に入ると、何故かさゆはこたつではなく洋の横にいた。
「どうした? こたつついてないか?」
そう言ってもう一度こたつに向かう洋を、さゆが留める。
「今日はさゆがご飯作るの」
そう満面の笑みで言うと、えへへとビニール袋を突き出した。
人参、じゃがいも、玉葱、そして市販のカレールーが入っている。
「任せて、さゆ料理上手いんだから」
そう言うと、洋の許可も得ずにさゆは台所をひっくり返し始めた。呆然とする洋を余所
に料理に入るさゆの手元は、不器用な洋も不安になるくらいにたどたどしいものであった
が、カレーならばどうにでもなるだろうと、素直にこたつに戻った。
さゆと過ごした数日間で、この年頃の少女がどういうことを嫌がるのかが何となくわか
っていたからだ。
- 6 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:46
- 洋が所在無くテレビを見ていると、台所から不思議な歌が聞こえてきた。それはお世辞
にも上手いとは言えず、洋は声を上げて笑った。
「なんだその歌。へたっぴだな」
「むー! さゆは歌下手じゃないもん!」
さゆは年相応の、しかし予想以上の反応を見せ、わざわざ居間まできてぷんすかと怒り
出した。それでも今は料理で手一杯だったらしく、洋が「焦げるぞ」と言うと、慌てて台
所に戻った。
それからもさゆの歌は続いた。歌も下手だったが、メロディーもへんてこな物だった。
耳に残りはするが、心地よいとは言えない。少なくとも洋の若い頃にはこんな曲はなかっ
た。もしかしたらさゆが自分で作ったのかもしれないな、と思う。
二時間近くかかってようやく出来あがったカレーは、意外な程にまともな外見をしてい
た。
「へえ、うまそうに出来てるな」
「だから料理得意だって言ったでしょ」と胸を張るさゆの前で洋は一口ほおばる。
「……ど、どう?」
洋は数度噛み、そして無言のままもう一口ほうばる。
「うまい……」
「ほんと!? だから言ったでしょ。さゆは料理上手いの」
「ああ、ほんとだな。偉いぞ」
そう言ってさゆの頭をなでてやる。
「髪が乱れるー!」
イヤイヤをするさゆを無理やり抑えつけて、何度もなでてやった。さゆは嫌がりながら
も笑っていて、洋も何故か楽しかった。
- 7 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:47
- その後、またいつものように他愛もない話をした。
「さゆね、修学旅行行けなかったの。帰ってきた後、みんな楽しそうだったな」
さゆはそう寂しそうに笑って、「今が修学旅行みたいなものかも」と付け足した。
「一人でホテルを借りれるの。さゆ偉いでしょ」
「家族は心配してないのか?」
「……大丈夫、許可とってるから」
そう言った直後に、さゆの携帯がメロディーを鳴らす。微妙に音程がずれているが、先
程さゆが歌っていた曲だ。
さゆは少し迷った後、「間違い電話みたい」と言って携帯の電源を切った。洋もそれ以
上は追及をしなかったが、何となくかかってきた相手はわかっていた。
- 8 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:47
- さゆが帰った後、珍しく居間の電話が着信音を鳴らした。
本社にいた頃は休む暇もない位にかかってきていた電話も、今では週に一、二度がいい
ところだ。だが、洋にとって、電話がかかってこないことよりも、それを寂しいと思わな
くなってしまったことがずっと寂しかった。
電話は妻からだった。
「久美子が……? 何しに」
「アイドルのコンサートがあるんですって。だから一晩泊めてあげて」
「あいつも友達と一緒に来たいんじゃないのか? 俺の所じゃ友達と来づらいだろう」
電話口から妻のため息が聞こえる。そのまましばらくの沈黙の後、今度も向こうから話
を切り出した。
「久美子はあなたに会いたいのよ。コンサートなんて口実。そんなに邪険にしないであげ
て」
「俺がいつ久美子を邪険にした?」
語気がわずかに強まったのに気付き、洋は慌てて息を飲み込む。これではまるで、図星
をつかれているようではないか。
「とにかく、泊めてあげてくださいね」
「……ああ」
「じゃあ、久美子に言っておきますから」
洋はため息を吐き出すように「わかった」と言い、電話を切ろうとする。受話器を耳か
ら外す瞬間「子供って意外と鋭いのよ」という妻の声が聞こえた。
- 9 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:48
- 台所からは今日もさゆの歌声が聞こえてくる。変だと思っていたメロディーも聞きなれ
てみれば不思議と心が休まり、疲れた体に染み渡っていった。
「できあがりー! 今日もカレーさんはおいしそう」
軽い足取りで居間に向かってくるさゆを待っていたように、携帯が着信を告げる。さゆ
の携帯の着信は、日が経つにつれ頻度を増していた。さゆはそれを無視して洋に微笑みか
け、「お腹すいた」と言って笑った。
「今日もカレーか」
「何、文句あるの?」
洋が慌てて手を振って見せると、さゆも満足したように笑った。その視線が一瞬だけ携
帯に移ったことに洋は気付いている。しかし、気付かなかったことにした。
暇つぶしに流していたテレビで、今流行のなんとかというアイドルが映る。娘はきっと
こういうものに興味があるのだろう。洋とは、違う。
「おじさん、こういうの興味ないの? 結構年齢層の高いファンもいるって聞くけど」
先程まで興味なさそうにしていたさゆが、突然口を開く。そこまで顔に出てしまってい
たのだろうか。
「ああ、この年になるとどうもね。もうこういうのを好きになる年じゃないし、年を取っ
たんだろうな」
弱音が出る。あるいは素直な気持ちだろうか。何故かさゆの前では本音で話せる。
「おじさんは好きなアイドルとかいなかったの?」
「俺か? そうだな、おにゃん子クラブとか好きだったな。当時はかなり有名だったんだ
けど、知ってるかな」
「あーうそ、お父さんと一緒だぁ」
そう言って笑った直後、さゆの顔が曇る。言ってはいけないことを口にしたような苦虫
を噛み潰したような表情になる。
そして、まるでタイミングを見計らったかのように、さゆの携帯が震えた。慌てて電源
を切り、ポケットにしまう。
「えへへ。いつの時代も変わらないね」
誤魔化すように言ったその言葉に、洋は後頭部を強く打たれたような衝撃を受けた。さ
ゆの言うとおりだった。何も変わりはしない。今も、昔も。
- 10 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:48
- 会社を出た頃に茜色だった空は既に日を落とし、うっすらと夜の帳も下りてきている。
電車の中で洋は、昨晩突然癇癪を起こしたさゆのことを考えていた。
原因は洋にもあった。
当初はお客のつもりで扱っていた少女だったが、会う時間が長くなれば愛着も沸く。自
然と小言が増えた。
恐らくそれはさゆにしても同じことだったのだろう。初めのうちこそ気を遣っていた彼
女も、次第に洋のアパートが自分の家であるかのように振舞い始めた。だから、洋の小言
も増える。
そして昨日はじけた。
「さゆ、食べ方が汚い。ご飯粒まだたくさん残ってるだろ」
「ごちゃごちゃうるさいな」
「何?」
「ごちゃごちゃうるさいなあって言ったの! 親でもないのに余計なこと言わないで!」
何も言い返さない洋を見て、さゆははっとしたように口元を押さえた。洋はどこを見て
いいかわからず、さゆの手からこぼれていたほくろをぼんやりと見た。
「ごめんなさい」
親でもないのに。その通りだった。洋は今さら自分の勘違いを知った。自分は一体さゆ
に何を重ねていたのか。
「さゆが謝る必要はない。その通りだからな」
もしかしたら、皮肉な笑いになったかもしれない。しかしさゆは気丈にも泣くことはせ
ず、黙って口元を噛みしめていた。
「ごめんなさい」
「……わかったから」
思えば最近しばらくさゆの元気がなかったような気がする。それと同時にイライラも募
っていたのだろう。それを見過ごした結果が昨日の出来事だった。
- 11 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:49
- 気付くと電車は最寄の駅に停車していて、扉が閉まる直前に慌てて飛び出した。たった
それだけのことにも関わらず、洋の足は鉛のように重い。年を取った。もう誤魔化せない
くらいに。そして自分が老いた分娘は成長しているのだと考えると、洋の頭に不思議とさ
ゆの顔が浮かんだ。
終電近くになっても、大通りには煌々と明かりが灯っている。何となく足を止めると、
金髪にピアスをつけた「イマフウ」の若者と目が合った。
「なに、おじさん、買ってくの?」
うっすらとした笑みが癇に障る。男から視線を逸らすと、いつか見た金の指輪が目に入
った。
「これ、いくらだ?」
「あ、ほんとに買ってくれんの? えーとねぇ千円になります」
洋は黙って札を一枚出し指輪を受け取ると、途端に愛想を振りまいてくる男に背を向け、
家路を辿った。
玄関の前には相変わらずさゆがいた。昨日のことなどなかったかのように、にこにこ笑
って「遅いよー」と言う。
洋はそれには何も返さず、「いつまでも外にいたら風邪引くぞ」とだけ言った。
- 12 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:50
- 「さて、さゆがおいしいカレー作ってあげるね」
「なんだ、またカレーかよ」
「文句言うならあげなーい」
「悪い悪い、作ってくれ」
うすっぺらい会話だと思う。洋もさゆも昨日のことには触れないまま時間だけが過ぎて
いく。
――親でもないのに。
今まで普通にしてきた他愛もないおしゃべりが、急にできなくなった。自分がさゆに何
を重ねているのかを知ってから、さゆに何を話していいのかわからなくなってしまったの
だ。
付けっぱなしのテレビを見るでもなく、ぼんやりさゆの後姿を見つめていると、すぐ傍
で携帯が着信を知らせた。自宅。予想通りの発信先に、洋は再びさゆを見た。さゆはテー
ブルの上の携帯を拾い上げると、すぐに電源を消した。
「出来たよ、ご飯にしよう」
無理矢理に笑うさゆを見て、洋は娘を思う。こんなとき娘にはどうやって接してきただ
ろうか。答えは、出ない。
- 13 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:51
- 食事の間、さゆとの間に会話はなかった。洋はさゆと携帯と交互に視線を往復させ、話
す機会を伺う。それがわかっているから、さゆはカレーから視線をあげなかった。
それでも時間だけは確実に前へ進んでいる。洋は覚悟を決めた。
「お前、両親に黙って家出てきたんだろ」
さゆは何も答えない。
「最近元気ないよな。家、帰りたいんじゃないか?」
これも、答えない。
「きっと両親も心配して――」
「それはないよ」
さゆは初めて、きっぱりと答えた。
「だってあの人たち、私を愛してないもの」
そう言って寂しげに微笑んださゆに、どう言葉を返せばいいのだろう。だが、洋は初め
てさゆの本音を聞いた気がした。
「いっつも構うのはお姉ちゃんばっかり。私はかわいくないから、誰も相手してくれない」
「さゆ……」
「だから頑張ってかわいくなったのに、結局構ってくれるようになったのは他の人だけ。
お父さんもお母さんもお姉ちゃんが大好きだから」
言葉は返せなかったが、何かが違う気がした。洋は何かにひっかかっていた。
何度もさゆを諭そうと口を開きかけては、言葉を飲み込む。もどかしくて、ズボンのポ
ケットに突っ込んだ手をせわしなく動かす。そこで何かに触れた。指輪だった。
洋は指輪をテーブルに置いた。衝動的に買った指輪だ。
「さゆ、おじさんにも娘がいるんだ」
気付けば、洋も初めて家のことを話していた。
「この指輪、無意識に買ってた。娘の大好きな蝶の指輪だ」
十年前の、という言葉は飲み込んだ。離れていたのなら、また近づけばいい。
「これ、さゆにやるよ」
「……え?」
「前に、修学旅行みたいだ、って言ってたよな。じゃあそのお土産だって思えばいい」
そう言って、さゆの手をとる。指輪を贈るのは妻以来だったから、少し気恥ずかしかっ
た。
「わかるか? 修学旅行が楽しいのは、帰れる家があるからなんだ」
自分でも臭い台詞だと思った。若い頃には言えなかっただろうな、とも。
テーブルの家に置きっぱなしのさゆの携帯を手に取り、たどたどしい手付きで電源を入
れる。そしてさゆに突き出した。
「自宅からの着信を拒否してなかったのは、きっかけが欲しかったからだろ? 親が自分
のこと心配するか知りたかったんだろ? もう十分わかったじゃないか」
さゆはしばらく呆然と携帯を見つめていたが、不意に口元を緩めると、洋の手から受け
取った。そうして、洋にべえと舌を出すと「これ、ダサいね」と言って指輪を付け、廊下
に駆けて行った。
- 14 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:52
- さゆが居間を出てからもう十分近くが経つ。相変わらずボソボソとした声だけが聞こえ
てくるが、声は大分明るいものになっている気がする。
恐らく今日でさゆとはお別れになるだろう。終わってみれば、あっという間だったと思
うのだろうか。
扉が開いてさゆの顔が覗くと、さゆは少しばつの悪そうな、照れくさそうな表情をして
いた。それで、うまくいったのだなとわかった。
「さゆのカレーが食べれなくなるの、寂しい?」
「ようやくカレーから解放されるかと思うと嬉しいよ」
半分本当で半分嘘だった。父親として食べるカレーは、思っていた以上においしく感じ
られた。
「今度はお父さんに作ってやれ。喜ぶぞ」
さゆは笑顔のままにうなずいて荷物に手をかける。善は急げ、か。頭では理解しつつも
やはり寂しさを感じた。
さゆが部屋を出ていく。
遠ざかる背中に声を掛けるべきか、無言で見送るべきか、洋にはわからなかった。
玄関の前でさゆが振り返る。洋と目が合う。
「親は、いつだって子供がかわいいもんだ」
これは誰に向かって言った言葉だったろう。
「さゆも、お父さんのこと大好きだよ」
そして、これは。
- 15 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:52
- □
- 16 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:52
- 「楽しかったか?」
数ヶ月ぶりに会う娘にどう話しかけるかを丸一日考えて、結局洋の口から出たのがこれ
だった。
久美子は曖昧に笑いながら「うん、楽しかった」と言った。
「そっか、学校はどうだ?」
「うーん、まあまあ」
会話が続かない。洋はテレビのスイッチをつけ、それに見入っている振りをする。
「お父さん、ご飯食べた?」
「ん…まだだけど。どこか食べに行くか?」
「じゃあさ、私がカレーを作ってあげる」
一瞬ドキリとした。さゆに背中を押されている気がした。しかし、洋には「ああ、じゃ
あ頼むよ」と、掠れた声で言うのが精一杯だった。
テレビでは歌番組がやっていて、ぼんやりと洋の耳を抜けていく声が何となくさゆに似
ている気がした。
娘と向き合って初めてわかることがある。以前に妻に言われたことを今、身にしみて感
じていた。
子供は敏感だ。洋が子供から遠ざかっていた十年間、娘もまたどんどんと洋から離れて
いっていた。さっきの遠慮したような困ったような笑みを見て、ようやく気付いた。娘と
真っ直ぐに向き合って初めて気付くなんて、皮肉なことだと思った。
急にさゆのことが懐かしくなった。さゆが洋を逃げ場にしていたように、洋もまたさゆ
を娘の身代わりにしていた。さゆは自分の居場所に帰れたが、洋にはまだ自分の居場所が
どこなのかわからない。
- 17 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:53
- 台所からはまな板をたたく包丁の音が聞こえる。均一に鳴るその音は、洋をさゆがいた
頃に引き戻していく。肉や野菜を炒める音が聞こえる。しばらくして鍋に水が注がれた。
そしてここでカレーの歌が――
「……え?」
聞こえた。
さゆの歌っていたカレーの歌が、台所からひっそりと流れてくる。しかしそれは、紛れ
もなく娘の声だった。
「これから煮るからまだ時間かかるよ」
あく取りに必死な娘は、後ろを振り返らずに声を掛ける。好都合だった。予想外の出来
事に呆然としている顔を娘には見られたくない。
「それ、流行ってるのか?」
震える声で、何とか聞いた。
「んーわかんないなぁ。私は大好きだけどね。なんで?」
ようやく振り返った娘の顔はどこか不安げで、洋の顔色を伺っているように見えた。
洋はそれを見てはっとした。気付いたつもりで何も気付いていなかったのだ。洋と娘が
一緒なのは距離を置いていることだけではない。娘も、不安だったのだ。
だから出来る限り優しく微笑んで言う。
「いや、お父さんも好きだからさ。それ」
それを聞いた久美子はなんと言っていいのかわからない、曖昧な表情をしていたが、し
ばらくしてようやく表情をぱあっと明るくした。
- 18 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:54
- そこからの久美子は、重りを外したように軽やかに言葉を発した。
今日のコンサートを本当に楽しみにしていたこと、この曲を歌ってくれて本当に嬉しか
ったこと、今度はお父さんと一緒に行きたいということ。
そして右手の薬指に付けた指輪を見せ、
「この指輪ね、モーニング娘。っていう、あ、今日のコンサートの人たちなんだけど。そ
の中の道重さゆみって子がつけてたのを、駅前で偶然見つけたの!」
と、一番嬉しそうにまくし立てた。
そこまで話した後、ようやく自分が興奮していたことに気付いたようで、照れ臭そうに
笑った。
「でもこれ、ちょっとダサいよね」
そう言って、金の蝶を指差す。
洋は呆然とその指輪を見つめた。わずかな間だけの、父親の証。娘の大好きな、蝶の指
輪。
「いや、似合ってるよ。久美子、蝶好きだったろう?」
「蝶? そうでもないよ、いつの話?」
久美子はいつのまにか自然に笑うようになっていて、洋もつられて自然に笑うことが出
来た。十年の年月は長いが、これから徐々に埋めていけばいい。そのためなら十年でも二
十年でも掛けることが出来るだろう。
- 19 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:55
- 出来上がったカレーは、さゆが作ったものよりもひどい出来だった。でも、口に入れた
後、久美子への文句は浮かばなかった。
さゆも今頃、カレーの歌を歌いながら、お父さんに作ってあげているのだろうか。その
ときのお父さんの顔は洋にも想像が出来る。多分、自分と同じ表情をしているだろうから。
「上手だな」
そう言って洋は、初めて久美子の頭をなでた。久美子はくすぐったそうに身をよじった
が、払いのけることはせず、照れ臭そうにそのまま身を任せていた。
テレビではアイドルが、もう懐かしくなってしまった声で、カレーの歌を歌っている。
- 20 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:56
- 了
- 21 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:56
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- 22 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:57
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- 23 名前:35 カレーの歌 投稿日:2005/03/20(日) 23:57
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