28 toys,Love

1 名前:28 toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:30

まっしろなカーテン、まっしろなベッドにシーツ、まっしろな壁。
神経質なほどに白い部屋の中で、黄ばんだ天井だけが、唯一のリアルだった。

瞼が重く、こめかみの辺りから後頭部にかけて痺れている。
起きぬけ以上の思考の鈍さに、今が夜であることしかわからない。
筋繊維のあちこちが切り裂かれているのか、体を動かすたびに痛みが走る。
不意に吐き気が込み上げ、訳もわからずに吐いた。
あるもの全て吐き出しても、胃は痙攣し続けている。
吐瀉物が、ベッドに黒く染みを作った。

口の中と、一帯に薬の匂いが起ち込める。
2 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:33
 私は口を拭い、そっとベッドから抜け出すと、てらてらと照明が反射する薄暗い廊下を
歩いた。白い格子に囲われた緑の非常灯が、チカチカ揺れている。
 お腹が空いていた。喪失に近いくらいに。
 誰もいない待合室を過ぎ、静まり返ったエントランスを抜けた。
 そこに、あいつがいた。

 おかしな女だった。 
 私を待っていたかのように、ぽつんと立っていた。
 月光も街灯の明かりも届かないところに立っているくせに、淡い光を帯びていた。それ
はほんのり白く、さらに闇夜を纏い、存在を曖昧にさせていた。
 その女はじっと目を閉じ、体の隅々を確認するかのように、ゆっくりと呼吸している。
 息をするといった自然な動作ではなく、意志を持って呼吸をしている。空気の存在を知ら
ないような、呼吸の仕方だ。
 そして、こぉ、と掠れた空気を漏らした。単なる空気の漏れは、やがて音を伴う。自在
に声が出せるようになると、女はようやく話し始めた。
「ごめんなさいね、まだあまり慣れていないの、こういうのが」
「なんなんだよ、お前」
 女は無表情に私を見つめている。感情を吸い取られてしまいそうだ。ぐっと力を込め、
女を睨む。
「私? ……圭織、っていうの。あなた、は?」
 黙って立ち去ろうと思ったが、細胞が引き寄せられるようだった。圭織という、この女
には逆らえない。
 本能的に、そう悟った。
「亀井、絵里……」
 それが出会いだった。

3 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:37

 1


 その女は、藤本と名乗った。
 来るなり、唐突に話し始めた。
「私、ある人を愛し過ぎてしまったのです。でも、もうこれ以上は耐えられない」
「懺悔なら、そこの海を超えたらどう? 教会、たくさんあるんじゃない?」
 私がそう笑うと、圭織が遮った。黙って藤本の目を見つめ、続きを促す。藤本もそれを
見とめると、小さく頷いて、また話し始めた。
「私、今の恋人を愛しすぎてしまったんです。その子、亜弥ちゃんっていう──」
「ちょっと待って。恋人って女? 女同士? そりゃ耐えられないわ」
 私がまたも口を挟むと、やはり圭織が遮った。白くて長い指で私の唇に触れ、摘んだ。
「……うるせーな。ちゃんと聞くよ」
 私は圭織の指が離れると舌打ちし、その指を噛んだ。
「あ、ごめんなさい。水を一杯いただけませんか?」
 圭織は私の口から指を抜き、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、藤本に放り投げた。
 藤本は半分ほど一気に飲み干し、ようやく話し始めた。
「私、さっきも言いましたけど、亜弥ちゃんを愛しすぎてしまったのです。私の全てを差
し出しても追いつかないくらいに。彼女も私を愛してくれています。彼女ほどまっすぐに、
自分を大切に思うのと同じくらいに、私を愛してくれた人はいません。
 だからこそ、私は衒いなく彼女を愛せているのかもしれません。だからこそ、私は彼女
を愛しすぎるくらいに愛してしまっているのです」
 藤本は自らに確認するように話を切った。
 退屈な話だ。私はソファに身を沈ませ、外を見た。建物の入り口で、埃が陽光に跳ねて
 キラキラ光っている。その向こうでは、圭織がアートだと持ち込んだガラクタが山積みさ
れている。
 そして、勝手に愛を語る藤本。頭のイカれた圭織に、私がいる。なんてつまらないのだ
ろう。
 藤本は残りの水を飲み干すと、話を再開させる。
「私はもう耐えられません。亜弥ちゃんへの愛を抑えられません。どうしたらいいのでし
ょうか?」
「だって」
私は皮肉をたっぷり口元に浮かべ、そう圭織にそう言った。
「私にはよくわからない。でも、あなたのその愛を亜弥ちゃんに伝えることはできるわ」
 圭織がそう言うと、藤本は救われたような顔をして、部屋を出て行った。
4 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:39

 藤本がここに来てからちょうど一週間。
 その亜弥、という女がやってきた。藤本の亡骸をスーツケースに詰めて。胎児のような
体勢でスーツケースに詰められた藤本は色を失い、幸福の顔をしていた。歪な顔だった。
「美貴たんは、私を愛してくれました。そして、それでは足りないと、私にその命をくれ
ました。私の方が、彼女を強く愛していたからです。美貴たんは、私から受けた愛と同じ
だけ量を、私に与えてくれようとしました。でも、それは無理な話でした。私のほうが、
愛の量が多いようなのです。
 自分への愛と、相手に与える愛。当たり前ですが、私はこの二つのうち、片方をたんに
与えてきました。それでも、私の愛の方が大きかった。そこで、たんは、両方の愛を一つ
に、つまり、自分への愛も私に差し出してくれました。ある日突然、私の前で喉を突き刺
したのです。私のことを愛していると笑ってました。
 あなたたちのことは聞いていたので、報告だけしようと思って」
 丁寧にお辞儀すると、亜弥は出て行こうとした。
「おい、ちょっと待てよ。その死体、どうするんだ?」
 亜弥は静かに笑うと、言った。
「たんは、私に命を奉げてくれました。自己愛と他者への愛、私はたんのおかげで両方を
得る事ができました。今、とても幸福です。でも、たんの愛の方が大きくなってしまいま
した。なので、私もたんと同じことをしようと思っています」
 藤本の亡骸を大事そうにしまい、出て行った。

「バカじゃねぇ?」
 圭織の表情は変わらない。
「美しいと思うな、圭織は」
 亜弥の背中が、陽炎の中に消えた。

5 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:41

 2


 その二人は、公園の風景の一つだった。車椅子に座った色黒の女に、それを押す色白の
背の高い女。目立ってはいたが、幸福な公園の風景そのものだった。
 圭織が眩しそうに二人を見つめていた。
「おい、行くなよ」
 私は圭織の腕を掴んだ。
「大丈夫よ、絵里」
 強く掴んだ手をするりと抜けると、圭織は二人に話しかけた。
 私は近くのベンチに座り、三人の様子を眺めていた。話している最中、黒い女と白い女
は仲睦まじげに何度も視線を合わせている。
「絵里、そんなに混じりたいなら、こっちに来なさい」
 圭織の静かな声はよく通り、まっすぐ私に届いた。
 私がそっぽ向くと、三人が寄ってきた。色黒の方が石川梨華、色白の方は吉澤ひとみと
いうらしい。そして三人は、私を取り囲むようにして話し始めた。心底くだらないことを、
本当に楽しそうに話している。天気のことや音楽のことや昨日の食事のことや好きな食べ
物、石川のドジっぷりや、面倒くさがりな吉澤の意外に神経質なところや、圭織の雰囲気
のことや私のひねくれ具合……
「絵里も話に入ってきなさいよ」
 圭織が悪戯っぽく私に言ったが、無視した。
6 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:41
 圭織と吉澤ひとみは昼食を買いに行くと言い、私と石川を置いて、公園入り口にある売
店に向かった。
 石川との間に沈黙が訪れ、耳障りな子供の嬌声がやけに強く聞こえる。
「あの……」
 目を伏せていた石川が、小さく言った。私を見て数度瞬きした。
「あの、もしよろしかったら、私の話を聞いてもらえませんか? 退屈かもしれませんが」
 そう言って、石川は大きな水筒の水を飲んだ。思えば、彼女は水を飲み続けている。私
の沈黙をイエスと取ったのか、こけた頬を僅かに緩ませ、訥々と語りだした。
「突然こんなこと言うのもあれなんですけど、私、もうすぐ死ぬんです。カルテを見て、
その言葉を辞書で引いて、自分なりに調べてみたんです。たぶん、あと半年もないと思い
ます。ひとみちゃんは知ってるんでしょうけど、私に何も言ってきません。だから、私は
知らないフリをしています。
 死ぬのは怖いです、もちろん。でも、それ以上に怖いのは、ひとみちゃんを残して死ん
でしまう、ということなんです。ひとみちゃんに私を忘れないでいてもらいたい。でも、
私の死がひとみちゃんの枷になってほしくないんです。
 よくある陳腐な、バカみたいな悩みですけど……」
 そう言って、石川梨華は一筋分だけ泣いた。
「言えばいいじゃん。私のこと、いつまでも忘れないで、って」
「そんなこと、言えません。私は死んで焼かれるだけでいいかもしれませんけど、ひとみ
ちゃんはこれからも生きていかなきゃならないんです」

「なに話してるの?」
 袋を提げた圭織が、遠くから聞いてきた。
 石川梨華は慌てて涙を拭い、縋るように私を見た。
「なんかね、死ぬような病気だったらどうしよう、ってマイナス思考に流されてた」
「あ、そうなんだ」
 吉澤はそう笑っていい、
「大丈夫。梨華ちゃんキショいから死なないって」
 と、石川梨華の頭を小突いた。
「うるさいよー」
 石川梨華は明るく言い、車椅子から手の届く範囲、吉澤ひとみの腰の辺りを叩いた。
7 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:42

 ──

 夕暮れ間近、二人は病院に戻らないといけないからと、その場を後にした。何度も振り
返り、手を振る二人に、圭織も同じように何度も振り返していた。
 そして、二人の姿が完全に見えなくなってから、悲しそうに吐息をひとつ零した。
「梨華ちゃんね、もう長くないんだって。ひとみちゃんが泣いてた」
「本人も気付いてるよ」
「だよね……。ひとみちゃん、梨華ちゃんが死んだら、自分もすぐに死ぬって言ってた」
「死にたい奴には死なせとけよ」
「そうかもしれない。あの二人の愛には、命はいらないのよ。いいえ、肉体すらも無意味
なのよ」

8 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:43

3


 その女は突然やってきた。
「わたし、さゆみって言うの、よろしくね」
 やけに甘たるい口調で明るく言った。
 私はさゆみを無視し、圭織は目を丸くさせていた。
「あのね、見てのとおり、さゆみってかわいいでしょ?」
 瞳をきらきらさせて私たちの反応を待ち、圭織が困ったように、そう思う、と言った。
「でしょ? で、あなたはどう思うの?」
 さゆみは私の頬を掴み、無理やり目を合わせてきた。突き飛ばした。
 よろめいたさゆみは意味ありげに微笑むと、私に言った。
「照れ屋さんねぇ」
 クスクス笑うと、私と圭織を交互に見た。
「みなさんが認めたとおり、さゆみはかわいいの。かわいいから死なないの、永遠なの」
 そう言って徐にカッターをポケットから取り出し、手首を切った。
「ダメ!」
 圭織が止めたが遅く、さゆみの白い手首から血が滴り落ちていた。
「あはははは、さゆみ、血もかわいい、見て、ほら、血もかわいい、あははは、さゆみってなんでもかわいい、完璧、ねえ、見てる? 見えてるでしょ? この紅さ、きれいだね、
かわいいね、あははっ」
 さゆみは自分の血を見て笑い続けていた。
9 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:44
 圭織が必死に傷口を押さえていたせいか、すぐに血は止まった。
「ごめんなさい。これは死ぬような深さの傷じゃないの、自分でもわかってた。退屈なの
よ、自分にしか興味を見つけられないと。狂ったフリしてないと、本当に気が狂いそうに
なるのよ」
 自嘲気味に微笑むと、ふらふらと出て行った。

「圭織、コメントは?」
 私が意地悪く聞くと、圭織は真面目な口調で答えた。
「あの子の手首、傷跡でボコボコだったわ」
「死にゃいいんだよ、そんなに死にたいんなら」
 圭織は私の肩を強く抱き、静かに言った。
「死ねばいい、そうかもしれないわね。でも、圭織はあの子を否定したくない」
「なんでだよ」
「あなたに否定してほしくないから」
「……死にゃいいんだよ」
 そう繰り返した。圭織は何も言わなかった。

10 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:48

 4


 ふらふらと散歩に出掛けていった圭織が帰ってきた。
 その圭織の背中から赤ん坊を抱えた喪服の女が出てきた。私よりも少し年上くらいの、
背の小さい綺麗な顔をした女だった。妙な翳りがあった。高橋愛といいます、と拙い口調
で言った。訛りが出てしまうから、初対面の相手と話をするとき、いつもおかしな口調に
なってしまうのだという。
 私は読んでいた雑誌に目を戻した。
「絵里、挨拶くらいしなさい」
 圭織に舌打ちし、どうも、と高橋に言った。
「ごめんなさいね。この子、愛想がなくて」
「いえ、こんな格好で突然お邪魔する私もどうかと思うので」
「そんなことないわ。私がお呼びしたんだから」
「すいません、ありがとうございます」
11 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:50
 高橋が圭織に渡された塩を自分に振り掛ける。腕の中の赤ん坊がぐずり、けたたましい
声で泣きだした。高橋は慌てる素振りもなく胸をはだけ、硬く張り詰めた乳房を絞るよう
にして揉みほぐし、赤ん坊の口に含ませた。瞬く間に赤ん坊は泣き止み、懸命に口を動か
しておっぱいを飲んでいる。
「絵里、なにをそんな真剣に見てるのよ」
「うるさい」
 私は圭織の視線を手で払い、「早く高橋の相手をしてこいよ」と言った。私を向いた高橋
が、曖昧な笑顔で会釈し、視線を胸元に移し赤ん坊の頭を愛しそうに撫でた。それを見て
いると吐き気が込み上げてきた。口を押さえ息を止め、吐き気を堪える。下腹のあたりが
激しく収縮している。目を閉じて、ゆっくり十数えた。大きく息を吸った。
 天井を仰ぎ、目を閉じた。鼓動が速い。息が乱れている。胸の奥が弱く震えていて、何
かがそれをきつく締めつけた。圭織と高橋の声が聞こえる。その隙間に、赤ん坊の小さく
弱い寝息がはっきりと聞こえてきた。
「圭織さん、ありがとうございます」
「気にすることないわ。それより、体の方は大丈夫?」
「はい、倒れそうなところを助けて頂いただけでなく、休む場所まで貸して頂いて……」
 二人の話を聞いていると、強烈な眠気が襲ってきた。それと同時に世界が暗転した。
12 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:52


 雨音で目が覚めた。ひややかな空気が私を包んでいる。大きくあくびをして目をこする。
絶え間なく叩きつける雨に濡らされた世界に、意識がぼやけている。
「もちろん、喪失はあります。けど、彼を失った悲しみよりも、先行きの不安のほうが大
きい」
 頭が声を認識し、その方を向くと高橋が泣いていた。圭織は何も言わず、高橋の肩に手
を添えている。
「やっぱり私は誰も愛せないのかもしれません。自分のことを大切に思えているのかどう
かすら怪しい。彼はのたうつような痛みの中、息を引き取る間際まで、私とこの子の心配
をしてくれました。そして謝り続けていました。私は泣いて首を振ることしかできません
でした。流されるまま、こんなに私のことを愛してくれていた彼といた自分が心底嫌にな
ったのです
 そしてたぶん、私はこの子のことも愛していません。それなのに、この子を引き取りた
いと申し訳なさそうに言ってきた彼の両親の申し出に首を振りました。ただ、苦しんで産
んだ子だから、手放したくなかっただけなんです」
 また懺悔か。高橋愛は泣いていた。彼女が言うには、自分のための涙なのだろう。くだ
らない。涙なんて誰かのために流すものではない。そういう考え自体に腹が立つ。
苛立っていた。めちゃくちゃに壊してしまいたかった。
13 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:52
 私は二人のところまで歩み寄り、赤ん坊を持ち上げた。
「要するに、この生き物が重荷なだけなんだろ? コレさえなくなれば、すっきりするん
だろ? お前は自分だけのために生きていきたい。それだけなんだよ。ヒロイン気取りで
感傷ぶって涙なんか流してんじゃねーよ」
 高橋の顔が恐怖に引き攣っている。気に入らない。喜ぶべきなのだ、この女は。
 赤ん坊を高く振り上げる。これで生きているのかと不思議に思うほどの軽さだった。悲
しくなるくらいに弱く、小さな命の重みだった。床に叩きつければ、それで終わりだろう。
「喜びに震えろ、高橋。私がこの子を殺してやるよ」
 天に向いていた力を地に落とす刹那、嬌声が聞こえた。あちこちで跳ねる雨音に消され
てしまうそうなほどの声だった。でも、確かに私の耳に届いた。純粋な喜びだけで、赤ん
坊は笑っていた。
私の悪意や苛立ちは、赤ん坊には届かない。力が抜けた。そっと赤ん坊を下ろした。小
さな命の塊は、じっと私の目を覗き込んでいる。怯え切って頬を振るわせた高橋は、這う
ようにして横から赤ん坊を抱きしめ、ぼろぼろ涙を流している。
「高橋、もう行けよ」
 私にそう言われ、高橋はよろよろと立ち上がると、傘を差し出した圭織に目礼して去っ
て行った。
14 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:53
 高橋の背中が見えなくなってから私は膝をつき、床に崩れ落ちた。私の中にある何もか
もが流れ出ていきそうな、そんな脱力だった。自分が空っぽになってしまったような気が
した。
 圭織が私の隣に座った。
「そういや、圭織、私のこと、止めなかったな」
「わかってたのよ、あなたが落とすことはできないって」
「殺す気満々だったよ、赤ん坊の声を聞くまでは」
「わかってたのよ」
 冷たく雨の匂いがする。圭織からは、乳臭い赤ん坊の匂い。
 ドアの隙間から見える外の景色は、乳白色に煙っている。雨粒が地面に白く跳ね、水溜
りを茶色く掻き混ぜる。ぬかるみでは高橋の足跡が崩れかけている。光の薄い灰色の世界
で、二人分の足跡が崩れかけている。

15 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:54

 5


 また眠ってしまったようだ。
 雨はやみ、月明かりに照らされる銀色の水溜りに、高橋の足跡は消えている。
「大丈夫? うなされてたけど」
 圭織が私を膝にのせていた。口元に笑みを湛えて、私の髪をすっと梳く。振り払おうと
思ったけど、力が入らなかった。疲れきっていた。
「ごめんね、絵里。嫌な思い、させちゃったかな」
 そう言って、私の下腹部に優しく触れた。
 圭織の手の温もりに、喪失が甦る。
「今、圭織が触れてるとこ」
 声が詰まった。
「ここにさ、私の子供がいたんだ。圭織と出会う、数時間前まで」
 詰まった声を吐き出すと、何もかもが剥がれ落ちた。
16 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:55
「妊娠してたんだ。産むつもりだった。私、今ではこんなだけど、前はけっこう明るくて
ね、恋人がいたんだ。その人と本気で恋して、子供ができた。高校生だしさ、産めるわけ
もないと思ってたんだけど、彼に聞いてみたの。産みたい、って。そしたら、産んでほし
い、って。死ぬほど嬉しかった。でもさ、やっぱり周りは猛反対で。親は子を堕ろさせよ
うとして、何十時間でも説得してくるし。でも、彼は頑張ろう、って励ましてくれてね、
幸せだった。
 私は彼の言葉を信じて、子供を守り続けたよ。体を大事にして、親の説得も聞き流して
ストレス溜めないようにして。私を動けなくさせようとして親は小遣いなんてくれなくな
ってたからさ、少ない貯金を崩しながら病院に通って、母子手帳に書き込まれていく発育
記録が支えだった。
 妊娠してもうすぐ20週って頃、親が大金積んだのか医者を連れて来て、私を押さえ込ん
で、鎮静剤を打たせたんだ。目が覚めたら、私のお腹の中の命は消えていた。抵抗したよ、
もちろん。絶対に私と彼の子を守らなきゃ、って、暴れ狂ったよ。でもね、途中でバカら
しくなっちゃってさ。私を押さえている中に、彼がいたんだ。私の視線に気付いて、なん
て言ったと思う? ごめん、夢物語はもう終わりにして現実を見よう、だって。命は取り
返しのつかなくなるくらいに育ってた、ってのに。彼にとって、ちょっとリアルなママゴ
トみたいなものだったんだ、飽きたおもちゃを捨てるように、彼は私を捨てた。よくある
安いドラマみたいな話だけどね、私にとっては……
 で、そっからはわかるでしょ? 病院を抜け出したら、圭織がいた」
17 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:57
 何の感情も湧いてこなかった。すっからかんだ。
 圭織は穏やかな顔で私の髪を撫でている。
「これから圭織が言うことは、全部本当のことだから。信じても信じなくてもいいけど、最後
までちゃんと話を聞いて。いい?」
 その強く柔らかな眼差しに気おされ、私は頷いた。
「圭織はね、絵里に殺されにきたの」
「は!?」
「最後まで黙って聞いて。圭織はね、殺されるために絵里の前に現れたの。圭織は今、絵
里のお腹の中で消された命を預かってる。残念だけど、一度消された命を甦らせることは
できない。けど、その命の行き先を変えることはできる。
 絵里のお腹の中にいた命は、残念ながら最も不幸な形、意志を持つ前に人為的に消され
てしまったわ。そういった命は、消えていくことしかできない。でもね、圭織は思うの。
たとえ苦しんでもいいから、生を感じさせてあげたい、って。仲間には傲慢だって言われ
るけど、圭織はそう信じてるの。
 だから、圭織を殺して。絵里の中で消えてしまった命は今、圭織の中にある。もちろん、
絵里に殺されるのは、苦しみを伴う。あなたも苦しむことになる。けど、生まれ変わるこ
とができる。絵里が殺さないのなら、この命は永遠に圭織の中で意志を持たず、ふわふわ
と存在するだけになってしまう」
 圭織は私の手を取り、首に添えさせた。
「絵里、圭織はここで息絶えても、また違う形を取るだけだから」
「圭織は何者なの?」
「そんなこと、どうだっていいことよ。絵里のお腹の中にいた命を救いたいのなら、圭織
を殺しなさい」
 私は手に力をこめ、圭織の首を絞めた。涙がとめどなく溢れてきた。









18 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:57
 
19 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:57
 
20 名前: toys,Love 投稿日:2004/11/23(火) 22:57
 

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