19 アディオス・アミーガ
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:24
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19 アディオス・アミーガ
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:25
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今だ。きっといける。
頭の奥のほうで声がした。
重くなった頭を持ち上げると、鮮やかな黄色がぼやけた視界に入る。
腕をかいて目標のフリルまで。動かない足に期待はしてない。
青いシューズの片方を大きく持ち上げる。しなやかな脚は驚くほど上がる。
ダ ン ダ ン
床が大きく波を打って揺れる。震度5、マグニチュード6クラス。
真っ白な正方形の真ん中で重なり合っているカラフルな衣装の私たちと、
その横で床に張り付いているストライプシャツに身を包んだレフェリー。
最後にもうひとつ、ダンッと大きく決まってスリーカウント
・・・・っていうはずだったんだけど。
片エビ固めを受ける姿勢から勢い良く振り上げられた脚に、私の腕が簡単に
解けると体勢が逆転し、私の背中がマットに押し付けられる状態に。
彼女の太腿をしつこく離さなかった右腕が、彼女の両足にはさまれた。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:25
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やばい。肩とられる。
取られた右腕がねじれないように、腹筋を使って体勢を変える。腕をとられるのは
面倒だ。関節技、固め技ともに数え切れないほどバリエーションがある。
幸いにも、右腕はまだ完全に伸びきってはいない。外力に逆らって腕をまげつつ、
右腕を救出すべく、左手を伸ばす。
よしっ。まぬがれた。
彼女の太腿をかいくぐり、両腕が結ばれる。これで関節技の危険はなくなった。
関節でタップをとられるのは、普通にスリーカウントを許すよりも遥かに
ダメージが大きい。肉体的にも、精神的にも。
あれ? あれあれ?
いつもはねちっこいレスリングをしてくる石川さんには珍しく、あっさり腕を
離してくれた。視界が変わったことにはすぐに気が付いたけれど、自分の身体が
マットから離れていることを認識するのには時間がかかった。
ド ド ン
ドーッという轟音が頭に響く。頭に大きな振動が加わったせいか、ミサイルキックを
受けたときから良く聞こえなくなっていた耳が元に戻ったようだ。この音がお客さんの
歓声だってことは分かる。一人一人が何を言ってるかはっきりとは分からないけれど、
ちゃーみーとか、いしかわとか、そういうのが多い。やっぱり石川さんの人気は絶大だ。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:26
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ダ ン ダ ン
ワン、ツー。レフェリーのリズムと会場の完成にあわせて、私の身体も
マットの振動を数える。こういうときに限ってカウントが遅いのは何でだろう。
早く終わってほしいのに。もう返す気力なんて残ってないのに。
ダ ン
3回目の振動が来て、耳に入ってくる音がいっきに大きくなった。
私の両肩に置かれた腕は離れ、少しだけ身体が軽くなった。
「6分27秒。アディオスアミーガで石川梨華選手の勝利です」
ゴングが鳴り、マイクが響いた。 今日の試合、これにて終了。
寺田さんの声はどこか鼻にかかったような、変な声。アナウンスのときは特に。
もう立ち上がる必要はないんだ。重い身体はもう少しここに置かせてもらおう。
石川さんを呼ぶ声が、だんだん小さくなっていく。
良かった。思ったほどダメージは大きくないみたい。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:26
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- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:27
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ん?
キツい臭いに鼻をさされて目が覚めた。私はどれぐらい眠っていたのだろう。
重い瞼を上げたけど、なぜだか視界は相変わらず真っ暗なまま。
背中に感じる固い感触は、寺田さんが気に入って拾ってきた緑色のソファかな。
ワーワーと聞こえてくる歓声に比べて、マットがしなる音が小さい。ここは
奥から2番目のの控え室。目で見なくたって聞こえてくる音で簡単に分かる。
試合でへばって動けなくなった私は、ここまで運ばれてきて寝かされてるって
ところだろう。いつものパターンだ。
それにしても、この臭いは何だろう。
ツンと鼻に来る強い臭い。ある種の製品に含まれる香ばしいかんじはない。
筋肉冷却剤だってことは明らか。日常的に嗅ぎ慣れてるもの。
サロンパスとは違って、アイスラブゲルでもなくて・・・
「そうだ。タイガーバームだ」
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:27
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「気がついた? 良かった」
「石川さん?」
思いがけず返ってきた高い声。私一人だと思っていたこの部屋には、さっきの試合で
対戦した先輩がいたようだ。起きあがって、額から目にかけて顔を覆うタオルを取ると、
ほんのり冷たく、しっかりした重さがある。中を開くと保冷剤が入っていた。
「あの、これ」
「ん?」
「どうもありがとうございました」
「ああ、それ、私じゃないよ。田中ちゃん」
「え?」
「倒れてたさゆを運んできたのは田中ちゃんだから」
「そうなんですか。後でお礼いわなきゃ」
「うん。そうだね」
石川さんはドアの方向を向くと、屈伸運動を始めた。
今日の彼女にはまだあともう1つタッグマッチが控えているのだ。
「大変ですね」
「ん? 何が?」
「石川さん、今日、ダブルヘッダーじゃないですか」
「あー。そのこと」
「最近いろいろたてこんでたし」
「確かにキツいね。このスケジュールで1日2つってのは」
「寺田さん、そういうこともっと考えて試合組めば良いのに」
私の言葉に、石川さんはクスっと笑った。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:28
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最近の彼女は誰の目から見てもオーバーワークだった。うちの団体の興行自体は
それほど多くないけれど、石川さんは他の団体の興行にレンタルされている。
昨日も八戸で男子団体のミクスドマッチをこなしてきたと聞いている。
「今日はね、寺田さんのせいじゃないんだ」
「へ?」
「私がお願いしたの。2つやらせてくださいって」
「何でまた・・・」
「どうしてもやりたかったんだ。2つとも。で、頼みこんだ」
「そうだったんですか」
「うん。なんか大変だったらしいよ。寺田さん、今日の試合組むために
色んなところに頭下げて回ったって言ってた」
「いいとこあるんですね。あの人も」
「多分そうとう誇張してるとは思うんだけどね」
「それもそうですね」
いろんな人の権利が絡むこの世界。しかも中には怖い人もいる。フリーランスの
人気選手の日程をおさえるのは難しいこともある。疑問に思うことは少なくない
けれど、寺田さんはこの世界の中でなかなかうまくやってるんだと思う。
ある程度の回数をこなして膝の屈伸に満足したのか、石川さんは床に腰を下ろした。
滑り止めのついた靴底がキュッと鳴った。
「今日、お客さんけっこう入ってるね」
「そうですね」
「数字、どれぐらいだか分かる?」
「チケットはだいたい1200だったんですよ。招待の人をあわせて1500ぐらい
だと思います」
「1500かぁ。まずまずだね」
「それじゃあ主催者発表は2500ってところかな」
「もっとするんじゃないですか」
「かもね。寺田さん、サバ読むのうまいから」
主催者発表で来場者数を水増しするのは、この世界の常識。1階イス席にも空きが
目立つ今日の興行でも、大入り満員と発表されるのだろう。それに今日は特別な日。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:28
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「今日、保田さんが来てましたね」
「本当に? 私、会ってないんだけど」
「開演ぎりぎりでしたから」
「珍しいね。圭ちゃんが遅れるなんて」
「忙しいんじゃですか?」
「えーっ。そうかなー? だって圭ちゃん、最近仕事入ってないじゃん」
「あはは」
「でも良かった。圭ちゃんが来てくれて」
石川さんは今日の興行で卒業する。
といっても、プロレスの世界から退くわけではない。うちの団体を辞めるだけだ。
次はVUDという団体に所属することになっている。
退団の正式な発表は今日の試合後のマイクアピールで行われる予定だけど、
石川さんの退団の手続きはもう終わっている。一昨日には寮からも引っ越した。
入団してから2年、ずっと一緒だった人がいなくなるのだ。寂しくないことはない。
けれどプロレスの世界は狭い。女子は特に。これからも顔を合わせることはある。
ダンボールを運びながら、涙を流しているみんなの姿に私は違和感をかんじた。
今日もいつもとは違う試合前のテンションになじめずにいた。
こんな私が、最近タッグを組む機会が多かったというだけで、引退興行の
シングルマッチの相手をつとめて良かったのだろうか。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:29
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「はい」
さっきから廊下にコツコツと小さく響いていた靴の音が止まったかと思うと、
ドアが鳴った。この時間にリングシューズ以外でここまで来る人は限られてる。
私はノックに応えた。
「リカ?」
寺田さんだろうと思ってドアを開けると、その前に立っていたのは見慣れた
顔ではなく、暗めの茶色い髪をした見たことのないお兄さん。
「来てくれたの? 嬉しい」
私の後ろで柔軟運動をしていた石川さんが駆け寄ってくる。その声のトーンは
いつもよりだいぶ上がっている。2年間一緒にいる私でも聞いたことがないもの。
「昨日は鹿児島だったんでしょ? どうやって来たの?」
「ヒコウキデ」
「本当に? 大変だったでしょ」
「ヘイキ ヘイキ」
「わざわざ来てくれなくても良かったのに」
「ダメダッタ?」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
石川さんの小麦色の腕が、同じくいい色に焼けたお兄さんの腕に絡みつく。
お兄さんのびっくるするほど大きな手が、石川さんの腰に添えられる。
私はようやくこのお兄さんが誰なのか分かった。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:31
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「石川さん」
「ん?」
「私、出て行きますね」
「え? いいって。そんな」
「でも・・・」
「さゆはここにいて。私たちが出てくから」
ごめんね、と言い残して、石川さんとお兄さんは控え室から出て行った。
お兄さんの名前はトミー。
本当は長ったらしいスペイン語のリングネームがあるのだけれど、忘れてしまった。
みんなが彼をトミーと呼んでいるから。
トミーさんはVUDに所属するマスクドレスラー。そして石川さんの彼氏。
本場仕込みの空中技とグラウンド技術で会場をわかせる、本格派ルチャドール。
トミーという呼び名はあだ名でも何でもなく、彼の苗字、『富井』から来ている。
実は日本人なのだ。いや、日系人というべきだろう。生まれも育ちもメキシコで
日本語はうまく喋れないけれど、彼の顔は典型的な日本人。
トミーさんが日本に来てマスクドレスラーに転向したのは、多分そういう理由なのだろう。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:33
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VUDにレンタルされ始めた頃、石川さんはトミーさんとタッグを組むことが多かった。
また梨華ちゃんの悪い癖が始まったよ、なんて矢口さんがその頃よくグチっていた。
石川さんはタッグパートナーに恋をする。
試合中の極限状態から救い出してくれるパートナーが、王子様か何かに見えるようだ。
もっとも、タッグを解消すれば気持ちは一気に冷めるらしいんだけど。
閉まったドアが、コンと小さく音を立てた。
あの二人、あそこで何をしているのだろう?
この部屋を出て行ったときの二人の姿が頭に浮かんだ。
石川さんがVUDヘ移籍するのは彼女自身の希望だということは耳に
はさんでいたけれど、私はずっと信じられないでいた。
VUDは最近のインディー団体では珍しく勢いがある。女子選手も2人所属し、
女子だけの試合も安定して組まれていて、それなりに盛り上がるらしい。
ただ、所詮は添え物。色気を振りまいて、笑いをおこして、それでおしまい。
どんなに頑張ってもメインイベンターにはなれない。
人一倍負けん気が強い彼女が、そんな立場に満足できるとは到底思えない。
トミーさんの顔を思い出そうとしたけれど、どうもうまくいかない。
極彩色のマスクはすぐに思い出せるのだけれど。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:33
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- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:33
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「ごめんねー」
戻ってきた石川さんの後ろに少しの間のぞいた廊下には、すでに人影はなかった。
「いえ、べつに」
バックステージに彼氏を連れ込むなんて、正直どうかと思うけど。
よいしょ、と小さく呟いて、石川さんは床に腰を落とした。中断していた
ストレッチを再開するらしい。
彼女の口元はまだ緩んだまま。頬も少し赤らんでいる。
トミーさんの腕は太かった。一周30センチは軽くあっただろう。
石川さんはそんな腕の中で、喉が焼けるような甘ったるい笑みを浮かべていた。
あんな腕に抱かれたら、どんな気持ちになるのだろう。
守られてる、なんて感じて甘い幸福にひたれるのだろうか。
逃げられない、と思って閉塞感や恐怖感にさらされるのだろうか。
どちらも今の自分にはリアリティのない感情だ。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:34
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壁の向こうで金属音が響いた。
流れ出したメロディーにのってマイクの低音が聞こえるけれど、ここからじゃ
ウーウーうなっているようにしか聞こえない。
この曲を背負って試合するのは紺野さん。今日は第5試合で小川さんとシングル戦。
「・・・・紺野さん、勝ったんだ」
「そうみたいだね」
「試合、見たかったな」
「多分ビデオ撮ってると思うから、あとで見せてもらったら?」
「はい。そうします」
ビデオなんて撮ってたかな?
ちょっと引っかかったけれど、とりあえずここはうなずいておく。
「よしっ」
勢い良く立ち上がり、2、3回首を回したかと思うと、石川さんはおもむろに
大きく腰を反らした。
直立姿勢からのブリッジ。しかも手をつかわずに、頭で着地。体を支える。
柔軟性と均整の取れた筋肉が必要。今、うちの団体でこの技をできるのは彼女だけ。
ピンと伸びたつま先から、脚、腰、胸、頭。しなやかに反った身体は
きれいな半円を描く。いつものことながら、石川さんのブリッジはきれいだ。
ブリッジはプロレスの基本。
男子のような大技ができない女子選手にとっては特に重要。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:36
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石川さんは試合の直前、いつもこうしてブリッジをする。
単なる準備運動の一環かと思っていたけれど、何やら特別な意味があるらしい。
私はまだそれを教えてもらってはいない。
石川さんはVUDに行ってもこうして試合前にはブリッジをするのだろうか。
VUDの女子選手二人の顔が、不意に頭に浮かんだ。
彼女たちとスポーツクラブで偶然にも顔を合わせたのは先月のこと。エアロバイクを
ぼんやり漕いでいたら、声をかけられた。多分2人とも私より年上なのに、妙に
遠慮がちに喋っていたことを覚えている。
「あっ」
壁の向こうで始まったメロディーに、思わず声を上げてしまった。
ピコピコした電子音がいやに耳につく。この業界では珍しい種類の音楽。
女子マット界を席巻するタッグチームの凱旋だ。お客さんの歓声もやたらと大きい。
やっぱり人気選手は違う。
「ぅ・・・っと」
石川さんが立ち上がる。
いい加減ここにはいられない時間帯。相手タッグの入場はもう始まっている。
グルっと首をひねって、腰、手首、足首。それぞれ何回か回すと、
パンパンと大きな音を立てて顔をたたいた。
「じゃあ、いってくるね」
ドアノブに手をかけたところで、石川さんは私を振り返った。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:36
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「・・・石川さんっ」
「ん?」
「あの・・・」
「どうしたの?」
こういうとき、何て声をかければいいんだろう?
呼び止めたのは良いけれど、肝心の言葉が何一つ出てきてくれない。
頑張ってください、とか、ありがとうございました、とか、言うべきことは
いろいろあるのだろうけれど、どれも今の私にしっくりこない。
「いえ、何でもないです。いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
石川さんは少しだけ怪訝そうな顔をしたけれど、すぐにチャーミーズスマイルと
呼ばれるいつも通りの笑顔を浮かべて、この部屋から出て行った。
控え室には彼女がつけていたタイガーバームのツンとした匂いが残っている。
これから当分の間、私はこの匂いをかぐことはなくなるのだろう。
石川さんは今日卒業する。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:37
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- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:37
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- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/20(日) 00:37
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