01 散る花2人

1 名前:01 散る花2人 投稿日:2008/03/16(日) 18:52
01 散る花2人
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:52
階段を上って土手道を2人で歩く。
道は広かったから、手をつないだままでも、余裕を持って歩くことができた。
2人の距離は相変わらず近い。離れることができない。

「あ……」

小さな梨華の声が聞こえてきて、ひとみは顔を上げた。
その美しさに、はっ、と息をのむ。
土手道に並んだ桜が満開に、朝日を受けてひらひらと輝いていた。
2人は歩きだす。ゆっくり。相手の歩調を確認するように。
ちょっと冷たい3月の風は、甘い春の香りを2人に届けてくれる。
梨華の母校から匂ってくるのだろうか。

つながった手でゆっくり歩く2人を、邪魔そうに
制服姿の女の子たちが追い越していく。自転車もいくつか、通った。
背後に自転車の音がする度に、ひとみは思わず手を強く握ってしまった。

「よっちゃん。大丈夫よ」
「う、うん」

金属が食い込み、跡がつくのがわかった。
土手道の先に、学校が見えて来た。校門の前には、長い立て看板がしてある。

「今日、卒業式か」

そのとき
梨華たちを追い越した集団の1人を見て、梨華が「あっ」と声を上げた。

「知ってる子?」
「うん……」

梨華が、ため息をつくように言った。

「もう、さゆも卒業か……」
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:52


<1日前>

2人は夜道を歩いていた。さすがに春とは言っても夜の風は冷たい。
さっき梨華から「手をつないでくれ」と頼まれたが照れくさかったので断った。
梨華はふくれた。

「なんでよ!いいじゃんよ!」
「梨華ちゃん酔ってるでしょ」
「私は酔ってませんー」
「はぁ……」

自分も梨華くらい飲んでたら、勢いで手くらいつないだかも知れない。
でも、ほとんどシラフの状態でそんなこと
たとえ人の目が無くても、できるものではない。
ひとみはこれ以上絡まれないように、歩みを早めて梨華の先を行った。
足音が後ろをついてくる。

「あ……待ってよぉ」
「送ってやってんだから、わがまま言わない。道は?こっちであってるの?」
「ずーっと、ここ真っ直ぐだから」
「そういえば……梨華ちゃんの家まで行くのって、初めてだね」

梨華の足音が、止まった。ひとみは立ち止まって、振り返った。

「どうしたの?」
「こういうのも、もう無くなるのかな」
「……」
「よっちゃん、就活はどう?」
「なんだよ急に」
「適性検査は?もうやったんでしょ?」
「……行ってない。寝坊した」

梨華が呆れたようにため息をつく。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:53
「1年前の私は、もうちょっと真剣だったよ」
「知ってるよ」
「それでも、大変だった」
「知ってる」

大学で1年先輩の梨華は、一足先に就職を決め、来月から社会人となる。
今年1年、就職活動の苦労話をよく聞かされていた。
ひとみは大きく星空を仰いだ。星はぼんやりとしか見えなかった。

「どうして、今の生活を続けちゃいけないのかなー」
「バカ。いつまで学生やってるつもり?」
「梨華ちゃんの就職先、急がしそうだよね」
「まあね……」

ひとみは、思い出したように歩を進めて、梨華の前に立つ。

「じゃー、こんなふうに飲んだりすることも、なくなっちゃうかなー」

卒業していった大学の先輩たちは、みな「すぐ遊びに来る」と言いながら
結局、だれも大学には来ない。「忙しい」と言う。
一番親しくしていた梨華だって、例外ではないだろう。

ひとみはふと、不安になることがある。
梨華が、何かわけのわからない力に引きずられて
ひとみの知らない場所へ行ってしまう。そんな、漠然とした恐怖だった。
今日になって初めて「梨華ちゃん家まで行くよ」と言ったのだって
そんな不安がひとみの心の中にあったからだろう。
そうでなければ、どうして反対方向の梨華の家に、こんな遅くに行くものか。

せっかく、毎日楽しく過ごしているのに、タイムリミットはすぐそこまで迫っている。
そう思うと、残された時間に必死にすがりつきたくなるのだ。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:53
「あそこ」

梨華が指さしたのは、古びた2階建てのアパートだった。

「え?あそこ?」

思わず聞き返してしまった。

「治安とか、大丈夫なの?」
「……1人暮らしじゃないから」
「あ、そうなんだ。じゃー、私が行ったら迷惑じゃない?」
「平気。全然帰ってこないから」

それじゃあ、やはり心配ではないか、と思った。
そういえば、梨華の家族について聞いたことなかったな、と考えながら
アパートの前まで歩いていく。梨華の部屋は1階らしい。
部屋の前まで来て、梨華が「はっ」と止まった。

「梨華ちゃん?」
「帰って来てる……」

梨華が小さく、苦痛を絞るように言った。

「ごめんよっちゃん。今日……無理」
「……」

ひとみは「せっかく送ってやったのに」という言葉を飲み込んだ。
梨華の表情は、そんな冗談を許さないほど切迫したものだった。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:53
「ほんとごめん。もう帰って……」
「わ、わかったよ」
「ごめんね。せっかく送ってくれたのに」

梨華が早口でまくしたてながら、ひとみを押し返そうとする。
表情は絶望的なほど悲壮だった。
そのとき突然、部屋のドアが開いた。

その光景にひとみはぎょっとなった。

中から大柄な男が出てくる。梨華の腕を強く引っ張って中に入れてしまった。
扉が音を立てて閉まる。

「梨華ちゃん!」

ひとみはとっさに、扉の前まで駆けた。すると中で、何かが激しくぶつかる音がする。

「梨華ちゃん!!」

ドアを開けようとするが、鍵がかかっていて開けることができなかった。
再び激しい音がした。続けて、梨華の悲鳴。ひとみの全身に緊張が走る。
隣の部屋から「また始まった」という声が聞こえてきた。
何が起きているのか、理解できなかった。
だが、ひとみの腹には、乱暴に梨華の腕を引いた大男に対する怒りが沸き立っていた。

「梨華ちゃん!梨華ちゃん!」

ひとみがドアを強く叩いたが、それ以上に大きな音が室内から響いてくる。
ドアから離れて、裏手に回る。
フェンスを乗り越えると、部屋の中の様子が見えた。

さっきの大男が、倒れた梨華にのし掛かろうとしている。

その光景に、ひとみは理性を失い、身体が激しい憤りに突き動かされる。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:53
ひとみは裏手に転がっていたゴルフクラブを手に取った。
大きく振って窓ガラスをたたき割って開ける。

音に気づいた男が、顔を上げたとき、ひとみはすでに室内に入っていた。

男は、立ち上がってひとみと対峙する。
酒に赤くなった顔で、ひとみを睨みつけていた。

「や、やめろ……」

大柄な男を真正面から相手にして、ひとみは怯んだ。
男が飛びかかってきた。避ける間もなくタックルされ、窓枠に強く背中を打ち付けた。
男は、仰向けに倒れたひとみの上にまたがると、力任せに頬を殴った。
一撃で、意識が遠のいた。それでも攻撃は止まず、二度、三度と殴られた。

梨華が男の背中にとりついたが、振り払われる。

薄れていく意識の中で、梨華のすすり泣く声が聞こえてくる。

「もうやだ……もういやぁ!」

ゴツっ、と音がして男の身体が傾いた。ひとみは力を入れて男の身体をのける。
立ち上がるとめまいがした。男が、獣のようなうなりを上げて立ち上がる。

「もう……もう嫌なの!」
「……梨華ちゃん」

ひとみは、梨華の手にあったゴルフクラブを取る。
振りかぶると、体勢を立て直そうとした男に向かって
ゴルフクラブを思い切り振り下ろした。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:53
嫌な手応えがあった。

男は、頭から血を流して、床に倒れたまま動かない。

殴ったときの感触が手に残り、ひとみを動揺させた。

「あ……、えっと……」
「よっちゃん」
「ご、強盗が……梨華ちゃんのおじさんを殺した」

そういうとひとみは、窓から外に出て駆けだした。
どうしていいかわからなかった。
とにかく、この場から自分は逃げなくてはならない。それだけわかった。
振り向きもせず全速力で走る。交差点にさしかかろうとしたそのとき、

背後から自転車の音がした。

振り返ると、制服を着た巡査だ。誰かが異変を通報したか。
割られた窓から逃げ出すひとみを見て、追いかけて来たのだろう。
警官が何か言ってきたが言葉が頭に入ってこない。
あるいは、ひとみは何かしゃべったかも知れない。
身体が凍ったような気がして、自分が何を言ったのかさえ認識できなかった。

気がつくとカシャリっ、と音が聞こえてきて、自分の右手に手錠がかけられていた。

それで、ようやく、自分が「殺した」か何かを言ったのだと思いついた。
あっけなく捕まってしまった。全身から力が抜けて、その場にへたりこんでしまった。
急にしゃがんだからか、警官が手錠を落とした。カツン、と床に落ちる。
手錠のもう片方はひとみの右手につながっている。
しかしひとみは動かない。動くことができなかった。

もう……どうでもいい。私の人生、終わりだ。そんな感情がひとみを重たく支配した。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:53
そのとき、ゴツっ、とさっき聞いたような音がした。
警官が身をかがめたかと思うと、そのまま倒れた。

一瞬、何が起きたのか認識できなかった。

「……りか、ちゃん?」

顔を上げると、梨華の手から、ゴルフクラブが音を立てて転がった。
梨華が、こちらに手を差し伸べてくる。

「梨華ちゃん……何をして……」
「だって……よっちゃんが!」

強く手を引かれた。
警官が呻いきながら、起き上がる。

「逃げよう!」

2人は、暗闇の中を駆けだしていた。



10 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:54
近くにあった古いマンションの階段をあがり屋上に出た。
ここなら、朝まで誰にも気づかれずにすむ。
ひとみはまだ、事態を把握しきれていなかった。

梨華がひとみを座らせ、隣に並んで腰掛ける。
5階建てのマンションの屋上は、さすがに寒かった。
梨華が身体を寄せてくる。ひとみはまだ、動けずにいた。

「私ね……」

梨華が、空を眺めながら話し出す。
ひとみもつられて、空を見てみると、星空があいかわらずぼんやり見えた。

「ずっと……あの人、死んで欲しい、って……思ってた」

風が音を立てて、2人の体温を奪った。

「梨華ちゃん……どうして、逃げなかったの?」
「ママが帰ってこなくなっちゃって……。
 私までいなくなったらあいつ、妹に手を出すかも知れなかったし」
「だけど……」
「それにね、普段はめったに帰ってこないの。
 外の女のところ行ってる間は戻ってこないから。
 家にいたって、お金にならないからね。ただ……」

梨華の身体が、小さく震えた。

「いつも部屋に1人でいるのが怖かった。
 いつ帰ってくるかわからないから……」
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:54
「なんだよ……そんなの全然、知らなかったよ」
「こんなの、大学の人に言えないよ」

「大学の人」という言い方に、ひとみの心が寂しくなった。
それと同時に、梨華がどうして就職を急いでいたか
その理由がわかって自分が情けなくなった。
梨華が苦しい生活を送っている間、自分は呑気にも、今の生活が続けばいいと考えていた。

「私……梨華ちゃんのアパート見たとき、
 ああ、自分は梨華ちゃんのこと全然わかってないんだなって思って
 急に悔しい気持ちになって……」
「……よっちゃん」
「あいつが、梨華ちゃんを部屋に連れてちゃって私……
 梨華ちゃんが、遠くに連れてかれちゃう気がして
 やめさせなきゃって……梨華ちゃんを取り返さなきゃって……
 それで……わけわかんなくなっちゃって……」

とん、と梨華の頭が、ひとみの肩に乗った。
決して重たくはない梨華の頭を、確かに肩に感じて
ひとみの胸が乱暴につかまれたように痛くなった。

自分が何をしたか、今ならしっかりわかった。
自分がこれから、何を守らなければならないかも、わかった。

「梨華ちゃん!」

ひとみは梨華の肩をつかんだ。2人の身体がわずか離れる。

「梨華ちゃんは何もしてないから」
「え?」
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:54
梨華の目が、大きく見開かれる。

「あの男を殺したのも、警官を殴ったのも全部私だ。
 私が梨華ちゃんをストーカーして、勝手に乗り込んで殺した。
 梨華ちゃんは、何もしてない」
「何言ってるの!?そんなこと……」
「2人とも捕まることないよ!どっちかでいい」

カシャリ

梨華は、手錠のかかった自分の左手を見せた。

「そんなこと許さないから!」

梨華の表情は険しかった。ひとみに対して怒っているようにも見えた。
ただ、その両目からは涙が流れていた。

「よっちゃん1人に、させるわけないでしょう!」
「梨華ちゃん」

左手で梨華を抱き寄せる。
手錠のかかった方の手は動かせなかったから不器用な抱き方になった。
抱いてやると梨華は、声を上げて泣き始めた。

梨華の肩越しに、星空はぼんやりしていた。
梨華の嗚咽が、胸を震わせている。

ひとみの中に、罪悪感が芽生え始める。
梨華の人生を、自分が止めてしまった。
梨華の生活を、梨華の将来を、一時の感情に流されて壊してしまった。
梨華が、腕の中で眠ってしまっても、ひとみはずっと眠れずにいた。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:54


空が明るくなりはじめ、鳥の鳴き声が騒がしい。
手すりのない屋上の端に2人立つ。
2人とも、一晩で疲れ果ててしまい、顔には生気がない。

いつまでも、この場所にいるわけにはいかなかった。
明るくなれば、近隣の建物から見えてしまうだろう。
手錠でつながった2人。
どこへ行ったとしても、目立ってしまう。
だいたい、殺人現場は梨華のアパートだ。
警察が2人を逃がすほど、甘くないことくらいわかる。

なら……いっそ……

5階。下は硬いコンクリート。
ひとみは、梨華の手を強く握っていた。
梨華は無言で、その目はどこを見ているのだろう。

そのとき、朝日が姿をあらわし
2人の周囲が光につつまれた。
とたんに身体が温まっていく。

まぶしくてひとみは目を細める。
梨華も眉間にしわをよせていた。

「高校……」

梨華が、つぶやいた。

「高校……この近くなの……」
「行きたいの?」
「最後に……見ておきたい」
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:55


階段を上って土手道を2人で歩く。
道は広かったから、手をつないだままでも、余裕を持って歩くことができた。
2人の距離は相変わらず近い。
伸ばした袖の中に、手錠を隠しているため離れることができない。

「あ……」

小さな梨華の声が聞こえてきて、ひとみは顔を上げた。
その美しさに、はっ、と息をのむ。
土手道に並んだ桜が満開に、朝日を受けてひらひらと輝いていた。
2人は歩きだす。ゆっくり。相手の歩調を確認するように。
ちょっと冷たい3月の風は、甘い春の香りを2人に届けてくれる。
梨華の母校から匂ってくるのだろうか。

つながった手でゆっくり歩く2人を、邪魔そうに
制服姿の女の子たちが追い越していく。自転車もいくつか、通った。
背後に自転車の音がする度に、昨夜の警官を思い出してしまう。
ひとみは思わず手を強く握ってしまった。

「よっちゃん。大丈夫よ」
「う、うん」

鎖が手のひらに食い込み、跡がつくのがわかった。
土手道の先に、学校が見えて来た。校門の前には、長い立て看板がしてある。

「今日、卒業式か」

そのとき
梨華たちを追い越した集団の1人を見て、梨華が「あっ」と声を上げた。

「知ってる子?」
「うん……」

梨華が、ため息をつくように言った。

「もう、さゆも卒業か……」
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:55
校門の中へと入っていく。
父兄も多くいたため、手錠を隠した2人が目立つことはなかった。

梨華は、ひとみの手を引っ張って、古い小屋の前に来た。
「部室棟」と書かれた小屋だった。
その、奥から2番目の扉までくる。テニス部の部室だった。
梨華が小さくノックをしたが、中からは物音がしない。

どこからか、ピアノの音が聞こえ始めた。
そして、大勢の歌声。校歌だ。

「誰もいないよね。式の最中だし」

そう言うと梨華は、扉を開けて中に入る。
狭い部室からは、汗と埃のまじった独特に匂いがした。
その奥の隅、梨華が指さした壁にはたくさんの名前が書いてある。

「うちの部活の伝統。卒業するときにみんな名前を書き残していくんだ」

無数の名前の中から、梨華の名前を探すのは簡単だった。

「梨華ちゃん、やっぱピンクなんだ」

ひとみは、笑ってしまった。

「うん。前日に、消えにくいピンクのペン探して
 何件もお店まわった。懐かしい……」

ひとみも、いつのまにか懐かしい気持ちになっていた。
高校時代の梨華のことは知らないが、
この名前みたいに、周囲から浮いていて、妙な存在感だけあったのだろう。
でも名前の様子からは、梨華が皆から親しまれていたであろうことも
不思議と伝わってくる。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:55
「梨華ちゃんは、どこ行っても梨華ちゃんなんだね」

梨華が、さらに壁に近づいていく。
隣に並ぶスペースはなかったので、ひとみは腕を伸ばして梨華の背中を見ていた。
梨華の腕だけが、ひとみの方に引っ張られている。

「あ」

梨華が身をかがめて、床に落ちていたペンを取った。ピンク色のペンだった。

「これ、このペンだよ」
「へぇ……最近も誰か使ったんだ」

ひとみはもう一度壁を見た。
すると、梨華の名前から少し離れた位置に、ピンクの文字で「さゆみ」と書いてある。

「よかったじゃん。後継者だよ!」

ひとみは茶化すように言った。
見ると、梨華は驚いた顔をして呆けていた。

「あの子……」
「さっきの子?」
「うん」

左手が強く握られた。

「どうしたの?」

梨華は、驚きと苦痛とを混ぜたような顔をして
震えていた。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:55
「あの子、スコート履きたくてテニス始めたんです、とか言うの。
 私がOGとして練習見に来たときに1度会っただけなのに
 なんか妙に印象強くて、覚えてたな……」

話ながら、梨華の顔がどんどん歪んでいった。
口をきつく結んでいたのは、泣くまいと強がっているからだ。

「私の跡なんか継いで……」

梨華は、ロッカーを開けて中からブラシを取り出した。
そして自分の名前をごしごしやりだした。
しかし、消えにくいペンで書いた名前は、簡単にはなくならない。

「よっちゃん。クレンザーみたいなの、ない?」
「あるけど……」
「取って!」
「……梨華ちゃん」
「取ってよ!」

梨華が叫んだ。耳にキンと来る、甲高い声だった。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:55
水色の研磨剤をブラシにつけて磨くと、ピンク色の文字が徐々に薄くなっていった。
梨華の名前の形が崩れた。ブラシの音が部屋に響いた。

梨華は必死だった。
口をきつく結んだまま、目を真っ赤にして、必死に形相で自分の名を消していた。
ピンクが広がり、周辺の壁に染みこんでいく。
もう、文字は見えなくなっていた。
それでも梨華のブラシは、しつこく音を立て続けていた。

ブラシの音に、喉をつまらせたような嗚咽が混じる。

ひとみは

「梨華ちゃん」

左手で、背中から梨華を、そっと抱いた。
ブラシの音が止まる。

「梨華ちゃん、もういいよ」

強く抱き、梨華の背中を自分の方に寄せる。

「もう、いいよ」

ひとみは、小さな小さな声で、梨華の耳元にささやく。
梨華の嗚咽は、しばらく止まることはなかった。
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:56


部室の外に出る。体育館からは、ピアノの音と歌声。
校歌とは、別の歌だった。

校門を出て、土手道をさっきとは逆向きに歩いていく。

さっきよりも強くなった風が、2人を押し戻そうとする。
強風に桜たちが舞って、先が見通せないほどだった。

「なんか今、安心できてる」
「え?」

2人は橋の上まで来た。充分な高さの橋だった。

「今までこんなことなかった」

梨華の言うことが、ひとみにもよくわかる。
2人は今、同じ気持ちでいる。

自分の中の、面倒な部分だけを捨てて
梨華を愛する部分だけが、芯として熱を残している。

前も見えないくらい強すぎる風と
手から感じる梨華の温もりと
遠く聞こえるピアノの音。
そして、桜たち。
20 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:56
「何も怖くない」

もう、1人になんかならない。
もう、離ればなれになんか……。

2人は橋の手すりを越えた。

数え切れないほど多くの花びらが、きらきらと空を飛んでいる。
早すぎた桜は、もう散ろうとしている。
桜は、自分たちの旅立ちを、祝福してくれるだろうか。

「梨華ちゃん……よかったじゃん」
「え?」
「ピンクが梨華ちゃんを見送ってくれてるよ」
「もうちょっと濃いピンクがいい」

その甘えたような言い方に、ひとみの心が苦しくなる。

本当に、これでいいのか?という一瞬の迷いが生じた。

いつもの梨華なら、困難を乗り越えてでも生きようとしたはずではなかったか。

「いいの?本当に?」
「一緒がいい……」

返事と同時に、梨華が腕を強くつかんだ。
梨華を見返した。
飾りもせず、強がりもしない梨華の最後の笑顔は
ひとみの不安と悔恨を一度に晴らしてくれる。
身体の芯からぬくもって、熱が全身に広がっていく気がした。
21 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:56
最後という時に
こんなにも、迷いなく、隣で微笑んでくれる。

「ありがと」

そう言った。

風が背中を押してくる。
2人は、身体を風に任せるように
一歩前に足を進める。

ふわり橋から離れた2人は
桜の花びらたちが待つ流れの中へ吸い込まれていった。



22 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:56
23 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:56
24 名前:名無飼育さん 投稿日:2008/03/16(日) 18:57
END

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