23 緑道の風景

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:34
23 緑道の風景
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:35
等間隔に並んだ木々。その一本一本が抱えられるだけの緑を空に向かって繁らせている。
細切れになった日光は時々視界を真っ白にして、そして枝と葉に身を潜めた。木漏れ日と
いうやつだ。交互に行き交う光と影は音もなく現実感を奪い去り、どこかまどろみに似て
いた。しばらくの間、そんな夢と覚醒の間を数歩進んではしゃがみ込んだりする。

映画や絵画、その他目で見る作品と現場の景色はハッキリと違う。同じ場所に誰かと二人
で出かけたとして、実は目にしているものはそれぞれなのだ。それは身長の差、よそ見、
注目点、様々な要因から違う。それに対して作品というのは、どの角度から見ても作者の
心に留まったものを、そのままの形で受け入れることになる。

そんなことを考えながら、飯田圭織は風景を切り取っていた。いや、実際には始める為の
下準備だった。左右の人差し指と親指で長方形を作り、残すべき場面を探っていた。

ふらふらと夢遊病のように何かを求めるその姿は、俯瞰で見たら異様以外の何物でもなか
っただろう。しかし、彼女の他に人の姿はなかった。当然と言えば当然の話で、彼女がこ
こにいる理由の一つに紛れもなくそれがあった。いつからか習慣と化した行動。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:36
ふと飯田の動きが止まる。ピンと腕を張り、自らが作った枠を覗き込むように片目をつむ
っていた。低い姿勢の彼女の表情には、静かな興奮が見て取れる。

長身のせいか、彼女の目には下からの視点が新鮮に映った。地にしっかりと根を張った大
木が身を削るように重力に逆らっている。隣の木の葉と交ざり合い、どこまでが手前の樹
木の一部なのか分からないその様は、幻想的ですらあった。それでいて幹のゴツゴツとし
た生命の触感を伝えるそのアングルに息を呑み、飯田はバッグからカメラを取り出した。

小気味の良いシャッター音が一度、響く。

誰もいない緑道。普段の音の精は人間に気をつかってくれているのか、やけに尾ひれをつ
けて空気に染み入った。間隔を空けて再びシャッターを切ると、摩擦の抵抗を失い滑り出
した物体のように、幾度となくそれは続けられた。写真を残したいのか、音を耳に残した
いのか、もう分からなくなっていた。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:37
やがてカメラが人差し指に反応を返さなくなると、飯田は静かにファインダーから目を離
した。相変わらず光は揺らめき、葉のこすれ合う音だけが場を支配している。

すぐにしまってしまうのは違う気がして、カメラはしばらく掌の上で弄ばれた。アンティ
ークショップで手にした、デザインを考えたとは思えない黒くゴツゴツとした大雑把な物
体。それが今となっては逆に評価され、妙な価値を持ったりするのだからおかしな話だ。

飯田は立ち上がり、肩からズリ落ちかけていたカバンを引っ張り上げると、たった今自分
が写真に残したその樹木に触れてみる。

おかしいと言えば、そんなものは溢れかえっていた。たとえば誰かがここに収められてい
る写真を目にしたとして、その人はどう思うのだろうか。自分が撮ったものを独自に解釈
して、違った意味を見出したりする。そんな時、撮影した自分は何処へ行ってしまうのか。
そしてそれ以上に、被写体であるこの木々は何を感じるのだろうか。

その思考は、この習慣と無関係ではないように思えた。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:38
「圭織、また交信してる」
飯田が気の遠くなるくらいに下を向くと、そこには矢口の姿があった。彼女は彼女で、首
を痛めそうな角度で顔を持ち上げている。
「目がウツロだった。交信してたでしょ?」
「うん、そうかも」飯田は曖昧にうなずく。「……と言っても、この前のオフのことを思
い出してただけだけど」
「今夜も交信中、か」
「うん、今夜も交信中だね」
それはテレビ収録の合間だった。スタッフがセットチェンジをしている間の、楽屋に戻る
ほどでもないポッカリとした時間。その場で座り込んでいるメンバーもいたが、飯田はカ
ットの掛け声とともに意識が奥の方へと引っ込み、その場に立ち尽くしていたのだった。

「最近、また増えたよね。宇宙に行ってる瞬間」
「宇宙ってそこまでは無理だよ。がんばっても都内だね、都内」
「えぇ、距離関係あるの?……思わぬ新発見しちゃったよ」
矢口が勢いのある調子で、まいったな、という仕草をしたので、飯田は思わず笑う。矢口
も一緒になって笑ってはいたが、その目には飯田を観察している節があった。本当に心か
ら笑っているかどうか、親愛の情と似た目つきが訊いていた。
「……なに?」
「うん、ちょっとね」
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:40
言いよどむ矢口に飯田は、んっ、と首をかしげる。矢口は何かを口にするかどうか迷って
いるようだった。ここまできて話すのを止められたらたまらない。そんな飯田の顔つきを
見て、矢口はわざと軽い口調で言った。
「またなにか、深刻に考えてるんでしょ?」
「えっ、そんなことないけど」
「ううん、絶対ある。圭織は悩み事があると交信が増えるんだもん。でね、その交信でさ
らに問題を重苦しいものにしちゃうの。そのクセ、そろそろやめたほうがいいと思う」
意外な角度からの指摘に、飯田は言葉を失った。的を射ているかどうか、自分では判断が
つきそうもない。
仕方なく息を吐くと、視線を矢口からスタジオ内へと移した。
「じゃあ、一つ質問してもいいかな?」
「もちろん」矢口は大袈裟に胸を張る。「どんなことでも答えてみせるよ」
「たとえば、矢口が道を歩いてたとして」
「うんうん」
「サインを求められたとする」
「ああ、ファンの人からってことね」
「そうしたら、どうする?」
「……終わり?もっと複雑なこと言われるかと思ったよ」
矢口は1+1の解を問われたように、かえって別の答えを少し疑い、結局ありのままを口
にすることを決めた。
「サインするよ、笑顔で。だって嬉しいじゃん」
押し黙る飯田に、矢口は不思議そうに詰め寄った。「圭織は違うの?だって、それがモー
ニング娘。の原点じゃん。こんなこと、圭織に言うのはおかしいけど」
「ううん……私もそうする、とは思う」
煮え切らない返事。自分の発した言葉に飯田は苦笑する。




7 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:42
「飯田さんですよね?握手してもらえませんか?」
OLらしい制服を身にまとった女性だった。飯田は数日前に交わした矢口との会話を思い
出し、自嘲気味になった笑みでそれに応じる。女性の口からは何度もお礼の言葉が吐き
出され、ペコペコと頭を下げられた。

目深にかぶった帽子のふちで女性が姿を消すのを確認すると、飯田は無意識的に深呼吸
をした。知らない内に緊張していたらしい。

仕事の都合でパスポートを取らなくてはいけなかった。期限の切れてしまった前回のも
のはただの紙切れ以上の価値をなくしてしまい、こちらの事情を考慮してはくれない役
所へ足を運ぶのに、このオフを潰さなくてはならない。

昼休みの気だるい街並み。通り過ぎるサラリーマンは脱いだ上着を片手に抱え、さらに
Yシャツの袖をまくっていた。ベタベタとまとわりつく湿気も問題だったが、飯田にとって
は照りつける日光の方が敵に思えた。直視はできないので心の内で太陽をにらみつけ、
紫外線対策をもっとしておくべきだったと、軽く後悔する。そういえばのども渇いていた。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:43
思えば初めはただの違和感だった。たとえばストレスという言葉を知らなかった子供の頃、
それは存在しないも同然だったように。未知のものというのは、言語化などによって実感
するまでは、ただやり過ごす他に術がないのだ。そういう意味で、子供が訳も分からずに
泣く行為と、自分が取った行動はどこか似通っている気がしていた。

あえて言葉にすれば焦りの感情に近かった。休日にメンバーとは会わない。そう決めたの
は真逆に取られるかも知れないが、信頼の証そのものだった。彼女たちは間違いなく自分
と同じ場所で生きていたし、手を伸ばせば触れ合うことができた。

しかし、それは小さな水槽を飯田に連想させる。ギュウギュウに詰め込められた第三空間
のない水の中。酸素のような生きていく上で必要なものが絶対的に足りていない。そして
何者かに追われている気さえした。それはある種の防衛本能だったのかも知れない。生命
の危機に反応した防衛本能が水槽を広げろと命令したのか、いつからか彼女は他のアイド
ル、女優、タレントとの交流を深めるのに時間を割くようになった。

ともかく心を開ける友人は増え、呼吸を自然とできるスタンスを手に入れた。その一方で、
一人でいる時は他人との接触をなるべく避けるようにもなっていた。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:44
役所内の冷房は効き過ぎているといってもいい状態だった。汗が引くまでは心地良いかも
知れないが、その後はまた逆の意味で過ごしにくくなる。雪国育ちの自分でもそう感じる
のだから、他の人にはつらいのではないかと、飯田は妙な心配をしながら用紙に目を落と
した。戸籍抄本。パスポートを得るのに必要なそれを、ここで受け取らなくてはいけない。
カバンの中から印鑑を拾い上げると、備え付けのボールペンを手に取った。

安物のペンはインク詰まりを起こしていて、上から下に引く線と、右から左に引く線にし
か反応しない。なんとかならないかと数分間格闘するが、結局あきらめて隣の人が使うよ
うにと置かれているものを使うことにした。それが迷惑になるほど混雑はしていない。

名前、住所、電話番号と書き終え、年齢を記入しようとしている時だった。飯田はふと誰
かに見つめられているのに気がついた。顔を上げると三十代くらいの主婦らしき女性が子
供の手を引いていた。目が合うと、やっぱり、という表情を浮かべ、親子連れはツカツカ
と近寄ってくる。
「あのー、モーニング娘。の……子よね?良かったらサインくれないかしら。うちの娘が
あなたのファンなのよぉ」
娘が、の箇所で主婦は繋いだ腕を軽く上げる。飯田が視線を落とすと、まだ歩き出してか
ら間もなさそうな女の子が不思議そうにキョロキョロとしていた。自意識があるかどうか
はかなり疑わしい。
「いいですけど、どこに……」
書けばいいのか。濁すと女は手荷物をあさり、適当な物がないことを悟ると、目に入った
用紙の束から一枚を引き抜く。都合のいいことに裏面は白紙だった。
「これにおねがい」
めずらしい話ではない。特に意に介すこともなく飯田はそれを受け取り、ボールペンしか
ないことを告げ、了承を得るとサインをする。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:45
こういう時、飯田はハッキリと硝子の存在を感じるのだった。同じ世界にいるようで、実
は自分と周りの人たちは、目に見えない何かに分け隔てられている。自分は相手を知らな
いのに、相手は自分を知っている。そのあまりに不自然な環境を、改めて意識させられる
のだ。きっと本気で腕を伸ばしたならば、その手はコツンと冷たく硬い感触を伝え、どう
しようもなく無力な指先を知るに違いない。それを思うと、呼吸がまた少し苦しくなって
いくような気がした。

「これでいいですか?」
紙を差し出すと女性は、ありがと、と口にして、ほとんど喋れていない子供にもお礼を言
わせる。笑顔を返しながらも、硝子は凛としてそこにあった。

中断していた自らの作業に戻ると、その母子のことは頭から消えた。どう書き込んでいい
のか分かりにくい項目を記入例と照らし合わせ、間違いに気づき、書き直すなどの繰り返
しに没頭したからだ。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:47
ようやく完璧に仕上げ、力を込めて印鑑を押すと、受付の番号札を機械から引き抜いた。
窓口の上に表示された赤いデジタルの番号を見上げると、飯田のものより五つ若い数字が
表示されていた。彼女の前に四人の順番待ちの人たちがいるらしい。

待機用のソファーに腰を降ろし、小さく息を吸うと、そんなはずはないが久し振りに息を
したような心地がした。同時に身体も感覚を取り戻したのか、冷気に思わず身震いする。
露出した二の腕の辺りに触れてみると、鳥肌が立っていた。さすりながら順番が早く来な
いかともう一度見上げてみるが、一向に進む様子はない。周りの人もそれは同じようで、
エレベーターに乗ってでもいるように、みんながみんな数字を見つめている。

こういう場所に来たのは久し振りだが、こんなに近代化された所だったかと、飯田は数年
前を思い出そうとする。駄目だった。この前来た時も同様に驚いたかも知れないが、ズラ
ッと並んだそれぞれの窓口には大きな硝子がはめられ、マイクが設置されている。事務と
いう仕事の性質上、町の小さな郵便局のようなイメージを持っていたが、壁の石や行き届
いた人工の気配は、むしろ空港やホテルを彷彿とさせた。

しかし、非日常ばかりではない。平日の午後にこんなところにいるのは、ほとんどが主婦
か老人だ。キザなラブロマンスを日本語でやられたような、妙なチグハグさがある。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:48
受け取った戸籍抄本をペラペラとめくりながら、飯田は出口に向かっていた。あまり目に
しない物ということもあって、興味は尽きない。自分の通ってきた道が、上辺だけでもた
どられているのだ。なんだかそれなりに愛しい気すらしてくる。

広いフロアを左に横切り、少し距離のある自動ドアまでの通路を歩く。細長いトンネルを
思わせるつくりだった。外に出ればジャマになるであろう書類をカバンに入れ、上げた顔
の先には出口の光があった。そのまぶしさの中に飯田は、小さな人影を見た。拙い足取り
で、しかし確実に建物の外へと向かっている。

直感のようなものが身体を走った。こんなところに子供が一人で来るのはおかしい。普通
に考えればそれだけのことだった。どのくらいの年齢なのか、遠目では判断さえつかない。
それでも飯田は、奇妙な胸騒ぎを止められずにいた。

日差しを強く反射させている自動ドアのせいで、外は何も見えない。しかし、飯田の記憶
が間違いでなければ、この建物のすぐ前には交通量の多い道路があったはずだ。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:48
気がつけば飯田は駆け出していた。遠くの方で子供を感知したセンサーは冷静に仕事をこ
なし、ドアがゆっくりと開く。同時に視覚の邪魔をする反射も壁へと吸い込まれていった。
記憶は正常に働いていた。夢から覚めたように飯田の目には走り過ぎる車の姿が飛び込み、
スピードを誇示するするような風を切る音が耳に入る。

自分の駆ける音が、呼吸が、鼓動がそれ以上に大きく鳴る。無神経な程に輝いている世界。
そこへと歩みを始めた子供の後ろ姿を、足のもつれで倒れそうになりながら見つめていた。
「止まってぇー、おねがい!」
声が出ていた。かすれた声だ。飯田はようやく外へと飛び出し、目前に迫った小さな身体
を確認する。車など気にする様子もなく、車道へとフラフラ向かっていた。意味がないか
も知れない、などとは考えなかった。ほとんど吸うことのできない酸素を胸に送り込むと、
もう一度叫ぶ。
「おねがいだから、止まって!」
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:50
不思議そうに見上げた子供を、飯田はしっかりと抱きしめた。その身体は、わずかだが車
道との段差を超えた位置にあった。止めていなければ、間違いなく向こう側へと渡るつも
りだったのだ。飯田は自分が救ったかも知れない命をそのまま抱き上げ、安全なところま
で移動し、静かに地面へと降ろした。

急に冷房の効いていないところに出たせいか、状況からか、汗が吹き出した。裏腹に体温
は落ちていくように感じた。今更になって血の気が引き、恐怖感が伝達され、身体を冷た
く抜けていく。忘れかけていたのどの渇きもぶり返してきた。

突然知らない女性に持ち上げられ、また自由を手に入れた子供は、今度は植木に興味を煽
られたらしく、おぼつかない歩みでヒョコヒョコと近づいた。それが飯田にはせめてもの
救いに見えた。しかし、幼子は目標までたどりつくことはなかった。何かを見つけ、動き
を止めたのだ。

飯田がその方向に視軸を定めると、さっきの自分のように役所から走り出てくる人がいた。
顔色は無く、何かを必死に探しているらしく首を振る。彼女が飯田に気づき、飯田も彼女
に気づいた。それはさっきサインをした女性だった。なんだか泣きそうな顔をしながらこ
っちへと走り寄ってくる。改めて顔を覗き込むと、子供もさっきの手を引かれていた女の
子だ。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:51
主婦はその泣きそうな顔のまま、自分の娘を懐に引き寄せる。ごめんね、という痛々し気
な言葉が口からは漏れ、何が起こったのか分かっていないであろう女の子はただ、嬉しそ
うにはしゃぎ声を上げた。

すぐに彼女は子供を抱えたまま立ち上がり、飯田の顔を見据えてから頭を下げる。
「ありがとうございました。本当に、本当に!」
「いえ、わたしはただ偶然……」
その調子に気圧された飯田は、何でもない、といったふうに手を振るが、主婦はその手を
掴み、ただ感謝の言葉を口にするのだった。その目からはすでに涙が流れている。
「トイレの外で待たしてたんです。だけど、出てきたらいなくなってて……そうしたら走
っていくあなたを見かけて、もしかしたらって」
子供が連鎖反応を起こして、グズり始めた。いい年齢の女性が泣きながら頭を下げる光景
に、人が遠目に集まってくる。それでも彼女は何度も頭を垂れ、嗚咽を漏らす。恥も外聞
も何処かに追いやられているようだった。
「私の不注意で、すみません。どうも本当に……」
「あの、もういいですから頭を上げてください」
「本当、あなたがいなかったら、どうなってたことか」
「あの、本当にたまたま……」

延々と続く感謝と懺悔の言葉。涙。予想だにしなかった行動に対して、隠し切れないほど
の狼狽が心の奥底から湧き出してくる。理由も分からずわめき散らしている子供以上に、
飯田は戸惑っていた。硝子の割れていく音の中で、呆然としていた。



16 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:53
お菓子の袋や、雑多な会話、誰かの持ち物などが飛び交う楽屋の中で、飯田はまた物思い
に耽っていた。何のことはない。これから始まる今日の仕事の後、帰ったらしようと思っ
たこと浮かべていただけだ。しかし、何故か気が進まなかった。もっといい方法があるよ
うな気がして、構想をこねくりまわしていた。

あれ以来ずっと飯田のことを気にかけているらしい矢口は、今日も回診医のように近づい
て来る。他人のこととなると、少々心配性気味なところがあるのだ。
「どうですか、具合は?」
「うーん、まだ咳がでるんですよねぇ」
「そっか、じゃあお薬、いつもより多目に出しておきますね」
「おねがいします」
「……精神病のやつだけどね」

拳を振り上げる飯田に、タンマタンマ、と矢口は頭を押さえる。その体勢のまま、何をし
てもコミカルに映る小柄な身体を必死に動かして、飯田の手の届かないところまで逃げ回
った。拾い上げた座布団の影から様子をうかがい、飯田が笑ってるのを確認すると、ソロ
ソロ這い出て来て、隣に腰をおろす。
「交信、減らないね」
「だね。でも、もういいんだ」
矢口は何処か不服そうに首をひねる。
「そうなのかなぁ。考えすぎて暗いほうに転んじゃうようなもの、やっぱりないほうがい
いって。圭織が思ってるよりも、人生って悪くないよ」
飯田は微笑むと、考えていた今日の予定を、やっぱり変えようと決心した。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:54
そうだ、と飯田は思う。放ったからしだったあの写真の現像を考えていたけど、もうしば
らくそのままにしておこう。それよりも心に残っているあの風景を、イメージ働かせて、
思ったままに描いてみよう。あの散らばった太陽を、名残り惜しそうなシャッター音を、
優しさの緑を、大地を思わせる茶色をキャンバスに詰め込んで額に飾ろう。ちっとも写実
的じゃなくって、ありのままの姿とはかけ離れているかも知れない。それでも優しさに満
ちた、暖かな絵を。

「聞いてるの、圭織?」
飯田はうなずくと、もう一度微笑し、言う。
「矢口の視点もいいけど、わたしのも悪くないよ。だからこそ、かけがえのない物に気づ
けることっていうのもあるしね」

疑問符が浮かび放しの矢口の頭をなでると、矢口は子供扱いされたような気がして、なん
だよぉ、と口をとがらせた。しかし彼女自身、元気になった飯田に悪い気はしないらしく、
大げさに、圭織が何か隠してる、とまくし立てた。いつの間にかそれは楽屋中に広がり、
秘められた恋人の存在にまで発展していった。みんなが交互に飯田をからかい、顔を赤ら
めた飯田がそれを否定する。それがますますあやしいと矢口が口にし、お前が妙なことを
言い出したからだろ、と飯田が矢口を捕まえようとした。

乱雑な楽屋内を娘。たちが飛び回り始める。

硝子はもう、どこにもない。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:55
 
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:55
 
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 11:55
 

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