21 暗いところで音合わせ
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:38
- 21 暗いところで音合わせ
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:38
- 「物騒な事件が増えてるからな。暗くなる前に帰れよ」
言い置いた担任が教室を去ってから何時間が経ったのか。
うたた寝から目覚めると、赤みを増した陽光の波にたゆたう教室はひと気を失い、
色濃い闇の気配をそこかしこに滲ませ始めていた。
「絵里、起きたの?」
背後の声に振り返ると、机を三つ隔てた席でさゆみが浅く首を傾けていた。
両目を閉じ、コンチェルトに耳を澄ますように穏やかな微笑で絵里の呼吸を窺っている。
「……先に帰って良かったのに」
「一人じゃ危ないでしょ。遅くなる前に帰ろ」
絵里の反論を待たず、さゆみはタンッと舌を鳴らして立ち上がった。
指先で机の縁をなぞりながら絵里に歩み寄ってくる。
その両目は閉じられたままだ。
「危なくても平気だもん……。」
「え?」
「なんでもない。帰ろ」
机にかけてあった鞄とさゆみの手を取り立ち上がる。
先導して教室の扉に向かおうとすると、握った掌をさゆみに引かれ歩み損ねた。
「な――」
眉をひそめてさゆみを窺い、息を呑む。
さゆみが普段閉じっぱなしの両目を見開いていた。
桜色の瞳と視線がかち合い、咄嗟に目を逸らす。
「だめだよ、絵里」
なにが、とは問い返せなかった。
たじろいで手を離し、距離を取る。
見えていないはずの瞳が真っ直ぐに絵里を射抜く。
視線には非難と慈愛が満ちていた。
夕日を浴びた虹彩の奥に濁った血の赤色を見た気がして、
絵里はブレザーの袖を引き左の手首を覆い隠した。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:39
-
* * *
さゆみが視力を失ったのは網膜ガンを患った二歳の頃だという。
手術で両目を摘出し、今では義眼を入れている。
義眼の虹彩がピンク色という不自然な色なのは本人の趣向だ。
一切の視力を持たない彼女だが、外出時に杖を持ち歩くことはしていない。
タンッ。タンッ。タンッ。
ほの赤く焼ける帰り道に、舌打ちの音が一定の間隔を伴い木霊する。
舌打ちとは言っても苛立ち紛れに「ちっ」と発するものとは違う。
より高らかに、ハッキリと、存在主張のようにその音は響く。
耳はさゆみの目で、反響する音はさゆみにとっての光だった。
エコーロケーション。反響定位技術。
メカニズムはコウモリやイルカの持つそれと同じだ。
継続的に舌打ちを行い、その反響音を聴き取り周囲の物の外形や距離を測る技術。
欧米を中心に"技術"として研究されているが、実際に身につけられた者はまだ数人という"能力"をさゆみは持っていた。
「さゆのそれってさぁ、人間の鼓動とかも聞き分けられたりすんの?」
「流石に無理。漫画とは違うの」
苦笑気味にさゆみが応える。
けれど、心を見透かされたような感触を覚えることが絵里はこれまで何度かあった。
それを伝える度にさゆみは「絵里がわかりやすいだけ」と言うが、そんなことはないと思う。
「音の違いで物の質とかはわかるけど。音が柔らかかったら金属で、深みがあったら木、鋭い時はガラス」
ふっと周囲が暗くなり始めた。
赤く燃えていた木々や道や建物が燃え尽きて、暗澹とした炭色に覆われていく。
タンッ。タンッ。タンッ。
中学時代吹奏楽部にいた絵里はさゆみの舌打ちを音合わせと重ねることがある。
合奏を始める前に不協がないか確認する音合わせ。
足を踏み出す前に危険がないか確認する反響定位。
辺りに通行人の気配はなく、さゆみの音合わせと枯れた木々のざわめきだけが響き渡る。
タンッ。タンッ。タ――。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:39
- 「絵里!」
緊迫したさゆみの声が右手から迫る。
直後に絵里の左手にある道路でけたたましいブレーキ音。
視線を投げると目の前に、運転席から飛び出したマスクとサングラスの男。
吹きかけられる甘い香りの薬品。揺らぐ景色。さゆみの悲鳴。
シートに顔をぶつけ一瞬だけ覚醒した意識の中で、
男の背後にあった黒い車に連れ込まれたのだと理解する。
理解して、理解したが、成す術なく、絵里の意識は遠のいた。
* * *
「物騒な事件が増えてるからな。暗くなる前に帰れよ」
言い置いた担任が教室を去ってから何時間が経ったのか。
昏睡から目覚めると、周囲はなにひとつ見えない完全な闇に満ちていた。
体を起こすと節々が痛む。
腰の下の感触で、コンクリート上に直に寝かされていたのだとわかった。
「絵里、起きたの?」
デジャブを誘う声に、ぼんやりとした意識が徐々に輪郭を現す。
状況の危急を訴えるかのように、意識を失う直前の映像がめまぐるしく脳裏をよぎった。
「さゆ?! どこ?!」
「ここ」
ひやりとした感触が手の甲に乗せられる。
さゆみの手の形を感じ取り、急速に広がり始めた心細さを埋めたくて握り返した。
タンッ。いつもの音合わせが響くと、さゆみが周囲を探っているのだと悟り息を潜める。
「倉庫みたいな部屋。広さは教室の半分くらいかな……。正面に金属の扉があるの」
さゆみが言う扉の方向からも一切の光が漏れてこないところを見ると、
どこか屋内にある倉庫なのかもしれない。
鉄が錆びたような臭い。廃工場か何かだろうか。
扉に近寄り、手探りで取っ手を掴み開こうと試みる。
当たり前といえばそうなのか、頑強な鉄の扉はびくともしない。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:40
- 「絵里、例のニュース知ってるよね」
「う、うん……。」
隣の県で少女の惨殺死体が見つかった事件だ。
見つかったのは首から上だけ。事件は三ヶ月で五件に及び、今に至るも犯人は見つかっていない。
被害者はいずれも、絵里たちと同年代の少女だった。
「にっ、逃げないと……!」
状況を反芻すると、戦慄が後追いで押し寄せてきた。
少女を拉致し首を切断して放置する異常殺人鬼。
そんなものがすぐ近くにいて、自分とさゆみを殺そうとしている。
「待って。静かに」
タンッ。タンッ。
舌打ちが響く。不思議と動揺が収拾する軽やかなリズム。
「そこ、絵里が最初に寝てたとこのそばになにかある」
言われた場所を探ると、コンクリートの床から金属の取っ手が生えていた。
取っ手の下にはやはり金属の、正方形の小さな扉がはまっている。
取っ手を握って持ち上げてみると、扉はすんなり開いた。
恐る恐る開いた空間に脚を入れてみる。
徐々に全身を滑り込ませると、人が一人入れるだけの空間があることがわかった。
「なんだろこれ。真っ暗だから犯人も気づかなかったのかな」
「さあ。まあどうせここに隠れてもすぐ見つかっちゃうと思うけど――」
言いかけて、さゆみは何かを思いついたのか口を噤んだ。
しばらく思案するような間を空けてから、深刻そうな口調で言う。
「こう考えられないかな。そこに入れるのは一人だけ。けどさゆみたちは二人。
犯人は、そこに入った一人だけは見逃してくれるの」
「え……けどなんでそんな」
「なにかの実験のつもりかも。可能性はなくもないでしょ?」
さゆみの言葉は否と言わせない妙な説得力を孕んでいた。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:40
- 「絵里がそこに入って」
「はぁ?! ちょ、それじゃさゆが――」
「大丈夫。犯人はさゆみの能力を知らないでしょ。
さゆみなら暗闇で有利だから犯人の背後から襲いかかれる」
「無理だよ! 絶対無理! 危ないもん!」
「危なくても平気だもん」
自分が前に吐いたのと同じ言葉を返されて、
絵里の胸に氷のように冷たい、それでいて熱い本流を渦巻かせたなにかがこみ上げる。
「ごめん、今のは冗談。ちょっとイジワル言いたくなっただけなの」
「冗談って……。」
左の手首にじわりと、鈍い疼きを覚えた。
その手首をそっと、ひやりとしたさゆみの掌が撫でる。
「けどホントに危なくても平気なの。落ち着いて、ちゃんと聞いてね――」
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:40
-
* * *
チェーンソーの作動を確かめると、男は興奮した足取りで倉庫へと急いだ。
三ヶ月前に始めた一連の作業は、今まで試したどんなドラッグより刺激的で依存性が強かった。
作業に集中する為に頭に巻いたヘッドランプの灯りを頼り、遺棄された廊下を進む。
廊下の先にある倉庫。
そこに今日の獲物が"保存"してある。
倉庫の中、獲物を寝かせた床のそばには男にも用途不明の収納スペースがあった。
暗闇に放置された獲物はパニックを起こし、とにかく隠れようとそのスペースに潜り込む。
心理学的な話には聡くないが、今までの獲物がみんな同じ反応をしたことから人間はそういうものなのだと理解している。
冷静に考えればそんな場所に隠れたらそれこそ逃げ場がないのだが、
暗闇の恐怖に侵された獲物にそんな判断力はない。
人間は光の中でしか生きられない。
突然完全な闇に置き去られた人間に正常な思考など働かない。
男はあの倉庫に入れた獲物を料理する時いつも、真っ直ぐにそのスペースに向かい、扉を開き、
中で怯えている獲物の髪を掴んで持ち上げ、首だけをスペースから出してチェーンソーで刈る。
チェーンソーの刃に半ばまで裂かれた首はやがて胴体の重みで最後まで刃が通るのを待たず千切れ落ちる。
筋繊維がぶちぶちと剥がれ落ちるあの感触がたまらない。
思い出すと気が急いた。
倉庫にたどり着き、南京錠を解いて開くとヘッドランプを床の扉に向ける。
中でがたがたと怯える獲物の姿が男には見える。
「いない! どこに行った!」
わざとらしく声を張り上げる。
獲物の視界には扉の隙間から射すヘッドランプの灯りに似た希望がちらついている筈だ。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:41
- 「確かにここに閉じ込めたのに! おや? この床の扉はなんだ!」
獲物はまた怯える。
神に男がどこか遠くへ行ってくれることを祈る。
「まあなんでもいいか、それより早く外を探さねば!」
言いつつ足音を潜めて取っ手に近寄り一息に開く。
安堵しかけた獲物は目を見開いて絹を裂くような悲鳴を――、
「いない?!」
演技ではなく張り上げた。
動揺する男の背後で扉が閉ざされる音が轟いた。
扉の向こうで少女のものらしき足音が遠ざかっていく。
驚嘆する男を休ませず、今度はヘッドランプがチカチカと瞬き始めた。
「?!」
腰に衝撃を受けて前方につんのめる。
脚を踏み出し、しかしそこに床はなく、すとんと垂直に体が落ちた。
顎をしたたかに打ちつけた。
痛みに目を回しながらも、例のスペースに落とされたのだとわかる。
少女より身長も横幅も大きい男の体は完全には入りきらず、首から上だけ床の上に晒されていた。
タンッ。
何かが弾けるような音を聞いた。
なんだろう。
何かの音に似ている気がする。
タンッ。タンッ。
そうだ。
よくこの世のものではないものに遭遇した人間が直前に聞いたというラップ音――。
タンッ。タンッ。タンッ。
ヘッドランプが、闇の中の真実を写し取るかのようにチカチカと瞬いている。
フラッシュにも似た光の中で、男はチェーンソーのエンジンが轟く音を聞く。
舌打ちの音に合わせて瞬く闇の中、首のない少女の死体が唸る凶器を振り上げていた。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:41
-
* * *
青空を白い煙が昇っていく。
さゆみの残滓が空の光に混じり溶け合い、薄らいでいく。
目尻を拭い、絵里は制服のポケットから半球型の義眼を取り出した。
綺麗な桜色の虹彩は、じっと絵里を見つめ返している。
「さゆみ、もう死んでるみたいなの」
あの時、そう切り出したさゆみの話を、気が触れたのだと判断しなかったのは何故だろう。
ひやりと冷たいさゆみの体を探り、首がないことを確認する前から、
それが真実なのだと、絵里にはなぜか理解できていた。
理解できているのと受け入れられるのとは別問題で、絵里はひどく取り乱した。
目の前の死体の恐怖より、悲しみが勝った。
あるいは死体を直接見ることがなかったおかげかもしれないが。
さゆみは天然なのか霊的な力の恩恵なのか、犯人の心理をずばり言い当てていた。
床の扉。寝かされていた位置。暗闇における人間の混乱。
後に警察が語った見解とさゆみの推理は一致していた。
さゆみに言われた通り、絵里は入り口の陰に潜み、さゆみの合図で扉の外に出て南京錠をかけた。
警察の説明では犯人は不注意であのスペースに落ち、後から落ちてきたチェーンソーの刃で命を絶たれたのだとされているが、真実は違うだろう。
「だめだよ、絵里」
そう言ったさゆみはどこまで知っていたのだろう。
別に本気で死のうとしたわけじゃないんだよ、さゆ。
これは言い訳になるだろうか。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:42
- 「危なくても平気だもん」
言われた時、胸が詰まった。
濃い虚無感が押し寄せて、弾けた。
別に死のうとしたわけじゃない。
けど、死にかねないことを繰り返していたのは確かだ。
自分を傷つける他感情の行き場がなかった。
けど、自分を傷つけることで傷ついてくれる人がいるんだと、いたんだと、知らなかった。
「……もうしないなんて、約束はできないけど」
手の中の瞳が咎めるような色を帯びた気がした。
「まあ、さゆの気持ちは大事にするから。勘弁してよ」
タンッ。
どこからともなく舌打ちの音。
少し、苛立ち紛れに発するものと似ている気がした。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:42
- E
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:42
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- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/04/01(日) 04:42
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