20 時間さえも知らないこと
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:09
- 20 時間さえも知らないこと
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:10
- おはこんにちばんは、道重さゆみです。
とつぜんですが、わたしは時をかける少女です、イェイ。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:10
- 先日休日が重なったので、友達の絵里こと亀井絵里ちゃんと映画を観にいきました。ただしくは観にいく約束をしていました。だけどわたしが待ち合わせ場所の駅前に着いたとき、絵里はその場にいませんでした。絵里はいっつも遅刻します。だけどその日に限っては、遅刻をしたのはわたしでした。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:11
- 自分でいうのもなんですがわたしは売れっ子です。あくまでモーニング娘。内での話ですが、他のメンバーにくらべて仕事の量は多いです。映画の約束をした日も、前日に深夜までテレビ収録があって(しかもうまくいかなかった・・・)、帰宅してひととおり所用を済ませたときには朝靄が窓の外に忍び寄っていました。約束の時間はお昼過ぎだったので、疲れ果てた体を少し休めることにしました。ぐっすり。
つまりわたしが遅刻をしたのです。2時間だけ遅刻をしたのです。絵里は以前8時間遅れてきたことがあります。わたしが、喫茶店やマンガ喫茶やブックオフで時間の使い方に悩んでいたら素知らぬ顔でやって来て、「いや〜寝すぎて眠い」などとほざいたことがありました。殺意がつま先からつむじまで一気に駆け抜けましたが、絵里のためにアイドルを辞めるのもばからしいのでやめました。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:11
- 電車の中で読んだファッション誌の占いには、『今月のあなたは絶好調! 運命を変えるような瞬間にめぐりあうかも☆』と書いてあったのに、仕事は失敗するし、待ち合わせ場所には誰もいないし、ケータイには絵里からのメールが一通届いているだけでした。内容は【おそい。さき見て帰る】。絵里は自分にすこぶる甘く、他人ことさゆみにとことん厳しいです。開き直るつもりはありませんが、ふだん、絵里の横暴を許している自分が馬鹿馬鹿しくもなります。たった二時間も待てないなんて、都会の人は時間に追われすぎて大事なものを忘れています。
絵里にはわからないのです、わたしの絵里への想いも疲労も辛苦も努力もプレッシャーもストレスも──絵里には直接関係ないことまで噴き出しそうな自分を強引に抑え込んで、映画館の前でぷんぷんしていたら上映時間になったので、チケットを買ってひとりで座席に着きました。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:12
- 高田馬場で観たその映画は、ちょっと前に話題になったアニメです。主人公の高校生がタイムリープ(?)をして時間を駆け巡るお話でした。ずっと観たかったその映画は想像していた以上に面白く、暴発しそうな熱い想いがわたしの中で跳ね回っていたのでスキップしながら映画館を飛び出しました。この気持ちをぶつけたいのに、分かち合いたいのに、わたしの隣にはそれをできる人がいませんでした。情熱が冷める前にどうにかしてこの感情を届けたい。その想いが絵里の不在を際立たせ、映画のストーリーがわたしを強く後押ししました。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:12
- きっと絵里も同じ気持ちだ、とケータイを開いても当然のように着信もメールも来ていません。だけどそもそも遅れたわたしが悪いと自分自身に言い聞かせ、素直に非を認めて絵里に電話しました。呼び出し音が途切れて、わたしの声を待たずに絵里はすかさず言いました。「なんで時間どおりに来なかったの!」。絵里の声は大きく尖っていて、一音目から怒りが充満していました。あまりにびっくりして自分の感情が停止しました。言葉の出ないわたしを無視して、絵里は口を休めません。「時間は限られてるんだよ?」、「なにもしなくても時間はすぎてゆくんだかんね!」、「時間は取り戻したくても取り戻せないんだよ!」時間時間うるせえよ、と条件反射。そこからは売り言葉に買い言葉、アイドルとは思えない下劣な言葉の応酬。わたしの熱い想いは絵里への怒りに隙間なく塗り潰されて、おうちの玄関に着いたころには涙が頬をつたっていました。自分の部屋にたどりついたころには鼻水も出ていました。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:13
- 絵里はなんもわかってない、絵里に時間を語る資格なんてない、絵里に責められる道理もない、わたしが絵里と遊ぶ時間をがんばって作ったことも、わたしがみんなを背負ってテレビで闘っていることも、わたしひとりだけがたくさんの人に嫌われてることも、アイドルなのに、アイドルなのにわたしはみんなの分も泥をかぶってがんばってるのに……絵里はバカだ、前から知っていたけど本当に大バカだ、ぽけぽけぷーなんてカワイイもんじゃなくてぼけぼけぶーだ。ベッドにうつ伏せで寝ていたら、涙がピンクの枕を汚れた血みたいな色に変えました。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:14
- 何時間眠っていたんだろう。頭と瞼が少し重たい。ピンクのカーテンを開くと、窓には一面真っ暗な空が映っていました。午後11時。ケータイを開いてはみるけど、先程と変わらず絵里からの連絡はありません。わたしは娘。の中ではかなり冷静なタイプだと思うのですが、絵里のことになると感情が歯止めなく転がってしまいます。
お風呂に入って、髪を乾かして、パジャマに着替えて、美容液をぬって、ベッドに倒れこんで、我思う、ゆえに絵里あり。
何度もケンカはしてきた。そのたびにわたしから謝り、絵里はくにゃっと笑いながらすべてをなかったことにしました。腑に落ちないと思いながらも、絵里だからしかたないとねじ伏せられていました。ふざけた笑顔がぜんぶを帳消しにしてしまう方程式を絵里は導き出していたのです。わたしが絵里みたいに笑えたらぜんぶうまくいくのかな、ややこしいことなくなるかな。絵里はときに哲学者のような口ぶりで達観したことを言ったりします。本当のことを知っているような、でもなにも知らないような、もしくは知っているのにちゃかして笑い話にしちゃうような思慮遠さがあって、鼻にかかった甘えた声でつぶやく言葉に何度も押し黙ったことがあります。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:14
- 絵里が今日言ってたことを思いだす。「なにもしなくても時間はすぎてゆくんだかんね!」。たしかにそのとおりなんだけど、わたしだってなにもしていないわけじゃないのに。絵里だって何時間もわたしを待たせたことあるのに。なんでいつもわたしだけが責められるんだろう。テレビだってそう、わたしの役目を他の人がやればいいじゃん。なんでわたしだけが先頭に立って嫌われなきゃいけないの。そういう星の下に生まれたのかなあ…………あぁーもぉおーむしゃくしゃする! なんで絵里から電話しないの、なんでわたしばっかりが目をつぶんなきゃいけないの、なんでわたしはこんなに頑張ってるのに報われないの、なんでわたしだけ、わたしだけ──もうぜんぶイヤ!!!
気付いたら玄関のドア開けて、階段下りて、エントランス飛び出して、サンダルにパジャマで、マンションの前の坂道を全速力で駆け下りていました。わたしはストレスが喉元までやってくると深夜にマンションの前を全力でひた走る奇行癖をもっています。静かな夜がなにも言わないし、冷たい風はわたしを知らないし、置き去りにする軒並みに不気味な興奮を覚えていろんなことを忘れられました。逃げたいんです、もういろんなことを放り出して逃げたい、もうどうでもいい、なんてことを思っていたら、交差点から黒猫さんが目の前を横断。不吉、なんて思う前に避けようとしてジャンプしたら着地に失敗しちゃって、あれ、足がこんがらがって、サンダルが飛んで──やばいなんだかスローモーション──ピンクのパジャマがはためいて──いよいよやばい、わたしがわたしを客観的に見てる──髪が風でふくらんで、わっ、タクシーのライトが──。
『今月のあなたは絶好調! 運命を変えるような瞬間にめぐりあうかも☆』
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:15
- 天国ってどういうところなんだろうと常日頃から考えたりしていた。そんな危ないところがわたしにはあります。でも自分が地獄に行くと考えたことはありません。こんなにもかわいいのに、こんなにもがんばってるのに、神様が盲目じゃないかぎりありえません。そんなわけでわたしは天国にいるはずなのですが、率直な感想を言うと、拍子抜けです。だってどこからどう見ても、今わたしが見上げている風景は、いつも寝る前に目に入るパール調の天井となにひとつ変わらず、首を倒して横を見てもお気に入りの人形が1グラムも変わらない可愛さを保っています。間違いなく、ここはわたしの部屋です。天国説と夢説を天秤にかけた結果、圧倒的に夢が重たかったので、とりあえず空腹を満たすためにリビングへご飯を食べにいきました。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:16
- 「さゆみ、おはよう」。うさぎのプリントがかわいいマグカップにお母さんが紅茶を流し込んでいます。やわらかい湯気が熱の存在を教えてくれます。やっぱり夢だったんだ。あー、今日絵里に会うのヤだなあ。会ったらあったで仲良くやれるのかもしれないけど憂鬱。ソファーに座って溜息つきながらケータイを開いてみると、絵里からのメールが一件。
【今日ぜったい遅刻しないでね!】
お前に言われたくないわ!と朝から一気に沸点近くまでボルテージが上がる。このくそボケ、最近仕事遅刻してないわ! つかお前のせいで昨日死にかけたんだぞ、夢の中で!!!というようなメールを五割増しで送ると、【意味わかんないし。どうでもいいから映画ちゃんと来てよ】と返ってきました。このド低脳がてめぇこそわけわかんねえことぬかしてんなよタコ、と原文そのままに送ろうとして指が止まる。わたしの理性がブレーキを踏んだのではなく、ケータイの左上にデジタル表記された数字に思考がフリーズした。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:16
- まさか、まさかだよこれ、とりあえずお約束とばかりにお兄ちゃんが読んでいた新聞を無言で取り上げて(「な、なんだよ」と声が震えていた)、新聞の隅を確認する。そして次にテレビに映るニュースを眺める、ショーパンかわいい、ていうかBINGO! あの曲いいよね、なかなか大声では言えないけどわたしAKB大好きなの、もうそろそろコラボとかしちゃってもいいんじゃないかなって個人的には思うんだけど会長がどうにもこうにも頭が固くって──って無理だ、無理無理無理無理無理、現実逃避って難しい。やっちゃったー、これやっちゃたなー。
わたし、タイムリープかましちゃいました、いえぇいッ!
思わず勢いで破いた新聞の間から、お兄ちゃんが震えているのが見えました。
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:17
- なぜわたしにこんな能力が目覚めたのだろうか。くるみを踏んだわけでもなければ、ラベンダーの香りをかいだわけでもないし、机の中にタイムマシンもない。なんでだろう、なんてことを考えたのは最初の一日だけで、わたしはすっかり時間跳躍を謳歌していました。時間を飛び越える方法はひとりで観た映画と同じ。全力で駆けて、全力でジャンプすれば、思った時間に何度でも戻れました。映画のように好きなものを何度も食べたり、カラオケで何時間も唄ったり、失敗した仕事を完璧にこなしたり、仕事無視して一日中眠ったり、好きなアイドルのライブに行っちゃったり、もうとにかくやりたい放題楽しんで、気付いたら特別やりたいことがなくなっていました。
- 15 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:18
- 幸せの反動で大きな不幸に遭遇したり、飛べる回数が制限されることもなく、わたしは何度も何度も時間を遡りました。気付けばストレスやプレッシャーから解放された代わりに、いつの間にか緊張感や胸の高鳴りが薄れてしまいました。アイドルのコンサートに行っても、一日中眠っても、仕事が成功しても、カラオケ行ってもお腹いっぱい食べても、なんだか満たされない。大好きな曲を24時間聴かされている感じ。わたしは、次の曲を聴く方法を知っていましたが、それをしませんでした。
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:19
- ひとつだけ修正しなかった時間があります。絵里との映画の約束です。初めてタイムリープしたあの日、わたしは結局あの時間あの場所に行きませんでした。絵里に苛立っていたのも正直だけど、それ以上にその部分だけは変えられない、変えたくないという想いがありました。何回遡行しても、絵里との時間だけは塗り替えられませんでした。
あの日よりも前に時間を戻してはいないので、今でもわたしと絵里の間には透明な壁がそそり立っています。戻らない理由は、恐怖でもあったし、慈しみでも拒絶でもありました。現実にあったことを簡単になかったことにしてしまう怖さ。どんなに嫌な思い出だとしても絵里との間に流れた時間に干渉したくない想い。そしてフィクションみたいなこの能力を本当のこととして認めたくない自分がどこかにいました。絵里との時間までやり直してしまったら、わたしのいる世界が真実なのか虚構なのかわからなくなるような、そんな不安定な足元の上に立っていました。どんなに会話が減っても、どんなに目線が合わなくても、どんなに乾いた空気が肌を刺しても、わたしの知っている絵里がいるこの世界こそが正しいのだと思い込むことによって安心していました。
けれども、絵里との対話は思ってもいない形で訪れました。
- 17 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:20
- 時間を持て余したわたしは、テレビ収録で面白いことが言えなかったとしても、メンバーと言い争っても、お母さんに怒られても、眠たくても、いろいろうまくいかなくても時間を戻すことをやめました。たぶん人は生まれたときに、人生で使えきれる資源を決められていて、それ以上の富を与えられても使いこなすことはできないんだと思います。宝くじ当たった人がオカシクなっちゃうみたいに、超能力なんて手に入れてもきっとろくなことにはならない。わたしのタイムリープも、わたしには過ぎたオモチャでした。
- 18 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:20
- その日も有吉さんの暴言に対して面白く返せなくて凹みながらタクシーに乗っていました。時間さえ戻してしまえばうまくできるのに、ちょっと前までは後悔と未練が目の前を交互に高速旋回していました。でも今では、時間さえ戻せば乗り越えられるポテンシャルをわたしは秘めているんだ!、と首をへし折る勢いで180度回転させて前を向いています。タイムリープを律することによって、逆に未来へと目を向けられるようになりました。絵里との関係すらもそのうち好転すると、出所不明の希望が心の中に燈っていました。希望の光は、暗闇の中に埋もれていたわたしの居場所を雲の上の神様に報せてくれました。
- 19 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:21
- ヴーン、ヴーン。小刻みに震えるケータイをポシェットから取り出して画面を開く。ケータイの画面に『絵里』という文字が浮かび上がったのはいつ以来だろう。そんなことすら忘れてしまうほど、わたしと絵里との距離は離れていたんだと思います。ちょっと手が震えたように思えたのは、きっとケータイのバイブが原因です。通話ボタンをおそるおそる押して、耳にゆっくりもってゆく。絵里はなにも言わない。わたしはなにも言えない。
ほんの数秒が何十分にも思えたとき、絵里が消えちゃいそうな声で話し始めました。
「さゆ、聞こえる?」「うん、聞こえるよ」「あのさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、今ダイジョブ?」「うーんとね、今タクシーの中だから家に着いたらもう一回かけ直すよ」「あ、じゃ、ちょうどいいや。今からさゆの家にいってもいいかな?」「え、今から!?」「うん今から。メーワクだよね?」「うん、迷惑だね」「でもいってもいいよね?」「うーん、しかたないか」「わーい、じゃ待ってて」「はーい」「ばいばーい」「またあとで」
- 20 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:22
- 30秒ちょっとの会話でしたが、タクシーの窓ガラス割って今すぐ叫びたい気持ちでした。生きててよかったなんて大袈裟にも思っちゃったりしちゃったり。うーん、どんなに押さえつけても唇とほっぺが天へと昇ってゆく。星のない夜空に満月だけが孤独に浮かんでいます。今だったら届いちゃうんじゃないかしら。そしたら、お月様史上最強にかわいいうさぎさんになるんだぴょん、やばい、なにこのテンション。運転手さんに「お釣りはいりません」ときっちり料金分のお金を渡して、駆け足でマンションの中に飛び込む。エスカレーターのボタンを連打連打、きっとこれうまくいくんだ。
玄関にミュール脱ぎ捨て、「ちゃんと靴並べなさい!」と吠えるお母さんの小言をかわして、早足で自室へと向かう。お姉ちゃんが「ごはんたべにいこうよぉ」と甘えるが、心を鬼にしてドアを閉める。そして電気をつけてすぐさまファブリーズを手に取り撒き散らす。ダウニーの匂いがする粒子が降り注ぐ中、花柄のマキシ丈ワンピをひるがえし踊る。そして一面ピンクのベッドにダイブするやいなやケータイを開いて胸に置く。夜の静寂に包まれた部屋、心臓の音だけが空気を読まずに屈託なく飛び跳ねている。まるでケータイが震えてるみたい、と思っていたら本当に絵里から着信が来ていて、窓の外を覗くとライトブルーのパーカーを頭に被った絵里が手を振っているので、即座に部屋から出て「ごはんたべにいこうってばぁ」と甘えるお姉ちゃんを避けて、オートロックを解除して絵里をマンションに誘う。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:23
- 絵里が来る、絵里が来ますピンポーンあ、来た。落ち着け、落ち着いて心臓。動揺するな興奮するな待ち焦がれるな! 玄関のドアを開けると、絵里が八重歯をみせながら中指と人差し指を額にあてて「おぃーす」と言うので、たぶん真っ赤な顔を硬直させながら「おぃーす」と返して絵里を部屋へと案内する。お母さんが「絵里ちゃんひさしぶりー」と笑顔をみせれば、お姉ちゃんは「あぁーえりりんだぁ」と絵里に抱きつきます。とりあえず強引に引き剥がして絵里を部屋の中に押し込みました。
絵里がパーカーのポケットに両手をいれたまま、ピンクを基調としたわたしの部屋を見回し、苦そうな顔をして「かわんないねえ」と一言ぼやいてから部屋の中心にあぐらをかきました。わたしもベッドに腰掛けて、顔から感情を失くす努力をしてから、「で、なに?」と若干声をつまらせながら言いました。言いたいことは本当にたくさんあったけど、様々な種類の感情が浮かび上がっては言葉になる前に沈み、心臓のちょっと上辺りで往復していました。最終的にわたしが搾り出したものは、ただの強がりでした。
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:23
- 「さゆんチってホットケーキの香りがすんね」
「え、そう? なんかちょっとうれしい」
「うん、甘くてねむたくなる」
天井の隅を見上げながら絵里はそう言いました。
絵里はわたしの目をまだ一度も見ていない。
「明日も朝から撮影あるから泊まるのムリだよ」
「あーそうね。いつもご苦労様です」
「いえいえどういたしまして」
絵里がお辞儀をしたので、わたしもお辞儀で返す。
「んで話ってのはさー」
「あーなになに」
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:24
- それから絵里は一分ぐらい黙って下を向いていました。たまに鼻をかいたり、頬をかいたり、頭に被ったパーカーの位置を直したり、とにかく下を向きながら居心地悪そうに体の位置を確かめていました。何度か声をかけようとしたのですが、頼りない絵里の姿が、精密な機械が緻密な計算をしているようにも見えてためらわれました。
「うん」と一度頷いてから絵里が顔をあげました。空から得体の知れないものが落ちてくる気がして、わたしは準備をしました。でも、どんな準備をしたらいいのかはわかりませんでした。
「絵里さ、娘。やめることにした」
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:25
- 瞬きをした。わたしは確かに瞬きをした。蛍光灯の光が宙に漂う埃をライトアップして、絵里とわたしの間にある無数のそれらがまるで意思を持ったかのように華麗に舞い降りてゆく。絵里が唾をゴクリと飲み込んだ音が、映画のように判然と聞こえる。わたしの腕にあるすべての産毛が、朝の訪れを嫌がるかのようにゆっくりと起床する。
- 25 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:25
- 周囲の氷がゆるやかに溶けはじめて、ようやく思考が動きだす。なにかを言わなくてはならない、絵里になにか言葉をかけなくてはならない。でもわたしの舌は何重にもからまって、ちっとも喉から先に言葉を運ばないのです。
絵里がわたしの顔を見るからです。黒目がちの目を1ミリもずれることなくわたしの瞳へと向けます。いつもみたいにニヤけてくれればいいのに、口を真横に結んでなにも言わずにわたしを見るんです。耐え切れずにわたしの心がぐにゃりと曲がった気がしました。その場で崩れ落ちてしまいたい気分でした。そんなわたしの口から、遠回りをしながらやっと出た言葉は「そっかー」でした。
情けなくて涙がでてきました。絵里はそんなわたしの涙を黙って親指でふき取りました。どうにかして笑おうとするのですが、どうしても笑い方を思い出せませんでした。今わたしがどんな顔をしているのかはわかりませんが、少しもかわいくない顔をしているのはわかります。
絵里がいつもとは違う重苦しい笑顔で、ポッケからなにかを取り出してわたしの右手に渡しました。涙を左手で拭いながら見たそれは、小さい砂時計の形をしたストラップでした。でも管の中の砂が、ガラスケースに並んだナポリタンみたいに一定の形で時を止めていました。
- 26 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:26
- 「それさ、知り合いに頼んで作ってもらったんだ。これ持ってるの世界に絵里とさゆだけだよ。絵里とさゆの時間はどんなに離れても一緒」
絵里がわたしの頭をなでました。呼吸すらあやふやになってきたわたしは涙と鼻水で言葉を詰まらせながら、ありがとう、と言ったつもりでした。それから絵里が両腕でわたしを抱きしめました。
「忘れないでね。どんな形になっても絵里は絵里だよ。そして絵里とさゆは友達だよ」
知ってるよ、そんなこと言わないでよ。やめてよ、泣かないでよ、笑ってよ、いつもみたいに笑ってぜんぶをなかったことにしてよ。
「さゆありがとう」
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:26
- こんなときでも絵里は、なにもできないわたしに感謝してくれる。わたしはわかっていた。わかっていたけど気付かない振りをしていた。絵里は誰よりも周りを見ていた。そして自分を犠牲にしてでも周りに優しくできた。そんな絵里にずっと頼っていたのはわたしだった。そんな絵里に八つ当たりしていたのはわたしだった。ぜんぶ絵里のせいにして、甘えて、逃げていた。ごめんね、本当にごめんね。でも、どうしても言葉がでてこないんだ。絵里がいなくなった未来が怖くて、絵里がいなくなっちゃったらわたしどうなっちゃうんだろうって、こんなときでも自分のことしか考えられないんだ。絵里に依存してきたわたしにできることなんてなにもない。今のわたしにはなにもない。わたしにできることは──。
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:27
- 絵里の腕をそっとわたしの体から離して、磁力に引かれるように部屋のドアへと足を運んだ。そんなわたしを、絵里は立膝をつきながら呆然と眺めていた。ドアを開いてフローリングに片足を着いた瞬間、床を蹴り上げて玄関に向かった。絵里に見つからないように急いだ。ランニングシューズの靴紐を結んで玄関のドアを乱暴に開ける。エレベーターを待つ時間が惜しくて外階段を使う。急げ、走れ、回れ、わたしの足。間違っていたとしても構わない。絵里を失う未来よりも、紛い物だとしても絵里のいる過去をわたしは選ぶ。そしてわたしが自分の手で絵里のいる未来を創りだしてみせる。
階段を何段も抜かして飛び降り、わたしのどこにこんな運動能力が眠っていたんだろうと不思議になるスピードでマンションの外へと逃げ出した。
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:28
- 呼吸が乱れて苦しい。肺がぜいぜい泣いている。太腿が悲鳴をあげている。でも、いつの間にかわたしの涙は乾いていた。わたしは止まれない。もう止まれないんだ。わたしの足が坂道を転がりだした。黒髪をなびかせ、口で息を吸い、腕を全力で振り、ワンピースは向かい風に押し流され、土踏まずがじんじんする。視界の端に見える景色が徐々に溶け始める。家も塀も猫も木も多彩な色をした横線になる。目の前でチカチカ火花が散る。耳がキーンと鳴る。きた、このタイミングだ。おもいっきり地面を踏み込み、わたしは飛び上り宙に浮いた──と同時にがくんと体が下へ落ちる。わたしの左腕を掴んだのは絵里だった。なんでと思った刹那、わたしの周りの風景が砂嵐に攫われたかのように急速に流れて消えてゆく。周りの色がどんどん失われて絵里の体も見えなくなり、わたしの五体だけがどこを見渡しても真っ暗な宙に取り残された。
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:28
- プールに浮かんでるように体のバランスが取れず、枯葉が落ちる速度でゆるやかにどこかへと沈んでゆく。直感としか言いようがないけど、わたしは時の狭間に落ちたんだと気付いた。恐怖を感じるよりも先に落下が止まり、わたしの周りに不規則に並ぶ多様な光の円がいくつも現れた。その円には、どれを見てもわたしが映っていた。
OLとして嫌味を言われながらお茶を汲むわたし。大学のサークルで先輩に無理やりお酒を飲まされるわたし。退屈そうな彼氏と水族館でお茶を濁しているわたし。AKB48のセンターで堂々と歌っているわたし。六本木ヒルズで旦那さんと夜景を見ながらキスをするわたし。喫茶店でバイトをして家に帰ってアイドルのDVDを見ているわたし。
もっとたくさんのわたしが、それぞれの生活を送っている。辛そうだったり、幸せそうだったり、迷ったり、凛とした顔をしたりしている。これはわたしの可能性だ。今わたしがいる世界以外の世界、いわゆるパラレルワールドだ。わたしが選択しなかった無数の世界が目の前に広がっている。きっとこのどれかの円に飛び込めば、アイドルグループのセンターにも、億万長者の玉の輿にも、平凡でも安定した暮らしを送れたりする。時が混線したこの場所で、わたしには輝かしい可能性が眠っていることを知り、そしてそれを獲得する権利が今手の中にある。
- 31 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:29
- だけどダメなんだ。この可能性ではダメなんです。どんなに華やかな可能性でも、そこには絵里がいない。どの円を眺めても、一向に絵里が映らない。円に映るわたしの隣には、わたしが知らない女友達がたくさんいる。とても楽しそうに笑い、ときにはわたしのために泣いてくれたりしている。でも絵里がいない世界では、お金も名誉も恋も友情も意味を失ってしまうんです。絵里のいない世界が本物だとしても、わたしは絵里のいる偽物の世界を選びたいんです。なにも代わりにはならない、なににも交換することはできない、なにごとと比べることはできない、それがわたしにとっての絵里なんです。そう強く思うたびに、光の円がひとつずつ粉々に割れてゆく。あぁ、歌パートがたくさんあるわたしが割れてゆく。高層マンションでワインを飲むわたしが割れてゆく。同級生や先輩からモテモテのわたしが割れる。ごめんね、わたしの可能性たち。否定して、否定して、それでもわたしは選ばなければならないの。絵里のいる世界を。
なににも代え難い世界。それはつまり絵里がモーニング娘。からいなくなる世界。たぶん過去に何回戻っても、わたし自身が変化したとしても絵里は変わらないだろう。絵里のいる世界は、絵里がモーニング娘。にいない世界しか存在しないことが痛いほどわかった。悲しいけど、辛いけど、でもそれを選択しなければわたしは前に進めない。どんなに時間がかかったとしてもわたしはその世界をこの時の狭間から見つけだしてみせる、絶対に。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:30
- そのとき周囲にあったすべての円が一斉にパリパリパリンと割れた。そしてワンピースのポケットから絵里に貰った砂時計のストラップが飛び出した。時を止めていた砂が激流のように動いている。絵里の言葉がどこか遠くから聞こえる。
「忘れないでね。どんな形になっても絵里は絵里だよ。そして絵里とさゆは友達だよ」
忘れないよ、絵里は絵里しかいなし、さゆみと絵里は友達だよ。
ストラップがその場で回転して、重力から解放されたかのように一気に真上へ浮上する。
その先には湖みたいに大きな光の円があった。わたしはそこへ泳いでゆく。必死になって足を動かす。
光の円の中に八重歯が見える、ぽてっとした鼻が見える、さらさらな髪、たくましい太腿、甘い声、キュートな歌声、激しいダンス、バカみたいな笑い方、優しい涙、どこでも寝ちゃう絵里、天才的なボケをかます絵里、超とんちんかんな絵里、テキトーな絵里、さゆみのことが大好きな絵里。わたしも大好きな絵里。わたしのコンパスはいつだって絵里を指している──
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:31
- 2010年、12月15日。
横浜アリーナの楽屋。今日で絵里とジュンジュンとリンリンが卒業してしまうなんて未だに信じられません。だって今もこうして楽屋は騒がしく、昨日までの日々となにひとつ変わらぬ顔を見せているからです。でも端端からそれは少しずつ流れ出していて、ガキさんがいつもよりも大きな声で絵里を注意したり、愛ちゃんがなにも言わずにそれを眺めている姿や、れいなが何度も何度もトイレに行ったり、あいかが潤んだ瞳で笑っている様に、油断すると胸がぎゅって締めつけられました。でも卒業の意味を決めるのも自分たち自身です。永遠の別れとするのか、思い出の1ページとして心のアルバムを眺めるだけになるのか。それともどんな形になろうとも、どんなに離れていても、わたしたちは一緒に続いてゆくのか。わたしたちにはたくさんの可能性が待っています。これからも迷ったり悩んだり間違ったりするとは思いますが、それでもわたしたちがモーニング娘。であることだけは、変わることはないのです。
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:32
- 「さゆー、あれ持ってきたぁ?」
絵里がいつものくにゃっとした笑顔で近づいてきました。
「あれってなあに?」
「ウッソでしょー! マジ言ってんの!?」
「うそうそ、これでしょ」
わたしはケータイについたストラップを絵里の顔に押しつけました。
「いたっ! なんだよ持ってんじゃん」
「あたりきよー」
「へっ、これで絵里たちはどんな形になっても離れられませんぜ」
「まぁ怖いわー」
「絵里のケータイにだってこうして……」
絵里のケータイには見事になにもついていませんでした。
- 35 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:33
- 「……うそでしょ?」
「……やっちまった」
「アホすぎる! マジなんなの!」
「あーどうしようどうしよう!」
「しらないよリアルアホ!」
「わかったよもううるさいな! ちょっくら駆けてくらあッ!」
そう言って絵里は楽屋のドアを開けてどこかへと走り去っていきました。
開演まであと三時間。絵里は間に合うのでしょうか。
いや、きっと間に合うのでしょう。
わたしだけは知っていました。
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:34
- Time
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:34
- waits
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:34
- for
- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:35
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- 40 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:35
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- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2010/12/19(日) 23:35
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