17 影法師
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:16
- 17 影法師
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:18
- 四十分の通学路の間、約三十分を崖のようなこの道を漕ぐことになる。ガードレールを突き抜けてしまえば、三十メートルくらい転落した挙句、海へとダイブ。幼い頃は近寄らないように言われていた場所を、風と共に走り抜ける。大人になったような気分、もうそんな心配をしてくれないんだという切ない気持ちを織り交ぜながら、足に力を込める。
顔を上げたのは、車道を挟んだ向こう側から自転車が走ってくる気配がしたからだった。
ちょうど斜めに鏡を入れたように、私とその人は、すれ違う瞬間にお互いの顔をうかがい見るような仕草をする。それは特別なことではなくて、狭いこの町では制服姿だったら知り合いの可能性が高かったりするからで。
そう、まさにその予感が当たった。背中からの太陽を受け、怪訝な顔をしているその女の子は、絶対に私の知っている人だった。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:25
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「あさ美ちゃん!」
眩しくて目を細めながら相手を確認するとやはり見覚えのある顔。よく通る聞き覚えのある声。かーちゃん?と確認するように言うと心なしか、かーちゃんの表情が嬉しそうに緩んだように見えた。
久しぶりだね、とかーちゃんは嬉しそうに笑って、先に行こうとした自転車をわざわざUターンさせてタイヤをこっちに向けてきた。どこかに行くところじゃなかったのかなと思ったけれど、別にこっちも急ぐような事はなかったから同じように自転車の向きを変えて向かい合わせる。久しぶりに見るかーちゃんの顔は少し青白く見えた。
「あさ美ちゃんは夏休み、どっか行った?」
「ううんずっと寝てた」
「うちと一緒やん、うちもあんまり家から出てないんだよねー」
ほら真っ白だよと言いながらかーちゃんは細い腕を私の目の前に突き出してきた。私がほんとに白いねと返すとやっぱり?とかーちゃんは困ったように笑って、あさ美ちゃんもまだ若いんだからもっとあちこち行かなきゃ、と仕返しみたいにそう言った。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:28
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「でも」
「ん?」
「あさ美ちゃん、ちょっと雰囲気変わったね」
「そう?髪染めたからかな」
髪を染めたのはつい最近だけど、相手はそんなことは知らない。
かーちゃんは懐かしそうに目を細めて私を見たけど、そんなかーちゃんの表情が私には懐かしく思えた。沈んでいくオレンジ色をした太陽がかーちゃんの顔に影を落とす。この時間帯の太陽は沈むのが早く、あっと言う間に真っ暗になってしまう。そうなったらこの坂道は少し危ない。夕暮れ時は事故がよく起こるから。お母さんがよくそんな事を言っていた。
私とかーちゃんが話をしていく間にも少しずつ日が暮れていく。
今、正に太陽がガードレールの向こう側に沈んでいこうとしているという時に、
かーちゃんは左腕に巻かれている細い腕時計を見て「あ、そろそろ時間やばいなあ」と言った。
その言葉につられるように私もポケットに入れてあった携帯電話で時間を確認する。
早く帰らないと本当に真っ暗になってしまいそうだ。私とかーちゃんはちらっと目を合わせて、もう帰ることに決めた。だけど、お互いにくるりと自転車の向きを返したところでかーちゃんはふと気になったのか、私の方を振り返った。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:31
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「ていうか、あさ美ちゃんはそんな花束なんて持ってどこ行くとこだったん?」
「え、別に…かーちゃんこそどこ行くとこだったの?」
「うちは家に帰るとこ」
「…そっか、気をつけてね」
「うん、じゃあね」
「うん」
お互いに手を振り合って、背中を向けた。
すぐ後にちらっと振り返ると彼女の背中が見えて、
たまらなくなって思わずその後姿に向かって声をかけた。
「かーちゃん、今も吸ってる?」
かーちゃんは振り返ると一瞬不思議そうな顔をして、
だけどすぐに思い当たったのかにやっとした笑みを浮かべながら
唇に人差し指を当てて、言った。
「――内緒、ね」
その笑顔に高校時代の記憶がフラッシュバックした。
じゃ今度こそほんとにバイバイ、と私に手を振って小さくなっていった姿をぼんやり眺める。
頭のどこかが「ああ、確かにあれはかーちゃんだ」と再確認した。
中途半端に上げられた左手を私はいつまでも下ろすことができなかった。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:35
- 教室の隅っこで本を読んでいた私と教室の真ん中でいつも笑っていたかーちゃん。
もちろん共通点なんてあんまり無かったし、教室じゃロクに話した記憶は無い。せいぜい事務的な、必要最低限の会話だ。でもただ一箇所だけ、かーちゃんと普通に話せる場所があった。
「かーちゃん、また吸ってるの?」
立ち入り禁止の屋上に続くドアを開けると一番に煙草の匂いが鼻をつく。そんな匂いがするのはいつものことで、私がそういう事を言うのもいつものことだった。ついでに、その言葉を投げかける相手もいつものこと。
すると私の言葉にかーちゃんはちょっと眉をひそめる。そしてぷくっと頬を膨らませた。それはとても可愛らしい表情だったけど、やってることは可愛くない。
「いいの、ハタチになったらやめるもん」
「普通逆なんじゃ…」
「細かいことは気にしちゃだめだよ」
「ええー…」
「だから内緒! ねっ、私とあさ美ちゃんだけのヒミツだよ」
元よりチクる気などこれっぽちもなかったのだが、
彼女の屈託ない笑顔を見ていると何も言えなくなってしまう。
それはあまりにも完璧で隙のない笑顔で、それに負けて素直に頷いてしまった。
普段接する機会のない彼女と秘密を共有するというのが少しくすぐったくて、
少し嬉しく思えてしまったというのもある。
それだけ彼女の言葉は甘く響いた。
それに、私が頷くといつもかーちゃんはとても嬉しそうに笑ったから。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:38
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「でもあさ美ちゃんとうちって教室じゃあんまり話さないよねえ」
「え、ああ…うん…」
それは私も思っていたところだった。
屋上では普通に話せるけど、普段話をすることのない彼女に
話しかけていいのかどうか迷っていたし、仲良しのグループも少し違っていたから。
それを知ってか知らずかかーちゃんはでも教室で話すのも何か勿体無いなしあ、と言って笑った。
その言葉が本心からくるものなのかどうかは分からなかったけど彼女にそう言ってもらえるたびに、やけにくすぐったい気持ちになってそれだけで嬉しかった。
思えば高校三年間、それなりに充実しててそれなりに思い出もあったはずなのに、
高校時代を思い出した時に浮かぶのはあの屋上でかーちゃんと話をしたことばかりだった。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:39
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もう一度、かーちゃんが去っていった坂道を振り返る。
当たり前のことだけど、彼女の姿はもう見当たらなかった。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:41
- 小さな花束を抱えてガードレールの角でしゃがみ込む。
自転車のカゴに入れておいた花束は夏の暑さのせいか、少しだけくたびれていた。
花屋の店員さんに作ってもらった花束。彼女が好きな花を私は知らない。
そもそも彼女のことについて知っていることがほとんど無い。
顔と名前と、数年前の教室での彼女。あとは煙草の匂い。
花束の方に向けて手を合わせる。
本当は気づいていた。
日に焼けた鮮やかな笑顔が浮かぶ。
せめてもう一度会いたいと思っていた笑顔だった。
夢みたいだった。本当は泣き出しそうだったけど、
ぐっと堪えて彼女に向けた笑顔は上手く作れていただろうか。
もしかしたらついさっきの出来事は白昼夢か幻かそんなものだったかもしれない。
彼女が花束になって二年が経って、あの屋上の景色はもう一緒には見れなくなった。
色濃く落とされる影は時間の流れと同じに長く長く伸びていく。
夏の夕暮れ時に吹く風は少し冷たい。昼が少しずつ短くなっていく。
うだるような暑さにうんざりしていたはずなのに、どこか寂しさを感じている。
夏の暑さも過ぎてしまえば一瞬のことだと、改めて気づかされた。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:45
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私と彼女の時間はすっかりズレてしまった。
彼女の時間はもう進むことはないし、私の時間はこうやっている間にも進んでいく。
ただ時間は進んでいく。夏が終わる。鮮やかな残像を残して。
花束と一緒に買った煙草。
自動販売機で買ったものだけど、買う時にやたらと緊張してしまった。
あの当時の彼女もドキドキしながらこれを買ったのだろうか。
それを想像して笑いが零れてしまう。今も吸ってるらしい彼女にこの煙は届くのだろうか。
「――内緒、ね」
夕暮れ時は少しだけ風が吹く。だからちょっと火をつけるのにひと苦労した。
火の点いた煙草の先は紅く光ってほろ苦い煙を吐き出す。揺れる明かりに小さく呟いた。
目の前で沈んでいくオレンジ色の太陽に足元の影が長く伸びていく。
私はだんだんと滲んで見えなくなっていくそれをぼんやりと眺めていた。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:48
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- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:49
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- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/09/02(日) 22:49
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