12 エーテル

1 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:18
12 エーテル
2 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:19
ノブを回してドアを開けたボクは、どうぞ、と声をかける。
ん、と小さく喉で返事をして、さゆみは中に入った。

後に続いて、後ろ手でドアを閉める。
でも、部屋を見回す彼女の背中がジャマで先に進めない。
「ほら、奥に行ってよ」
「あ、はい」
彼女はちっちゃな歩幅でつつつ、と部屋の中央に立つ。
スカートの裾の白いフリルがひらひらと揺れている。
そしてふたつ縛りの黒い髪も同じように揺れていた。
小さな波が、ボクの心に大きな波紋を広げていく。
聞こえないように、こっそり、唾を飲み込んだ。
3 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:20
ぐるりと一周、見回してからさゆみは言う。
「こぉんな部屋だったんですね」
「意外?」
「えー? いや、いいと思います」
何が「いい」のだろう、などと考えながら、ボクはキッチンへと移動する。
ヤカンにミネラルウォーターを注いでコンロに置き、つまみをひねる。
カチ、カチ、なかなか点かない。焦っているはずはないのに。
でもボクの指先は、かすかに震えているのか。
しばらく続けて、やっと青い小さな炎が姿を現す。
息を吹きかけて、辺りにこもったガスの匂いを散らして消す。

戻ってくると、さゆみは床に敷いたラグの上にぺたりと腰を下ろしていた。
「クッションあるよ」
「あ、はい」
空色のクッションを渡すと、さゆみはそれをお尻の下にすべり込ませた。
もしピンクだったら反応ちがったかな、そう頭の隅で考えてみる。
彼女の好きな色。だからってそう都合よくボクの部屋にあるもんじゃない。
だけど今になって、用意しておきたかったな、やり場のない突然の後悔が湧いてくる。
しょうがないじゃないか。過ぎたことさ。自分に言い聞かせて、深呼吸をした。
4 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:21
壁に立てかけておいた折りたたみ式のテーブルを引っ張り出す。
「机はね、こうして必要なときだけ出すの」
ふだんはボクしかいない部屋。ひとりっきりの部屋。
その真ん中にこうしてコイツが出てくるのは、特別なときなんだよ。
「便利ですね」
ちょっと感心したようにつぶやいたさゆみ。
ボクは当たるはずのない的を用意していたんだね。苦笑いが歯の間から漏れる。

クッションに座るさゆみと向き合う。
ちょっとの逡巡の後、ボクは彼女の前にテーブルを置いた。
テーブルを挟んで差し向かいの態勢になる。
「この位置でいいよね?」
「はい」
ボクはキミに、まだそんな簡単に触れるわけにはいかないんだ。
距離を詰めるのはゆっくりでいい。それだけのチャンスはきっとある。
手を伸ばす勇気をためらうだけの距離、それが今のボクには必要なんだ。
5 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:21
「本が多いですね」
ずっと黙って周囲を眺めていたさゆみが、ふと、こちらを見つめて口を開いた。
「捨てられないだけだよ」
「え、でも、わたしの部屋とはぜんぜんちがいます」
「どんな感じ?」
「えっと、ピンクでぇ…」
やっぱりね。
苦笑が顔に浮かんでいたのか、ボクを見てさゆみは丸いほっぺたをちょこっと上げた。
「あ、子どもっぽいって思ってます?」
「いいと思うよ。らしくて」
ボクの言葉にさゆみはきょとんと表情を止める。
「らしい」という部分に首をひねっているようだ。
悪くないどころか、素敵ってことさ。
彼女に向けてもう一度笑みを浮かべてから、立ち上がる。
6 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:22
両手にココアの入ったマグカップを持ってリビングに戻っても、
さゆみは両脚を外側に崩した正座のままで部屋を見回していた。
「そんなに面白い?」
「え、面白いですよ」
テーブルにマグカップをふたつ置くと、またさっきと同じ位置に座った。
さゆみは飼い主の指示を待っている犬のような顔をしている。
ボクに何を期待しているのやら。
きっと、キミが期待している答えとボクが想像してしまう答えはちがっているのに。
どうしょうもないくらいに真っ白な、キミの心。
そして、この仮面の下に渦巻いている、ボクの果てしない欲望。
同じ部屋の中にまったくちがうふたつの気持ちが詰まっているのが信じられなくなる。
でもその原因は、ほかならぬ、ふたりが同じ部屋の中にいること。
メビウスの輪で全身を縛られているボクの姿が、脳裏をかすめた。
7 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:22
さっきのキッチンと同じように、頭の中のガスを吹き払って、話題を変える。
「まさか、ホントにうちに来るとはね」
「センパイが誘ったんじゃないですか」
「でもそんなに親しいほうじゃないじゃない」
「したしくない、ですか?」
「あんまりふだん一緒にいないでしょ」
「じゃあわたし、近くにいるようにしましょうか」
「そんなムリしてまでしなくていいから」
内心はガッツポーズ、表情では冷静さを保ってココアを一口すすった。
さゆみはボクがカップと一緒に持ってきたスプーンを手に取ると、
まるでスープを飲むようにココアをすくって、口へと運ぶ。
白い肌の中で一筋の鮮やかな紅に染まった唇が、
スプーンを受け入れるたびに小さくめくれ上がる。
なまめかしい。そんな言葉を真っ先に思い浮かべてしまった。
罪の意識から逃れるべく、慌てて窓の外へと視線を移す。
その場しのぎの台詞をつなぐ。
8 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:23
「もうちょっと晴れてればよかったのにね」
「でもわたし花粉症だから、これくらいでよかったです」
「今年はとんでもなく多いっていうもんね」
いつもなら午後の光がいっぱいに飛び込んでくるこの部屋も、
今日は曇り空のせいでうっすら灰色がかっているような気がする。
せっかくキミが初めてここに来てくれたんだから、
晴れてくれればよかったのに。この部屋をもっと気に入ってもらえただろうに。
ボクがそんなことを考えていても、彼女は変わらない笑顔で街並みを見ている。
「なんか、目にするものすべてが新鮮って表情」
さゆみは無言で見つめ返してきた。
そのまま「わん。」とでも鳴き声をあげそうな顔つきだ。

「わん」
「…わん?」
「なんでもない」
ごまかすようにマグカップを持ち上げると、思い切りココアを含んで、飲み込んだ。
つられるようにしてさゆみも再びココアへと戻ってくる。
やっぱり、スプーンでちびちびと表面をすくって口に入れる。
「その飲み方…」
「変ですか?」
「変っていうか、まあ熱いうちはそうするのわかるけど」
「クセなんです」
クセ、ねえ。
そう言われると、しょうがない。納得するしかない、か。
ふっと鼻から息を吐く。やっぱりさゆみはスプーンでココアをすくっている。
9 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:23
「センパイは、」
まるでティッシュペーパーを裂くように、簡単にさゆみは尋ねてきた。
「オフの日にはこの部屋で読書ですか?」
「いや…」
くるりとスプーンをかき回す。
「近くに川があってさ、その土手で読むかな。桜並木になってて、春には満開」
「すごぉい」
心の中にはくっきりと光景が浮かんでいるのだろう、
さゆみは両手を合わせてまっすぐボクの顔を見つめると、声をあげた。
「自転車で行くんだ。下り坂になってて、帰りはちょっと大変だけど、気持ちいいよ」
「じゃ、今度行きましょうよ。お弁当つくって」
「お弁当かぁ。うん、いいかも」
ひなたぼっこしながらお弁当食べて、ふたりでのんびりと午後のひとときを過ごす。
もしかしたら、膝枕なんてしてもらっちゃったりしたりなんかして。
真っ白な、でも照れると真っ赤になる肌で、とってもやわらか〜いさゆみのふともも。
いったい、どうしてくれよう。
そこでようやく、健全なさゆみの思考回路と自分の想像の落差に気がついた。
再び冷静を取り繕ってココアを飲み込む。
10 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:24
道を行く車の騒音も、鳥のさえずりも、何もない。
聞こえてくるのはお互いの衣擦れの音だけ。
あとはテーブルとマグカップとスプーンが無機的に触れ合う音。
止まってしまった会話をなんとか埋めなきゃという理性と、
この混じりけのない沈黙を深く味わいたいという思いとが交錯する。

「なんか、センパイのお気に入りの曲とか、ありません?」
身動きが取れないでいるボクに、さゆみが問いかけてきた。
「お気に入り、ねえ」
あれもこれも、タイトルが頭の中を駆け抜けていく。
でもそれが彼女の好みとぶつかるかというと、そんな自信なんてさらさらない。
「ラジオでもつけよっか」
AMじゃダメだ。FMじゃないとダメだ。素早くミニコンポを操作して電源を入れる。
音量をしぼって、真昼の当たり障りのない番組を、部屋の中へと流し込む。
11 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:24
ホントは頭の中でサニーデイ・サービスの『恋人の部屋』なんかが
大音量でグルグルとぐろを巻いていたんだけど、それを真っ向から否定するように、
落ち着いた声の女性パーソナリティが話題の映画を褒めはじめる。
「あ、そういえばわたし、学校のみんなで『スウィングガールズ』観たんです」
「え、まだやってたんだ?」
「やってますよ。それで自分も、なんだか楽器、やってみたくなっちゃいました」
「楽器ねえ」
「メンバーのみんなでバンドとかできたら面白いかもしれませんよね」
学校、その何気ない単語で立場のちがいを思い知らされる。
ああ、彼女はまだ学生で、ボクはもう学校なんて関係ない歳なんだし。
よく考えれば彼女はこの春、やっと高校に上がる年齢なのだ。
12 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:25
「もうさゆみが中学校の制服を着ることもないんだね」
ボクが言うと、さゆみは軽く目を丸くした。
それを見てようやく気がつく。自分勝手に話題を飛ばしていたことに。
「そうなんですよね。リボンがかわいくて気に入ってたんですけど」
何事もなかったように彼女は話を合わせてくれた。
内心ほっとしながら、ボクは続ける。
「さゆみはジーンズとかぜんぜん穿かないよね。いっつもスカートってイメージ」
「はい。スカートって、かわいいじゃないですか」
「でもたまにそんな子がジーンズをびしっと穿いてると、かっこよかったりすんだよね」
唇を軽くすぼめて、さゆみは小さくうなずいた。
きっと実現することはないんだろうけどね。でも、まあ、言うだけはいいでしょ。

スタジオのパーソナリティは相変わらず勝手にしゃべっている。
ボクはその声にわざと重ねて、もっと勝手に話題を振る。
「もう2年になるんだね」
「そうなんですよね。あっという間でした」
「うん。でもいろいろあったよね、ホントにいろいろ」
「ええ」
やっぱりさゆみはスプーンでココアをすくってから飲む。
小動物が水を飲むような仕草に見えて、いとおしい気持ちがまた湧き出してくる。
ボクが、まもってあげたいんだよなあ。
まもるって言っても、誰かどこかに敵がいるわけじゃなくて、
ただこうしてそばにいて、火が消えてしまわないようにそっと手をかざすみたく。
13 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:25
会話の止まったふたりの間で、まるで風のようにラジオだけがそよいでいる。
何の意味もない言葉がずらずらと続いて、何の意味もない時間だけが流れていって、
部屋を風船みたいに、限界までいっぱいに膨らませようとしている。
ボクにはそれが破けてしまうのが怖かった。

「やっぱ消してもいいかな」
さゆみの返事を聞く前に、電源を落とした。
彼女が息を呑むのがわかった。後に残るのは衣擦れと無機物のこすれる音。
でも、ラジオの声を消しても、電波はこの部屋を駆け抜け続けている。
ふたりの間を、見えない無数の声とノイズが突き抜けていく。

ジャマしないで。
14 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:26
今すぐ、目の前のテーブルをひっくり返してでも、さゆみに触れたい。
飛び交っている電波なんかよりも速く。ずっと速く。
時よ、止まれ、キミは美しい。
あれ、なんだったっけ、それ。
なんて考えていたら、思いきり膝をぶつけていた。

あ。

「いってえええええっっっ!!」
テーブルが倒れて、巻き添えを食ったマグカップからココアが勢いよく飛び出す。
甘い香りの軌跡を描いて、ココアは無情にもラグの上に染みを広げていく。
「ああ〜」
さゆみの前だというのに、われながらまったくもってみっともない声が漏れる。
どうしよう、超かっこわりいっ!
おそるおそる振り向くと、彼女は崩した正座のままで口をあんぐりと開けて、
膝を抱えて床に這いつくばっているボクを見つめていた。
下からのアングルのせいか、彼女の顎にあるホクロがいつもより鮮やかに思えた。
15 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:26
やたら長く感じた空白の後で、正気に戻ったさゆみは
「センパイっ!」
と裏返った声で叫ぶと、ボクの肩と腰に手を当てた。手のひらの熱を感じる。
「だ、だいじょうぶ」
力なく答えたその瞬間、灰色がかった窓辺が輝きだした。
重なり合った曇り空のわずかな隙間から一条の光がこぼれ、
それが街並みをくっきりと照らし出していた。
ボクは痛みも忘れ、その光景にすっかり見とれてしまった。
そしてさゆみもボクの体に触れたままで、一緒に同じものを見つめていた。
「きれい」
逆光のシルエットの中で、唇がそう動いたのが見えた。
16 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:26
「さゆみが来るからって、せっかく掃除したのにぃ」
青アザのできてしまった膝を押さえながらうめいたボクに、さゆみは笑顔で言う。
「わたしが片付けを手伝ってあげますから」
「ありがと」
ボクはにじんだ涙をごまかしてウィンクしてみせる。
するとさゆみは、それをまったくスルーして、ぱんっ、と大きく手をたたいた。
「見て見てセンパイ!」
最初、彼女が何に対してそんなに喜んでいるのかさっぱりわからなかった。
でもようやく、彼女がこの部屋の中にある何かを見つめて笑っているのがわかった。
「ホコリが太陽の光を浴びて、輝いています。ちょっときれいかも」
ホコリって、あのホコリだよね。それって汚いじゃん!
というツッコミを入れる間もなく、彼女は続ける。
「わたしたちの周りには、見方を変えるときれいなものがいっぱいあるんですね」
そして彼女はボクの方を見た。
有無を言わせない笑顔に、はい、と思わずうなずいてしまった。
17 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:27
でもまあ確かに、そうなのかもしれない。
ボクとさゆみの間には、いろんなものが入ってきて、ジャマして、
でもそれを楽しむ余裕を彼女は持ってくれている。
とりあえず、今はそれでいいじゃない。
もう一度小さくうなずいて、足元に視線を落とす。
目に入ったのはラグの上にでっかく陣取っているココアの染みだった。

「せっかく掃除したのにぃ」
「わたしが手伝ってあげますから」
18 名前:12 エーテル 投稿日:2005/03/14(月) 23:27
おわり
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/14(月) 23:27
 
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/14(月) 23:27
 
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/14(月) 23:27
 

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