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夕暮れ時の過現未

1 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時30分44秒


       『夕暮れ時の過現未』



2 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時31分31秒

 四月初旬の夕暮れ時、千倉壮太の家の1階であり、ガレージであり、
工場でもあるソコには相変らず板金を叩く、大きな金属音が響き渡っていた。
 工場の入り口は真東にあって、そこから忍ぶように侵入してくる西日の茜色は
板金が奏でる金属音とは全くの対極に存在し、そこだけは異様な静けさを帯びて、
神聖な空間のように写っている。

 壮太は今日、中学校の入学式を終えたばかりだというのに、友人連中と
の約束をほっぽりだしてすぐに帰宅し、隅に積まれている木材に座りながら
淡々と仕事をこなしている父親の背中を、時には諦観するように、時には悄然と見つめていた。

 父親の家業は不景気の煽りを受け、逼迫を余儀なくされていて、
ここ半年間、壮太は父親が緊張を解き、どこにでもいる父親らしく、
肩肘ついて横になっている姿を見たことがなかった。
 そんな毎日働き詰めである父親を前に、一人、呑気に友達連中とわいわい騒ぐことが
壮太の心情の芯を付き、どうしてもできなかったのだ。
3 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時32分42秒

 かといって父親は壮太に仕事を手伝うことを、要求したことが無かった。
 壮太が何度も「手伝うで」と、父親の背中に声をかけてみるものの、
父親は「いらん」の一点張りで、昼から今まで、壮太は無為な時間を過ごしてしまっていた。

 フウっと所在なさげに溜息をつき、膝に顎を乗せてだらしない恰好を作って、
差し込んでくる夕陽に視線を逸らした時だった。
 夕陽の真ん中を割くように、一つの人影が伸びて、工場の奥まで入ってきた。
 佇んでいる人物は逆光を受けた所為でシルエットになり、壮太の座っている
場所からは女性ということしか判断できなかったが、それが幼馴染の松浦亜弥だということは
一目でわかった。工場にまで顔を出す友人はこれまで、亜弥以外にはいなかったからだ。

 壮太はワザとらしく軽快に木材から飛び降り、着慣れない制服のポケットに手を突っ込んで、
俯き加減に影の主の元へ向かった。
「どうしてん?」
 入り口の壁に凭れかかって煩わしそうに言うと、
「なんでけえへんかったん?みんな壮太待っててんで」
 亜弥の不貞腐れた声が、内部から間断なく響いている板金を打つ音を縫って壮太の耳に届いた。
「なんか用事でもあったん?」
4 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時33分37秒

「いや。別に。何となく遊ぶ気がしなかってん」
「・・・ふーん。ちょっと時間ある?」
 まだ真新しく、糊がしっかり利いている制服姿の亜弥は、小首を傾げて言う。
「俺、もうみんなには断ってるから顔は出さんよ」
「わたしも抜けてきたもん」

 亜弥はそう言って、合意を得ぬまま壮太の右腕を掴み、
工場の離れにある河川敷に向かってさっさと歩き出した。
 亜弥に腕を掴まれ引きずられるように歩いていると、壮太は春の夕暮れの
こんな好日を、よく亜弥と過ごしていたのを不意に思い出した。

 * * *

5 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時34分59秒

 二人は幼稚園に入る少し前から近くの公園で知り合い、そして今日まで特に大きな
諍い等も起こさないまま仲良く時を過ごしてきた。亜弥はいわゆるおてんば娘で、
学校でも、遊んでいる最中にもよく男子相手に勝てもしないケンカばかりしていた。
 しかし、亜弥がケンカをふっかける時は、絶対に亜弥には否が無いと壮太は知っていた。

 亜弥には男子顔負けの正義感が感情の根底にあって、友達を庇ったり、時には自分の
真っ当な意見を貫いたりして言い争いになったり、時には容赦なく体を打たれたりしていた。
 だからそう、こんな夕暮れ時、壮太が小学四年生だった時分、
工場で仕事中の父親に、神戸にあるテーマパークに行きたいとせびっていると、
同じように影を伸ばして、一人ぽつねんと亜弥が工場の入り口に立っていたのを
壮太は鮮明に思い出した。
6 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時35分36秒

 あの時の亜弥は、わんわんと板金を打つ音よりも大きな声で癇癪起こし、
泣きべそをかいていて、ただ、壮太壮太と連呼していたのだった。
 壮太は理由を聞くまでもなく「誰にやられた?」と聞くと、嗚咽交じりに
亜弥が答えた少年の元に、亜弥の手を掴んで引きずるようにして向かい、
仕返しを代わりにしてやっていた。

 壮太は温厚な少年だったがケンカは強くて、亜弥はおてんばでしょっちゅう
ケンカをやらかしていたがケンカは弱かった。年長になるにつれ、男子との体格の差も
露になってきた時でも、亜弥のおてんばは相変らずだった。

 それが中学生になった途端、亜弥は清楚になって大人びたと壮太には感じた。
 活発さは相変らずなのだが、時折見せる考え込む仕種に壮太は思いがけず、どぎまぎする。
 制服を着ているからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 それでも今、一メートル前方を歩いている亜弥が昨日とは全くの別物に写ってしまい、
何となく壮太には赤の他人のように思えてしまうのだった。
7 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時37分26秒

 けれど、
「何しんみりした顔してんのん?」
 幼少の時から変わらない、悪戯っぽく人の顔を覗いてくる仕種は今も一緒だった。
「別に。なんかお前は楽しそうでいいなぁ」
 壮太はそんな亜弥の変わらない一面を見て安堵したのか、空を見上げて大仰に言った。
 それから他愛のない話をして歩を運び、河川敷とその川面を見渡せる幅の広い
階段に着くと、二人は横に並んで腰掛けた。北から吹く風がひんやりと冷たくて、
壮太は工場に制服の上着を置いてきたのを今になって後悔した。

 西日が濃くなっていて、壮太が盗み見た亜弥の横顔は、夕陽によって顔の各部位が浮き
彫りになり、それは群を抜いて美少女に写っていた。もともと顔は端正なつくりをしていたし、
性格がおとなしければ、今以上に亜弥は男子連中から人気を得るに相違なかった。
8 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時38分03秒

「で、何やねん?こんな所に呼び出して」
「壮太さぁ、最近なんか元気なくない?何かあったやろ?」
 ここで亜弥に父親の家業が芳しくなくなったのを説明しても
しょうがないと思ったので、壮太は「別に」とオレンジ色になって揺れている
川面を見みながらぶっきらぼうに言った。
 亜弥は考え込むように俯いて、気まずい少しの間が生まれる。

 やがて「まあいいや」と亜弥は顔を上げてあっけらかんとした口調で言うと、
体を壮太の方に向けて、探るような目つきで壮太を見つめてきた。
「ねえ、壮太さあ。夢ってある?」
 亜弥は興味津々といった様子で壮太に顔を寄せてくる。

――――夢。
9 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時38分37秒

 夢など深く考えたこともなかったが、漠然と板金工のような仕事はしたくないな、
とだけふと思った。
「とくに無いなぁ。何やねん急に?」
 そう言った後に、壮太は小学校の卒業文集の、各クラスの表紙を飾る
クラスメイトの夢を連ねる寄せ書きに、宇宙飛行士になりたい、と書いたのを思い出した。
「ねえ、わたしさあ、歌手になりたいねん。どう思う?」
 自信に満ちた、亜弥の問いかけだった。

 何を言い出すかと思ったら、そんなことか。壮太は意地悪そうな溜息をついた。
 もしかしたら亜弥は告白をしに来たのかも知れない、と呼び出された時
に僅かでも勘違いした自分がなにやら恥ずかしかった。

 壮太は体を亜弥の方に向け、少しきつい語調で亜弥に言った。
「歌手なんてなぁ。俺らみたいな年の子はみんななりたいもんやねんて。
 その中で成功するなんてほんの一握りの人間やぞ?」
「そんなん知っとーよ・・・なんや、壮太もお母さんと一緒のこと言うんやな」
 しょんぼりとした亜弥の声色。
10 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時39分19秒

 父親の事業が危うくなっている時にそんな呑気なことを言われた所為かもしれないが、
壮太はやけにムカムカと機嫌が悪くなっている自分に気付いた。
 夢なんてモノは夕陽の陰に隠れ、本来の色を失いかけて川岸にひっそり生えている
スミレのように、ほんの一時しか見ることが出来ない、太陽を鏡にして萌黄色にたゆとうている
川面のように儚いものだ。しかも歌手なんて到底なれるはずが無い。
「夢なんて、博打と変わりないやないか」
 壮太は体を正面に向き直して、川面の流れを見ながら言い捨てた。

「そんなんと一緒にせんといてよ。夢持たないと、人生なんてつまんないと思わん?」
「そりゃそうやろうけど、叶わんかったらどうすんねん?」
「そん時は仕方ないよ。自業自得やから」
「軽く言うけどなぁ、亜弥は何も知らんからそんなこと言えんねん。
 親父とか見とったらわかるよ。現実なんて厳しいだけや」
「・・・もういいわ。忘れて・・・」
11 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時40分07秒

 亜弥の顔を窺い知ることが出来なかったが、きっととても落胆しているに
違いないだろうと壮太は思った。
 いつもの壮太ならそこで冗談を言ったりして亜弥の機嫌を取ろうとするのだが、
夕陽の煽りを受けて昂揚した気持ちと、力なく板金を打つ父親の背中が頻りに
思い起こされた所為で、亜弥の心中を察するまでの心遣いが行き届かなかった。
 それから二人は夜の帳が下りるまで、ジッと沈み行く太陽に視線を定めて口を噤んでいた。

* * *

 その日以来、亜弥とは日が経つにつれ、徐々に徐々に疎遠になっていった。
 一つの原因は中学生になって、やけに壮太が亜弥を意識するようになったからでもあった。
 亜弥は少し前とは違い、まるで羽化を始めた蝶のように、年相応の少女には誰にでも
見受けられる、僅かだが女の艶が混じり始めていた。
 楽しげに笑う仕種には男心を擽る確かな要素があったし、
体系も少し前とは打って変わり、丸みを帯びて女っぽくなってしまった。

 壮太にとってはとても複雑な心境だった。
 常に身近にいた亜弥が遥か遠くの存在になってしまったように、
これまでの日々が、まるで空事であったかのように思えてしまう。
12 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時41分17秒

 二年生に進級した春から、壮太は父親の仕事を学校帰りに少しではあるが手伝い始めた。
 部活動には入らないで、父親の承諾を得ぬまま、壮太が生まれる前から社員だった○○さん
に板金工を教えてもらって習い始めた。
 不本意だったのだが、近頃急に白髪の増えた父親を見ていると体が勝手に動いていたのだ。
 相変らず家業は逼迫していて、8人いる従業員の面々はそれぞれ
よくない予感を抱いて今日を過ごしている。
 そしてそんな折に、風の噂で亜弥が歌番組のオーディションを受けることを小耳に挟んだ。

 友達連中は、あほか、と鼻で笑う者もいたし、亜弥ならきっと受かるよ、
と励ましている者もいた。壮太は一人だけかもしれないが、受かって欲しくないと
強く願っていた。理由は自分でもはっきりとはわからないのだが、
様々な思いが交錯する中で、羨望という感情が群を抜いて際立っているのだけはわかった。
 ひたむきに夢を見定め、そしてそれに向かって突き進んでいる亜弥が途方も無く羨ましかった。
13 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時42分07秒

 数日後、壮太が廊下で亜弥と出くわした時に、ちょっと、と肩をポンと叩き、
呼び止めて事情を聞いたところ、亜弥は一次審査を通ったと言う。
「そっか・・・通ったんや」
「なんなん?嬉しく無さそうやなぁ?」
 亜弥が悪戯っぽく白い歯を覗かせて、壮太を下から覗き込むようにして言うと、
壮太は慌てた仕種をし、声を上擦らせて否定した。

 日に日に、亜弥とは疎遠になっていったものの、たまに会って話すときには、
亜弥は昔から壮太に接していた時と変わらぬふるまいで応じていた。
 変わったのは壮太の方で、日が経つにつれて、それは恋愛感情だと気付いていたのだが、
やけに亜弥に対するふるまいがぎこちなくなっていた。

* * *

 亜弥と話をした約一ヵ月後に、亜弥が第二次審査まで通ったという話を友人から聞いた。
 そして、その話を聞いた頃合に、亜弥はぱったりと学校に姿を現さなくなってしまった。
 壮太は心中で、どうせ無理に決まってる、と決め込んでいて、夢に突き進んでいる所為で
周りが見えなくなっているだろう亜弥に激しい不信感を覚えた。
 しかし、亜弥に対する恋情が本物であることも、その時に壮太は確信したのだった。
14 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時42分45秒

 そんな亜弥に対する気持ちが一層強くなって行く中で、その日は突然訪れた。
別にこれと言って特徴の無い、ある日のこと。
 壮太はいつものように学校の授業を終えた後、ブラブラと鞄を背負ったまま工場へと
向かった。しかし、そこでは毎日夜まで間断なく響いているはずの板金を打つ音が
全く聞こえず、シンと静まり返ったそこには、一種の虚無感と絶望感だけが漂っていた。

 壮太は発作的にその場に鞄を放り投げて、住まいになっている二階へと駆け足で向かった。
 動悸が自ずと早くなっていた。顔からは血の気が失せ、小刻みに体が震え出していた。

 二階にも両親はいなかった。壮太は言い得ぬ焦燥感と、湧き上がってくる
嫌な予感で胸が押し潰されそうになった。何か悪いことが起こったに違いない。
 経営がとうとう破綻しまったのだろうか、それとも従業員がみんな辞めてしまったのだろうか。
 壮太がいろいろと考えを巡らせながら視線を泳がしていると、
台所のテーブルの上にあった一枚のメモ用紙に気付いた。
 それには、お父さんが倒れた、とだけ、母親の、殴り書きのような字体で記されていた。

―――
15 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時46分53秒

 亜弥が学校に姿を見せなくなり、父親が倒れて家業の方は一旦停止を余儀なくされた。
 そして季節外れの大雨が降った日だ。
 壮太が病院へ一人で見舞いに行って、挿されている花を取り替えようとした時に、
病床に臥している憔悴した父親から力の無い言葉をかけられた。
「・・・壮太ぁ。後、頼む」
 双眸が黄色く濁り、訴えかけるように父親は壮太にそう懇願した。

 壮太はその言葉を聞いて、まず最初に驚愕した。
 父親がこれまで、何かを壮太に頼んだことなんて一度も無かったのだ。
 何度も何度も「後、頼む」と、父親は壮太の右腕を添えるように掴んで言い続ける。
 何時だって頑なだった父親がその時はだだをこねるただの子供のようだった。

 その日から壮太は一週間、眠れぬ夜を過ごした。
 まだまだ世の中の欠片すら見てもいないのに、将来が決まってしまうことが嫌で堪らなかった。
 亜弥は自分の夢に向かって突き進んでいるし、まだ二年先のことであるが
友達連中と話して一緒に入ろうと決めた、家のすぐ近所にある公立高校へと進学する希望もあった。
 そして思惟に思惟を重ねた末に、壮太はとうとう決意した。
 後を継いで板金工を生涯の職にしようと。
16 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時48分29秒

 どうして決意したのか、自分でもはっきりとした理由が無かった。
 夢について語ったあの日の亜弥の横顔が、どういうわけか考え巡らす壮太の脳裡をよぎり、
それが決意への決定打となったのだ。
 父親に頼まれたからじゃない、と壮太は理由を考えるたびに自分に言い聞かせた。
 その一ヵ月後に父親が死んで、同じ日に亜弥がオーディションに合格したとの知らせを聞いた。

 父親が逝去した直後に、家業の方は思わぬ好転をみせた。
 融資を決めあぐねていた人が、父親の後を継いで中学生ながらも仕事に精を出す壮太や、
その従業員達のがんばりに胸打たれ、申し出の声をあげてくれたのである。
 そしてその日を契機に、まだ継ぐことに釈然としていなかった
壮太に強い使命感が生まれた。たった8名とはいえ、従業員の生活がかかっているのだ。
 生半可な気持ちでやらずに、最後まで、力の限り仕事に尽そうと思った。 

 壮太が中学校を卒業するまでは、母親が仮に運営することになって、
卒業後は高校受験もせず、そのまま父親の仕事を継ぐことになった。
17 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時49分30秒
 今はまだまだ仕事のイロハもわからないままだったが、心優しい従業員や
友人連中の支えもあって、壮太の決心は時を経ても揺るぐことはなかった。

* * * 一年後

 壮太が仕事を終えて、ふとテレビのスイッチを点けた時、
ある歌番組に、亜弥が緊張して、顔を強張らせながらも凛然と歌を唄っている姿が映った。
「あいつ・・・本当に夢叶えたんや・・・」
 ひとりごちた後、壮太は一人、喜びから来る笑いを噛み殺していた。

 翌日から、学校中は亜弥の話題で事切れることがなかった。
 壮太はクラスメイトや友人達に亜弥とよく遊んだ日々を、さも得意げに聞かせたりした。
「あんなアイドルやっとーけどなぁ、ガキん頃は荒くれもんやってんぞ」 
 しかしその亜弥とよく遊んでいた日々は遠い昔の思い出となり、そして綺麗な
夕焼けのように、一時だけの幸福になって壮太の記憶から色褪せていく。
18 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時50分05秒

 結局卒業式にも亜弥は現れることが無く、もう亜弥と会わなくなって二年以上が経った。
 中学校を卒業し、壮太はそのまま家業を正式に受け継いだ。
 まだまだ将来の希望を夢見る年頃であったが、壮太は今の自分の状況を
悔いたことは無かった。テレビを点ければ亜弥が映っていたし、
町を歩けば意図せずとも、亜弥の唄う音楽が耳に入ってきた。
 それが壮太を無意識に支え、そして明日への活路となってくれるのだった。

 壮太が十七歳になった年の春。板金を打つ仕事にも慣れ始めて、家業の方も
曲がりなりにも軌道に乗って、幾分かのゆとりが出来たある日の夕方。
 作業する手を俄かに止めて、壮太は誘われるように視線を差し込んでくる夕陽に向けた。

―――刹那。

 壮太の中で断層のように鮮明に記憶に残っている、夕暮れ時の
幾つかの光景が思い出された。差し込んでくる夕陽を割くようにして
影を伸ばし、神聖な静けさを帯びたままそこに佇んでいる一つの人影。
19 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時50分40秒

 姿態は逆光を受け、シルエットになっていて、
性別すら判断出来ないのだが、それが亜弥であることは亜弥と会わなくなって
三年も経った今ですら、壮太にはわかった。
 持っていたトンカチを地面に置き、手の甲で額の汗を拭うと、壮太は込み上げてくる
喜悦を噛み殺して、影の元に早足で向かった。

 亜弥はキャップを目深に被り、ジーンズにスウェットととても俗っぽい恰好をしていて、
テレビの中の華やかな人物とは別人のように思われた。
「なんや、珍しい客やなぁ」
 壮太は平静を装うが、どうしても嬉しくて声が上擦ってしまう。
「・・・壮太は変わってないねえ。仕事継いだの本当だったんだね」
 工場の中を懐かしむように見渡しながら、亜弥は流暢な標準語を喋った。

 壮太はその声を聞いた瞬間、心の内にずっと潜んでいた硝子細工のように脆い何かが、
音を立てて崩れ落ちていく錯覚を覚えた。それはとても大切な感情だった。
「気持ち悪い喋り方しやがって。それワザと言うてんのか?」
「東京に住んでるとさー、もう体に染みこんで慣れちゃうんだよねえ」
 亜弥は壮太を揶揄するように、声を弾ませて言った。
20 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時52分31秒

「・・・で、なんや?こんなところに来ていいんか?」
「うーんと、もう帰んなきゃいけないけど、久しぶりに会いたかったからさ」
 亜弥は実家に帰ってきたついでにここに立ち寄ったらしく、
明日にも仕事があって、夜の飛行機で東京に戻らなければいけないと言う。

「じゃあ、家まで送るよ」
「仕事大丈夫?」
「ちょっとの間あけても大丈夫や。こう見えても結構順調やねんぞ」
 壮太は得意になって言ってみせたが、亜弥の現在の活躍ぶりを見ていると
そんな自分があほらしく思えてきた。

 夕暮れの道を今は二人、横に並んで歩いている。
 亜弥の家までは10分もかからないから、壮太はとても大切なことだけを
話そうと思った。
「仕事、しんどないんか?」
 自然と言葉はスラスラと生まれた。

 隣にいる亜弥も喋り方こそ変わったものの、昔と変わらないように壮太に接していた。
 いや、それはそうやって取り繕っているだけだ、と壮太は気付いてしまった。
 そして暗に思い続けていた亜弥への恋情が、その瞬間に完全に霧散したのを壮太は認めた。
「しんどいけどさ、楽しいよ」
「そっかぁそういやさ、覚えとーか?お前が俺に歌手になりたいって言った時のこと」
21 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時53分29秒

 壮太がそう言うと、亜弥はふと空を見上げて、記憶を辿るような仕種をする。
 その時、目深に被ったキャップを覗くようにして、容貌全体が明らかになった。
 かつての面影も消えてしまって、壮太の知らない少女がそこにいる。
「うん。覚えてるよ。確か博打みたいなもんだとか言ったよねぇ」
 そう言って亜弥は屈託無く笑う。

「お前、大穴当てたなぁ」
 壮太も一緒になって笑った。
 そして二人の笑い声が、波が引くようにスーっと収まった直後に、
亜弥は自分なんかとは違う世界にいる人間なのだな、と改めて壮太は確信したのだった。

 もう泣きながら代わりに仕返しをしてくれと頼みにくることもないし、
夕陽を背にして工場の入り口に佇んでいることもない。
 そして、そうなってしまった亜弥を、壮太は恋の対象として、
一人の友達として見ることができなった。
22 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時54分31秒

 亜弥の家が見えてきて、壮太は立ち止まった。
「また、機会があったら寄ってくれよ。俺はいつでもここにいるからさ」
「・・・うん。壮太は変わんないよね。これからも変わんないでよ」
 亜弥はキャップのつばをクイっと親指で上げて、壮太の目を見つめて言った。

「ははっ当たり前やろ」
 そう笑った後、
「ほんまに、応援してるからさ」
 表情を固めて、壮太は最大限の感情を込めて言った。
「うん。ありがと壮太」
 亜弥が歌手になりたいと言った時分には否定したのだが、今は素直に背中を押すことが出来た。

 今日で亜弥とは永遠に別れてしまうような予感がしていたが、壮太はそれが
嬉しくもあり、また哀しくもあった。
 亜弥には大空を駆け巡ることが出来る羽があって、自分にはそれが無かっただけのことだ。
 完全に亜弥は思い出となって、これからはテレビの中で笑う亜弥が本物の亜弥になるのだろう。
 別れを告げると、壮太は踵を返して一人、色濃い斜陽によって緋色に
照らされた道を、ゆっくりと味わうように歩きながら、工場へと帰って行った。
23 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時55分25秒
24 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時56分17秒
25 名前:05 夕暮れ時の過現未 投稿日:2003年07月18日(金)04時56分59秒

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