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32 時の邂逅
- 1 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時42分55秒
- 時の邂逅
- 2 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時44分05秒
- 私がある春の日、先輩の石川さんに誘われて、石川さんが会員になっている絵画展の展覧
会場に足を運んだ時の事だ。二階まで吹き抜けになっている広大なホールは酷く私に
場違いな印象をもたらしたものだった。
石川さんに手を引かれ、私は全く無知ながらも一つ一つ綺麗に彩色されている絵画を
さも感心するように巡覧していた。大理石の床は私のブーツの音を高く響かせ、方々の木霊
する反響音はこの広々とした会場を僅かながら彩っていたとも思えた。
幾つかの絵画を鑑賞し、石川さんの絵の前まで来た時だった。
背景に可愛らしい花をちりばめた女の子の肖像画を描いている石川さんの絵の隣に、
キャンパスを殆ど真っ白で統一している、不可解な絵が飾られていた。
言葉で表すのはとても心許ないが、理解できない不思議な魅力を放っている絵だった。
その絵がどうしても気になった私は、無意識のうちに口を開いていた。
- 3 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時44分57秒
- 「あの、石川さん。この絵を書いた人って、誰かわかりますか?」
石川さんの絵の目前で、隣の絵の事を訊くのはあんまり酷いと思ったけれど、私は
それを確かめずにはいられなかった。どこまでも空虚で、どこまでも蒼白な一つの病室。
間違いなくナニかの意思をその絵から私は受け取ったのである。
「え?隣?・・・それが気に入ったの?」
石川さんの口調は柔らかかったけれど、重苦しい棘も含まれていた。
「石川さんの絵は華々しくて綺麗なんですけど、どうしてそっちのはそんなに
愛想ないのかなーっと思って」
「キレイ?ホントに?やったぁ。私ひとみちゃんに絵を誉められた事あんまりなかったから
すごい嬉しいよ」
「あ、あの・・・隣の絵の作者は誰なんでしょうか?」
真っ白で薄っぺらい額の下に、題名だけはこう記されてあった。
―――「時の邂逅」
- 4 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時45分51秒
- 病室の中心にベッドが一つポツリとあって、そこには一人の黒髪の少女が正面を向いて
座っている。色を持っているのはその少女の肌と、髪の毛、そして窓際に飾られた一輪の
黄色い花だけだった。それ以外は白い海にでも包まれたかのように、どこまでも空虚である。
雑だといえば、酷く乱雑に描かれているようにも思えたし、丁寧に描かれているといえば、
それもまた頷ける。どうして私はこの絵にそこまで惹かれているのだろうか。
「ひとみちゃん?」
「・・・えっ?」
石川さんの声に、私はハッと現実世界に戻る。
「もう、何ぼうっとしてるのよ?この絵の作者さんわかったよ。
飯田圭織さん。まだここの会員になって、間もない人だね」
石川さんはパンフレットをまじまじと見ながら、声を出した。
「飯田圭織さん・・・」
「でも、不思議な絵だよねえ・・・真っ白で素っ気無いのに、この子だけは
笑ってるし・・・」
「笑ってる?」
この絵の少女は、私には泣いているように感じたのだった。
「泣いてるんじゃないんですか?」
「どうしてよ。ほら、口をニコッとさせてるじゃない」
- 5 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時46分39秒
- 私は出来るだけ絵に顔を近づけて、吟味するようにその少女の表情に焦点を合わせた。
けれども、どうしても私には泣いているように見えたのである。
「やっぱり泣いてますよ」
「笑ってるじゃん」
「うーん。作者さんに会って確かめたいなあ・・・」
「それより私の絵はどうだった?」
「え?ああ、綺麗でした」
「・・・素っ気無い」
それから私達はまた暫く絵を巡覧してから家路についた。
あれから何日か経ったが、私の脳裡にはあの絵が焼きついて離れなかった。
時の邂逅。題名からは何もその意味を得る事が出来なかった。
どうしてある病室の一コマを描いた作品が、時の邂逅なのだろう。
あの絵からは時間の流れを全く感じる事が出来なかった。むしろ、ぶつ切りに
ある場面を切り取った感じを私は覚えた。隔絶された空間。そんな風に。
そしてあの少女は笑っているのだろうか、泣いているのだろうか。
いてもたってもいられなくなった私は、先の展覧会場に電話をして飯田圭織さんに
直接会ってみたいと思い立ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 6 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時47分21秒
- 飯田圭織さんとは直接話をする事が出来なかったけれど、飯田さんのお母さんに電話を
取り次いでもらった。自分の絵を気に入ってくれた私を飯田さんは大変に気に入ってく
れたらしく、いつでも会いに来ていいという返事を貰った。家はすぐ近くで、電車を
使ったら数十分で行ける距離に飯田さんの家はあった。
私は石川さんを誘って、電話をかけた日の翌日にさっそく会いに行こうと決意した。
飯田さんの年齢は私達よりも一回り上だったので、私も石川さんもいざ会いに行こうと
思うとどうしても緊張を隠せなかった。
「そこまであの絵が気に入ったの?」
道中、石川さんに何度もそんな事を訊かれる。
「はあ・・・なんか気になっちゃって。あそこまで絵に引き込まれたのは初めてだったもんで」
「私の絵は何度も見せてるじゃん・・・」
「石川さんの絵も大好きなんですけど・・・何て言ったらいいのかな」
私が口篭っていると、前方に一軒の花屋さんがあるのが見えた。
「あ、あの、お花買っていきませんか?」
「あ、それいいね。やっぱり手ぶらじゃ失礼だよ」
- 7 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時47分53秒
- 狭い店内に入ると、私は特別興味がないのに色々と首を回して花々を見ていった。
生まれてこの方、花を片手に知らない人の家に訪問するなどした事はなかった。
店内を一周して、ふと足元に視線を落としたとき、見覚えのある花が目に入った。
これはあの絵の中で、少女以外に色を持っていたあの花と同一のものだった。
「すいません。これなんて言う花なんですか?」
若い女性の店員さんに、私は興味深げに訊いた。
「それはユリオプステージーですね。秋から春にかけて長い期間咲く花ですよ」
「へえ、綺麗ですよね。じゃあ、一つもらえますか?」
「はい。ありがとうございます」
- 8 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時48分42秒
- さっさと私が店を出ると、石川さんは慌てて私の後を追って店から出てきた。
「ちょっと、さっさと行かないでよさっさと・・・何の花買ったの?」
「ええとですね。ユリオプステージ―だったかな。あの絵の中にあった花と
一緒だったから迷わず買いました」
「よっぽどあの絵が気に入ってるんだね」
石川さんはなにやら頬を膨らませている。
「何言ってるんですか。私は石川さんの絵だって大好きですよ」
「・・・ホントに?」
石川さんは表情を弛ませて急にご機嫌を取りもどす。
「はい。もちろん」
「ふふふ。じゃあ、急いで飯田さんの家行こうか」
バカがつくほど単純で、わかりやすい性格の石川さんを私はどの先輩よりも慕っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 9 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時49分44秒
- 飯田さんの家はとても大きくて、私の家がすっぽり三つは入ってしまうくらいの
洋館を模した豪邸だった。その威圧感に辟易した私達は二人勇気を振り絞って、
インターホンを押した。
息を一つ呑んで、固くなって応対を待つ。少しして、まだ若い一人のおばさんがやってきた。
品のいいブラウスに、黒のカーディガンを羽織っている。微笑んだ顔が特徴的で、背筋が
キリット伸びた清楚な人だった。
「いらっしゃい。二人とも可愛らしい子ねえ」
そう言っておばさんはニコッと笑った。
さあさあ、と忙しく催促されて私達は家の中に案内された。
天井が高くて、廊下の幅がやけに広い。
その広々とした空間を随所に盛り込んでいる内装は、私にはどうしても無駄に思えた。
幾つかある部屋を通り過ぎて、何番目かの扉の前でおばさんは立ち止まった。
そしておばさんは、何か決心をしたように重たい声を出した。
「圭織はね、目と口が不自由なのよ。それでも普通の人と同じように接してあげてね」
その言葉を聞いた時、私は酷く自分が滑稽に思えたのだった。
「不自由・・・ですか?」
「うん。画家を目指したのは、そういう状態になってからなのよ」
- 10 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時50分57秒
- 飯田さんは十三歳の時に、光と声を失ってしまった。
大きな事故にあって、命が残っただけでも奇跡だと言われたそうだ。
意識を取り戻して目を開けた時、目の前がもし真っ暗だったら、私はきっと立ち直れない。
泣き叫ぼうと精一杯喉を震わせて、それでも声が出なかったら、私はきっと立ち直れない。
扉を開けると、殺風景な部屋の真ん中に皮のソファが置かれていた。
開けた窓から吹き込んでくる春の暖かい風が、レースのカーテンをふわりと揺らしていた。
そして、その真ん中のソファから少し後方にある、樫の木の丸椅子。
そこに一人の女性が座っていた。
黒のロングヘアーで、垂直に流れている髪の毛先だけはカールがかかっている。
こちらを向いているけれど、その瞳は何も写していなかった。一際大きな虚空の瞳。
「あの、初めまして・・・私、吉澤ひとみっていいます」
「えっと、石川梨華です」
「・・・・」
- 11 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時52分13秒
- 飯田さんは私達が挨拶をすると、丁寧に頭を深々と下げた。
とても美人なのに、彼女の瞳は光を捉えることが出来ない。
春の蒼みがかった新鮮さも、星の光も、空の色さえ捉える事が出来ない。
そう思うと、私は自分の立場を呪いたくなると同時に、ある種の恐怖を覚えたのだった。
「あの、飯田さん。私、時の邂逅っていう絵がとても気に入ったんです。
どうしてここまであの絵に惹かれるのかわからないくらいに、それで一つ訊きたい
事があるんですけど・・・」
私はあの絵の中の少女が笑っているのか、泣いているのか、その事を飯田さんに確かめた。
飯田さんは声を出すことが出来ない。だから、代わりにおばさんが飯田さんにペンを渡して
白い厚紙に文字を書かせた。飯田さんの字は綺麗でしっかりしている。まるで筆の軌道を
暗記しているようにさえ思わせた。そしてその紙にはこう綴られた。
『笑ってるのでも泣いているのでもないよ』
どういうことなのだろうか、私は首をかしげた。
すると飯田さんはそのまま私の返事を待たずに筆を走らせた。
- 12 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時52分53秒
- 『あの絵は私が事故から目を覚ました時の事を思い出して描いた絵なんだ。
あのベッドに座ってる女の子は私自身でね。私は私に感情を与えなかったの。
だからあの絵の私は笑っているのでも、泣いているのでもないんだよ』
真っ白な背景に、色を持った一輪のユリオプステージ―。そして少女。
目覚めた時の喜びと、光と声を失った悲しみを同時に経験した飯田さんは、
一体何を思ったのだろう。
「そうだったんですか・・・」
安易に答えを求めた私は、どうしようもないほど愚劣だったのかもしれない。
石川さんもなにか考え事をしているように口を噤んでいる。
それでも。と私は思うのだ。私は飯田さんの瞳から希望の光を否定できなかった。
「あの、聞いていいですか?」
私が重苦しい口調でそう言うと、飯田さんは焦点の合わない目でコクリと小さく頷いた。
「今、幸せですか?」
私がそう言った瞬間、飯田さんの後ろにいたおばさんの表情が薄く曇った。
石川さんも落ち着かないように視線を落とす。
私は飯田さんの顔をジッと見つめた。一瞬の静寂が生まれる。
- 13 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時53分30秒
- 飯田さんは前方を暫し見つめた後、口端を上げて笑顔を作り、やがて大きく頷いた。
「そうですか。また会いに来てもいいですか?」
そうするとやはり飯田さんは笑顔で頷いてくれたのだった。
「ああ、そうそう。飯田さん。私、花をもってきたんですよ。
これ、あの絵に描かれてあった花。ユリオプステージー」
花の名前を言った直後、飯田さんの表情がキラリと光った。
そして筆を素早く走らせ、厚紙に少し字体がぶれてしまったがこう綴った。
『私が唯一覚えている花。一番好きな花なんだ。本当にありがとう』
「いえいえ。飯田さんによく似合う花だと思います」
飯田さんはそれから花の香をかいだり、優しく花びらに触れてりして遊んでいた。
その様子はとても無邪気だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
- 14 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時54分08秒
- 帰り道。
空は橙色が彩っていて、街路に点々と咲いている桜の木々が、春の優しい夕陽に映えている。
石川さんは飯田さんの絵に対する姿勢を見て、何かしらの感銘を受けたようだった。
飯田さんの描く絵は全て頭の中の記憶をつかさどるしかない。
もしからしたら「時の邂逅」も実際の場面はもっともっと味気なかったかもしれない。
「ねえ、石川さん。やっぱりあの絵の飯田さんは笑ってたんだよ」
「え?でも飯田さんはどっちでもないって言ってたじゃない」
「いや。あの絵の飯田さんは笑っているはずなんだ」
―――「時の邂逅」
私はその意味を、今この一瞬、垣間見たような気がした。
光と声を失った飯田さんにしか見えないモノ。
それは、時の出会いなのではなかったのだろうか。
生きているという実感の喜びと、声と光を失った絶望の狭間に煌めいた一瞬の光景。
それは、やっぱり時間の流れの形ではないのだろうかと、私は切に思ったのだった。
- 15 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時55分27秒
- か
- 16 名前:32 投稿日:2003年03月15日(土)13時56分05秒
- あ
- 17 名前:32 時の邂逅 投稿日:2003年03月15日(土)13時56分52秒
- 了
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