24 鈍色ナイフ

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:52
24 鈍色ナイフ
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:53

部屋の前にゴミ袋がどんと置かれていた。
と思ったら、それは黒いトレーナーを来た兄だった。
山口にいる筈の彼がどうしてこんなところにいるのだろうと私は目を疑った。
記憶の中よりもさらに太り、髪もぼさぼさ。背中には大きなリュック。
なんだか見ていたら目が腐っちゃいそうな出で立ちだ。彼に話しかけられる自分を想像したら鳥肌がたった。
幸いまだ気づかれていないので、このままUターンして絵里の家に泊めてもらおう。
音を立てないように踵を返す。途端、携帯が鳴った。こんな時に。タイミングの悪い。
「…さゆみ」
兄の声。見事に気づかれた。
私はメールを送ってきた人物を恨めしく思いながら
――タイミングの悪さではぴか一の石川さんだった――兄を振り返る。

「おかえり」
兄は、にたっとした気持ちの悪い笑顔を浮かべていた。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:53

「…なにしにきたの?」
中にあげるつもりはないので、少し近づいてからそう話しかける。
声にはありったけの不機嫌をのせて。
だというのに、彼はまったく気にしていない。にたにた笑顔のまま答える。
「お前に会いに来たんだよ」
「……一人で?」
「うん」
「どうせ来るならお姉ちゃんも連れてくればいいのに」
溜息と一緒に吐き出すと、兄は少しだけ笑顔を消した。
なにか言いたげにその口が動くけど、もう言葉になっちゃいない。
あ、あ、あ。いきなり言葉を忘れたみたいにその音だけを繰り返す。
うんざりする。ブヨブヨの顎肉の揺れとか、なにもしてないのに汗かいてる所とか
落ち着きなく動く目とか指先とか。私は兄の全てにうんざりした。昔はそうでもなかったのに。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:54

6つ年上の兄は中学までは完璧だった。嫌いじゃなかった。
完璧な兄と姉。そして、完璧な私。道重家は完璧。
それが壊れたのは兄が高校に入学してからだったと思う。
彼がまともに高校に通っていたのは1ヶ月かそれくらい。
あとは一日の大半を家で過ごすようになり、終いには部屋からも出てこなくなった。
その理由は知らないし、もう興味もないので、私がそれを聞くことは一生ないだろう。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:54

「…私に何か用なの?」
「つ、つ、冷たいな」
「いきなり来る方が悪いの。疲れてるんだから」
「あー、そ、そうか。いきなり来たのは、うん、悪い、悪かった」

兄が頭を下げる。頭頂部からパラパラとフケが落ちる。
勘弁してほしい。私は彼から目を逸らしながら「早く用件言って」促す。

「あ、うん。あの、明日、お前休みだろ」
「…うん」
どこで知ったんだろう。

「お兄ちゃん、明日死ぬから看取ってくれよ」

兄は頭をかきながら――またパラパラ落ちるフケ――言った。
生きる価値のない人間なんていないというけれど、兄は生きる価値のない人間だと私は思う。
だから、彼が死にたいというのならそれを止める気なんてちっともない。
兄が死んでも私の生活はなにも変わらない。「いいよ」私は頷いた。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:55

+++

命は親から頂いた大切なもの。
もう一度静かに両親や兄弟、子供のことを考えてみましょう。
一人で悩まずまず相談してください。

遊歩道の至る所にはそんな看板が立てられていた。
樹海の中に入るのは、この遊歩道を外れるだけでいいらしい。
あまりにも簡単すぎて、当然、自殺の名所にもなるって話だ。
看板一つで気が変わるくらいなら誰もこんな所まで足を運ばないだろうし。
私たちは立て看板の脇をすり抜けて樹海に足を踏み入れた。
最初50メートルほどは付近の警察が自殺者発見のために頻繁に捜索しているせいか、
とても綺麗に整っている感じがした。
ふと気づくと兄がリュックから黄色のカラーテープを取り出して木に貼っていた。

「なにしてるの?」
「さゆみが帰り迷わないように」

そっか。帰りは私一人なんだ。私は横に大きな兄の背中を見る。
たまには気の利いたことができるんだ、この人。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:55

少し進んではテープを張り、を繰り返していくと辺りは次第に暗さを増してきた。
樹木が空を覆うように生えていて空が見えない。
茫々に生い茂った草が、警察もなかなか入ってこない遠くに来てしまったことを物語っていた。
そろそろ死体とか見られそうな雰囲気だ。
白骨化してたらいいけど、中途半端に腐っているのは見たくないな。
思いながら、また私は横に幅のある兄の体をみる。
その体が白骨化するのはかなり時間がかかりそうだった。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:56

「ねぇ、お兄ちゃん」
「…ん?」
「ここらへんでいいんじゃない?」
「そ、そうかな」
「うん。いいと思う」
「じゃぁ、ここらへんで死ぬことにしよう」

兄は立ち止まり、バッグから太い縄を取り出した。
キョロキョロとそれをかける木を探し出す。
けれど、どの木の枝も兄がぶら下がったら折れてしまいそうに細かった。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:56

「首吊るの?」
「あ、うん」
「無理だと思うけど」

言うと、兄も薄々そう思っていたのか押し黙った。
やれやれ。

「他になにか方法考えてないの?」
「…練炭とか」
「それって密室じゃないと無理でしょ」
「……そうなのか?」
「そうなの」

信じられない。
自殺したいならそれくらい知っておくべきだ。
本当に死にたいのだろうか。兄のあまりの考えのなさに私がぷりぷりしている間に
彼はどうしようかとぶつぶつ一人で悩んでいる。ああ、面倒臭い。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:57

「ここからお兄ちゃんだけ奥に進んで飢え死にすればいいんじゃないの?」
「…そんなに簡単に飢え死になんてできるのか?」
「知らないけど」
「それに、こんなとこに夜一人でいるなんて怖いじゃないか」

兄がふざけたことを口にする。
死にたい人が夜の怖さなんて気にするものか。いい加減、相手にしてられない。

「……もう知らない」
私は兄をその場において来た道を引き返し始めた。

「さゆみ、待ってくれよ」

情けない声をあげて兄が追いかけてくる。
ドスドス、そんな音が聞こえそう。
兄が起こす地響きに、眠っていた富士山が目を覚ましちゃったりして。
そうしたら、自殺どころじゃなくて皆死んじゃう。
私は立ち止まる。兄がホッとしたように表情を緩めた。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:57

「お兄ちゃん、死にたいの、死にたくないの?どっちなの?」

詰め寄って問う。怯えたように兄が首を引き――そうすると三重顎――
ぼそぼそと「し、死にたいよ」言った。

「なら、私が殺してあげる」
「え?」
「妹として最後のプレゼント。感謝してね」

私はこんなこともあろうかと持ってきていたナイフを取り出して
有無も言わさず兄の腹に突きたてた。
なにが起きたのか分かっていないのか、キョトンとした顔で兄が固まる。
脂肪があるせいか大したダメージじゃなさそうだ。

私は何度もナイフを突き立てる。力いっぱい。
黒いトレーナーが段々と染み出た血に変色する。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:58

やがて、やっと事態を飲み込んだのか
ひぃっと叫びんで兄が尻餅をついた。腰が抜けたらしい。
手を使って後ずさる姿は虫けらみたいで無様だ。
逃げないように圧し掛かってさらにナイフを振りかぶる。
兄が日本語とも思えない恐怖の声をあげる。私はそれに鼻白む。

「死にたいって言ったのに怖いの?」
「だって、おま、お前、人殺しになるんだぞ」
「今のお兄ちゃんを人と思ったことはないの」
「だって、俺、まだなんにもしてないのに」
「引き篭もりなんだから当たり前なの」
「あ…だって、だって、俺まだ女の子と付き合ったこともないのに!!」

なんだか哀れ。妹の前でそんな告白しなくてもいいのに。
無性に笑いたくなって口を笑顔の形にゆがめると、いよいよ怖くなったのか兄は泣き叫んだ。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:58

「死にたくないよ!!」
「やっぱり死にたくないんじゃない」

せーので勢いよくナイフを振り下ろした。兄が、うぎゃーっと悲鳴をあげる。
血は飛ばなかった。ああ、すっきりした。満足して立ち上がる。
突き刺さったはずのナイフは手を離すと兄の腹の上にコロンと転がった。

「…あれ?」
間の抜けた声。痛みがないことにようやく気づいたらしい。
ナイフは刺さったら引っ込んで血糊が出てくるただの玩具だし、最初から痛いわけがないのだ。
半ば放心していたような兄はのそのそと体を起こして、
訝しげに玩具のナイフを手に取る。そして、顔を上げた。

「…さゆみ」
「お兄ちゃんなんかのために私が輝く未来を棒に振るわけないの」

疑問の声にそう答えて私は歩き出した。
数秒遅れて兄が私の後ろについて歩き出す音が聞こえた。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:59


「さゆみ」
「なに?」
「いや、あの…なんでもない」
「…お兄ちゃん」
「ん?」
「一回死んだんだから、しっかりしてね」

返事はなかった。
私たち、それから無言で黄色いテープを辿って帰った。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:59
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:59
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 12:59

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