03. 19歳

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:53
03. 19歳
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:54

四十分の通学路の間、約三十分を崖のようなこの道を漕ぐことになる。ガードレールを突
き抜けてしまえば、三十メートルくらい転落した挙句、海へとダイブ。幼い頃は近寄らな
いように言われていた場所を、風と共に走り抜ける。大人になったような気分、もうそん
な心配をしてくれないんだという切ない気持ちを織り交ぜながら、足に力を込める。

顔を上げたのは、車道を挟んだ向こう側から自転車が走ってくる気配がしたからだった。
ちょうど斜めに鏡を入れたように、私とその人は、すれ違う瞬間にお互いの顔をうかがい
見るような仕草をする。それは特別なことではなくて、狭いこの町では制服姿だったら知
り合いの可能性が高かったりするからで。

そう、まさにその予感が当たった。背中からの太陽を受け、怪訝な顔をしているその女の
子は、絶対に私の知っている人だった。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:54
その男は懐かしい匂いの香水をしていて、それがどうしても思い出せなくて話を聞いた。
男は確認するだけで了承は得ずに煙草を喫い始め、わたしはムッと口元を緊張させたけど、
男はどうでもよさそうに喫っていた。懐かしい匂いが煙草に殺されてしまうようで寂し
かった。男の横顔を見ていたら、わたしもどうでもいいやと思えてきた。

わたしは中学を卒業してからしばらく、煙草の匂いが大嫌いだった。子供だったというより
も、すっと受け入れられるもの以外はすべて拒否していた。男は甘い匂いにする茶色っぽい
煙草を吸っている。わたしが好きだった、正確にいえばあれから好きになった煙草の香りは、
もっと複雑で涙が出そうになるほど安らかな気分に浸れるものだった。

雅ちゃん、雅さん、みやちゃん、男は幾通りかわたしを呼び、しっくり来ないのかカクテルを
飲み干してカウンターの端にグラスを寄せた。代わりに寄ってきたバーテンを面倒そうに払い
のけると、過剰に艶のあるカウンターをさらっと撫でた。
「みや、は?」
「それはやめて」
「なんで?」
「どうしても」
思い出したくないことを思い出すから。わたしは男との間に腕を立て、手のひらに顔を預けた。
男は本格的に考えはじめて、わたしは思い出したくない、大事に取っておきたかったことを思い
出そうとする。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:54
あの頃のわたしは抱えきれないコンプレックスに悩まされていて、そのせいでいろいろと不自由
だった。努力はしてみたけれど解消しようのないことに気付いて、コンプレックスとは関係ない
ところで人と付き合うようになっていた。

みやは顔かわいいし、性格も明るいし、なんかいいよね。佐紀にそう言われたことがある。だから、
モテるらしい。自分がどう見られているか、すごく気になっていたし一番知りたかったことだった
けど、誰にも聞けないことだった。顔がかわいいと言われてもわたしはそう思えないから、性格が
明るいと言われた部分がやけに強調されて残っている。

佐紀はおっとりした口調だから厭味に聞こえなかったけど、ちがう子に言われたらわたしはまた悩み、
新たなコンプレックスを見つけてしまったかもしれない。少しは救われたけど、それはやっぱり少し
で、わたしは何も変わらなかった。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
みやちゃん。そう呼ばれて、振り返った。途中で遮られたわたしはどんな表情をしていたのだろう。
男は満足したように笑顔を見せると、バーテンに三種類のカクテルを頼み、一息つくごとに青、橙、
赤と飲みこんでいった。今日はこいつでいいかと思った。

男は何をしている人なのか聞いた。わたしは何もしていない人だと言った。退屈を感じる前にこう
やって街に出てくるとも言った。男は自分のことも話したいようで、病院関係者に媚びてたくさん
税金使わせることだと言った。自分のことしか話さない男じゃなくて、自分以外のすべてをバカに
する以上に自分のことをバカにしたような醒めたところがあって、一緒にいて苦痛を感じなかった。

バーを出る寸前だったか、モーテルに入る直前だったか、男は千年前に切り裂かれた若い男女の話
をした。わたしはベロベロに酔っぱらっていたのでほとんど話を聞いてなかったけど、武士とかが
いた時代にお姫様と恋に落ちた男がいて、理由はわからないけど二人を殺そうとしている人間が
大勢いたのでお姫様だけ逃がしてまた会いに行ったんだけど殺されたとか、たぶんわたしが覚えて
いないだけなんだろうけど、楽しくも悲しくもない話だった。男は話には続きがあって、その二人は
現世に転生していて、それは僕と君なんだよ、と言った。わたしは、つまらないと言った。
そう、退屈だ、と男が重ねた。

わたしはモーテルに入るとすぐベッドに倒れこみ、水を飲みたかったけどビールを手渡された。もう
どうにも止まらなくて、わたしと男は大声で笑いながらビールを撒き続けた。疲れて寝る寸前、男は
わたしの服を脱がせようとしたけど、わたしはもう眠くて動く気もしなくて、男も指先の感覚がない
みたいで自分のベルトも外せずに、げらげら笑ってベッドに倒れこんだ。その勢いのままベッドから
落ちて、わたしはその後どうなったのか確かめることなく眠りに落ちた。強く深い眠りだった。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
四十分の通学路の間、約三十分を崖のようなこの道を漕ぐことになる。ガードレールを突
き抜けてしまえば、三十メートルくらい転落した挙句、海へとダイブ。幼い頃は近寄らな
いように言われていた場所を、風と共に走り抜ける。大人になったような気分、もうそん
な心配をしてくれないんだという切ない気持ちを織り交ぜながら、足に力を込める。

顔を上げたのは、車道を挟んだ向こう側から自転車が走ってくる気配がしたからだった。
ちょうど斜めに鏡を入れたように、私とその人は、すれ違う瞬間にお互いの顔をうかがい
見るような仕草をする。それは特別なことではなくて、狭いこの町では制服姿だったら知
り合いの可能性が高かったりするからで。

そう、まさにその予感が当たった。背中からの太陽を受け、怪訝な顔をしているその女の
子は、絶対に私の知っている人だった。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
梨沙子が、みや! と叫んで重そうに漕いでいたペダルから足を離した。
去年までは毎朝、眠い目をこすりながらシャラシャラまわるチェーンの音を聞いていた。
駅で壊した鍵がガラガラ引っかかって音を立てている。数時間前までの酒がほとんど残っ
ていて、皮膚のすぐ内側によどんだ水の膜が張っているような不快感がある。耳の奥の
ほうが痺れていて、このままガードレールを突き抜けて、慣性のままどこまでも飛んで
いけたらどんなに気持ちいいだろうと、朱色の空の向こうめがけてブレーキを握った。
梨沙子の、みや! という絶叫が朝焼けの水平線を震わせた。

変わってない。登りに息を弾ませた梨沙子は、胸に手をおいて大袈裟に息を吐いている。
もう幼さはすっかり消えて、こっちが死にたくなるくらい綺麗な顔立ちになったくせに、
梨沙子はずっと梨沙子のままだ。
「なに梨沙子、こんな朝早くに」
「べつにいいじゃん」
「なにしてんの?」
「なんだっていいじゃん」
「なんで言わないの」
「バイトしてただけだよ」
「制服で?」
「お店では着替えてるもん」
怒ることないのに、梨沙子は気まずさを振り払うように強い口調で言った。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
わたしがなんでこんな時間にいるのか、わかりきっているのに聞きたそうにしている。
みやがなんで、こんな時間にいるか知りたい? 梨沙子といると、もうずっと前、ほんの
二年かそれくらい前だけど、ずっと遠い昔の自分に戻れそうな気がする。

知りたくない、梨沙子は辛そうに顔を伏せる。梨沙子はなにも悪くないのに。ついでに
いうと、誰も悪くない。
「ねえ、煙草持ってる?」
「あるけど」
「ちょうだい」
「吸うの?」
「今は吸う」
すっとポケットから取り出した煙草の小箱を、おずおず差し出す梨沙子からひったくる
ように受け取った。飴でも入っていそうなデザインに目が潤んでくる。火をつけて思い
切り吸い込む。懐かしい匂いが、奥から鼻腔をくすぐる。口いっぱいに広がる苦い煙の味が
甘く胸を揺さぶって、わたしを嘯かせる。けむり、しみる。

「これ、どこに売ってるの?」
「知らない、もらうだけだから」
「だよね」
知りたかったわけじゃない。
今朝、別れ際、男はまた会えるか聞いた。次はないと言うと、男はそうだよねと笑って、あの
茶色くて甘い匂いのする煙草を吸った。梨沙子が退屈そうにわたしから奪い返した煙草を吸って
いる。梨沙子を抱きしめたくなった。男に、香水の種類を聞くのを忘れた。もう二度と会うこと
はないけど、今度会ったら聞こうと思った。

9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
 
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
 
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/08/25(土) 22:55
 

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