09 ナツカゲ
- 1 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:01
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09 ナツカゲ
- 2 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:02
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四十分の通学路の間、約三十分を崖のようなこの道を漕ぐことになる。ガードレールを突
き抜けてしまえば、三十メートルくらい転落した挙句、海へとダイブ。幼い頃は近寄らな
いように言われていた場所を、風と共に走り抜ける。大人になったような気分、もうそん
な心配をしてくれないんだという切ない気持ちを織り交ぜながら、足に力を込める。
顔を上げたのは、車道を挟んだ向こう側から自転車が走ってくる気配がしたからだった。
ちょうど斜めに鏡を入れたように、私とその人は、すれ違う瞬間にお互いの顔をうかがい
見るような仕草をする。それは特別なことではなくて、狭いこの町では制服姿だったら知
り合いの可能性が高かったりするからで。
そう、まさにその予感が当たった。背中からの太陽を受け、怪訝な顔をしているその女の
子は、絶対に私の知っている人だった。
- 3 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:02
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別に怪訝な顔を本当にしたわけじゃない。
この心臓破りともいえる坂を上ってくるときには、
大抵の人が、眉をひそめるか歯を食いしばるかの表情を浮かべるもので。
とにかく、好意を抱く人には見せられないような形相になるものなのだ。
けれど、目が合ったその人は、今までの坂なんて
ウォーミングアップだったかのように、ぱっと表情を変える。
汗だくなのに、弾けるような笑顔を私に向けてくれたんだ。
「愛理じゃん! なに、どうしたの? 夏休みでしょ?」
キキッ、と車道を挟んだ山側で自転車を止めて話しかけてくる。
崖側を下っていた私も、慎重に自転車を止めて笑いかけた。
- 4 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:03
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「うん、転校の手続き、やってきた」
「転校? え? 待って、転校?どこに?」
よほど意外な答えだったのか、
舞美ちゃんは自転車から身を乗り出して
驚いた顔を隠そうともしない。
「東京。この間の歌手のオーディションに受かったんだ」
「歌手…。そっかぁ…愛理、ずっと夢だったもんねぇ。
前に言ってたオーディション受かったのかぁー、そっかー」
「うん」
しばらく沈黙。
傾き始めていてもジリジリと照りつける太陽と、
煩いぐらいのセミの声が耳に付く。
時折、車が私たちの間を通り抜けていくけれど、
暑さしのぎの風にもならずに、
お互いの額の汗はボトボトと落ちていくばかり。
- 5 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:03
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「うん…がんばれ、愛理! がんばれ!」
顔中から汗を噴出して、舞美ちゃんはまた笑った。
寂しい表情はそこにはなく、だから私も、素直に笑った。
「あははぁ〜、うん、がんばる」
「あたしもインターハイにむけて頑張るし!」
「うん」
陸上部に所属する舞美ちゃんが得意の長距離で
1年生ながらもレギュラーを勝ち取ったのは知っていた。
そして、それはただの通過点で、
大きな舞台のゴールを先頭で切るのが本当の夢だということも。
- 6 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:03
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本当は寂しい。
毎日一緒にいたわけじゃない。
でも、ふとした時に、後ろには舞美ちゃんがいた。
必ず立ち止まってしまったときには、背を押してくれて。
彼女なりの正しい道へ、私を導いてくれて。
その彼女の目の届かない場所で、歩き出す不安。
背中を守ってくれる人がいなくなる喪失感。
でも夢だから。
お互いの夢を掴むためだから。
寂しいサヨナラじゃない。
そう言い聞かせるんだ。
- 7 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:04
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「あちー」
見ると、パタパタと胸元の制服をひっぱりながら
手の甲で大量の汗を拭っている舞美ちゃん。
猛暑の今年は、彼女には本当に過酷に日々だと思う。
ともすれば、脱水症状でも起こしかねないぐらいの汗だから。
ふと思い立って。
私は、自転車を留める。
「愛理? ちょ、危ないよー?」
「だいじょうぶー」
彼女の声を聞きながら、鞄の中をあさりながら車道を渡っていく。
これが最後の舞美ちゃんの姿かもしれない。
そう思うと、何かカタチが欲しかった。ううん、残したかった。
それにもってこいのものを私は持っている。
それを渡そうと、一歩二歩と近づいていく。
けど。
- 8 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:04
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「愛理! 戻って!」
ぱっと顔をあげると、今日一番の形相で私を見てる舞美ちゃん。
ふっと、視線は急カーブに備え付けられている鏡。
反射的に目で追いかけて気付く。
ガードレールに車体をこすり付けるかのような
ものすごい勢いで車が曲がってきていることに。
まるで黒い怪物。
車幅灯は、どこか狂った目みたいに輝いていて。
この太陽の光を受けてギラギラと反射するカラダが
私を飲み込まんと、突進してきてる。
「―――――っ」
ユラユラと熱で揺れるアスファルトを怪物がやってくる。
でも、動けなかった。
足がすくんで。
――― 意識が…散りそうになる。
- 9 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:04
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「愛理!!」
舞美ちゃんの悲鳴が遠くで聞こえる。
次いで、ガシャン! と、自転車の倒れる音。
その音に振り返るより早く、影が迫り来る。
タン、タン、と、シューズ独特のゴムの音を伴って。
そして、――――――― 暗転。
……………………。
…………。
……。
- 10 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:05
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サーーー、と。
ガードレール下から吹いてくる、心地良い風で意識が落ちてくる。
鼻をくすぐるシャンプーと、ほんの少しの汗の匂いを混じらせた風に。
「舞美ちゃん…?」
疾風のように迫ってきた影は舞美ちゃん。
まるで世界新記録でも出しそうな瞬発力で駆け出して、
私を巻き込むように、ガードレールの方まで倒れこんだんだ。
すぐ後ろをかすめるようにして、通り過ぎる車は
まるでスローモーションだった気がする。
なんだか、妙にそれがおかしくなって。
「んははぁ〜、舞美ちゃん、世界新記録ぐらい早かったねぇ」
笑って言った瞬間、がばっと離される身体。
驚いて声を出すより早く、
「バカッ!! 何言ってんのよ!」
ものすごい勢いで怒鳴られた。
- 11 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:05
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「め、めちゃ危なかったんだよ!? もうちょっとで愛理轢かれてたんだよ!?
なのに何フニャフニャしてんのよ!そんなんで東京行ってやってけんの!?
ぜんっぜん、だ、ダメじゃん!!」
噛みまくりだったけど、その勢いは凄くって。
どれだけ自分が不謹慎なことを言ったのか、
安易な考えをしていたのか思い知らされた気持ちになる。
「ほら!膝もケガしてる!」
バタバタと忙しく自分のポケットをあさって、ハンカチを取り出すと
ぎゅっと私の膝小僧に押し付けてくる舞美ちゃん。
チクリと痛むその感覚に、一気に現実に戻された。
舞美ちゃんが怒ってる。
私に、すごく、とっても。
いつも優しく笑ってくれる舞美ちゃんが…。
- 12 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:05
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「ごめんなさい…」
目が痛い。
鼻の奥がツンとしてくる。
舞美ちゃんの姿は見る見る滲んで…。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
ポタポタと、太ももに涙を零しながら謝った。
こんなにも怒られるとは思ってなかった。
舞美ちゃんの怒った姿を、私はほとんど見たことがなかったし。
「こ…これを…、渡したくて、くて…っく」
嗚咽が漏れて言葉が詰まる。
それでも、渡したかったカタチをそっと差し出す。
- 13 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:05
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汗っかきの舞美ちゃんに、いつでも使ってもらえるハンドタオルを。
私からのものだって判る、カッパのプリントがあるハンドタオル。
覚えてるかな…? このカッパ。
「これ…、一緒に観に行った映画のカッパのキャラ?」
「うん…、っぐ、舞美ちゃん、汗、凄いから…、これで…」
差し出されたタオルを、舞美ちゃんは呆然と見つめてて。
ポカンと開けられた口からは言葉が出てこなくて。
「舞美ちゃん…?やっぱり、怒ってる?」
恐る恐る訊ねた私に、やっと舞美ちゃんはハッと我に返って。
私の目を見つめてくれたんだ。
そこにはもう、怒った色はなかった。
「怒ってるけど、怒ってない」
向けられたのは笑顔。
私の大好きな、舞美ちゃんの笑顔。
その笑顔が嬉しくて、私も泣きながら笑った。
- 14 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:06
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「もー、やなんだよねー、あたし汗っかきだからさー」
困ったみたいに額の汗を拭う姿に、
鼻をずずっと言わせながらもそっと、タオルを頬に押し付けた。
「舞美ちゃん、熱い」
「愛理も身体、熱かったし。カッパだったら干上がるぞ?」
「けろー」
「けろー」
「けろけろー」
「ってか、カッパって、けろって鳴くんだっけ?くぅーじゃなかった?」
「わかんない〜」
「愛理てきとー!」
私たちはいつだって、曖昧な空気の中で曖昧に笑いあって
それでも、お互いがどれだけ大切なのかをほんの少しだけ自覚する。
ただ、その大切をお互いに伝えるには、私たちは子供すぎただけ。
この夏が過ぎるうちには伝えられないぐらい、子供すぎただけ。
- 15 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:06
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「ハンドタオル、ありがと」
倒した自転車を、よっこいしょ、と起こしてまたがった舞美ちゃんは
タオルをひらひらさせて笑ってくれる。
「ううん、ハンカチごめんね、汚して」
「いいよ、タオルのお返しってことで」
全然割に合わないのに、そんなことを言ってくれる。
これで最後かもしれない、舞美ちゃんの姿。
なのに、ドラマチックな言葉なんて全然浮かばなくって、
ぎこちなく笑うだけ。
- 16 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:06
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「がんばって、愛理。CD出たら絶対買うから」
「うん、舞美ちゃんもがんばって。さっきのだったら優勝だよ」
「あははー、また愛理てきとー」
「あははは〜」
いつまでもここにいられない。
さぁ、漕ぎ出さなきゃ。
夏の太陽は暑さをひそめ、ようやっと水平線へ沈み始めている。
「じゃあ、行くよ」
「うん、ばいばい」
さよならの挨拶はあっけなく、
でも、温かな視線を感じながら私は自転車を漕ぎ出す。
わけもなく泣きそうになるのは、きっと膝小僧がいたいから。
そう、言い聞かせて。
- 17 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:07
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「あいりー、がんばれー」
カーブで振り返れば、ガードレールに設置した鏡越しに、
まだ私を見つめてくれてる舞美ちゃん。
腕が外れそうなぐらい、ブンブン手を振って。
この目に見守られることも、背を押される事もこれで最後。
その最後の舞美ちゃんの姿は、オレンジ色の陽に照らされて
最高に輝いていた。
- 18 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:07
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それから私は舞美ちゃんと逢ってない。
手紙も、電話も、一度もしていない。
だから、元気なのか、生きているのかさえわからない。
でも、心配はしていない。
だって、あの時もらったハンカチを見るたびに
容易に舞美ちゃんの元気な姿を想像できるから。
きっと、舞美ちゃんは、今もあの心臓破りの坂を
額に前髪が張り付くぐらいの汗をかきながら
自転車で駆け上がっているだろう。
毎日、変わらずに。
- 19 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:07
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- 20 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:07
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- 21 名前:名無し飼育さん 投稿日:2007/08/29(水) 17:08
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