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35 すっぱいハチミツ
- 1 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時11分32秒
- すっぱいハチミツ
- 2 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時12分23秒
- 「お姉さんですよね?吉澤くんの」
あれま、やっぱバレてるや。
向かい合う女の子の目は鋭い。私より20cmほど低い位置にあるその目に見つめられ、
私は小さく肩をすくめてから、口元を覆っていた息苦しいマスクを取った。新鮮な空
気を吸い込み小さくため息をつくと、鼻の奥がムズムズと落ち着きをなくしていく。
花粉症というより、これじゃ端から見たら誘拐犯とか変質者ぽいもんなぁ。
どうせばれるんなら変装なんてしない方が良かったかも、逆にすっごい恥ずかしいや。
そわそわする気持ちを沈めるように、白いマスクをポケットにくしゃくしゃにして
突っ込む。それから、顔を隠すように深くかぶっていた帽子を少し上げ、私は緊張を
解くように少女に微笑みかけた。
頭上からの光の感触が頬をあたためる。風はまったく気にならなかった。
少女は表情を変えることなく、私の目をまっすぐ見つめている。
どきっとするほど強い目で。
緊張しているのは私の方かもしれない。
表面の余裕の笑みとは裏腹に、私は心の中で苦笑いを浮かべていた。
- 3 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時14分07秒
- 「えっと、けっこうすぐにわかった?」
「ええ、目を見てすぐにわかりました。吉澤くんと似てるし。それにお姉さん有名ですから」
私じゃなくてあいつが似たんだけどな。
淡々と答える少女とスムーズに言葉を交わしながらも、私は正直とまどっていた。
小学4年生の女の子。私の中ではもっとたどたどしい言葉で、あどけなく喋るもんだと思って
いたからだ。少なくとも私の小学生像に「目を見てすぐに言葉を返してくる子」なんて含まれ
ていなかった。
女の子はませてんのかな、それかうちのバカ共が幼いだけか。
「そっか、やっぱ似てるんだ」と呟きながら、少女からさりげなく視線を外す。
青い空をさまよう白い雲片が、どこかの段々畑を思わせる。太陽を隠すほどの厚さも量も
ない、その規則的で不安定な列は、風のない空を気持ち良さそうに泳いでいるように見えた。
小鳥のさえずりが近くで聞こえる。すぐに辺りを見回すけれど、その姿は見つけられなかった。
何年も前に毎日のように通っていた小学校。
嘘みたいに変わっていない、ひびだらけの校舎。
思い出のつまった体育館。
こんな状況でなければ、しみじみと懐かしめたのに。
- 4 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時14分56秒
- 耳に飛び込んでくる甲高いざわざわとした騒音だけで、仕舞いこんだ記憶が数珠つなぎに
蘇って来る。楽しかったり、嫌だった思い出。
少女の視線を感じ、私はその糸を手繰り寄せることなく手を離した。
この忙しい時に。何で私がこんなことしなきゃいけないんだよ。
太陽を恨めしく眺めた。空は昨日と似たような表情をしている。
今朝の数分の出来事で、いつのまにか今日の予定が大幅に狂っていたのだ。
「
「ひとみ!起きなさい、時間よ」
遠くから聞こえる声と揺さぶられる体、母親が自分のことを起こしているのだということに
気付いた時には、すでに身体を包んでいた熱とともに布団がはぎ取られていた。
「うぉ、さっむいからー」
がばっと起きあがって足下に重ねられた布団をひっぱる。
横ではお母さんが満面の笑みを浮かべていた。とても嫌な予感が寝起きの頭をかすめる。
「何?きしょいよ。昼間っから」
お母さんは相変わらずにやけている。
なんかしたっけ?こういう顔をしている時は、大抵なんかある時なんだよね。
思い当たる事といえば、最近疲れていて親の話を無視して、全く聞いていないということ
ぐらいだった。
- 5 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時15分31秒
- 「おはよう、起きたわね?」
「正確には、起こされただけど…」
私が憮然とした調子で答えるのも気にとめず、「たまには目覚ましじゃないのも良いものよ」
と言いながらベットに腰掛けてくる。私はベットの上であぐらをかいたまま温もりを確かめる
ように押しやられた布団を肩までかけた。
お母さんの手が何かをもっているのに気付いたのはその時だ。
重たい瞼をこすり、髪をかきあげる。それは可愛らしいラッピングがされたプレゼントだった。
「あのね、昨日バレンタインだったでしよ?」
私の疑問を浮かべた表情を認めると、お母さんは待ってましたと言わんばかりにすぐに反応した。
「あーそうだったね」
部屋の入り口に昨日のまま置かれている紙袋を眺め、それを指差した。
「それ、あそこに入れといてよ。後で、まとめて開けるからさ」
その袋をちらりと見て、お母さんは首を横に振った。
「違うの、違うの。ひとみにきたやつじゃないのよ」
「んじゃ、どしたの?」
「ちょっと、ひとみに頼みたいことがあってね。これをある子に渡してきて欲しいのよ」
- 6 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時16分21秒
- 「は?何それ」
「ミキちゃんていう女の子にこれを渡しほしいの。小学校に行って」
「何言ってんの?意味不明なんだけど。それに、私その子のこと知らないし」
「いいのよ、知らなくても。これをミキちゃんの下駄箱にそっと入れて来るだけだから」
「それなら、お母さんがやればいいじゃんかー」
「お母さんは友達と約束してるから行けないのよ」
今度は大げさに首を振る。その残念そうな顔を見て、私は目を細めた。
面倒なだけでしょ。
「はいはい、そうですか。残念なことに私も暇人じゃないから無理でーす。
時間ないし、もう支度しなきゃ」
布団をよけてベットから降りようと膝をたてると、お母さんの手が伸びてきて、
強制的に腰を下ろさせられる。
「もう、無理だって言ってるじゃん。こっちも忙しいんだから、人使い荒いよ」
「無理じゃないわよ」
「は?無理だよ。時間ないんだから、そんなことしてたら遅れるって」
「遅れないし、時間ならまだあるわよ」
そう言って指差した先には、いつも使っている目覚まし時計が並んでいる。
どの時計も、8時50分くらいを示していた。
え、8時!?昼まで寝だめしたつもりが…
「あれ?」
- 7 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時17分14秒
- 「まだまだ時間あるわよ、お昼まで。予定は午後でしょ?」
にやっと笑うお母さんから逃れるように、私は布団を頭まですっぽりとかぶった。
くっそー嵌められた。まだ朝じゃんかよ。
「お願い!かわいい弟の恋の手助けをすると思ってさ」
「こい!?」
布団の隙間から顔をだすと、お母さんは何か秘めた笑みを浮かべている。
「そう、恋煩いよ。魚じゃなくて」
「そんぐらい分かるよ…ラブの方でしょ?なになに、詳しく聞かせてよ」
「それじゃ、この仕事引き受けてくれるわね?」
お母さんがプレゼントを私の顔に近付ける。私は考える間もなく大きく頷いていた。
「
そして今、こうして噂のミキちゃんと向かい合っている。
誰にも見つかることなく下駄箱まで辿りついたものの、その子の名前を探している
うちに、その本人に見つかってしまったのだ。手にしている小さな箱とともに。
これで当初の計画は崩れてしまい、校舎の脇で直接渡すことになってしまっていた。
- 8 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時17分58秒
気まずい空気を打開したのは少女の方だった。
「あの、私に何か用ですか?休み時間あと少ししかないんですけど」
「あっ、ごめんごめん。あのさ弟から頼まれたんだよね、これ」
そう言って右手を差し出す。
少し戸惑いの色を見せながらも少女は、ゆっくりとそれに手を伸ばした。
可愛いらしすぎる包装も彼女の手に収まると、違和感なく落ち着いた。
「これ、吉澤くんが?」
「うん、昨日悪いことしちゃったから。でもあのバカが家に忘れていってて私が届けに
きたの。それでたまたまミキちゃんを見つけたから渡しちゃおうと。ごめんね。大事な
バレンタインのチョコを食べちゃって。誰かに渡すんだったんでしょ?」
少女がぼんやりとそれを眺めているのを見て、私は言葉を重ねた。
「それさ、チョコじゃなくて飴で悪いんだけど…なんか見合うチョコがなかったみたい
でね。ほんとごめんね。うちのバカのせいで。昨日はもう過ぎちゃったから弁償にもな
らないけど、あのチョコのお返しだと思って、受け取ってよ」
「おかえし…」
「かなり早いし、あんなバカから貰っても嬉しくないだろうけど」
- 9 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時18分50秒
- 今まで私の言う事にハキハキと答えていた少女は私の存在も忘れ、それだけを見つめていた。
これで任務終了だぁ。尻拭いなんてするもんじゃないな。すげー疲れた。
ようやく変な緊張感から解放される。弟の恋の手助けなんて響きに、始めは妙に浮かれ
ていたけれど、実際こうして学校に足を運んでみると、私の心はそんなものより誰かに
会ってしまうのではないかという不安で曇っていた。
この少女に話しかけられた時は心臓が止まったかと思うほどだった。
嫉妬で好きな子の本命チョコを勝手に食べちゃうなんて、ほんとバカなんだから。
上手く誤魔化せたみたいだし、後は弟のがんばりようか。私も嘘が上手くなったなぁ。
間近で見る少女はやはりまだ幼い。言葉や態度で多少年齢が上がって見えるけれど、
こうして黙っている姿は、やはり小学生のものだった。
弟より背は小さく、前髪は眉にかかるくらいで横で2つに結んでいる。洋服はそのプレ
ゼントが浮き立たないような物で、小学生の頃の私が絶対着たことのないものだった。
それでも、少女にはよく似合っていた。
- 10 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時19分37秒
- 綺麗な子だな、うちのバカは面食いなのかも。自分が可愛いってこと分かってそうだし、
なんか性格きつそーだな、この子が妹になったりして…
ぼうっとして少女を観察していたらばっちり目が合った。私は慌てて笑顔を作る。
「ほんと、ごめんね。大事な物を」
「いえ、もういいんです。別に誰かに上げるわけでもなかったし」
「え?そうなんだ」
視線をそらす少女に、咄嗟に余計な事を口走っていた。
「あ、でもが美味しかったって言ってたよ。チョコ」
少女はその言葉に反応して顔を上げた。なんだか睨まれているような気がする。
そしてそれは勘違いでも何でもなかった。
悲しみを滲ませて、確かに少女は私を睨んでいた。
「嘘つかないで下さい…」
少女はそう言って俯いてしまう。震え出した声を必死に隠そうとしているようだ。
「吉澤くんマズイって言ったんですよ。一口で食べて、マズイって。こんなもの食ったら
可哀想だって、残りをゴミ箱に捨てたんですから。美味しいなんて…」
少女の目から涙が溢れる。小さな肩が小刻みに震えだした。
- 11 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時20分11秒
あんのバカ!何やってんだよ。
わけのわからないことを言って慰めてみるものの、少女の涙は止まらない。
しゃくり上げて泣く姿に、やはり子供だななんて呑気なことを考えていると、
小さな粒が、雨の降り始めみたいにぽつぽつとコンクリートを濡らしていく。
それを見てハンカチを取ろうと、ポケットに手を突っ込んだ時だった。
――あっ。これ、見たことある。
その瞬間、頭の神経が鈍くなり、どこか奥深いところからじわじわと何かが染み出して
くる感覚に包まれた。時間もそれに合わせるようにゆっくりと回り出し、自然と身体の
動きがなくなっていく。
――なんて言うんだっけ?こういうの。
音は何も聞こえてこない。目に入る情報と頭の後頭部に感じる熱、それだけで予感めいた
何かが脳みそを支配していた。それは前と後ろから手を伸ばしあう。霧が立ちこむ世界に
あって、その2つは繋がりそうで、なかなか繋がらない。
もどかしい感覚を押さえながら、その手を傷つけないように、私は焦らずにじっと眺める。
――見た事あるんだよ、この場面。あーそうだ、こういうのをデジャブっていうんだ。
デジャブって…
- 12 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時21分39秒
- 温い手が触れようとしている。映像の断片が足音をしのばせ近づいてきている。
全てがスローモーションだった。もし誰かに見せるのなら、セピア色が今一番
ふさわしいフィルムなのかもしれない。
ポケットに突っ込んだ手の感触。目の前で泣く少女。
――そうだ、そう。ハンカチを探したんだけど、そんなのなくてさ…それで
この子が自分でハンカチを出すんだよ。花柄のハンカチを―
少女がポケットから綺麗に折り畳まれたハンカチを出す姿を、唯一働いている
視覚が捉らえる。予言者にでもなった気分だ。
左手には私が渡した箱がまだ乗っている。
それを目にしてはっとする。
――これもあった。これも見た事ある。
再びうねりを上げて頭の中に波が押し寄せてくる。
それは自分でバラバラに壊した過去の嵐の波。
光のあたらない奥深い所へ閉じ込めていた記憶。ズキリと傷む思い出。
パズルのピースが次々と埋まっていくように、それは端から徐々に並べられていった。
がっちりと握手を交わした手によって。
忘れてしまいたい絵が、再び目の前に表れる。
花柄のハンカチ。ラッピングされた箱。チョコレート。泣いている女の子。ゴミ箱の音。
- 13 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時22分27秒
- 少女は俯いたまま、肩を震わせ、地面を濡らす。
火花をちらして混じり合う不確かな景色。私は唇をかみしめる。
切り取られた感情が先に姿を表した。
――ちがう、違う。私だ、私のせいだ
デジャブを覚えた私の目に写る女の子。弟が泣かせた子じゃない。
何年もたった、近いようで遠い昔の出来事。私がすっかり忘れていた―
――
――――
――――――
「まっじー、こんなん食えないよ」
廊下から伝わる足音。遠くで自分を呼ぶ声。
それを耳にして、私はそんな事を言っていた。いや、もしかしたらもっと酷いことを
言っていたかもしれない。
見てすぐに手作りだと分かるもので、人のいなくなった二人だけの空間で、それは
綺麗にラッピングされて私に手渡された。そして何故かその場で開けていた。
今思えばそれが間違いだった。すぐにお礼を言って鞄にしまっとけばよかったんだ。
口の中でとろけるチョコレートは確かにそんなに上等な物ではなかったけれど、
まずいと切り捨てるほど、表情をしかめるほど、奇妙なものでもなかった。
それは花の香りのするとても、とても甘いチョコレートだった。
- 14 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時23分04秒
- いつも人がいて賑やかだったその場所の変な静けさも、少なからず影響していたと思う。
彼女とは知り合ってからそんなにたっていなくて、それほど話をしたわけでもなかった。
一緒に入っていなければ、一度も話すことはないなと思っていたくらいだった。
彼女について、他の子と話す機会が何度かあった。
それは単なる噂話であり、下らない悪口でもあった。
残念な事に彼女の話には花が咲く。その時は残念なんてこれっぽっちも思っていなかったけ
れど、笑い声が途切れることのないその話題は、そこにいるみんなの口を次々と開かせた。
もちろん自分も例外ではなく。
彼女の着ている私服の話にはじまり、くすぐったくなるような高い声、
女の子すぎる仕草、日に焼けた肌、男の子に接する態度。
それは観覧車のように止まることなく、ぐるぐると回りつづける。
誰かが電源を切るまで終わることはない。私達はそれだけでお腹が痛くなる程笑う事ができた。
暗く落ちこんでしまえば電飾をつければいい。赤や青、緑や黄色のライト。
何でもおもしろおかしく付け足せばよかった。
- 15 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時23分35秒
- 私達は足にいろいろな物を付けて飛んでいたから、そんなことは容易いことで、
罪悪感なんて微塵も感じていなかった。
例え本人を前にしていても、それは変わらなかったと思う。
溢れる蜜には蜂が群がる。とても下らなくて色を見分けることすらできなかった私達は、
―「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」とはっきりさせること―それが正しくて
自然で正直で、一番いいことだと思っていた。
相手が傷付くなんて考えもせずに、思ったことをそのまま素直に言葉にする。
その後の花の姿まで思いやる余裕なんてなかったし、その頃の世界は全て白か黒だった。
私達のブレーカーの許容量ははるかに高くて、どんなに過剰な言葉も私達を留まらせる
ことはできなかった。もしかするとあの頃だけ壊れていたのかもしれない。
飽きることなくいつまでも回りつづけ、何度もてっぺんに登り、そこから下を見下ろす。
その眺めは最高で、押しつぶされそうな日々も豆粒のように小さく見えた。
――舌に絡み付く甘さ。近づいてくる足音。自分の手にのっかったピンク色の箱。自分を探す声。
- 16 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時24分08秒
頭の中がフル回転する。彼女について喋る私の声が自分のものでないように蘇ってくる。
「ぶりっこできしょいよね。同じじゃなかったら友達にはなってないね。断るよ、絶対」
しかし、それはまぎれもなく観覧車に便乗した自分の声だ。
目の前の彼女は潤んだ目で、私の表情を伺っている。
「おいしいね。ありがとう」
ただそれだけ、それを声にすればよかった。そうすれば、彼女の表情が和むのが簡単に想像で
きた。それなのにそれを阻むように違う声が、ブンブンと羽音をたてて耳もとを駆け抜けた。
「え?貰ったの?うっそ、信じらんない」
「なに仲良くなってんの、よっすぃーに気でもあるんじゃない?」
暗闇の中、差別するような目があちこちで光り私を凝視している。
私は目をつむった。
言い訳をするならば、私はとても幼くて不器用で、どうしようもない馬鹿だったということ。
その群がる耳障りな音を、振り払うことができなかった。
耳障りだということが分かっていたのに。彼女が悲しむことがわかっていたのに。
- 17 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時25分01秒
「まっじー、こんなん食えないよ」
潤んだ目からこぼれるひとすじの流れ。それに気付かないように、ポケットに入れた
手を抜いて鞄をつかんだ。
そして、部屋の角におかれたゴミ箱の上でもう片方の手の力を抜く。
無責任に毒を刺して、そこから逃げ出す。ゴンと鳴る音をかき消すように扉を開いた。
出る瞬間にちらりと見た彼女の表情は、花柄のハンカチに隠されていてわからなかった。
私が見つけられたのは、震える華奢な肩と床にぽつぽつと反射する光。
「あー、よっすぃーやっぱここに居たんだ。呼んでたのに」
「あーごめんごめん。帰ろう、なんかすっごい疲れた」
「なんか食べてから帰ろうよ、マック行こっか?」
「おう、いいね。口直しだ」
「くちなおし?」
「ううん。行こ行こ、お腹すいちゃった」
後ろの気配を断ち切るように廊下を走った。
針のなくなった身体は軽いはずなのに、呼吸はひどく乱れ、心臓がばくばくと胸を叩く。
息がとても苦しかった。
――――――
――――
――
- 18 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時26分41秒
――そうだ、私が泣かせたんだ。
まだ幼かったというにはあまりにも残酷な態度、行動。
それは幼かったから出た行動だった、安易な思考でもあった。
小さな小さな女の子。それを泣かした馬鹿な兄弟。
やってることはあの時と変わらない。私ではなく弟が泣かしているだけで。
兄弟揃って何やってるんだうちらは…血を分けただけあるなぁ。
なんて言ってる場合じゃないよ。どうしよう、私が泣かせてるみたいじゃん。
気が付いたように周囲を見回す。人は誰もいない。穏やかな空気だけが流れていて
どっかから転がってきた紙屑が地面を鳴らした。
あ、そうか。兄弟なんだから―
「嘘じゃないよ」
少女は私の言葉に反応して赤くなった目を合わせる。
疑いの眼差しを向けられても、私は確信を持って答えた。
「うまいって言って食べてたもん、家で。ほんとだよ、家で食べてたの見たから、
ハート型のトリュフだよね?箱に入った」
「な、なんで…し、知ってるんですか?」
しゃっくりが止まらいみたいに息を詰まらせながらも、少女はなんとか声を出した。
- 19 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時29分46秒
- 私は「あのね」と柔らかく言って少女の肩に手をおく。痙攣する呼吸に合わせて大きく上下
している。それをなだめるように軽く叩いた。
「うちのバカが食べてマズイって言った時、周りに友達たくさんいたでしょ?」
こくりと少女は頷く。
「あいつ馬鹿なわりに恥ずかしがやだからさ、そのー正直に言えなかったんだよ、おい
しいって。近くにいる友達に後でちゃかされるのを、きっと気にしちゃってたんだよね」
少女は黙ったままだけれど、いくぶん呼吸が落ち着いてきたように見える。
私は肩から手をどかし、一呼吸おいた。乾いた風が帽子を奪おうとする。
「その後ゴミ箱に捨てたんだよね。でも、私は家で君のチョコをおいしそうに食べ
てるバカを見てるんだよ。嘘でもなんでもなくて、ほんとにこの目で見たんだから」
「…でも、私も捨てるとこ見ました。みんなの前で捨てたから…」
「あのさ、ゴミ箱って底なしでもないし、深い井戸でも何でもないでしょ。
捨てられるってことは、拾えるってことでもあるんだよ」
ぱっと明るくなる少女の表情を見て、私は深く頷いた。
- 20 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時30分57秒
- 「たぶん、みんな帰ってから拾いに行ったんだよ。馬鹿なりに頭使って。あれ手作りでしょ?
あまりにも上手そうに食っててさ。私が一個くれって言っても、そっこー断られたよ」
少女は何か考えごとをしている。泣き腫らした顔から明るい色がくみとれた。
あ、もしかして脈ありだったたり?
にやけそうになる口元を必死に押さえながら、忘れていた携帯を手にとる。
あー、やっばい。液晶に並んだ数字は予定時間を大幅に過ぎているものだった。
「そんじゃ、用はそれだけだから。えっと授業遅れないようにね、バイバイ」
ぽかんとした少女を残し、帽子を深く被り直して走り出す。
胸には暖かいものが残っている。
門へ向かって体育館の脇を通り抜けていく時に、そこに放置された白いボールを
見つけて、思わず足を止め拾い上げた。その感触を確かめながらボールを手の中で転がす。
昔はこれで有名だったんだよなぁ。
ボールを地面に弾ませると空気の抜けたそれは真上に返ってくることはなく、
地面の傾斜に合わせて、元あった位置へと転がっていった。
- 21 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時31分28秒
- 体育館の中からは元気なボールの声が聞こえてくる。バレーボールに初めて触れた場所。
容赦なくあびせられる怒鳴り声と、たまにふと掛けられる優しい声。
それが、体から沸き上がる情熱を受け止めてくれる、私の希望だった時間。
今の自分の姿を見たら、コーチは、仲間はなんていうかな…
プッ!プッ!
思考を遮るように鋭い音が響く。音のした方へ顔を向けると、校門の向こうに
見なれた車が目に入った。
あ、うちの車だ。
助手席へ身を乗り出したお母さんが手招きしている。
「何でいんの?」
「たまたま近くを通りかかったから、まだいるかなっと思ってね」
「友達と約束してたんじゃなかったっけ?」
「もう、すんだのよ。駅まで送ってってあげるから感謝しなさいよ」
「なにそれ…」
納得のいかない表情で乗り込み、シートベルトを閉める。
ラジオからは聞き慣れた曲が流れていた。
「で、どうだった?上手くいった?」
少し走り出してから尋ねてくる。
その好奇心に満ちた横顔を見て、ため息をつくように呟いた。
「なんとかね、上手くいった…」
「そう、良かったわ」
上機嫌で歌を口ずさみながら、まるで自分のことのように喜んでいた。
- 22 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時32分07秒
- 「チョコじゃなかったから心配で。一日過ぎただけで店に並んでた大量のチョコが跡形も
なく消えちゃうのよ。あのコンビニほんと使えないわよね!」
「うちはあんま行かないからなぁ…」
体から力を抜いてシートに深く座りなおすと、懐かしいチャイムの音が聞こえてきた。
「そうそう、下駄箱で本人に見つかっちゃってやばかったんだよ。なんとかフォローしたけど」
「あんたも馬鹿ねー、本人に見つかるなんて。あれ?なんでその子ってわかったの?
名前しか教えてなかったのに」
「え?」
にやけながらこっちを覗き込んでくるお母さんに、私は言葉を返すことができない。
「ははは、かわいい弟のことだもんね。鍵のついた引き出しが気にならずには
いられないって?しかも鍵が汚い机の上に放置されてるとくれば…ね?」
「うっさいな、たまたまだよ。ハサミ借りようと思って行ったら引き出し開いてたから、つい…
てか、お母さんも見てんじゃんか。しかも鍵つかって、そっちの方がサイテーだよ」
「母さんのは健全な査察よ。あの歳で変な本わんさか持ってたら問題でしょ。
まー、実際はかわいい女の子の写真ばっかだったんだけどさ」
- 23 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時32分42秒
- 気が付くと見慣れた駅前に来ていた。そういえば信号に一つも捕まらなかった。
「一緒だよ。うちにはプライバシーてもんがないなぁ」
「そうよ、親に隠しごとなんて無意味なのよ……そこでいい?ひーちゃん」
顔が紅潮していくのが自分でもわかった。
睨み付ける私を無視して、お母さんはバスを追いこしてから道路脇に車を寄せた。
車が止まると、私はドアを勢いよく閉めてさっさと駅へと歩き出す。
くそー、せっかく頼まれ事してやったのに。
「忘れもんよ!これ、あなたの分だから。持っていきなさい」
後ろから追い掛けてきたお母さんは、半ば押し付けるように私に紙袋を持たせると
車へと戻っていった。まだ顔がにやにやしていた。
私の分って、お昼かな。なんかすっきりしないけど…
電車がホームに滑りこんで来たのを見て、私は慌てて走り出し、階段をかけ登る。
高鳴る心臓の音も息苦しさも気にならないくらい、爽快な気分だった。
なんとか電車に滑り込み、がらがらなシートに腰を下ろす。
手にした紙袋の中身は綺麗にラッピングされたプレゼントだった。
それも、見覚えのある物。
- 24 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時33分16秒
- 先程の埋めれれたパズルが再び蘇ってくる。
そうだ、これ。あんな事したから…あの後、お返しで買ったんだけどあげれなくて、
クローゼットの奥底に隠しておいたんだ。もう何年も前のもの…何買ったんだっけ?
あの時は暗くて弱々しかった彼女も、今ではすっかり大人になっていた。
もう昔の事は覚えていないのかな。私もずっと忘れて、思い出さないようにしていたから。
昨日はバレンタインだったけれど、そのことについては何も触れなかったし、口ケンカして
しまって、それどころじゃなかった。あんなに怒ってたのは私が忘れてたからかも…
この仕事が終わったら、ちゃんと謝ろう。後輩の心配をする前に。
もう一度紙袋をあけてそれを眺めた。これを目にした時から何かが引っかかっている。
あれ?そういえば、なんでコレお母さんが持ってたんだ…。
「あー!」
静かな車内に響き渡る私の声。ささる視線が痛い。私は俯いて帽子を深く被る。
あの隠し場所もチェックされてたんだ…やば、変な本とかもあったような…
『隠しごとなんて無意味なのよ』悔しい程、にやけたお母さんの笑みを思い出す。
- 25 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時33分54秒
- 弟の弱点を握って喜んでいた私も、どうやら尻尾をつかまれているらしい。
「母強し」とはよく言ったもんだ。
引きつった笑みを浮かべる私に、またいくつか視線が突きささる。
その後、電車の中ではお母さんへの弁解の言葉を探すので精一杯で、
彼女へ謝る上手い言葉なんて一つも見つけられなかった。
そしてその日から、我が家の生態系は微妙なバランスを持って営まれるようになる。
私が弟をこき使うようになり、母が私をこき使うようになった。
もちろんピラミッドの一番上にいるのは母親だ。その下で私達が支えている。
決して静かではないけれど平和な世界。
気付かなかっただけで、その景色は、以前と少しも変わっていないみたいだ。
「おいしかったよ。ありがとう」
私は、昔の本当の気持ちをそのまま伝えようと思った。
- 26 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時34分36秒
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- 27 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時35分21秒
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- 28 名前:35 すっぱいハチミツ 投稿日:2003年03月15日(土)22時35分59秒
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