15 ぬいぐるみ

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/18(金) 12:43
15 ぬいぐるみ
2 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:44

「結局、人間って一人なんだよ」

時折パラ、と紙をめくる音だけが繰り返されていた空間で、
ポツンとそう切り出した松浦はソファに座る藤本の膝の間に体を割り込ませて腿の上に頭を乗っけていた。

「私の世界は私のものでしかないもん」

居心地のよさを追求するように頭をゴロゴロさせながら松浦が続ける。
藤本は読んでいた雑誌から視線を外し、訝しげに松浦を見下ろした。
松浦はいつも最低限の言葉しか話さない。それは、堂々とした暗号のようなもので、
すぐに理解できる時もあれば少しヒントを貰わなければ理解出来ない時もあった。
そして、今回は明らかに後者である。

「さっきからなに言ってんの?」

訊ねながら、藤本は手にしていた雑誌をぽいと脇に投げ話を聞く態勢を取った。
3 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:45

「だから…写真のことは説明しても意味ないってこと。
 私がなに言ったって、あれを見た人がどう認識するかはその人の自由なんだもん」

彼女がなんのことを言っているのか悟って藤本は、ああ、と零し

「あんなのあんまり気にすることないって。大丈夫だよ」

無責任な言葉と共に松浦の頭を撫でた。見上げる松浦の瞳が一瞬揺れて、
彼女は急に起き上がると体を半回転させ藤本の腰の辺りに抱きついてきた。

「…亜弥ちゃん?」

突然の行動に藤本は戸惑いの声をあげる。
それを無視するかのように
「美貴たん、さっきのもっかい言って」藤本の胸の辺りに顔を埋めて松浦が言った。

「さっきの?」
「大丈夫って、言って」

答えて松浦がはぁっと大きな息を吐く。
少し熱を帯びたその水蒸気は厚手のスウェットを通り抜けて藤本の胸を温かく湿らせた。
それを半ば合図として藤本は松浦の髪にそっと触れながら乞われた言葉を口にした。
なにが大丈夫なのか。ただ藤本は呪文のように、大丈夫と繰り返した。
4 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:46

暫くそうしていると松浦が顔を上げた。
彼女は少し潤んだ瞳でじっと藤本の目を見ている。
無責任で無意味な言葉を繰り返す自身をただ見ている。

「……どうしたの、急に」

見つめられる居心地の悪さにそう問うと、
「前…同じこと言ってくれた人がいたの。私が不安な時に大丈夫だよって」
松浦は藤本を見つめたままそんな答えを返した。

「…慶太君のこと?」

詳しくは聞いていないので彼女と彼の交際を事務所側がどう処理したのかは知らないが、
なんとなくそれは彼のことなのだろうと藤本は予想して訊いた。
だが、それに松浦は微笑みながら目を伏せ、違うよと首を振る。
「姫路の同級生」
言いながら彼女はまた藤本の胸に顔を埋め
「ぬいぐるみみたいな人だったな」うわごとのように呟いた。
5 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:47




薄暗いオレンジに染まる放課後の教室で、亜弥は自分の席から呆然と窓の外を見ていた。
開け放たれた窓からは部活動の音が聞こえている。
バットの金属音、ボールが床を弾む音、多種多様な掛け声。
亜弥にはもう関係のないそれらの音。
所属していたテニス部は上京が決まって一番に辞めていた。
次々と学校からなくなっていく自分の居場所に亜弥は特別に寂しいという感情は覚えなかった。
そして、正式な手続きを終えた今でもなにも感じていない。
明日にはなくなる自分の席からこうして窓を見ているのも、
この教室に最後のお別れを告げようなどと殊勝なことを考えていたわけではなく、
ただ家に帰るのが少し憂鬱だっただけだ。
6 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:48

自分で決めた道なのだから迷いも後悔も覚えるはずがないと思っていたが、
上京の準備を進めていくうちに、亜弥は自身の胸に浮かび上がる漠然とした不安に気づいてしまった。
だが、その不安はあまりに漠然としすぎていて、自分がなにを不安に思っているのか、
それはどうしたら消えてくれるのかも亜弥には分からなかった。
もしかしたら、誰かに話を聞いて貰うことでそれは消えるのかもしれなかったが、
そう考えてすぐに思いあたる両親に不安を口にすることなど出来なかった。

オーディションに合格して、上京が決まって、ひどく喜んでくれた母親。
最初は反対していたものの、今では応援してくれるようになった父親。
そんな二人に亜弥は余計な心配をかけたくなかったのだ。

だから、亜弥は不安を抱えたまま家族の前でにこにことしなければならなかった。
不安など何もないと、期待と希望だけだと、誰からもそう見える様に。
その時間が長ければ長いほど亜弥の胸の不安は大きくなっていた。
7 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:49

ふと我に返って教室の時計に視線を飛ばす。
今日が終わるまであと約7時間。そろそろ帰らないといけないだろう。
亜弥は、一つ、大きな溜息をつくと鞄を持って立ち上がった。
と、なんの前触れもなく教室の扉が開く。驚いて顔を上げた亜弥は
「…コバ」少し俯きがちに入ってきたその人物に小さく声をあげた。
亜弥の声に彼も教室に誰かがいることに気づいたのか顔を上げ、
そして、亜弥を認めると「おす」と、ごく自然に挨拶をしてきた。

小林だからコバとクラスメイトから呼ばれている彼は
小学校4年のクラス替えからなんの偶然かずっと亜弥と同じクラスで、
だから、当然顔を合わせれば少し話をする程度の仲はあった。

「…おす」
亜弥もそう返す。
「資料忘れたんや」
コバは自分の机まで行くと、引き出しを探りながら言った。
亜弥は鞄を持ったまま彼の机の傍に移動する。
8 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:49

「体育祭実行委員やったっけ?」
「そ。じゃいけんに負けたんや」
「コバ、昔からじゃいけん弱いもんな」
「そうやったか?」資料が見つかったのかコバが顔を上げる。
そうや、と亜弥が頷くと、彼は肩を竦め、へらっと笑った。
亜弥は彼のことは嫌いではないが、その笑顔だけはどうしてか昔から苦手だった。
楽しくもないのに笑っているように感じられて――小学生の頃、面と向かってそう言ったこともあるほどだ。
なんで、いつもへらへらしとるん?と。
それにコバがなんと答えたか覚えてはいないが、そんなことがあったからといって、
彼からその笑顔が消えることはなかった。

今でもコバは常にニコニコとしていて、人当たりがいいとされている。
だからなのか、休み時間になると男女関係なく色んな人間が彼の机の周りに集まり
進路の悩みや恋愛の悩みとかくだらないどうでもいい話をしていく。
彼に話を聞いてもらうと、皆、癒されるらしい。

亜弥の友人も、コバのことを癒し系だと口を揃えて言っていた気がする。
今まで亜弥はその感覚が理解できなかったが、たった今それが分かったような気がした。
苦手だったコバの笑顔があまり気にならなかった。
9 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:50

「コバ」
「ん?」
「あんた、私が東京行くん知っとる?」
「知っとるに決まっとるやん。この間、お別れ会したやろ」

なにを今さらと言う風にコバが笑う。
お別れ会、そんなものもあったなと思いながら亜弥は言葉を続ける。

「私は…東京行って、歌勉強して、ほんで、めっちゃ有名になるんや」
「日本に松浦亜弥を知らん人がおらんくらい、やろ?」

言おうとした言葉をコバが先に口にした。亜弥は軽く目を開く。
そんな亜弥の驚きの眼差しを受けて「松浦、昔からそう言うてたやん。覚えてしもうたわ」
コバが笑いながら言った。「よかったなぁ。夢に一歩近づいて」
亜弥はその言葉に微笑を浮かべて、どうなんやろ?と呟く。
笑っていたコバが不思議そうに首を傾げた。
10 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:50

「どうなんやろってなにがや?」
「分からん。分からんけど…急に色々決まって心の準備が出来てなかったんかもな、私。
 今なんかめっちゃ不安なんや」

揺れる瞳で亜弥は気持ちを吐露する。その直後、ふわっと頭に温かなものが触れた。
酷く優しく、淡羽のような感触。指先。
コバが頭を撫でているのだと数秒遅れて亜弥は気づく。

「大丈夫や」
顔を上げると彼はいつもの笑顔を浮かべていた。
それを見て亜弥は思考するよりも早く自分より頭一つ背の高い彼に抱きついていた。
放課後の、誰もいない教室で、彼の胸に顔を埋めて。
数枚の布越しに聞こえる彼の微かな鼓動に妙な安心感を覚える。
11 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:51

コバと抱き合っている。
例えば、今ここに同じクラスの人間が来てこの光景を目撃したら、
明日の朝には同学年全クラスに噂が蔓延することだろう。
“放課後の教室で別れを惜しむ二人”
けれど、その噂は間違いだ。コバには悪いがここに人間は二人もいない。
いや、きっと彼も分かっているだろう。亜弥がどうして自分に抱きついたのか、
いつでもへらへら笑顔で他人の悩みを聞いている彼ならきっと分かるはずだ。
自身が他人からどう見られているのかを。

今の自分も休み時間に彼に話を聞いてもらっていたクラスメイトも
現状を打破するための相談相手としてコバを選んだのではなく、
適当に慰めてくれる存在を求めているにすぎない。そして、彼はその役割を十分に果たしてくれる。
まるで眠れない時に心を安らげてくれるぬいぐるみのように。
一切の個人的感情を持たずに、ただ優しく微笑みながら、全てを肯定してくれる。

彼の手が亜弥の頭を優しく撫でる。
大丈夫や、と静かに呟く。繰り返し繰り返し。

亜弥は目を瞑ってその声と体温に身を委ねる。
胸につかえていた不安が氷解していくような感覚に身を委ねる。
12 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:51

やがて、亜弥はゆっくりと顔を上げてコバから離れた。
ずいぶん長い間抱き合っていたように思えたが、それは高々二、三分のことだったかもしれない。
それでも、随分と気が楽になっているのを亜弥は感じていた。

「なんかちょっとスッキリした」

ありがと、と亜弥は言った。
へらっとした笑顔のままコバが、どういたしましてと頭を下げる。
それから手にした資料を掲げ
「ほな、俺、そろそろ行かな。松浦もはよ帰らなあかんのとちゃう?」
「あ、うん。そやな」
頷いて、二人で教室を出る。
会議室と昇降口は逆方向にあるのでそこで彼とはお別れだった。

「ありがとな、コバ」亜弥はもう一度礼を言った。
振り返った彼は頑張りやと笑ってガッツポーズをした。
亜弥もそれに笑いながらガッツポーズを返した。
13 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:52




「結局、人間って一人なんだよ」

松浦が口にする。ついさっきも聞いた言葉。
ぐずる子供のように胸に額を押し付けている松浦のそんな呟きに
藤本はかける言葉を見つけられずただその頭を撫で続ける。
流れている空気は平穏そのものである。
眠りにでも誘うように、静かで、緊張の欠片もない。
14 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:52

「私の世界は私だけのもので、皆もそれぞれ自分の世界持ってて
 一緒にいても違うこと考えちゃうから、同じ世界にいられるわけがないんだよ」
「…うん」

藤本は曖昧に頷く。

「でもさ」
ふと、松浦が身じろいで顔を上げた。

「ぬいぐるみは、なにも考えないで傍にいてくれるから、持ち主だけを肯定してくれるから、
 だから、一緒にいると癒されるよね」
「…そうだね」
「慶ちゃんとならそんな風にできるかなって思ったんだけど…
 恋のドキドキとぬいぐるみの安心っていうの…そういうの両方」

語尾の方が弱くなる。酷く自信なさそうに。
藤本は眉根を寄せて、何かに耐えるように、目を閉じる。
今、松浦が自身に望んでいるのは昔彼女の気を楽にしてくれたぬいぐるみの役なのだろう。
仕方がないと言う言葉が頭に浮かんでいた。
15 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:53

「…大人になっちゃうと駄目だね。なんか色々駄目になる」
「そうだね」
「別にそれが嫌なわけじゃないんだよ。慶ちゃんのことはホントに好きだし」
「うん」
「たださ、どうしたらいいか分かんなくなる時ってあるじゃん」
「あるね」
「そういう時、恋人じゃなくてぬいぐるみが欲しくなるんだよね」
「そっか」

いつしか藤本は考えることを止め、相づちを打つための反射能力のみ働かせていた。
話の内容に関して私情を挟まずに、ただのオブジェクトとして。
何も考えず、個人的な感情は持たず、松浦の言葉にただ頷いていた。

不意に松浦が歯に何かはさかったような妙な顔をして
「…たん、今私のぬいぐるみしてる?」小さく首を傾げる。
「そんな感じ」
それまでも肯定すると、彼女は心が温まったような、心に穴が空いたような、そんな笑顔を浮かべた。
16 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:53

「それって嫌じゃない?美貴たん、私に利用されてるだけだよ」

松浦が言う。それに藤本は苦笑した。
そんなことはとっくに知っていて、そして、松浦も藤本がそんなことを知っていることを知っていて、
だというのに、いつも最低限の言葉しか言わない彼女はこういうところだけはやけにはっきりと口にする。
そんな松浦を藤本は変に律儀で自虐的だと思う。だが、おそらく律儀で自虐的なのは彼女だけではないだろう。

「んー、そうだねぇ」
間延びした返事を返しながら、藤本は続ける言葉を探した。

「人間関係なんて多かれ少なかれギブ・アンド・テイクで成り立ってるようなもんじゃん。
 亜弥ちゃんが気づいてないだけで、美貴だって亜弥ちゃんを利用してるかもしれないし」
「そうなの?」
「さぁ、どうでしょう?」
「なにそれ」
「ま、だからね、亜弥ちゃんがぬいぐるみと恋人を両立できる男の人を見つけるまでは
 ぬいぐるみの方をやってあげるのも別に悪くないと思ってるんだよ、美貴は」

これではまるで彼女が彼と別れることを前提としているみたいだなと藤本は思う。
だが、松浦はそれに気付かなかったのか、ありがとう、と力なく笑い
ゆっくりと、だが迷いなく藤本の首に腕を回した。
耳元を掠める松浦の髪の感触に藤本は微かに身を震わせつつ、その体をきゅっと抱きしめる。
17 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:53

「美貴たん…ちょっと太った?」
「……マジぬいぐるみみたいでしょ」
「うん、気持ちいいけど…気をつけなよ」
「はいはい」

ぬいぐるみと恋人を両立できる器用な人間が果たしているのかどうかは分からない。
ただ、今にも破けそうな縫い目が綻びてしまう前に、裂けたそこから薄汚れた詰め物が出てしまう前に、
彼女が自分に代わるそんな人間を見つけられればいいと
藤本は、自嘲気味に目を瞑ったまま微笑んで、倦怠感に塗れた吐息を零した。
18 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:55
fin
19 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:55

20 名前:15 ぬいぐるみ 投稿日:2005/03/18(金) 12:56


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