2. 暴力を嬲る愛について、その途中

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 23:12

 暴力を嬲る愛について、その途中





「お願いします、辞めさせてください! 今すぐ辞めないといけないんですっ!」
 愛理がマネージャーに頭を下げている。周囲のモチベーションに影響するからと本気で怒っていたマネージャーもうんざりした表情で、視線をそらすように天井を見上げている。
「急に言われても困るんだよ」
「全然急じゃないです、もうずっと言ってます」
「そうは言われてもねぇ……」
「じゃあ会長に直接言います」
「それはちょっと」
「辞めさせてくれるんですね?」
 こんなやりとりが、もう二週間も続いている。楽天の応援歌を歌いに行くことが決まったあたりからだったと早貴は記憶している。二月の半ばくらいからだっただろうか。最初のうちは真剣に、熱情を持って止めていたメンバーも、毎日続けば無関心になる。
 愛理には絶対に辞めてほしくないが、愛理は辞めることしか考えていない。ここの大人にはなにもできないと確信しつつも、半ば諦めたように愛理の卒業阻止を期待している。
 それにしても、と早貴は楽屋を見渡す。エリカと栞菜はどこかに行ってしまっていないし、千聖はボイトレのつもりなのか腹筋をしていて、まいが退屈そうにそれを眺めている。隣にいる舞美はなにか考えごとをしていて、それがMCを暗記しているときの様子そっくりだと早貴は思う。舞美の考えごとをしている姿は珍妙に映るが、愛理とはべつの切実さがある。
 愛理の懸命な背中が狂おしい。正直やめてほしいな、と早貴は思う。これからなのに、きっと楽しいことばかりなのに。デパートの屋上でイベントしたり、握手したり、前座でステージに出たり、インディーズでCD出したり握手をしたり、イベントをして握手をして、メジャーデビューして、ライブして握手して、キューティーツアーで握手して、チャートも順調に上がった。それが認められたのかレコード大賞で新人賞がもらえて、という時期に愛理は℃-uteを去ろうとしている。
「ねえ、舞美ちゃん」
「フンコロがしとそラとかぜ、ふんコロガシとそらトカぜ、フンコロガシトソラトカゼェ、ふんころがしとそらとかぜ、フンコロガシと空と風、ふふふふ」
「舞美ちゃん?」
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 23:15
「ん? あ、ああ、なに?」
「ごめん、なんでもない」
「なにさ、言ってよー!」
 明るく肩をぶつけてくる舞美が痛ましいと早貴は泣きたくなってくる。なにがおかしいわけではない。皆、同じ方向を向いているからこそ共有できる、歪なまわり道だ。早貴は他のメンバーより知っていることが多いから、回避できている。
「なんで愛理、辞めたいんだろうね」
「女が環境を変えるなんて、男以外になにがあるのさ」
「えりかちゃんに借りた雑誌に書いてあったの?」
「わかってても、そういうことは言うもんじゃないのー」
 舞美は暢気に陰気な早貴の手を叩く。早貴はその舞美の手を掴み、握り、なにか言おうと試みる。この子はちがうと諦める。
「あ、なっきー、なんか今わたしのこと見限ったでしょ」
「安心しただけだよ」
「それちょっとむかつく」
「むかつかないで。舞美ちゃんとならずっとやっていける」
「あ、そう? ならいいけど」
 早貴はほっとしたような笑みをこしらえる。遠目に愛理の悲壮な背中が見えている。わたしは今、どこにいるの? そんな疑問が宙に浮かんで霧散する。なにをするかは決まっている。迷う必要などない。
 また舞美はブツブツとなにやら呟いている。内容を聞いたら頭がおかしくなると、早貴は意識的にその声を遠ざけた。愛理の懸命な声がどこまでもくりかえされていくのではないかというくらい響いている。辞めます、辞めなきゃならないんです、辞めたいんです、辞める、辞めさせてください、脱退させてください。
 愛理はたまに、辞めるではなく、脱退、と使う。その言葉の端に陶酔のようなものが感じられて、早貴は混乱してしまう。一年前のちょうど今頃は、メジャーデビューして、初単独ライブがあって、みんなそれしか見ていなかったように思う。たったの十二ヶ月でこれほどまでに状況は変わってしまうのだろうか。そんな疑問が、早貴を一層混乱させていく。




「もうちょっと我慢すればいいのに」
 新垣の言葉に、絵里は違和感をおぼえた。
 あの子ら、絵里たちよりも長いんですよ。そう言わなかったのは、新垣を思いやってのことだった。もちろん普段はにこやかに仕事をして頼れるサブリーダーのだが、ふとした瞬間に表情が険しくなっていることが多い。ここ一ヶ月ほどは特に、新垣は苛々としていて余裕がない。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 23:19
 どこから聞きつけてきたのか、話の発端となった小春にとってはどうでもいい話だったのだろう。スープ入りの春雨を食べていて、だからなのか涎を垂らしたジュンジュンに絡まれて困っている。どうかしてるよ、新垣は我慢しきれないといった風に鼻から息を吐き、顎を右手にのせた。
 絵里はこういうとき使うべき言葉を知っているが、言いたくはなかった。肯定したいことと否定できないことが同時に大きくなって、それが新垣を苦しめている。半歩下がるだけでずいぶん楽になれるのに、と絵里は思うが、言えないでいる。絶望的な半歩だからだ。
「あの、新垣さん?」
「なによ」
 あからさまに不機嫌といった声色に、絵里は苦笑する。自分たちには程遠いことにも感情を逆立てる新垣がいとおしい。
「なんで怒ってるんですか」
「怒ってないよ」
「それならいいですけど」
「でもさぁ、カメ」
「はぃ?」
「なんで辞めるとか言えるんだろうね」
 仕事じゃないからだよ、あの子達にとってこの仕事は、生活の手段じゃない。新垣自身が気づいていない不自由を、絵里は知っている。だから絶対に教えない。新垣が知ってしまうと、モーニング娘。が停止しまいそうな気がしているからだ。




「お願いします、辞めさせてください、何度言ったらわかってくれるんですか!」
 またやってるのか、合同コンサートのリハーサルの休憩中、雅は愛理の背中に尋常ではない迫力に、誰か叱るメンバーはいないのだろうかと不思議に思う。最近のことだが、梨沙子が辞めたいと言ったときは、茉麻と雅で、そういうことは言うもんじゃありません、の一言で終わった。それきり梨沙子はなにも言ってはこない。
 ただ引き止められたいがための甘えだろうとBerryzは全員思っているが、雅はそう処理できない。梨沙子は意味のない行動は絶対にしない。
「辞めたいんです、これ以上はやっていけそうにありません! だからお願いします!」
 愛理の声は昔から響く声だが、意思を持つ分だけよく響く。梨沙子の話に絡めて、しょうがないよね、と佐紀に同意を求めようとしたが、もういなかった。隣にいるべき佐紀のいない右側に、出しかけた言葉を飲みこみ、愛理に同情する。雅は今のところ、切実に辞めたいと思ったことはない。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/18(火) 23:24
 どうしてだろう、と改めて雅は思う。愛理を叱るメンバーは℃-uteにはいないのだろうか。会社に何度か見せられた社会教育の時間、グループ崩壊についての映像に、エース級メンバーのわがままがいくつかあった。それは酷く醜い、頭の悪い自己顕示を醜い女がぶちまけているVTRだった。佐紀と笑いながら見ていたが、その女はみすぼらしかったし、くだらない自己主張だった。今の愛理とは全然ちがう。
 コントロールできるうちは、梨沙子を手懐けておきたい。梨沙子ほど、自分に依存する人間はこれまで存在したことはない。鬱陶しいと思った時期もあったが、今ではいとおしい。
 こんな今からリハやってどうすんだよ、ひとり言のつもりだった。4月の半ばにスタートするBerryzと℃-uteの合同コンサートのリハはちょっとした空き時間で細々と行われるため、かなり早くスタートした。
「そんなこと言っちゃダメだよ」
 遠くにいたはずの桃子がにこにこして立っていた。
「聞こえてたんだ」
「聞こえちゃった」
「べつにいいけど」
「みやリハ嫌い?」
「うん、大っ嫌い」
「でも、必要だよ」
「知ってるっての」
「うん、そうだよ」
「だから我慢する」
「よし、いい子だ」
 いい子いい子ぉ、と頭を撫でてくる桃子の手を払う。たまに桃子とじっくり話してみたいと思うことがあるが、絶対にそれはしたくないと、こういうとき雅は思う。愛理ではないが、こんなことずっとやっていけるとは思わないし、今が決して続かないことを、雅も含めておそらく全員、Helloの先輩を見ていて知っている。ああいう風になりたいかと聞かれれば、まあそうかもしれないと頷くが、雅の中では哀れみの対象になりつつもある。
 桃子はどう思っているのだろうか。普段はシリアスな話はしないし、じっくり話す時間があったとしても遊んでしまうから機会はないに等しい。桃子が首をかしげ、目をパチクリさせている。桃子は涙が出るほど単純で、世の中のほとんどすべての疑問を解決させてしまうような答えを用意しているような気がする。
 だから桃子に聞かないのかもしれないと雅は思った。愛理がしょぼんと引き下がっている。リハの再開だ。雅は不必要にテンションを上げて、桃子の肩に腕をまわして、言う。死ぬ思いでリハしようぜ! 桃子が、うん、と大きく頷いた。今以上の時期はきっとこの先ないのだろうと、それをどこかで感じているのかもしれないと思うと、力が漲ってくる。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:18


 三月八日に行われるハロプロエッグのデリバリーステーションに向かう車中で、福田花音(ふくだかのん)が携帯をチェックして、辛そうに息を吐く。高校の卒業式だろうか、証書の筒を手に制服で歩く集団を見ていた前田憂佳(ゆうか)は、気づいてほしそうな花音のアピールにもやもやしたものを感じながらも聞いた。
「どした?」
「うん、実はね、……あ、そういえばデリステのMCの台本、まだ読んでないよね」
 おや、いつもなら喜び勇んで話しはじめるのに、と憂佳は思った。台本をめくる花音の目元にはくまのようなものができあがっている。憂佳はどうせ読んでもその場にならないと覚えないだろうと台本には手をつけない。
 一週間後に控えたデリバリーステーション、亀戸にあるショッピングセンターのステージで何曲か歌うことになっている。他のメンバーに少し遅れて合流するのは、四月に出演予定の美女木ジャンクションという舞台の説明を受ける日だったからだ。それまでには学年末テストがあるし、四回目の新人公演、おそらく出演はできないだろうがBerryz工房と℃-uteの合同コンサートも控えている。
「ねえ、デリステってどんな感じ?」
 前回のデリバリーステーションにも出た花音は一度手を止めて、どうだったかな、と思い出している。憂佳はパソコンの動画でその様子を見たことがあるが、どういうものなのか掴めていない。それよりも、と憂佳の思考は、写真撮影はもう済ませたがリハーサルが始まっていない新人公演にまで先飛びする。
「どんな感じって言われても難しいけど、いつもとは全然ちがう」
「そうなんだー」
 花音の言ういつもがなにを指すのかがよくわからなかったが、これから一週間ほぼ毎日あるレッスンが楽しいか楽しくないかと考えると、首をかしげて唸ってしまう。憂佳は少人数でのレッスンは苦手だ。そんな自分に気づいたのが秋の新人公演のリハーサルのときで、春、夏とメンバーが減っていくにつれてなぜか憂佳は気が急いてしまい、集中力を欠いてしまう。秋の新人公演の直後にも一人、メンバーがエッグから卒業し、今年になって最年長の是永がエッグから卒業すると発表された。
「がんばろうね」
 笑顔で言う花音が、憂佳にはどこかくすぐったい。
「うん、がんばろう」
 素直に言葉を返せばいいだけなのに、恥ずかしくなってはにかんでしまう。花音は熱心に話すことがそれほど多くないMCの台本を読み、憂佳はこのまま眠ってしまいたいような倦怠に窓の外を見る。学校が近くにあるのだろうか、また卒業生らしき集団を見つけた。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:19
 去年、小学校卒業のときに泣いてしまったことを思い出す。卒業というよりも、別れが憂佳は苦手だ。まだなにも発表されていないが、今回の新人公演でもエッグを離れてしまうメンバーが出てくるのだろうか。みんな新しい夢が見つかったとエッグを去っていくが、それがどういったことなのか、憂佳にはわからない。このままハロプロにいれば、いつかはデビューして大きなステージに立てるのだと漠然と信じてはいるが、それは少しちがうのではないかとも思い始めている。




 ハロモニ。の衣装を着たままさゆみは、飲みたくもないオレンジジュースのボタンを叩いた。タブを引こうか悩み、少しの葛藤の後、引いた。飲みきれなかったら捨てよう。楽屋にはいたくなかった。新垣がよくわからない、年齢すらも不明確な女の子が歌い踊る映像を真剣に見ていた。なにか感想を求められるだろうと最近の新垣のパターンを予測し、さゆみは楽屋を後にした。
 二週間くらい前は、僅かな時間でも惜しいといったように過去のモーニング娘。の映像を見倒していた。感想を求められても困るような程度の低い、過渡でしかない技術水準だった。今のほうがやっていることは高度だし、求められていることも次元がちがう。  
 さゆみは新垣が食い入るように見つめている映像の中のモーニング娘。は好きだが、心酔したりはしない。あくまでも、昔あった、今のための一時期に過ぎない。もうこの頃に戻ることはないし、同じ曲を歌ったとしても、十年分の変化のあったモーニング娘。の曲にしかならない。変化はしつづけるが、モーニング娘。はモーニング娘。にしかならない。
「あ、さゆ……」
 れいなが自販機のすぐ横に座るさゆを通り越して、なにを買おうかラインナップを眺める。衣装のポケットからがま口の小銭入れを取り出した。ガコンと落ちてきたオレンジジュースを取り出し、さゆみの隣に座る。
「さゆ、なにしてると?」
「なんだっていーやん」
「まあ、そうやけど」
「やろ?」
「あれっちゃろ、新垣さん避けてここにいるやろ?」
「知らん」
 れいなはさゆみに伝わるかどうかの潜め笑いでオレンジジュースのタブを引いて、気持ちよさそうに喉に流し込む。皮膚の薄そうなれいなの横顔を見てさゆみは、残酷な笑顔でオレンジジュースの缶の底をそっと持ち上げる。苦しそうにれいなの眉根に皴が寄り、さゆみは膝へのタップを心地よく受け止める。れいなが半分以上を飲んだところで指を離し、笑顔でれいなの怒りを迎えいれる。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:20
「なにすると?」
「れいなはすごいよね」
「殺されたい?」
 れいなの精一杯の強がりに表情を変えることなく、さゆみは言葉を正確に紡ぐ。
「無理でもこんな飲めるくらいの息の長さがあるんだもんね」
「なにそれ」
「努力してきたんだろうな、ってこと」
「そんなこというなら、れいなだってさゆのかわいさに敵わないやろ」
「知ってる。でも、そういうことじゃない」
 かわいらしさも才能で技術の必要なものだが、曖昧で不確実なものだ。だが歌う技術は、それだけで幸福なものだ。
 そうですか、諦めたように笑うれいなを、さゆみは抱きしめたくなる。それぞれがお互いを認められるようになった今、こんなに楽な関係性はないとさゆみは思う。
「それより新垣さん、ちょっとやばくない?」
「気持ち悪いくらい、ハロプロじゃないアイドルの映像ばっか見てるやろ?」
 なんか目つきがステージ見てるつんくさんみたい、とれいなは声を潜めた。
「そうそう!」
「全然知らないガールズバンドのCDたくさん買ってたり」
「れいなそれ何曲か聴いたけど、普通だった」
「あと、変な、なんていうのかなあ、ちょっと広いマンションみたいなとこでかわいくない女の子が、あれなにしてるのかな?」
「それとか、路上で立ってるだけのブスが歌ってるようなやつ!」
 身を乗り出すれいなに、さゆみはなんとなくオレンジジュースを差し出す。
「れいな、新垣さんにちゃんと言ってよ」
「なにを」
「そんなの無駄だから、でーんって構えてといてくださいって」
「無理」
「愛ちゃんにだったら、簡単に言えるのになあ」
「それれいなもわかるかも。でもれいな、新垣さんのああいうの、そんな悪いことだと思わないと」
「なんで?」
 すごい集中してるし、熱心やん、と言ってれいなは間をおいた。
「どこ向いてるのか全然わからんっちゃけど、どっかを目指してるってことやろ?」
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:20
 まあ、そうだけど、とさゆみは口を噤む。れいなはたらふく飲んだはずのオレンジジュースをさらに飲んでいる。奇妙なことだが、れいなは信頼できる。今も若いが、幼い頃はれいなは理解できない部分が多かった。それはサボり癖のあるさゆみにとって、れいなの勤勉さと生真面目さと努力を努力と思わないところからきていたのだが、それが理解し受け入れられるようになった今、関係性が上下にくるくる入れかわる絵里もふくめて、れいなほど対等に付き合えるメンバーは他にいないのではないかと思う瞬間がある。
 それだけのことだが、さゆみのモーニング娘。でいることのモチベーションのひとつになっている。好きで受け入れられて、安心できるメンバーと一緒にいられる、表現して作り上げる。それ以上に幸福なことがあるのだろうか。




 梨沙子が生乾きの髪をに指を通しながら部屋に戻ると、足元にまとわりついていたダックスフンドも一緒に駆けこんできた。ベッドに背を落とすと、体ごと睡魔に吸いこまれてしまいそうになる。遊ぼうと頬をなめる愛犬をあやし、携帯をチェックした。着信が一件、メールが三件あり、着信は十五分前、愛理からのものだった。
 コール音が鳴りきる前に愛理が出た。
「あ、愛理、いま大丈夫?」
「あたしからかけたんだってば」
「そうだっけ、どした?」
「用がなくちゃ、かけちゃいけない?」
「いや、全然そんなことないよー」
「なつかしくなってミニモニ。の映画観てたんだけどさ、」
「うん」
「メイキングでさ、梨沙子がいっぱい練習がんばれば先輩たちにも追いつけるよねって話してて」
「そうだっけ」
「おぼえてない?」
「その映画自体、もうほとんど思い出すこともないから」
「そっか」
「でも、そんなこと言ったっけ」
「言ってるんだよ」
 愛理の声は楽しそうに弾んでいる。梨沙子はじゃれついてくる愛犬をてきとーに足で相手し、耳の奥で心地よく震える愛理の声を聞いている。
「うん、で?」
「……あたし達さ、先輩に追いつけたのかな」
「どうだろう、人気ならあるほうなんじゃない?」
「あはは」
「たぶん。ちがうかもしれないけど」
「あたしもそう思う」
「だよね」
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:20
「こんな話、梨沙子にしかできなくてさ」
「なんで?」
「なんとなく」
「なんとなくかよ」
「……ねえ、梨沙子」
「んー?」
「これからもたまにはこうやって電話しようよ」
「いいよ」
 梨沙子は足にタックルしてくる愛犬を空いた右手で持ち上げ、膝にのせた。じっとしたくないと逃げようとしているが、乱暴に押さえつける。愛理はなにか考えているのか、なにも話さない。夜の静寂が深く感じた。
「あのさ、」
「なに」
「梨沙子はさ、最近わぁーって盛り上がったことってある?」
「仕事で?」
「うん、すっごい楽しくて楽しくて、どうにかなっちゃうんじゃないかってくらい楽しいこと」
「ちょっとずつはあるけど、べつにないかな」
「思い出に残ってることも?」
「すっごいことでしょー?」
「そう」
「言われてパッと思いつくのは、初単独が終わったときとか、まい──、去年のアリーナでライブしたこととか、それくらいかな」
「やっぱりそうなのかな」
「なんで?」
「あたしさ、あ、梨沙子は去年の夏、おぼえてる?」
「なんかあったっけ?」
「まあいいや、ああいう楽しくて、わくわくするようなことばっかり続くと思ってたんだよね」
「そっかー」
「うん」
 去年の夏、なにがあっただろうと梨沙子は記憶を探ろうとするが、いろいろあったとしか思い出せない。それに愛理がどうして昔の話をしたがっているのかがわからない。梨沙子にとって、過去も現在も未来も同様に価値がないが、最近の愛理はなにかが違うような気がする。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:21
「あ、そういえば愛理」
「ん?」
「ほんとにやめんの?」
「……たぶんそういうことになると思う」
「なんで?」
「それは言えない」
「そっか」
「うん、ごめんね」
 愛理の声の震えが変わった。いつからかはわからないが、たしかに愛理はどこか変わった。もちろんキッズ全員、栞菜もふくめて変わったし、変わってきている。ほとんど一緒にいる機会はないが同年代のエッグもそうなのだろう、だが愛理のはその変化の質がまるで異なる。
「愛理ソロになりたいの?」
「ちがうけど、なんで?」
「なんとなくそう思った」
「一人でステージに立って歌うのは好きだけど、一人でやっていこうとは思えないなあ」
 出会った頃の愛理と、いまの愛理と、決定的にちがう部分があるが、それがどういうことで、どういった意味を持つのか、梨沙子にはぼんやりと違和感がある程度で確実なことはなにひとつ浮かんでこない。
 梨沙子は膝の上で拗ねたようにじっと顔を伏せている愛犬のダックスフンドのやわらかく艶やかな毛並みに鼻先を埋める。動物特有の、すえたようなやさしい匂いがしている。





 不自然にひとかたまりになってストレッチをする面々から外れた桃子は、のんびり水を飲んでいる。最近、どんなに気をつけて摂取しても勝手に水分が抜けてしまう。浸水率のいいスポーツドリンクを数多く試したが、どうも馴染まなかった。過剰にならない程度に体に合った水を少しずつ、頻繁に飲むようにしている。だから桃子は水筒に入れた水道水を飲む。
 ちょっと千聖いきなよ。
 岡井ちゃん、試しに行ってみてよ。
 無理だって。
 なんで、なんかユニット一緒にやってんじゃん。
 雰囲気ちがう。
 聞くだけだから。
 吉澤さんとか藤本さんとかと仲いいでしょ。
 新垣さん違うじゃーん。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:22
 間抜けなほどの真顔で、身の入らないストレッチをしているメンバーの潜め声が聞こえる。押し出されようとしている千聖の顔は本気で嫌がっているように見える。
 なんのつもりか、モーニング娘。の新垣理沙が合同コンサートのリハーサルを見に来ている。ダンスの先生と並んで、なにをするでもないのに雰囲気出して腕を組んで。真剣そのものといった表情で、いつもは和やかなリハーサルスタジオの空気を硬直させている。心なしか、ダンスの先生も新垣に影響されて動きがぎこちない。
 なんなんだろう、桃子は水道水に唇をひたしながら直立不動の新垣を盗み見る。
 目が合った。
 微笑まれた。
 なんだか気味が悪い。
 最高の笑顔でこたえる。
 さ、桃子は誰に言うでもなく呟き、その場で軽く跳ねる。桃子は場の雰囲気に影響されない。決して空気が読めないというわけではないが、ほとんどの場合、無視をする。周囲に習う必要がないからだ。
「ねえ、もも」
「なにー?」
 梨沙子が寄ってきて、意味なく肩にかけた手から体重を預けてくる。その重みを受け止め桃子は、変わらない笑顔で梨沙子の言葉を待つ。
「新垣さん、なにしにきてんの?」
「うーん、わかんない」
「だよね」
 桃子の答えになにかを期待していたわけではない梨沙子は、ただ言いたかっただけなのだろう。少し遅れて千聖に新垣のところに行けと絡むメンバーの中に入っていった。桃子はその背中に消え入ってしまいそうな頼りなさが混じっていると思った。梨沙子くらいの時期にはありがちな塞ぎこみなのか、本当に深刻な悩みを抱えているのか。聞いても梨沙子は認めないだろうし、梨沙子自身気づいているものではないかもしれないから桃子はただ見守るだけだ。
 そろそろじゃないかな、桃子はこっそり身構える。栞菜が耐えかねたように、テンションを爆発させる。変顔しながら飛び上がり、えりかを視点にその場をくるくるまわっている。桃子にはよくわからないが、緊迫感に辛そうに息をしていたメンバーが笑う。
「お願いします! 辞めさせてください!」
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:22
 あ、やっぱり、何度も聞いた愛理の台詞が予想通りのタイミングできたことに、桃子はこっそり満足する。愛理の必死の訴えに新垣が眉をひそめ、場の空気はかすかに感じる程度だが凍りつく。雅と千奈美とまいの、いつもより大きな声がスタジオに響く。
 愛理が本気で辞めたいのかは別にして、本当に辞めるのだろうと桃子は悟っている。小学生のわけのわからないときに仲間になって、まだ二人しか辞めていない。自分たちは今、幸福なところに立っていると思うが、それと意思とは別だ。
 桃子はたとえば、なにもないところでもこの現状を用意されれば、なにをおいてでも受け入れるだろう。だが、そうではない、もっと別のなにかを優先させるメンバーがいても、不思議なことではない。
 これ以上仲間が減ってほしいとは思わないが、愛理の選択をどこか肯定できてしまう。うんざりするくらい長い人生の、ほんの短い瞬間でなにをしたいか。桃子はどこにいても、どんな時を生きていても、自分は変わらないと確信している。
 それと同じ強さで、そうではないメンバーがいることも知っている。このままここにいても、前進も後退もないような日々が続くと思ってしまうこともある。場所やメンバーが変われば、もっと幸福になれるメンバーはいるだろう。誰かがそれを、自分の居場所を見つけたメンバーがいるなら、桃子はその意思を尊重したいと思っている。




 この前、新垣さんがリハ見に行ったんだって? 小春に声をかけられて、千奈美は、うん、と答えた。小春は千奈美の表情に意味ありげな笑みを浮かべて肩に手を置いた。
「なにしにきたのか知ってる?」
「新垣さん? なに、嫌だったの?」
「そうじゃないけど、なんでかなーって」
「知らない、でもすごいたくさんいろんな人のCDとかDVDとか見てる」
「そうなんだ」
「どっから持ってくるんだって映像も持ってるし」
「なにそれ」
「わかんない」
 首をひねる小春が、あ、行くね、とスタッフから説明を受けているモーニング娘。の中に戻っていく。その後姿に、ドレスに着られてるなあと微笑むが、自分も大差ないのだろうと顔を引き締めた。
 紫綬褒章受賞という、よくわからないがそのパーティーらしい。窮屈で退屈だと千奈美は思う。賞そのものも、それを有り難がって大勢の人を巻き込むことも。賞をもらうのは、やっぱり嬉しいことなのだろうか。小学校二年生のときに書いた絵が佳作だったことがあるらしいが、中学を卒業する今になっても、その佳作の意味がよくわからない。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/19(水) 23:23
「なにボーっとしてんの?」
 ドレスに着られていない雅に声をかけられた。大勢の人がいる場所が苦手なのか、雅はどこか落ち着きがないように見える。
「帰りたいなーって」
「んははっ」
「だってそうなんだもん」
 千奈美はふくれっつらで雅の向こうに見える受賞者のひどく隙だらけな温和な笑顔に、よくわからないが軽い失望を覚える。意識はしてなかったが、歌の大御所をどこかで尊敬していたのかもしれない。℃-uteが話しかけられ、笑顔で応じている。その中で、愛理だけは居心地が悪そうだ。ここに来る前、大人何人にも囲まれて、辞めたいって言うなと執拗な圧責を受けていた。
 集合かけられてたんじゃなかった、笑顔で小春が戻ってきた。千奈美の視線を追って、二人に聞く。本当に愛理辞めるの?
「さあ、どうなんだろう」
 雅が首をかしげてそう答え、千奈美を向く。千奈美も千奈美で、よくわからない、としか答えられない。
「でも、辞めさせてってのはいつも言ってる」
 そうかあ、と小春は喜怒哀楽のどれにも入らないような表情になって、なんでかな、とひとり勝手に考えこんでしまった。千奈美は、本当にどうしてなんだろうと小春の疑問に流されて考えこんでしまいそうになる。心あたりがありすぎてわからない。辞める理由も、辞めない理由も似たようなものだ。差し迫った状況ではないから現状維持なのだと思う。三年と決まっていなかったら、中学だってあと五年か六年は通うかもしれない。
「っていうか、みんな止めなよ」
 小春が思い出したように言う。雅が困った顔をする。
「一回か二回は止めたけど、辞めるって言うんだもん、しょうがないじゃん」
 あきらめた口調の千奈美に、それじゃいけない、と小春はなにもすることがなくなって談笑している℃-uteへずんずん進んでいく。小春の勢いはこういうとき頼もしいな、と千奈美は思う。小春が愛理に話しかけ、周囲のメンバーの顔が歪んだり悲しそうになったり、気まずそうに目を逸らしたり、Berryzを探したりしている。小春は二言三言話すと、ぽんと愛理の肩を叩き、だらしない笑顔で二人の元に戻ってきた。だめだったぁ!
「だから言ったじゃん」と千奈美。
「小春、引くの早すぎ」
「いや、愛理の決意は相当なものだよ。藤本さんくらいだった」
「それ最悪じゃん」
 そう言って、雅はハッとした顔をした。小春はヘラヘラ笑って、そういうのは止められるもんじゃないんだし、と他人事のように言った。千奈美は不思議だな、と思う。外からではあるが、モーニング娘。がどんなに大変だったか見てきたし、今もまだその回復ができていないことを知っている。小春はそんなことどうだっていいといったように笑っている。唐突ではあるが、ダジャレが出てきそうな予感がした。最近はダジャレが思いつくなんてことはなかった。
「好きなことをするのが一番だよ」
 小春がそう言うと、世の中の物事はものすごく簡単にできているんだと感じる。
 じゃあ小春は今が気に入ってるの? 雅が聞いた。みやは気に入ってないの? 逆に小春に聞かれ、雅はそんなことなくもない、と答えた。
「小春はあと二年か三年くらいはやって、すっぱり引退とかしたいかな。ずるずる長くはやりたくない」
「それ、今ちょっと思っただけでしょ」
 千奈美に言われ、ばれたか、と小春はまた笑う。そして、あ、今度こそ集合だ、と言ってモーニング娘。の中につっこんでいった。
 どうしようか、雅が言葉繋ぎになんとなく言い、千奈美は、どうしようね、と言った。どうもしないから今のままなのだと思った。どうもしないまま大人になり、ただそこにいるだけのような人生にはしたくないと、インタビュー用の答えはいくつか用意しているが将来のことは滅多に考えない千奈美は、なんとなく心に決めた。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/20(木) 23:11


 Berryzと℃-uteのライブまで一ヶ月もない弱い風の吹く暖かい春の日、学校からまっすぐリハーサルに向かった栞菜は、途中コンビニで買ったシュークリームをどのタイミングで食べようか考えながらスタジオ控え室に入った。
 愛理と早貴と梨沙子がすでに準備を終え、思い思いに過ごしていた。早貴は疲れているのかソファに体を横たえ、目を閉じていた。愛理と梨沙子は雑誌を挟んで顔を寄せ、にやけながら記事に目を通している。
「ちょっと読むのストップ!」
 栞菜は慌てて着替えながら二人を止める。
 なんでよ、と愛理が文句を言う。べつに読んだっていいじゃん、と梨沙子も同じような調子で栞菜を無視した。二人の冷たい反応に昂ぶりながらも栞菜は、だから待ってっての、と乱暴に言葉を投げる。
 光速よりはやく栞菜は着替え終え、愛理と梨沙子と一緒に雑誌タイム。とくになにもないが概ね幸福で、栞菜の大好きな時間だ。
「やっぱこういうのがいいよね」
「でもこれ、なんかのドラマで見た気がする」
 梨沙子の感激に、愛理が水を差す。好きかも……たぶん、という栞菜もどこかで聞いたことのあるドラマの台詞だ。ふくれた梨沙子の口元に栞菜はキャラメルを持っていき、指ごと食べられるギリギリの妄想を愉しむ。
「あー、なになにー?」
 鞄を肩に抱えた舞美が入ってくるなり、制服のまま着替えもせず愛理と梨沙子の間に尻をねじこんだ。あ、と栞菜は息を飲む。
「ダメだよ、舞美ちゃんは」
 愛理が軽くたしなめる。梨沙子が加勢を得たようないきおいで、舞美はちがうから、と区別する。舞美は舞美で二人を相手にせず、ほうほう恋の話ですか、と記事に読み入る。
 栞菜はにんまりと舞美の横顔をのぞき見る。恋をしたことない、そう雑誌で宣言したアホな女。ベリキューの中で舞美の信用は失墜した。鉄の女、寂しい女、恋を知らない哀れな女。今のHelloに恋愛禁止のニュアンスなんてあるはずもない。みなそれぞれ適切に、バレたら相応のリスクを、というのが前提の了解だ。
 そんな中、インタビューでの間抜けな質問に素っ頓狂な回答をした舞美は笑われるだけの存在になってしまった。眠そうに雅が入ってきて、梨沙子は甘たれた表情で話しかける。
「みや、これいいよね?」
 雑誌を見開いて見せようとするが、雅はそうだね、と部屋の隅に腰をおろした。
「だって舞美ちゃん、恋をしたことないんだから関係ないでしょ?」
 わりと真面目に愛理が舞美に迫っている。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/20(木) 23:12
「あるよ、わたしだって恋くらい。じゃあ、愛理はあるのー?」
 すねたような舞美の口調が栞菜には心地いい。
「あるに決まってんじゃん」
「だれ」
「なにが」
「相手」
「そんなんいるわけないじゃん」
「じゃあ、愛理だって一緒じゃん」
「でも恋したことには変わんないよ」
「意味わかんない」
 舞美の言うとおりだと栞菜が心の中で同意する。
「えー」
 愛理がわかりやすく口を尖らせる。舞美がすかさず、愛理の肩を抱いて顔を近寄せる。
「こういう瞬間って楽しいでしょ?」
「は?」
「楽しいよね?」
「まあ、そうかも」
「℃-uteやめたら、こういう時間はなくなっちゃうんだよ?」
「べつにわたし、芸能界を辞めるって言ってるわけじゃないもん」
 わたしが℃-uteを辞めたからって終わる関係じゃないでしょ?そんな愛理の表情に舞美は、それ以上の言葉を出せずにいる。
 エッグ出身の栞菜は、同じところにいたとしてもグループが違えば生きる時間も速度も変わってくる。どんなに強い結束がその瞬間にあったとしても、それぞれの現在が過去のものにしてしまう。そのつもりはなくても、どんなに今後も一緒だと誓ったとしても、別の道を進んでしまえば、その時点でバイバイなのだ。
 今はまだ知らなくても当然のことだ。しっかりしているようで絶望的に幼い愛理を、栞菜は愛しく思う。けれど守れるほど自分に説得力がないことも栞菜は知っている。愛理は、自分のことは自分で決めて、行動しているからだ。




 愛理が外国のお菓子を買ってきたと楽屋のテーブルに広げていて、まいはその暢気さにため息を落としそうになる。本当に辞めるつもりなんだろうか。辞めると頭を下げる愛理の気迫は真に迫るものがあるが、それ以外は拍子抜けするほどいつもと変わらない。
「まい、食べるでしょ?」
 声をかけてきた愛理に、当たり前じゃん、と隣に座る。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/20(木) 23:13
「なにがおいしいの?」
「わかんない、てきとーに買ってきたから」
 そう言うわりに愛理は、確信を持って甘そうに黄色いチョコレートのパッケージを開けている。スイスのチョコらしい。
「はい」
 自分が食べるより先に愛理は、口をあけて待っていたまいの口にチョコレートを放りこんだ。口内に入ると同時に表面が割れ、濃厚なチョコクリームがとけ出してくる。
 気持ちのいい甘いにおいが鼻に抜けた。
「おいしい?」
 まいの反応に笑顔の愛理は、やっぱりというようにチョコを口に入れて、驚く。思ってたよりずっとおいしい、と真顔で言った。
「今もまだ大きな夢にはいつも小さな悪魔がいるの?」
「なにそれ?」
「前に愛理言ってたじゃん!」
「いつ」
「やめるとか言い出したころ」
「言ってないし」
「ゆっったじゃん!」
 愛理は本当に覚えているのか嘘をついているのかわからないような顔で、お菓子を食べている。まいは、よくわからないが意味深な言葉がどこかにひっかかっていた自分と、それをそっけなく否定した愛理に本気でイラっときて、愛理の口の中にありったけのビスケットを詰めこんだ。
 競うように二人で次々とお菓子の包みを開けては互いの口に詰めていると、大股で足早に入ってきた舞美がその勢いのまま愛理の前に立った。追いつめられたような表情をしていて、ちょっと怖いとまいは思った。愛理はポカンと舞美を見上げている。
「あのさ! 愛理……、ずっと聞こうと! 思ってたんだけど、なんで辞めたいの!?」
 それみんな何回も愛理に聞いたよね、まいはそうつっこもうと思ったけどやめた。舞美が、台詞まちがったって顔をしていたからだ。
 だから言えないって言ってんじゃん、そっけなく愛理が返す。
「ちがう! なんか嫌なことあるの?」
 やっと理由を探そうと思えるようになったんだ、とまいは悲しくなった。一ヶ月以上経って、やっとだ。℃-uteのメンバーはもちろん、大人たちまで愛理の辞める理由を聞くばかりで、考えようとはしていなかった。まいは、そういった人間ばかりに囲まれて育って大丈夫なのだろうかと本気で不安になっていたところだった。
「嫌なこと?」
「うん、やなこと」
「普通にあるでしょ、嫌なこと、いっぱい」
 そういえばそうだ、と舞美は愛理に簡単に説き伏せられてしまった。
 まいは二人を見比べ、舞美の味方をしようと思ったが言葉が見つからなかった。辞めたいなら辞めればいいとは絶対に思わないが、愛理を止めようとしたらめちゃくちゃに泣き喚いてしまいそうだ。それはカッコ悪いから、まいは愛理を止めないし、できる限り長い時間笑顔でいようと心に決めている。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:19


 場所や日程は知らされていないが、MilkyWayでステージに立つと聞かされている。ユニット最年少の北原沙弥香(きたはらさやか)の先を、卒業したばかりの中学の話をしながら小春と吉川友(きっかわゆう)が歩いている。友は遠慮がちではあるが、尊敬する先輩の一人として挙げている小春と話せて、楽しそうにしている。小春が沙弥香を振り返る。おいでよ、そう言いたそうな表情だ。沙弥香は歩調を速める。
 すぐ近くの部屋から灯りと一緒にある種、異様な緊迫感がもれ出ている。沙弥香はそれだけで胃のあたりがキュッと縮んでしまう。シングルでデビューするにあたり、レコーディングもPV撮影も経験したが、まだ慣れない。二年ほど前に経験したCDのレコーディングとは意味も、その重さもちがった。月島きらりのユニットでCDを出す。ランキングも簡単に十位以内に入ってくるのだろうと思うと、それだけで前日は眠れなかった。
「あそこ、なにやってるのかな」
「わたしたちのスタジオってもっと先ですよね」
 小春と友がスタジオを覗いた瞬間、ぱんと乾いた音がして、それを合図に嬌声が一気に膨れ上がって破裂した。あ、おにごっこしてる! 小春が声を弾ませた。大口開けて笑い、腰のくだけたような梨沙子がスタジオから出てきた。鬼の栞菜に、ここスタジオじゃないからダメーと言い、しっしと追いやった。そして小春に気づき、なにしてんのー? と手を取った。
「新曲のレッスン」
「ああ、そうなんだ」
「ほら」
 小春が体をひらいて沙弥香と友を指す。梨沙子は、どうも、お疲れさまです、と軽く頭を下げ、沙弥香と友が慌てておつかれさまですと挨拶した。なにしてんの、早くも汗で額を光らせた舞美が梨沙子の腕を掴む。小春に気づいて、こはるー! と顔を明るくさせた。小春が照れたようにはにかむ。
「スタジオ一緒だったんだねー」
「ね、知らなかった」
「あとで見に行くよ」
 舞美と小春と梨沙子が話していて、それを見ていて沙弥香は奇妙な懐かしさを覚えた。いつかは忘れたがこの三人のような自分をイメージして、夢に抱いていた。
「二人はリハ?」
「うん、休憩時間だけど。ね、梨沙子」
「そうそう」
 秋の新人公演だった。春や夏の新人公演とは比べ物にならないほどステージが簡略化され、セットらしきものはなく、大きなモニターが中央にあるだけだった。減ったメンバーの分だけステージ寂しくなっちゃうね、エッグの皆が口々に言っていた。だからその分がんばらないと。沙弥香は素直にがんばろうとは思えなかったが、夏と比べてパフォーマンスがずっとよくなっていたとスタッフに褒められた。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:20
 きゃー! 一際大きな嬌声がスタジオのあちこちに跳ねて廊下に突き刺さった。エッグよりも元気だ、と沙弥香は感じた。はしゃいでいるのは年少のメンバーだが、大体いつもその中心にいる花音が最近元気がなく、白けてしまうのかそれぞれ騒いだりはしているが、大騒ぎにはならなくなってしまった。
 今の声、愛理かな、小春が呟き、梨沙子と舞美が、たぶんね、と口を揃えた。
「辞めるのやめたの?」
 梨沙子と舞美の表情に、やっぱり、と小春はさみしそうに笑う。
多くのメンバーがそれぞれ次のなにかがあって、それまでいた場所を離れていく。羨ましいと沙弥香は思う。エッグに入ってから、ずいぶん経った。小春よりも長くハロプロにいるし、友はエッグに入って一年も経っていない。同期メンバーの半分近くはユニットに入ったりデビューしたり別の道を決めたり定期的に仕事が入っていたりする。
 なにもないまま同じ場所にいるのは悪くはないが、言いようのない虚無感にかられてしまう。沙弥香はそれをまだ自覚はしていないが、やっと巡ってきたチャンスを次に繋げたいと思っている。思うのではない、次に繋げる。そう決めた。




 どこに行くの? と愛理が聞き、梨沙子が、どこまでも、と言った。乗車拒否されるからとタクシーを呼び、運転手の反応を見る前にタクシーチケットと万札を見せた。親がよく使っているから使い方は知っている、家から一枚持ってきた。
 もう一時間は乗っているだろうか。その間、愛理は一言も喋っていない。所在なげに愛理の手のひらが梨沙子の手にのっている。愛理はタクシーの車窓に額をつけ、雨に煙る灰色の海岸線を眺めている。愛理越しに見る茶色く濁った海が荒れる波を受け止めきれず壊れてしまいそうだと梨沙子は思う。
 内容は覚えていないが愛理の夢を見た。目を覚まして三秒後にそのことを思い出し、梨沙子は本能的に愛理との最後を悟った。電話をすると喉が腫れているからと愛理は学校を休んでいた。
「そういえば、もう134号はいってるんだよね」
 梨沙子は愛理に言うように呟いた。
 あ、と愛理は顔を上げ、あちらこちらを見まわして再び頭を車窓に額をつける。梨沙子は退屈な風景にあくびをもらし、雨に包まれた車内を居心地悪く感じた。
 幼い頃はよくバイクの後ろに乗ってこの海岸線を走った。風と景色と匂いが皮膚のすぐ側にあって、速度に自分がとけていく感覚が怖かったが好きだった。限界がないように思える加速に、どこまでも行けるような気がしていた。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:20
「ねえ、愛理」
「なに?」
「何回も聞いてるけどさ」
「うん」
「ホントにやめんの?」
「うん」
「だめ」
「なんで」
「なんでも」
 梨沙子は今まで、Helloに入ってからずっと、なにかに守られているように思っていた。デビュー前にやった仕事のほとんどすべてが主役で、Berryz工房では最年少のセンターとしての特別扱いだったが、それでも、梨沙子は守られていると思っていた。それが周囲との隔たりと感じるようになったのは小学六年か中学生になるかの時期で、自分がなにか薄い膜のようなもので覆われていると、息をするのも苦しくなった。
 そんなこと言われても困るなあ、愛理が弱々しく笑った。
「うちも愛理にやめられると困ると思う」
「えー、どうして?」
 自分は特別で他の誰ともちがうんだと叫びたい一方、浮き上がってしまうことに言いようのない恐怖を感じるようになったのも、ちょうどその頃からだ。考えを捻じ曲げてでも同調することが多くなった。
「なんでかな」
「わかんないの?」
「わかんなくはないけど、なんて言えばいいのかわからない」
 考えていることや信じていること、行動原理やキャラクターを分析されることを極端に嫌っていたが、べつにひとつ自分自身を用意して、決して自分ではないが赦すことのできる用意した菅谷梨沙子に対して理解を求めるようになった。
「なんかわかるかも」
「そっか」
 愛理が感慨深そうに下を向いて梨沙子の話を理解しようとしている。梨沙子は大げさに同調せずに愛理の言葉を待った。
「あたしと梨沙子ってさ、ぜんぜん違うんだけど、」
「うん」
「でもまったく一緒のところってあるよね、世界中に何億人、たくさん人がいてもあたしと梨沙子だけしか同じじゃないところって絶対にあると思う」
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:21
「わかんない」
「自分で言っててわかんなくなってきた」
 笑う愛理に、梨沙子は心の底から安心し、和んでいる。それは愛理の持つ独特な親和の力ではなく、二人の関係性から発生するものだ。それは二人の境遇がとても近いところにあるからなのか、細胞が惹きあっているのか、単純に気が合うだけなのか、六年近い付き合いで自然と融和してできあがったものなのか、梨沙子にとっても愛理にとってもどうでもいいことだが、二人ではないといけない理由がどこかに存在しているのだと梨沙子は思っている。それは真理を見つけようとするようなもので、見つかるはずもないだろうと梨沙子は半ば諦めている。ただお互いに必要な存在と認め合っていることはそれとなく知っていて、今、この場でその確認ができたような気がする。
 走る車は路面に溜まった水を切り裂き、飛沫が音を立てて爆ぜた。二人の乗るタクシーは雨に包まれている。梨沙子は、自分と愛理を覆う車内を心地いいと思った。




「わかりました、わたしはわたしの夢のためなら、なんだってします」
 恒例になりつつある愛理の懇願とマネージャーの悲しい無視に変化が訪れた。愛理が、ボーっと日常の風景として自分を見ていたベリキューの面々を向いた。
「みんな、ごめんね」
 そう言って足取り軽やかにスタジオを離れていく。
 どうするつもりなのかな、気の抜け切った表情でえりかにべったりと身を預けて脱力していた栞菜が呟いた。
「さあ、週刊誌かストーカーかなんかに撮られにいったんじゃない?」
 愛理にそんなことできないだろうと、えりかは言ったつもりだった。すぐ近くにいた早貴とまいと友理奈と茉麻がギョッとした顔でえりかを見た。え、なに? えりかはくだらない一言で流れるはずの発言にリアクションが多く返ってきたことに驚く。
「それやばくない?」
 まいの声は大きくなかったが、栞菜が、大変だっ! と怯えたような悲鳴をあげて立ち上がった。慌てふためいた早貴が飲んでいた水のボトルを落としてしまった。普段は絶対にないことだ。友理奈と茉麻が不思議そうに顔を見合わせている。
 えりかはそんなに大袈裟に受け止めることないのに、と舞美の位置を確認した。話が聞こえていたのだろう、舞美は顔面蒼白で穴という穴から汁を垂らして放心している。℃-uteメンバーの動揺ぶりは尋常ではない。スキャンダルはBerryzにとってももちろん好ましいものではないが、メンバーを一人失っている℃-uteのメンバーのほうが事態を深刻に捉えている。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:21
 冷静にこの状況を把握しようとしている自分に、えりかは嫌になる。わりとやりたいことはやりたいようになってきたような気がする。爛漫な子と思われたいと願っていたような気もする。それがなぜかおもしろいという評価になっていた。理想と現実のズレと埋めようと試みる作業の途中で、視点を獲得してしまったようだ。
「止めにいかなきゃ!」
 すぐ脇にいたまいと早貴を引き連れて愛理を止めにいこうとした栞菜が大人に止められている。梨沙子がこそーっとスタジオを抜け出そうとしたが桃子に見つかり、雅になにをしようとしていたんだ、こっそり帰ろうとしたのかと問い詰められている。佐紀が蝋人形のようになってしまった舞美に何度も話しかけている。
 千奈美が、もしかしてみんなはなにか知ってるの? といったような恥ずかしそうな表情で茉麻と友理奈に聞いている。
「ねえ、愛理って彼氏いたの?」
 知らない、愛理そういう話しないでしょ、茉麻の言葉に、知らないのはわたしだけじゃなかったんだと千奈美が安心したように微笑む。二人のやりとりを横で見ていた友理奈が、なにか大発見をしたように、あ! と声をあげる。
「愛理が辞めたいって言ってたの、彼氏ができたからなんじゃないの?」
 なにをいまさら、と皆があきれ、場の空気が静止し、たわんだ。愛理が辞めたい理由なんて、言わないだけで、それくらいしか思いつかなかった。あまりに当たり前のことで口に出すのも憚られていたのに、間抜けではあったが実際に声となって言葉が出てくると、その感触は今までとはまったく異なるものになってしまう。
 えりかは曖昧に渦巻いていたなにかがピーンと張り詰め、現実のものとなる瞬間をはっきりと見た。今この状況でのベストな選択肢を探る。えりかは視点を獲得してしまう過程で、爛漫な子というのはなるものではなく、爛漫に生まれるか、育つかどうかなのだと知った。そしてそのほうが、より多くの人を惹きつけやすい。多くの人が持ちたくないが持っているものを持たず、多くの人が欲しいと思う、中には狂おしいほどの切実さで希求しているものを意識しないであっさり持っていたりする。
「なんでもいいけどさ、とりあえず愛理を止めて、ちゃんと話さないと。愛理がなにも言わないってのもあるけど、今まで誰もちゃんと愛理と話してなかったでしょ?」
 えりかは立ち上がり、安心したように腕をつかんでくる栞菜の表情に、笑顔になる。頼られている。えりかは自分にあるもの、ないものを認めていく途中で、℃-uteの居心地のよさを誰よりも正確に理解できるようになった。自分の目指していたものとこれからしていくこと、それと℃-uteは同じラインにあるようでまた別だ。
 さあ、行こう。えりかは、誰にも邪魔をさせない、確信に満ちた迫力で、力強い足取りで歩みだした。

22 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:22


 なにかとてもとても大変なことが起こったのだろう。愛理があへらあへらと幸福そうな薄ら笑いでスタジオを駆け出していったのを見て、トイレから戻ってきた千聖はそう直感してとりあえず後を追ってみたと言っていた。舞美はリーダーであることの重責を今になって知った。まいがリーダーでも務まる、そういった無風状態に℃-uteはいた。
 振りの先生が諦めたように会社の人間の指示を仰ぐ。こんな状態では振りをつけるどころではない。愛理は神妙な顔をして、千聖に手を掴まれ立っている。舞美はそっと愛理に近づき、愛理はなにも悪くないと同意を示そうとする。
「わたしね、よくわかんないけど安倍さんがむかついてしょうがないの」
 周囲のざわめきはいい反応だと錯覚し、話を続ける。
「わたしさ、安倍さんとユニット組んだでしょ? そのとき、すごくうれしくて、一緒に仕事したとき安倍さんも優しくしてくれて、本当にハロプロでがんばってきてよかったなあって思えたの。でもね、安倍さん、わたしのことを気にしてくれてるのか、テレビとか深夜のしか出てないのにチェックしてくれて、アドバイスくれるの。安倍さんのこと好きだし、尊敬してるし、ああなりたいって目標だし、ほんとほんと大好きなんだけど、なんで安倍さんに助言をされてるのかがわからない」
 さあ! と舞美は愛理を受け止める準備をする。愛理は、舞美がなにを言ってるのかわからないと表情を硬くしたままだ。心からぶつかるには、まずは自分の心をさらけ出すことから、そう啓発本には書いてあった。舞美は愛理の表情よりも、自分の味方となって然るべき愛理以外のメンバーの冷たい反応にくじけそうになる。なんで安倍さんの悪口言ってんの? と千奈美がヒソヒソと誰かに聞いているが、それがやけに強く響く。
「ねえ、愛理はなにをしようとスタジオを出て行ったの?」
 桃子がいつもの声色だが、愛理を追い詰めてしまわないよう口調に気をつけて、聞いた。桃子は優しい雰囲気を醸しているが、その笑顔と視線は有無を言わさぬ強制力を持って迫っている。千聖に促され、愛理は捕まった脱獄囚のような放心状態ながらも声を出す。
「……スキャンダル」
「それで、もぉ達にごめんねって言ったの?」
「そう」
「どうしてそこまでしようと思ったのかな」
「もう時間ないし、辞めなきゃなんないし──」
 それがどれだけメンバーの迷惑になるのか、わかってんのか! 大人のヒステリックな怒鳴り声が割って入ってきた。単純に声の大きさに驚き、愛理が泣き出しそうになる。
「それ、おかしくないですか?」
 怒りのせいか、梨沙子の頬が引き攣っている。
「愛理がずっと辞めたいって言ってて、無視してたの──さんじゃないですか! それで愛理がしょうがなく無理にでも辞めようとしたらそうやって怒るなんて、それに何人もそういう先輩いて何事もなくやってるんだから、愛理はそれしか方法ないって思うじゃないですか!!」
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:23
 梨沙子は涙を流している。すぐ近くにいた茉麻が、梨沙子の肩に手を置いた。今、ここにいる全員が愛理に辞めてほしくないと思っていて、そのほとんどは親愛からくるものだが、誰一人として愛理の意思を尊重しようとする者はいない。梨沙子はそれが悔しくて泣いているのだが、それを理解できているのは茉麻だけだった。
 嫌な沈黙のあまりの重さに、舞美は自分の足が震えていることに気づいた。もう自分が立っているのか、倒れてしまっているのかすらわかっていない。次の瞬間には発狂して笑い転げてしまうのではないかという恐怖の最中に舞美が思い出していたのは、恋をしたことがないとインタビューで答えたのがメンバーに見つかり、さんざん馬鹿にされたときのことだった。
 ベリキューのメンバーで盛り上がった結果、昔、片思いの男の子がいたんだけどあっさりフラれちゃいました、が正解のようだ。舞美は最後まで納得がいかなかった。言うのは簡単だし、そういった回答の準備もあったが、それを言ってしまったら、あの子たちに申し訳が立たない、と。
 昨年の夏のライブで、ステージの構成を無視して個人として客に話をした。パフォーマンスでは限界がある伝達の壁を、言葉はあっさりと飛び越えた。自分たち以外すべてへの反抗の高揚も手伝ってか、その瞬間を思うと今でも昂奮する。結局はみんな好き勝手言いたいことを言って終わったが、最近舞美がインタビューで話したことがその答えであり、発端だった。
 愛理が唇を噛み締めて俯いている。前髪に邪魔されてよく見えないが、頬から鼻先を伝って涙が落ちている。
「もうやめたら? わたしは絶対にやめてほしくないけど、応援する」
 何分続いたかわからない無言を突き破ったのは栞菜だった。目を赤く腫らした愛理が、え? と顔を上げる。
「べつに栞菜、自分を区別して、そうじゃないよって言ってほしいから言うわけじゃなくて、もう六年だっけ? みんなずっと一緒にやってたわけだからさ、言えないんだよ。でも栞菜はエッグから入って、℃-uteはまだ二年ちょっとだから言えるよ。愛理、もう℃-uteやめなよ」
 無理やりな泣き笑いの栞菜に、まいがわんわん泣きながら抱きついた。栞菜の背中にしがみついて、鼻水も涎も垂らして体面もなく、ただただ泣いている。ぐしゃぐしゃに泣き散らした千聖がグーで思いきり栞菜の肩を殴り、崩れるように寄り添った。栞菜のこわばった泣き笑いから、笑みが消えた。
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/21(金) 23:23
 千聖が離れた愛理の立ち方が不安定だ。舞美がさっと横につき、愛理を支えた。
「わたしも認めるよ、愛理。今までちゃんと話を聞こうとしないでごめんね」
 辛そうに愛理が首をふり、あたしもちゃんと話さなかったわけだし、と誰にも聞こえないような声で言った。
「愛理、やめちゃえ! ね、みんな、いいでしょ? ──さんも」
 メンバーはなにも言わないが、肯定的なやわらかい表情をしている。大人は渋ってなにも言わないが、舞美のマイナスに突き抜けた危ういハイテンションに頷かざるをえなかった。舞美は舞美で、どこかでストップをかけるべきなのだろうが、どうにも歯止めがかからない自分を恐ろしいと感じている。愛理と止めたい本心と、愛理を応援したい矛盾が同時に襲ってきて引き裂かれそうだ。
「じゃあ、日程決めないとね、いつ? いつまでに辞めたいの?」
 ずっと叶わなかったことが急に現実になったことで、愛理はひどく混乱しているようだ。信じられないといった様子で、現実を確かめることに慄いているように見える。ほら、愛理、舞美にそう促され、メンバー全員を見まわし、上ずった声で言う。
「3月29日」
「野球の応援で最後か」
「うん」
「そっか、あと一週間ちょっとか、あっという間だ」
 愛理の顔が申し訳なさそうに歪む。
「ごめんね、でも、次の日に大事なことがあるから、どうしても3月29日にやめないと、いけないんだ」
 そんなに大事な日なんだ、舞美の質問に、愛理はやっと笑顔を見せて本当に楽しそうに、あんなに明るい顔をした愛理は見たことがなかったと誰もが何年も話すような表情で、言った。
「うん、あのね、3月30日はね、ロビン様のライ──」







 やっぱり、だめぇぇぇぇっぇええええええ!!!!!!!!!
 メンバー全員の声が揃った。



25 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:30


 母親のヒステリーほど哀れで、家族の動揺を誘うものはないと高橋に冗談めかして言われた。新垣が、べつにいいじゃん、他の歌手のいいところを見るのは悪いことじゃないんだし、と無視しようとすると、高橋は無表情に言った。見るなって言ってるわけじゃない、わたしたちはもうちがうんだよ。
 新垣が求めてやまないでいるものは、新垣自身でもはっきりしていない。加入前に好きだった、モーニング娘。………のようなもの。朧で曖昧なイメージしかなく、そんなもの存在するのかどうかすらわかっていない。今自分が立つところの過去の映像以外に、琴線に触れるものはなかった。そんな新垣に、高橋は、やめて、と言った。
 変化ではなく、突き抜けることのできる速度に必要なものは、今のモーニング娘。にはないと新垣は自覚している。すぐそこにあることに集中しているだけでは、なにも掴めない。核としてある新垣のモーニング娘。のイメージは、もうどこか遠くに埋められているが失う前に取り戻したいと思っている。それは自信を取り戻し、後輩に伝えるべきメッセージを言葉にするためで、新垣は苦悩する。モーニング娘。はこんなすごいユニットなのだと、虚ろに浮揚するメンバーに伝えたかった。
 それを見つけたのは偶然だった。存在感に、背筋が凍ってしまいそうに震えた。社員の呆然とした表情に我に返ると、自分の叫び声が小さなモニタリングルームに反響し、なにごとかと人が集まり始めていた。新垣は軽い錯乱を詫び、モニターに映っている六人はなんなのだと聞いた。
ハンディカメラで撮っているのか映像が時折ぶれるが、高低差でしかステージと客席の区別のない小さなライブハウスで、その六人は熱狂に歪む濃密な空間をさらに煽っている。まだ客をコントロールできないのか客席の前方は中央に寄るにつれ犇めき合い、あまりの人口密度に浮き上がり、ボーカルの女の子が立つあたりの客は二メートルほどの高さになっている。カルト的な狂信ではない、無関係の人間も巻きこんでしまうような強烈な磁力が発生し、粘度を帯びてその場にある尊厳や決定権を絡めとっていく。世界には自分も含めて彼女たち六人以外に何者もいない、そう考えさせてしまうほどの強制力のあるステージは新垣が多く見てきた自己満足でしかない自慰ではない。まだまだ甘いが、たしかな技術と経験と自信に裏打ちされた、当然あるべき熱量だった。新垣は自分がまだデビューしていない頃に見た、モーニング娘。のステージを連想した。
「知ってるだろ、ちょっと前までハロプロにいたんだから」
 そう言われて、昨夏のハロプロコンサートまでいたユニットに思い至った。だが新垣の持っていたイメージとは重ならなかった。今この瞬間に目にしているような、画面越しにもチリチリと皮膚を焦がすような強烈さはなかった。
「でも全然ちがいます」
26 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:31
 ふわふわと曖昧なところが一切ない。不必要なものを極限にまで削り取った緊張感をそのまま客席に突き刺すようなステージングに新垣は、これは本当のあの六人なのだろうかと、これまでの自分の経験すべてを疑った。
 昨夏のハロプロのライブで一部のメンバー、新垣から見ても年少のメンバーが確信的に暴走してコンサートが三十分以上も中断した。新垣にとっては耳の痛い、出し抜かれたような不快感と、その意思の心地よさに、暴発した一人の小春にさんざん説教したが、どこか若いこの子と自分はちがうと諦めてしまっていた。今の立場があったとしても自分なりの意思表示の方法があると自然に納得して逃げていた。
「新垣?」
「はい」
「大丈夫か?」
「この子達はほんと、なんなんですか」
 受け入れ、認め、ひれ伏してしまいたくなるような誘惑を無理やり抑えこんで、汗と熱と声と力が飽和して渦巻いているような映像を見ている。ただハロプロエッグからの卒業が報告されただけだったが、メンバーの認識としては十年も続いているハロープロジェクトのステージを破壊した中心人物としての責任を取らされるような形で切り離されたことになっている。
 その瞬間、新垣は理解した。先ほど感じた彼女たちの自信は、喪失だった。ハロプロから切り離されたことで、彼女たちにはそれがどういうものなのか、新垣が必死になって探してもわからないことが、はっきりと見えているのだろう。失ってしまった自信を獲得しようという意思が、恐ろしいほどの破壊力を持ってその場にいる者、見ている者に迫ってくる。
 自分が、今のモーニング娘。が持っている自信は、獲得したものではない。最初から存在したものだ。それがどういうものなのか、自分たちにはわかっていない。Helloから剥がされた彼女たち六人は、それを自分たちの力で手にしようとしている。今までわたしはなにを求めているかも知らずに、なにをしてきたのだろう。涙があふれて止まらなかった。この子達は意思ではなく、状況に切り離されたのだろう。いつまでかわからないこの先何年間としての今ではなく、今がなければ次がない、そういったギリギリの状況ではないと生まれてこない力がそこにある。洗練されたパフォーマンスを新垣は求めていたわけではなかった。前に向かう意思がほしくてほしくて、自分たちの代になれば手にできると信じていたが、それはただの希望的観測だった。過去にはあったが、もうとっくに消えうせていたものだったのだ。メンバーを定期的にリフレッシュさせてテンションを高く保ちながら活動してきたモーニング娘。にも限界があった。過去を請け負っていくのは尋常な精神力では不可能だ。新垣はもっと今の自分たちを誇るべきなのだと重力を感じようとするが、膝が震えてうまくいかなかった。
27 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:31
 その夜、新垣は高橋の部屋に行った。もう寝ようと思ってた、と高橋は言うが迷惑そうでもなく新垣を受け入れた。部屋の広さと調度に、スウェット姿の高橋の小さな体がひどく不似合いに見える。高橋は新垣の表情をじっと見て、座れば、と言った。
「気ぃすんだか?」
 どうだろう、新垣は立ったままの高橋を見上げている。
「前にさ、わたし愛ちゃんのこと嫌いって言ったの覚えてる?」
「すっごい傷ついたまま、あぁし立ち直れてない」
「ちゃかさないで」
「うん、で?」
「いや、そんなことはいいんだけどさ、結局なんだったのかなあ、って思って」
「ガキさんがひとりで迷走してただけやろがあ」
「やっぱりそうなのかな」
「そうだよ」
 高橋はカーテンの隙間から外を窺い、開いた。光の粒をそこら中にばらまいたような夜景が広がり、遥か下方にチューブのように発光する首都高が見え、ヘッドライトが途切れることなく筋となって流れている。
「きれいやろ?」
「うん」
「だから住むとこ、ここに決めたの」
 高橋は愉快そうに笑い、カーテンを引いた。新垣は脱力して高橋の笑みを受け入れた。
「愛ちゃん、わたしね、やっぱりモーニング娘。が好きなの」
「なによ、いきなり」
「好きなの」
「知ってる」
「でも、それじゃ足りないと思ってた」
 もうなにも話すな、といったように高橋は無言になった。新垣が言葉を止めたのを確かめてから高橋はソファに座り、まっすぐ壁を見た。
「ここまで長かったよね」
「なに、その最後みたいな言い方」
「ガキさんが終わらそうとしてるんじゃんか」
「そんなことないよ」
「もうダメなんでしょ? わたし、ガキさんがなに考えてんのかほとんどわかんないけど、なんとなく、昔に戻りたがってるんだと思う」
「戻りたいわけじゃないけど」
「仮にそういういい時期があったとして、それを過ぎて今の娘。がいるんじゃないの?」
「愛ちゃん、そんなの知ってるって」
「わかった上で、無視してちがうとこに行きたいなら、止めない。あたしはここで続ける」
28 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:31
 なにも言えなかった。わたしはモーニング娘。なんだ。心の中で呟くと、数秒先の未来まで断たれてしまったような倦怠に存在ごと引き潰されてしまいそうだった。自分はそこにいない。どこからどこまでがそうなのか、曖昧すぎてわからなくなってしまっているがモーニング娘。はたしかにここにあって、同時にまったく別のところにもモーニング娘。は存在し、それが新垣理沙を苦しめている。現在のメンバーも、非常に危うい、もうほとんど崩れきったような均衡に影響されながら歌い踊っている。新垣は立ち上がって窓際のカーテンを引いた。星のない空に近いこの一室から、星のような光が敷き詰められた街の群れを見下ろした。どっちが空で地上なのか、新垣はこのまま光のほうへ身を投げてしまいたくなるほど混乱していた。もう、取り戻せない。そんな力も若さも、覚悟もない。新垣はただ、あの六人が立っているところ、果てしなく加速していきそうな熱の真ん中にいたいだけのだ。




 もう四月だというのに、仙台の夜は冷たく、千聖は凍えながら支給されたベンチコートを体にきつく巻きつけた。バックネット越しに広がる、東京よりもずっと透度のある明るい夜空を見ている。きれいなはずの夜空を照らしているこの球場はボールパークなのだと案内の男が言っていた。歯をガチガチ鳴らしたまいが、身を寄せてくる。メンバーを見渡すと、みな寒がっている様を気取られないように気を張っているが、愛理だけは寒さなど感じていないように悠然と野球を見ている。
 明日がその日なのに愛理は平気なのだろうか、と思うが千聖は聞けないでいる。℃-uteはプロ野球球団の応援で仙台まで来ている。明日の日曜日ではテレビ局を二つまわり、ラジオに三つ出る。詳細は知らされていないがテレビの生放送は一つあるらしい。
 千聖は早く九時にならないかと時計を睨みつける。喜ぶ準備をしておくよう指示されているのだが、その機会は今日はなさそうだ。愛理の、ひゃ、という声が聞こえたと同時に、前方のバックネットが揺れ、白球が落ちていった。びっくりしたね、と愛理が栞菜に話している。愛理は不気味なほどいつもと変わりがない。
 結局、愛理が辞めるという話は宙に浮いたまま、うやむやになりつつある。なんだそんな話か、とその場にいた全員が笑って流してしまい、愛理は動機を笑い飛ばされ挫けてしまったのか、それきりなにも言わなくなってしまった。でも、と千聖は引っかかったままでいる。たしかに千聖にとっても、愛理の動機はどうでもいいことだ。けれど、あそこまで切実に辞めたいと言い続けていた愛理にとっては、どうでもいいことではなかったし、今でもそれは変わらないのだと千聖は感じている。その日、3月30日だけ仕事を休めば解決するような問題ではない。知らない振りをしているが、おそらくメンバー全員知っている。
29 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:32
 メンバーが立ち上がり、通路側を見るとスタッフが時間が迫っていると誘導している。千聖は冷え固まってしまった体で立ち上がり、足元が覚束ないまいを支えた。まいは千聖を振り返り、縋るような視線でじっと見つめると、あとで行くから寝ないで待ってて、と言った。
 千聖はシャワーを浴びてベッドに横わえると、寒さからようやく解放されたような気分になれた。一息はくと、そのままウトウトとしてしまう。ゆっくりと意識が閉じていく途中、千聖の脳に様々な記憶や経験が駆け巡った。
 ノックの音が聞こえて目を覚ました。眠っていたのはほんの数分だろうが、奇妙に頭がすっきりしていた。そして、愛理を快く送り出してあげようと、結論だけが眠りから覚めたあとも残っていた。このまま愛理が℃-uteを出ていくことは、千聖にとっては勝ち逃げされるようなもので、千聖のほしいものを簡単に放り棄ててしまえる愛理に腹立たしさも感じているが、それでも千聖は愛理を快く送り出してあげようと決めた。
 もう一度ノックが聞こえて、ちさとー、と疲れたまいの声が聞こえた。ドアを開けると、まいが体を重そうに引きずって入ってきた。目にも力がない。千聖は、思わず大丈夫なのかと聞いた。今まで、まいの体力が年上のメンバーに追いつかず疲れきった様子はくりかえし何度も見てきたが、目にまで力がないのは初めてだった。
「まい、愛理に悪いことしちゃったかもしれない」
 窓際のソファに腰をおろしたまいは、まばらなネオンと一緒に映る自分と目が合い、すぐに逸らした。
「なんかしちゃったの?」
 千聖がそう言うと、まいは人間関係に疲れてしまったというような表情で、そうなの、とため息をついた。
「あのときさ、まい達、涙を返せ! って愛理に怒鳴ったでしょ?」
「それ、千聖も栞菜も入ってるの?」
「うん、それとは関係ないかもしれないけど、愛理、最近ずっと変でしょ?」
「どうしてそう思うの?」
「千聖も気づいてるでしょ、今日ね、ずっと外で仕事だったじゃん、休憩のときに愛理がボーっと座ってたから、まい、愛理のとこ行ったんだけど、」
「そういえば千聖、それ見てたかもしれない」
「そのとき、愛理の手にてんとう虫がついてたの、二匹も。愛理、虫だいきらいでしょ? まい、愛理がキャーってさわぐんじゃないかと思ってそれ言ったの。愛理、てんとう虫ついてるよ、って。そしたら愛理、あ、ほんとだーって笑ってんの。なんかその愛理の笑顔見てたら、怖くなっちゃって」
「それで、悪いことしちゃったと思ったの?」
「だって愛理にとっては大事なことだったんでしょ? あれって。なんだかんだでなかったことになってるし、愛理がおかしくなったのも、たぶんそっからでしょ?」
30 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:32
 先に言われてしまったと、千聖は思っていたことを口にしづらくなってしまう。あれから一週間も経っていないが、誰もその話には触れずにいた。このままなにもなかった振りをしれいれば、どんなに楽だったことだろうと千聖は思うが、それでは今のハロプロと同じになってしまう。
 まいがじっと千聖のことを見ている。
「一回、みんなで話そう」
 そう千聖がまいを連れて部屋から出ると、早貴が部屋から出てきて、ちょうど今ふたりを呼びにいこうとしてたところだったんだよ、と言った。





 今ここにいるよ、今ここにいるよ、私がここにいること、叫ばないとこの街じゃ、忘れ去られてしまうから。憂佳の独特に甘くて高い声がステージから聞こえていた。二つ後が出番の花音は、早めに準備を終え舞台袖で見ていた。
 隣にいた恵里菜が、憂佳の歌になぞって口ずさんでいた。花音はこの公演でエッグを卒業する恵里菜から目が離せなかった。恵里菜には内緒にしているが、卒業の演出も用意していた。新人公演が卒業公演になるのは初めてだった。花音は恵里菜の美しい横顔に、ハロプロを去っていった何人ものエッグを思った。
 間奏に入り、恵里菜が歌をやめ、ふと視線を花音に向けた。なつかしいよね、と笑った。ひどく幼い笑みで、花音もつられて微笑んでしまう。そして、恵里菜は辛いとも申し訳ないとも判別つかないような顔で、わたしもハロプロから離されちゃうのかな、と言った。花音はなんのことを言っているのか、すぐにわかった。あの夏、ステージへ飛び出す直前に、この曲がかかっていた。
「でも、あのときは本当に楽しかった」
「わたしは途中からの参加だったけど」
「でも、最初のほうから話を進めてたんでしょ? 前にも言ったけど、ありがとう」
 恵里菜は安心したように微笑み、あの時はすごかったよねえ、と言った。本当にすごかったと花音は改めて思う。あんなに楽しくて思い出に残る瞬間はなかった。その代償も、本当に大きかった。
「ほんとはあんまり心配してないんだ、あっちはあっちで楽しそうだし」
 どのようになるかはわからないが、これから新しくなにかが始まる恵里菜が羨ましかった。二期としてエッグに入って二年も経っていないのに、エッグの誰よりも早くソロデビューが決定した。悔しいが、しょうがないと納得できてしまう花音は、自分自身が歯がゆい。恵里菜には強烈なインパクトはないが、あらゆるものすべてをとろかしてしまうような暖かい存在感がある。
31 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:33
「私のすごい方法」を歌い終え、ソロでのステージをやりきった爽快感と安堵に頬をほころばせた憂佳が引き上げてくる。手をあげて迎えた花音に、豪快にハイタッチして、ありがとう! とそのまま駆けて次の準備に向かう。それと入れ違いに、一緒にダブルユーの曲を歌う友がやってきて、かのん早いねえ、と隣に立った。さっき是永さん、楽屋に入ったよ、と耳打ちした。サプライズで恵里菜より一足早くエッグを卒業した是永が花束を渡すことになっている。
 どんどんみんな抜けていっちゃうねえ、友がステージの恵里菜を見ながらひとりごちた。きっかもそのうちエッグを卒業していくのだろうか、花音は自分より20センチほど背の高い友を見上げる。初めて会ったのがちょうど一年くらい前で、その友も4月30日に月島きらりとのコラボレーションでのデビューが決まっている。
「こんなに抜けたら、次どうなっちゃうんだろうね」
 まるで他人事といったお気楽さに、花音は歩いてる13回を思い出す。友は世の物事から遠いところで生きている。受験勉強のために半年近くエッグでの活動を休止して、再開と同時にデビューが決まっていた。ちょうど同じ日にメジャーデビューするエッグを卒業していったメンバーと、それとはまた別のことを思い出し、胃のあたりがじんわり重くなる。新人公演の翌日、同じ場所で初単独のライブがある。明日はなにが起こるのだろうか。なにかとんでもないことが起こりそうな予感に、花音は自分がステージ中だということを、ほんの僅かな時間だが忘れた。




 では、℃-uteのみなさんより、ご案内があるということでね、アナウンサーがそう告げて、はい、と舞美がにこやかに話を受けた。生放送の緊張感も、番組終了直前ということもあってか随分と薄れている。
「えー、ここで℃-uteより発表があります」
 愛理はにこにこしたまま舞美の告知を待つ。このあと、発売済のシングルと仙台での公演はないがBerryzとの合同コンサートの告知をすることになっている。アナウンサーも笑顔のまま舞美の言葉を待っている。隣にいた千聖がテーブルの下で手を握ってきた。わけがわからず、とりあえず愛理は握り返した。
「今日、この時をもって鈴木愛理は℃-uteを卒業します。突然の発表でみなさんを驚かせてしまって申し訳ありません。発表はいつだって突然のものだとわたしは思っていますが、今日ほど突然で、唐突で、みなさんに不安にさせたり驚かせてしまうことはないと思います。そもそも発表というものは、あらかじめほのめかしておくものではないので、どうしても最初に言うときは、突然のことになってしまって、どうしてもみなさんを驚かせてしまうものだとわたしは思っておりまして──」
 緊張のあまり舞美の話がループしかけたところで、えりかが膝を叩いた。時間ないんだから、ちゃんと言って。
32 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:33
「結果だけを伝えることになってしまって、今まで応援してくださったみなさん、本当にごめんなさい、わたし達の大切な仲間、鈴木愛理は今この瞬間をもって℃-uteを卒業し、ナイスガールプロジェクトのメンバーとして活動していきます。今後も℃-ute、およびナイスガールプロジェクトのメンバーとして活動していく鈴木愛理の応援をどうぞよろしくお願いします」
 どこまでが放送に入ったのだろうか。舞美が、愛理以外の周囲のメンバーを確認する。ほとんど入ってたよ、えりかがそう表情で舞美に伝える。舞美に正確に表情だけで伝えられるのはえりかしかいない。
 愛理が混乱の極地のなか、手でつながっている千聖を窺う。千聖はイタズラっぽく笑い、愛理がチンタラしてるから、わたしたちで勝手に背中押しちゃったよ、と愛理に封筒を手渡した。今日の朝早く、みんなでこっそり抜け出して買ってきたの。
 舞美が照れくさそうに笑っている。愛理は思わず大人の反応を確認する。予定調和と意思に反する拒絶を受け入れるしか知らない大人は、呆然と、呆けたように、動けないままでいる。
「ほら、愛理」
 千聖に握らされた封筒を手に愛理は、初めて℃-uteという愛すべき仲間たちとの別離を知った。行きなよ、栞菜が笑顔で顎をしゃくる。そのすぐ隣で、まいが泣きじゃくっている。えりかが、ずっと仲間なんだからね、と言って、早貴が優しい笑顔で衣装のポケットから愛理の財布を取り出し、今まで愛理と一緒に℃-uteでいられて本当に楽しかった、と言ってそっと背中を押した。
 舞美が涙をぽろぽろ流しながら笑顔で立ち上がり、手を振った。
「愛理、バイバイ。またね」
 えりかが、早貴が、栞菜が、千聖が、まいが、それぞれ思い思いに別離を悲しみながらもポジティブに愛理を送り出そうとしている。愛理は弾かれたように走り出し、スタジオを出る直前、℃-uteのメンバーを振り返り、なにか言おうとして言葉を飲みこみ、防音の重い扉を開けて駆け出した。
 テレビ局を飛び出し衣装のまま仙台駅に向かった。夕方より少し前の仙台の空は、青空に夕焼けが透け始めていて、叫びたくなるくらいに美しかった。無事、新幹線に乗れた愛理にあったのは、感謝というよりも怒りに似た、複雑な感情だった。東京まで買ってあるから、新横浜で降りればブリッツはすぐだよ、と舞美は言っていた。だが、名古屋や大阪から東京へ行くなら新横浜に止まるが、仙台からだと新横浜に着く前に東京に着いてしまう。それに横浜ブリッツは新横浜にはない。栞菜は二時間で東京に着くから、18時30分の夜公演の開演にはじゅうぶん間に合うからね、と得意げに言っていたが、渡されたチケットの到着時刻には、出発の二時間半後が記載されている。
33 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:34
 誰もそのことに気づかなかったのだろうか。マイペースとしてしまえばそれで終わることだが、そこかしこに感じられる悪意に、みんな怒ってるのかなあ、と愛理は車窓に頭を預けた。それでも自然と笑みが滲んでしまう自分の顔がかすかに映り、冬の枯れて白っぽい田畑が広がる農村の風景が通り過ぎていき、ちらほらと新緑の眼が出ているのがわかる。早貴はチケットは当日券がじゅうぶんにあるから大丈夫だと言っていたが不安になり、携帯で調べて直接会場に問い合わせた。どうやらその情報は本当のようで、よほどのことがない限り開演直前に来ても中に入れると言われた。
 これからどうしようか。辛いこともたくさんあるだろうが、それ以上に、今以上に楽しいことやわぁーっと盛り上がれることがたくさんあるのだろう。実際にひとつ、足を踏み出したのだ。その瞬間、愛理は内臓から粟立つような不安感に襲われた。喉がカラカラに渇いて息をするのも苦しい。ちょっと目を離すと遥か後方に流れている田園の風景に、自分が前進しているのか後退しているのか、それとも立ち止まっているだけなのか、それがどうであっても恐ろしいことだと感じてしまう。今日からわたしはなにをすればいいのだろう。現実的なことはなにひとつ浮かばなかった。シングルリリースもそのイベントもDVD発売もテレビ番組もライブもバスツアーも雑誌のインタビューもラジオの録音もミュージカルも舞台もフットサルも夏冬にあるハロプロのライブも今後またなにかあるだろう展開も、個体としての自分が涙が出そうなくらい小さく感じられるアリーナ中を覆う大観衆の応援も、愛理はありとあらゆるハロプロにあるものを放棄したのだ。頭の中でが理解した上での行動だったが、喪ったことの本当の意味を肌で感じた。新幹線の中は暖房が効いて汗ばむほどだったのに、体が拒絶しているのだろう、震えが止まらなかった。切望して決めたことだと何度も自分に言い聞かせても、体の中から冷えるばかりで愛理はなにか楽しいことを思い出そうと試みるが℃-uteであったことばかりが浮かんできて、喪失と冷えは深刻さを増していくばかりだ。これから起きる楽しいことを考えようとするが、それも今、肌で感じている恐怖をよりリアルに経験するのだとネガティブな想像が次々と愛理を埋め沈めていく。彼女たちはハロプロから離れると一方的な通告を受けたとき、どうだったのだろう。想像するだけで、生きていく上で必要不可欠な何かが引き剥がされていくような痛みを伴った。それはほとんど暴力のようなものだ。彼女たちはどのようにして乗り越え、愛を連想させるような表情を獲得したのだろうか。愛理はなんでもいいからここではないどこかへ移動しないと発狂してしまうと立ち上がりデッキに出たが膝に力が入らず奇妙な浮揚感に車内の慣性に負け肩から壁にぶつかった。手すりを掴んだ。指が白くなるほど強く掴んでいるが、なにかを掴んでいるという感触がまったくない。倒れてしまいそうになったときに落ちたのだろうか、愛理の携帯電話が床を滑っている。背面液晶が青く光っていた。
「あ、愛理?」
 梨沙子からだった。愛理はなにか言おうとするが、声の出し方を忘れてしまっている。うんうん頷くだけだ。
34 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:34
「愛理? 聞こえてる? もしもーし」
 逃げこめる先は梨沙子の声しかなかった。愛理は梨沙子の声が耳の奥を震わせた振動が脳を伝い、優しく体内を撫でながら下りていく様子をイメージした。もしもし? もしもしー? あいりー? つながってないのかな、梨沙子の声が途切れた。愛理はもうなにかをする力など一滴も残っていないように思えたが、それよりも梨沙子の声が途切れてしまう恐怖のほうが強かった。
「あ、」
「大丈夫? ちゃんと聞こえてる」
 一度声が出ると、あとは簡単だった。愛理に起きていた異常は嘘だったように取り除かれ、笑顔を作ることもできた。
「ああ、ごめんごめん。わたしちょっとおかしくなってた」
「そうなんだ、まあいいや。聞いたよ、ついさっき」
「℃-uteやめたこと?」
「そう」
「誰に?」
「──さん。愛理どこ行ったんだ、って。℃-uteのみんな、どんなに脅されても絶対に喋らないんだって。だからなにか知らないかって。言うわけないじゃんね。これからBerryzの誰かから連絡あるかもしれないよ」
「今日オフだったの?」
「午前中だけ。わたしはね」
「ありがとう、教えてくれて」
「いや、全然。あ、そうじゃなくて、用事あったから連絡したんだった」
「なに?」
 なにか嫌な予感がした。今までそれに気づかなかったのは本当におかしかったからなんだろう、愛理は苦笑いと共に自分の覚悟の弱さを恥じた。
「ハロプロやめることにした」
「はぁ!?」
「愛理ぃ? 聞こえてる?」
 梨沙子の怪訝そうな声が聞こえる。声を出したつもりだったが、驚きのあまり喉は声帯を通り過ぎて空気を漏らすだけだった。
「うん、聞こえてる、やめるってなに?」
「だから、そのままの意味。やめて、移籍。愛理と一緒」
「嘘でしょ?」
「ほんと。しばらくはHelloで、その後もBerryzと両方になりそうだけど、今日ちゃんと話してきた」
 梨沙子がわたしをからかおうとしているか、梨沙子が騙されているだけか、どちらかしかないだろう、愛理はこれまでの苦労はなんだったんだと梨沙子の決定を受け入れられないが、相手が梨沙子だと考えると本当にそうなんだろうとも思えてくる。
35 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:34
「なんで」
「ん?」
「なんでやめたの」
「あっちのほうが楽しそうだから」
 そういえば前に梨沙子がやめたがってると雅が言っていた。なにか知らないか、と聞かれたことをすっかり忘れていた。
「前から?」
「うん、前から思ってた」
「でも急だね」
「来週までにやめないといけなくて」
「なんで言ってくれなかったの」
「あれ、言わなかったっけ?」
「わかんない、言われたのかな」
「それとなく言った気がする」
「それより、なんでそんな簡単にやめれたの」
「ちょっとね、秘密を知ってて」
「なになに?」
「それは言えない」
「えー」
「ごめんね、それより、今日、行くから」
「なにが?」
「今日3月30日でしょ?」
「そうだけど」
「愛理も行くでしょ? ブリッツ」
「ああ、うん、いま向かってる」
「じゃあ、またあとでねー」
 それで電話が切れてしまった。テレビ放送の終了間際からほんの一時間程度だろうが、次々といろいろなことが起って、愛理は今、なにがどうなっているのかはっきりしなくなってしまい、とりあえず席に戻った。風景が変わり、背の高くない建物がまばらに並んでいる。新幹線は前に進んでいる。
 愛理は自分で決めたことだから、自信を持ってやっていこうと思えるようになっていた。梨沙子のおかげだろうと愛理は考えたが、それだけではないと一人ほほえむ。今向かっている横浜ブリッツでのライブが楽しみなのだ。そして、今以上にわくわくできることがこの先ずっと続いていく、そんな予感がしている。
36 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:36
 そういえばと思い出し、愛理はメンバーから渡された封筒を取り出した。誰もそんなことは言ってなかったが、メンバーからの手紙が入っていた。時間がなかったからか、それぞれ自分が普段使っているメモ帳に書いてある。中を開けなくても誰のものかすぐにわかった。全員分を並べていると、まいのだけがなかった。封筒を確かめると、小さく折りたたまれたまいのメモ帳が底に引っかかっていた。広げると、いつもどおりへたくそな文字で、変に堅い文章で短く書いてある。
 まえに愛理がいってた、大きな夢にはいつも小さなあくまがいてって意味、ずっと気になってたんだけど、おねえちゃんが読んでた本に似た話がありました。神さまに戦いをいどんで負けた天使は、地獄で神さまになったそうです。その天使は(あくまかな?)すごく美しかったそうです。これとちがうのかな?












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37 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:36
38 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:36
39 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:36
40 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/22(土) 23:36
41 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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