11 まぼろしの夕焼け
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:29
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11 まぼろしの夕焼け
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:30
- 四十分の通学路の間、約三十分を崖のようなこの道を漕ぐことになる。
ガードレールを突き抜けてしまえば、
三十メートルくらい転落した挙句、海へとダイブ。
幼い頃は近寄らないように言われていた場所を、風と共に走り抜ける。
大人になったような気分、
もうそんな心配をしてくれないんだという切ない気持ちを織り交ぜながら、
足に力を込める。
顔を上げたのは、
車道を挟んだ向こう側から自転車が走ってくる気配がしたからだった。
ちょうど斜めに鏡を入れたように、私とその人は、
すれ違う瞬間にお互いの顔をうかがい見るような仕草をする。
それは特別なことではなくて、
狭いこの町では制服姿だったら知り合いの可能性が高かったりするからで。
そう、まさにその予感が当たった。
背中からの太陽を受け、怪訝な顔をしているその女の子は、
絶対に私の知っている人だった。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:30
- それでもどこかで見た顔だというのは分かるのだが、
どうしてもそれがいつだったのかが分からない。
名前が思い出せない私はゆるくブレーキを握ってスピードを落としながら、
眉を寄せて相手の顔に視線を向ける。
互いの自転車が真横を通る直前に甲高い音が鳴り響き、
向こうの自転車が先に停車した。
その音につられたように、私もブレーキの最後の遊びを握って停車する。
「……愛ちゃん?」
驚いたように言った女の子は両足を道路に付けると、
チョコチョコ歩きで車道を横切り、私のすぐ側まで移動してくる。
どう答えていいのか分からない私は曖昧な笑顔を見せて、
近づいてくる相手の顔を見つめていた。
「ひさしぶり……やね」
「あーぁ、やっぱり愛ちゃんかぁ!
キレイになったね、そのなまりがなかったら分かんなかったよ」
名前を思い出せないままの私が多少の気まずさを感じながら先に声をかけると、
女の子は屈託のない笑顔で笑った。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:30
- ほとんど一方的に話し続ける話に相槌を打ちつつ、
私は女の子の名前を思い出そうと必死になって考えていた。
女の子は驚くほど私のことを知っている。
小学生のときに行った遠足の思い出や、プールの授業でおぼれかけたこと、
さらには卒業式で私が泣いていたことまで知っていた。
女の子が近況を尋ねた友達の名前も、すべて知っている。
同じクラスになったことがあるというだけではなく、仲も良かったみたいだった。
話している内容は、確かに私の記憶にある。
その場にいなければ分からないようなことまで知っている女の子と
友達だったのは確かなようだが、どうしても肝心の名前が出てこない。
「……でも、良かったよ」
「なにが?」
女の子がふいに言った一言に、
焦っていた私は自分の足元を見ながら反射的に答えた。
僅かに空いた間に顔を上げた私の視線を、目を細めた女の子が正面から捉える。
「みんな変わっちゃったって思ってたけど、愛ちゃんは昔のままだね」
「……成長してないってこと?」
「ちがうよぉっ!」
女の子は大げさに手を振って、口を尖らせた私の言葉を否定した。
「見た目は変わったけど、やっぱり愛ちゃんは愛ちゃんだってこと」
うれしそうにそう言った女の子の笑顔はとても、魅力的だった。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:31
- 少しとぼけているところもあったが女の子の語り口は穏やかで、
あたたかい人柄を感じさせた。
横にいるだけでなぜかホッとさせる、そんなやわらかい雰囲気を持っている。
いつのまにか私は楽しそうに話をしている女の子と、
とりとめのない話で盛り上がっていた。
おしゃべりが終わったのは、
どこからか『夕焼けこやけ』のメロディが流れてきたからだった。
聞こえてきたそのメロディに周りを見渡すと、
いつのまにか景色は赤く染まり、日が暮れかけていることに気が付いた。
もう少し話をしていたかったが、
しかたなく少し残念そうな表情を見せた女の子に別れの挨拶をして
自転車にまたがる。
お互いに反対方向へ向けた自転車の上で、
女の子がふと何かを思いついたように、悪戯っぽい笑顔を私に向けた。
「それで……私の名前は思い出してくれた?」
その言葉に、私の心臓が跳ねる。
一時間近く立ち話をしていたはずなのに、
なぜかいまだに名前を思い出せていない。
途中までは女の子の話からヒントを見つけようとしていたのだが、
いつのまにか話に夢中になってしまっていた。
どうしていいのか分からずに視線をさまよわせていた私の視線が
こちらを向いて笑っている女の子とぶつかる。
「……“まこっちゃん”だよね」
おずおずと口にしたのは、たまたま頭に浮かんだアイドルの名前だった。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:31
- 一時間以上も話していて思い出せないのかと呆れるかもしれないし、
口を尖らせながら抗議の言葉を口にするかもしれない。
どちらにしてもいまの雰囲気なら本気で怒ることはないだろうと思って口にした、
適当な名前だった。
すっかりオレンジ色に変わった陽の光を受けながら私を見ていた女の子の顔から
ふいに表情が消えた。
本気で怒ってる。
目を細めた女の子を見て、これまでかと観念しながら視線を落とした私だったが、
かけられたのは予想とは違う言葉だった。
「……ありがとう」
弾かれたように顔を上げると、その子は満面の笑みを浮かべた。
困惑している私が何かを言いかけて口を開けると同時に、
その子は『夕焼けこやけ』の旋律を背に“じゃあまたね”と手を振ると、
ペダルを踏んで走り始める。
すっかり色の変わった通い慣れた道に長い影を落として離れていくその背中を、
私は呆気にとられて見つめていた。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:31
- ――――
『“まこっちゃん”ねぇ……』
そう言って静かになった電話に、耳を押し付ける。
「たぶん小学校のときに一緒だったはずなんだけど、
ガキさん憶えてない?」
『う〜ん……そういう子はいなかったと思うけどなぁ』
沈黙に耐えられずに早口で言った私に、
電話の向こうの友達はそう答えて再び黙った。
その答えを聞いた私のなかで落胆と同時に、不安の色が濃くなる。
何人かの友達に電話で聞いてみたが、
だれも“まこっちゃん”を知っている人はいなかった。
小学校から私と一緒にいるのはいまかけている相手が最後だったが、
返ってきた答えはこれまでと同じ。
“まこっちゃん”などいない、というものだった。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:32
- 家に帰ってすぐに卒業アルバムを開いて写真を見たが、
さっき会った女の子と似ている子はいなかった。
名簿の名前も一つ一つ確認したが、
それらしい名前を見つけることはできなかった。
よく考えると彼女の制服の校章は、私の知らないものだ。
近隣の高校ではないとすると、
卒業する前に引っ越してしまった子なのかもしれない。
『……そういえばさ、小学生くらいのとき、
あそこの崖の下で人が死んでたことがあったじゃん。
たしか愛ちゃんと私でこっそり見に行ったよね』
「それがどうしたの?」
受話器を握ったまま考え事をしていた私は、
面白いことでも思いついたように笑いを含んだ友達の声にぶっきらぼうに答えた。
言われてみればそんなことがあった気もするが、
小さい頃の出来事でほとんど記憶に残っていない。
「いまの私たちと同い年くらいだったけど、
顔とか潰れててけっきょく誰だか分からなかったって話だから……」
低い声を出した友達は、そこで少し間を置いた。
「愛ちゃんが会ったのって、もしかしてその子だったんじゃない?」
自分の冗談に耐え切れなくなったように笑っている友達の言葉を聞きながら、
私は血の気が引いて足元から体中の血が流れ落ちていくのを感じた。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:32
- ――――
頭の上からアナウンスが鳴り響き、私は我に返った。
憂鬱になった気分を振り払うように軽く頭を振ってベンチから立ち上がり、
ホームの端に立って電車の到着を待つことにする。
けっきょく、あれから“まこっちゃん”に会うことはなかった。
友達に頼んで他の中学校の卒業アルバムを見せてもらったこともあったが、
あの子の顔を見つけることはできなかった。
それからの数週間は絶対にあの道を一人で通らないように気をつけていたが、
不気味な出来事は平凡な日常のなかに埋もれていく。
気が付けば思い出すこともなくなり、
そのまま私は高校を卒業して東京の大学に通うために町を出た。
講義を終え、乗り継ぎのための電車を待っているホームから見えるのは、
炎ということをまったく感じさせない幻影の球体と、赤く染まった街並みだった。
生まれ育った街並みとはかけ離れた風景だが、
夕日に照らされた風景はなぜかとても懐かしく、そして物悲しい気分にさせる。
名前の付けられていないものは、この世界に存在していない。
たとえば、昔の日本人の色に関する言葉には“明るい”と“暗い”の
どちらかしかなく、その他の色はなかった。
ただそれがどちらの色調に属するか、ということでしかなかった。
言い換えれば、昔の日本人にはほとんどの色が存在していなかった、
ということになる。
そこに外から色を示す名前が入ってきたことで、
色はさまざまに分化して、存在することになった。
だとすれば、名前のない何かに誰かが名前を与えれば、
その何かはその瞬間に現実のものとして存在することになるのではないか。
名前と言うのは決して単なる符牒ではなく、一つの実体なのだから。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:33
- 目の前の夕陽を見ながらふと思いついた自分の考えの幼稚さに、
私はおもわず苦笑した。
あまりにも現実離れした考えだった。
夕陽に染まった風景とどこからか聞こえてくる味気ない五時半のチャイムの音が、
忘れかけていた記憶を思い起こさせただけ。
久しぶりに思い出した出来事は不思議なことに変わりなかったが、
冷静に考えれば説明がつかないこともない。
遠足の思い出など誰でも似たようなものだろうし、
卒業式で泣いていたのは私だけではなかった。
だいたい小学校の記憶など曖昧なもので、
言われてみればそんなことがあったような気がするといった程度のものだ。
たまたま私に似た人を知っていただけの、
思い込みの激しい子だったのかもしれない。
それとも人と話を合わせるのが上手い女の子の、
単なるたちの悪いイタズラだった可能性もある。
新しい大学、新しい友人、住み慣れた街とは違うすべてが新しい生活。
あのころとはまったく違う環境の中で生活している自分にふと、
違和感を感じることがある。
慣れたつもりでも、心のどこかでは漠然とした不安があるのだろう。
その根拠のない不安が“まこっちゃん”という、
あの不思議な女の子を連想させただけなのだ。
「まこっちゃん……か」
私は小さく呟いて、感傷的な気分と一緒に思い出した昔の自分に小さく微笑む。
あの頃とは違う。もう大人なのだと、自分に言い聞かせた。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:34
- 金属同士が擦れる耳障りな音に顔を上げた私の前を、
速度を落としながらホームに入ってきた電車が通過していく。
目の前を流れていく電車の窓にぼんやりと視線を向けていた私は、
そこに映った人影を見て、息を呑んだ。
「……久しぶりだね、愛ちゃん」
かけられた声にそんなはずはないと思いながらも、私は強く両目をつぶる。
電車の窓に映った私の肩越しにいた女の子は、すぐ背後に立っていた。
あの頃とまったく変わらないその姿に、
体中の血が逆流したように私の全身が総毛立つ。
「私だよ。愛ちゃんが名前をくれたのに、忘れちゃったの?」
確かな感触と一緒に、私の強張った肩に誰かの手が乗せられた。
あのときの私は、誰に会ったのだろう。
そして“なに”に、名前を与えてしまったのだろう。
振り払いたいという私の意志とは反対に、身体はまったく動かなかった。
「もう一度……私の名前を聞かせてよ」
耳元でささやかれたやさしい声と同時に強く肩を引かれ、振り向かされる。
目の前に立っている人の気配を感じながら、
私はできることならこのまま目を開きたくはなかった。
それよりも、目を開く自信さえなかった。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:34
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- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:34
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- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/30(木) 22:34
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