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37 桜散る樹下に佇む君は

1 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)07時54分03秒
37 桜散る樹下に佇む君は
2 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時00分52秒
少女は道半ばで脚を止め、頭上にひらひらと舞う桜の花びらを眺めた。
吸い込まれそうなほどの深い青を背景にその淡い薄桃色が映える。
いや、少女はむしろ雲霞のように白く真上の空間を覆う桜の枝から覗く
目が覚めるような空の青にこそ魅せられた。

村人に尋ねながらようやく目的の地まであと少しという所まで辿り着いた。
自然と歩を進める間隔が早まり、額に汗が滲む。
絣(かすり)の袖で無造作に汗を拭うと、額に桜の花びらが張り付いていた。
少女はふわふわと風に舞い上がる桜吹雪に一瞥をくれると
再び目的の地を目指し、ゆっくりと歩み始めた。
3 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時01分26秒
◇◇◇

その日、夜遅くなって旭日楼にやってきたのはまだ12、3歳くらいの女の子だった。
保田は驚いた。
「あの子いくつよ?」
いくら兵隊が若い娘を抱きたいからといって、子供を相手にできるものじゃない。
「ああ見えて15歳らしいですよ、お圭さん」
保田より「少しだけ若い」ことになっている石川が応えた。
15歳?それにしたって、ひどすぎる。

少女は南国の風物が珍しいのか、キョロキョロと落ち着きなく周囲を見回している。
英国の植民地だったこの島の商館をそのまま使ったコロニアル風の旭日楼の建物は
特に少女の興味を引いているようだった。
4 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時02分00秒
ひどいってのはそれだけじゃない。
同じ年格好の娘がもう一人いた。
二人は身を寄せ合ってじっと保田らの方を見つめている。
そりゃ怖いだろう。
ひょっとすると何をするのかさえ教えられずに連れてこられたのかもしれない。
内地はともかく、朝鮮や大陸の女郎屋は阿漕な連中が多い。

いい奉公の口があるから、ってうまいこと丸め込むという話。
もちろん、こんなご時世だ。
女中を雇えるようなお屋敷なんぞ、そうあるもんじゃない。
親も薄々はわかっちゃいるが、背に腹は変えられない。
なにしろ子供はたくさんいる。
一人でも食い扶持が見つかるんならそれにこしたことはない。
一家揃って飢え死にするよりはましというもの。
とはいえ、悲惨な話には変わりない。
5 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時02分31秒
石川はああ見えて世話好きだ。
しかも自分と同じ境遇と聞いて、黙っていられなくなったらしい。
震える二人に声を掛けて優しく諭す。
「ね、怖くないから。何かあったら、私かあのお姉さん、お圭さんに言うのよ」
黙ったままこくりとうなずく二人の子供。
「お腹すいてない?」
もう一度うなずく二人。
今度は少し、力の入ったようなうなずき方だ。

「おいで。まかないのおばさんに何か頼んでみるから」
そう言って石川は二人を連れて厨房に向う。
(お圭さん、やっぱり挺身隊ですって)
通りがけに囁いた石川の声はどこか悲痛な色を帯びていた。
内地から志願してきた保田たちと違い、石川は朝鮮から連れてこられた口だ。
「女子挺身隊。」
海外での兵站所勤務で給金はよい。仕事も楽だ。
甘い言葉で若く美しい娘を誘っては戦地の慰安所に送り出す。
女衒のやり口は今も昔も変わらない。
6 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時03分03秒
保田は思い出す。
あの子が来たときも最初は泣いてばかりだった。
無理もない。
男もろくに知らないおぼこが、いきなり一日に何十人もの兵隊さんを相手にするのだ。
怖いわ、痛いわ。
保田だって、数をこなすこつを覚えるまでは苦痛だった。
石川には死にたくなるほど辛かっただろう。
いや、辛いのは今も同じか。

それでもあの子は強かったと、保田は思う。
手取り足取り教えてあげたせいもある。
もともと頭がいいのだろう。飲み込みも早かった。
「全員の兵隊さんをまともに相手にしてたんじゃ、体がもたないよ」
そう言って石川にはこつを伝えた。
数をこなすには早く出してもらうための技がいる。
巧くこつをつかんだ石川は今じゃこの慰安所、旭日楼の中でも中堅どころだ。
7 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時03分37秒
石川が帰ってきた。
二人はまかないの残りを食べて寝たらしい。
「名前は亜依ちゃんと希美ちゃんだそうです」
「同郷なのかい?」
「ええ、朝鮮の江原道ですって」
涙声で話す石川の瞳は早くも潤んでいる。
保田は二人の寝顔を確認した。

「名前ばっかりは創氏改名で日本人ですが、ちゃんと学校を出してもらったのか。
言葉もはっきりしないところがあります」
「まだ子供じゃないか。ほんとうに阿漕なことをするよ」
これからこの子たちに起こることを思うと
保田はなんだか胸の底が重くなったように感じた。
8 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時04分08秒
「お圭さん、あんまり遅くなっちゃお風呂が冷めちまいます。どうぞお先に」
ぼんやりと子供らの寝顔を見つめる保田に石川が声をかける。
性病の伝染防止のためか、慰安所で働く女たちには入浴が義務付けられていた。
「あたしはいいよ。石川、先にお入り」
保田は裸になる商売のくせに人前で肌をみせたがらない奇癖があった。

石川は一応、先輩を立てるために伺いは立ててみたが、
保田がそう答えることは予想済みだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「もうちょっと、この子たちの顔を見ていたいんだよ」
その言葉に嘘偽りはなさそうだった。
石川が風呂から上がってきたとき、保田はまだ二人の寝顔の上に視線を漂わせていた。
9 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時04分43秒
◇◇◇

キーンと耳を刺すような甲高い音が響いた。
何だろう……? 悲鳴だ!
そう気づいた保田は、自分の上に跨っている男を払いのけ着物を羽織ると
一目散に奥の部屋へと向かった。
バタバタと廊下を駆ける足音にあちこちの部屋から娘たちが顔を覗かせている。
保田は、手振りで静まるように訴えると一番、奥の部屋へ駆け込んだ。

「どうしたんだい?」
「お圭さん……」
すでに石川が来て亜依の肩を抱いていた。
ぶるぶる震えて恐怖に表情が引きつっている。
傍らでは大きな体の兵隊が申し訳なさそうに突っ立っていた。
「あらまあ、すみませんねえ。とんだ粗相で」
「いや……まあ……」
兵隊はどうしたらいいのかわからずに口篭っている。

「兵隊さん、ちょっと待っておくんなさい。あたしでよろしけりゃお相手いたします」
そう言って、兵隊の手をとり、部屋を出た。
出がけに「頼んだよ」と石川に告げると、こくりとうなずく。
腕の中で小さく縮こまる亜依と目が合った。
一瞬、その瞳に映った自分の姿はなんだか鬼みたいで嫌だと保田は思った。
10 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時05分15秒
亜依がひどく騒いだせいで希美も怖がってしまい
とてもじゃないが、二人とも客の前に出せるような状態ではなかった。
兵隊だって、好き好んで毛も生え揃わないような子供を相手にしたいわけじゃない。
結局、その日は保田と石川で客を片付けた。
「どうする石川?」
「どうって、お圭さん?」
相変わらずこういうとこは気が利かない。

「亜依と希美のことさね。あの子ら、仕事に出すわけにはいかないだろ」
「じゃあ、どうしたら……?」
「あたしらで手分けしてこなすしかないさ」
「お圭さん……」
上目遣いで訴える石川が不憫でならなかった。
今だって体は限界だ。
それは保田もよくわかっている。

「しょうがないよ。あんな子供に男が跨ってる姿を想像したら……」
それは身が引きちぎられるよりも辛い想像だった。
石川だってわかってるんだ。
保田は思う。
わかってる。それでも涙が出た。
ちきしょう。なんだってんだ。
ほんとに嫌な世の中だよ。
11 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時05分46秒
◇◇◇

二人が来て殺伐とした雰囲気が和らいだ。
南国は見るもの聞くものすべてが珍しかったのだろう。
子供の華やいだ声が聞こえる生活は慰安婦たちに束の間の安らぎを与えた。
毎日、死と背中合わせの兵隊たちを相手にしなければならない彼女らにとって
それは幸福な時間だった。

今度出征したら生きて戻れるかわからない。
そんな男たちのために保田ができることといったら
せいぜい明るく振舞って気持ちよく送り出してあげることくらいだった。
こんな前線で一緒に兵士たちと暮らしていれば情も移る。
一回、数秒の兵隊相手でもそれなりに愛情をもって受け止めてたつもりだ。
保田はよく石川に言って聞かせた。
12 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時06分18秒
兵隊さんだっていつ死ぬかわかんないんだ。
怖いんだよ。
ときどきいるんだ。
おっかさんの名前呼んで泣きながら、ただあたしに抱きついて帰る人もね。
そんなとき、思うんだ。
こんなあたしでも、抱っこして心が休まるんなら、おやりなさいってね。

そのたびに石川は昔聞いた親鸞上人の話を思い出した。
修行の身でありながら性欲の煩悩に悩まされた青年僧親鸞。
その夢枕に立ち、「私をお抱きなさい」と親鸞の煩悩を受け入れた観世音菩薩。
きっと、保田を抱いた兵隊たちはその懐に菩薩の慈悲を見ただろう。
なぜなら石川もまた、その慈愛に包まれていることに無上の喜びを感じていたから。
13 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時06分49秒
◇◇◇

平穏な日々は長くは続かなかった。
保田たちに詳しいことはわからなかったが、戦局は日増しに悪化していくようだった。
大本営発表は景気のいいことばっかり並べていたが、本当のところ誰も信じていない。
以前は毎日のように来てくれた馴染みの客が一人また一人と減るたび
保田は我が子を想う母親のように嘆き悲しんだ。

「寂しいですか?」
「寂しいね」
石川の問いに保田は淡々と答える。
「優しくていい人たちから亡くなっていくよ。春をひさいでる身でおこがましいけどさ。
あたしらだって体を許した男には、情が移るんだ。女ってのはそういうもんさ」

自分もそうなるのだろうか。
自問しても答えは得られそうになかった。
石川にはただただ辛いだけで兵隊の気持ちまで慮る余裕がなかったのかもしれない。
保田には内地で何か居辛くなって戦地での慰安婦に志願したという噂がある。
それくらいの苦労を積まねばわからぬものだろうか。
こればっかりはいくら考えても答えが出そうにはなかった。
14 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時07分21秒
配給が滞り出したのもこの頃だった。
以前はどんぶりいっぱい白飯が食えたのに。
いつのまにか麦飯になり、量が半分になり。
しまいには一日一食、茶碗半分の飯で耐えざるを得なくなった。
保田や石川ははまだいい。大人だから我慢ができる。
だが亜依と希美は食べ盛りだ。

口には出さないが石川にはわかった。
二人が必死で堪えていることが。
すでに戦争が激しくなって客が来ることはなかった。
体を動かさなければ食料が少なくとも何とか生きてはいける。
保田と石川は少ない配給から亜依と希美のために飯を分けてやった。
亜依と希美が虚ろな目で空の茶碗を覗く姿を見るのは耐えがたかったから。

最後の頃は、終日、ぼんやりと寝転んでいた。
何にもすることはなかったのだ。
もはや亜依と希美が騒いで回ることもなかった。
そんなある日のことだ。引き上げ船が来たのは。
15 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時07分51秒
◇◇◇

「そんなばかな話があるもんかい!」
「お、お圭さん、落ち着いて」
石川は宥めるが、とても落ち着いていられるものではない。
「これが落ち着いていられるかっての!」
保田は船でやって来た役人に向って啖呵を切った。
乗船できるのは日本人のみ。朝鮮人は後日到着予定の別便を待てと言う。
「冗談じゃないよ。こっちは明日にも全滅しようかという状態だ。
朝鮮人は見殺しにする気かい?」
この言葉にはさすがの役人も気色ばんだ。

「貴様、何を言うか!卑しくも皇国臣民である以上、朝鮮だとて差別などない!」
嘘を言え……
石川は喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
別便なんてあるものか。
この船に乗らなきゃ自分と二人の子供は死んでしまう。

石川が焦燥感に駆られていると、保田がやおらその細い腕を掴んだ。
声を潜めて耳許で告げる。
「いいかい?あたしの名前でお前はこの船に乗るんだ。
誰が何と言おうとお前は保田圭、いいね」
「お圭さん……?」
石川は咄嗟のことに声も出ない。
16 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時08分21秒
「あたしなら大丈夫だ。この子たちが心配だし。さあ、わかったらさっさとお乗り」
ぎゅっと掌に何かを握らされた。紙のようだ。
「困ったときに訪ねるんだ。きっと力になってくれる」
石川は、ただ、ただうなずいた。目に涙を溜めて。
「いいかい、くれぐれも朝鮮人だってこと、言うんじゃないよ」
保田はそう囁くと、石川の背中をぽんと押して船に乗せ、子どもらを連れて船から離れた。

ぼうっと締まりのない音で汽笛を鳴らすと、
引き上げ船は舫(もやい)綱を解いて桟橋を離れて行った。
甲板には内地に引き上げる人々がところ狭しと並んでいる。
保田は石川の顔を探した。
とびきり可愛くてややあごの突き出た少女。
簡単に見つけられたその顔はすでにくしゃくしゃで、頬を涙でしとどに濡らしていた。
保田はその姿が判然としなくなるまで、船上の人影に目を凝らした。
二人の子供は船が見えなくなるまで手を振り続けた。
17 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時08分53秒
◇◇◇

横浜に入港した船を降りた石川は、いるはずのない迎えに面食らった。
気が付けば両脇を固められ、正面に立った男は手帳のようなものを突きつけている。
「保田圭だな。窃盗の容疑で逮捕する」
「え?あの、わたし……」
「いい訳は署でしてもらおう。お前には散々てこずらされたからな。
たっぷり語ってもらうぞ。え、桜観音のお圭よ?」
「……」

石川は必死で口を衝いて出そうになる言葉を抑えた。
私は保田圭じゃない……
しかし、保田とは約束した。
『朝鮮人だってことは、絶対に言わない……』
言えばどうなるだろう?
恐ろしくて考えようもなかった。
石川は郷里の朝鮮人が憲兵に殴り殺された場面に出くわしたことがある。
18 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時09分25秒
だが、その不安は杞憂に終わった。
署について接見した警部が開口一番、
「このばかものども!よく見ろ!こいつのどこが桜観音のお圭だ、え?!」
「だって警部、こいつ観音さまっぽい顔してるじゃないですか」
逮捕した巡査長が口を尖らせて言う。
「ばかやろう!観音さまなんて名を騙るもおこがましいほどの不細工だから
むかつくんだろうが。まったくどいつもこいつも」
ここへ来て間違いに気づいた巡査長以下は大いに慌てた。
石川はどうなることかとはらはらしながら成り行きを見守っている。

「お嬢さん、ちょいと失礼」
言うが早いか警部は石川の絣を剥ぎ取って肌を顕にさせた。
「きゃあっ!」
「ほれ見ろ、背中の刺青がないだろう」
えっ、と石川は振り返った?刺青?
「お嬢さん、すまない。桜観音のお圭ってなあ性質の悪い盗っ人でな」
そう言いながら警部はさっと石川の着物を背中に掛ける。
「背中に桜吹雪と観音さまのもんもんを入れてることから通称を『桜観音のお圭。』
盗っ人の間じゃ、ちったあ名の知れた女盗賊さ」
桜吹雪と観音さまの刺青……。そういえば保田は肌を見せたがらなかったことを思い出した。
19 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時09分55秒
「じゃあ、この女はいったい……船の乗客台帳と一致するのはこいつしか……」
「だからバカだと言ってるんだ。最初から替え玉だったんだよ」
石川はハッとした。
では、あのときの保田の必死な様子は自分を助けるためではなく
帰国して捕まることを恐れて……

くすっ。
石川はなんだかおかしくなってつい噴出してしまった。
「警部、こいつどうします?」
「丁重にお詫びしてお帰りいただくんだ。お嬢さん、とんだ災難でしたな。
あんたも何か盗まれませんでしたか?」
「いえ……」
しばらく逡巡したのち、石川は答えた。
「いえ、何も」
だが、石川にはわかっていた。
保田がとうの昔に自分の心を奪い去ってしまっていたことなど。

一瞬、呆気にとられた顔つきの警部。
だが次の瞬間、真顔に戻って石川に告げた。
「危険ですからな。あの女は。義賊を気取ったものか、人の心まで奪い去っていく」
「警部さん……」
「どこがいいのか、人気があるんですな。協力者が後を断たない」
遠い目で保田のことを語る警部の口調には、しかし、
どこかしら愛おしむような様子が感じられた。
20 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時10分25秒
「しかし何でまた、背中に刺青なんか?」
「十二の頃だそうです。生糸工場への奉公と騙されて女郎屋に売られ、
逃げ出せないように彫られたんだとか」

石川はそのむごたらしい事実を前に胸が締め付けられるような思いがした。
保田の優しさが今になって身に染みる。
「お嬢さんは目にしたのかい?あの刺青を」
石川は滴り落ちそうになる涙を必死に堪え、ただ首を横に振った。
「そうかい……」
警部は何に納得したものか、ふんふんとうなずき
それから、おもむろに尋ねた。
「お嬢さん、行く当ては?」
「はい。知人のところへ」

出掛けに警部が教えてくれた。
石川らを乗せた船が出た直後、朝鮮行きの別便がたしかに出港し、
博多に寄航した後、すぐに釜山へ向ったそうだ。

警察署を出た石川は保田に手渡された紙片を手にしっかりと握り締め
脇目も振らず、まっすぐに道を進んだ。
21 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時10分58秒
◇◇◇

石川は脚を止め、前方遠くを見据えた。
小高い丘の上、一本の大きな桜の樹に寄り添うように立つ一軒の小さな庵が目に入る。
だんだんと近づくにつれ、嬉しいような怖いような感覚に躊躇いが生じた。

丘の上、庵の前に、先程まではなかったはずの黒い影が見える。
桜散る樹下に佇むその姿は人というよりは
どこか菩提樹の下で悟ったという仏陀のような静かな佇まい。

石川は大きく手を振って、舞い落ちる桜の花びらを振り払いながら
ゆっくりと、その姿を目指して足を踏み出した。




22 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時11分29秒

23 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時12分31秒

24 名前:37 桜散る樹下に佇む君は 投稿日:2003年03月16日(日)08時13分02秒


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