16 蒼の彼方

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:46
16 蒼の彼方
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:46


見上げた空は、高く青い。
そのなかを、大きな白い鳥が海風を受けて飛んでいた。
空に浮んでいる鳥を目で追いながら、後藤は大きく息を吸い込む。
海に来るとよく見るが、名前は知らない。
知らないが、後藤はその鳥が好きだった。

少しずつ移動している鳥を目で追っているうちに、
遠くの波間に浮んでいる紺野と目が合った。
待機している紺野は初めて一緒に組んだ時から変わらない、
少し心配したような表情を浮かべていた。
安心させるために笑顔で手を振った後藤は、
紺野が手を振り返してくるのを見届けてから、水平線に視線を向ける。
全身を包む水の流れも顔に受ける潮風も、そのときが近いのを教えていた。
遥か沖合いから溜めに溜めたエネルギの奔流が、すぐそこまできている。

風を受けて飛ぶ鳥の姿を想い、後藤は目を細めた。
鳥は風を見つけて、自分の空間を手に入れた。
私も、私だけの空間を手に入れる。

気合を入れるように息を吐くと、
後藤はサーフボードを掴んだ手に力を込めた。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:47
――――

海面が次第に盛り上がり、静かにその高さを増していく。
隆起していく海面がなんの前ぶれもなく臨界を越え、
水の山の頂点が崩れた。
白く泡立った波が陽の光を反射して、牙のような白い威容を現す。

 「いやぁ〜すっごいねぇっ!」

片手で日差しを遮った後藤が歓声を上げながら、
船の手すりから身を乗り出すようにして沖合いを眺めている。
離れた場所から見ているとその正確な大きさはわかり難いが、
その場所で作られる波は、10mを超えるような巨大な物だった。

 「そんなとこに立ってると危ないですよ、後藤さん」
 「見たっ? あんな波、日本じゃ絶対乗れないよねっ!」

はしゃいだように言いながら振り返った後藤の姿に、
思わず紺野は頬が緩みそうになる。
それでも自分の言おうとしたことを思い出して慌てて頭を振ると、
手に持っていた物を差し出した。

 「部屋に置きっぱなしでしたよ。まさかわざとじゃないでしょうね?」

紺野の手に視線を落とした後藤は、
悪戯が見つかった子供のように小さく舌を出した。

 「それ、あんまり好きじゃないんだよね……」
 「なに言ってるんですか! 今日は絶対付けて貰いますからね!」

そう言って無理やり後藤に手渡したのは、ライフジャケットだった。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:47
いま二人がいるのは季節を問わずに最適な波が作られる、
世界でも有数の場所だった。
そしてその場所は、波の巨大さとともに危険なことでも知られている。
波の大きさに反して驚くほど浅いところにある海底には
鋭い刃先を思わせる岩礁が広がり、毎年何人もの死傷者が出ていた。

どれだけの技術と経験を持った人間だとしても、
いつも自分の思い通りに波に乗れるとは限らない。
この場所で行なわれる撮影には、二つの条件が義務付けられていた。
一つはジェットスキーに乗ったサポートの人間を付けること。
そしてもう一つの条件が、ライフジャケットの着用だった。
受け取ろうとしない後藤を軽く睨みながら、
鮮やかな原色のライフジャケットを無理やり押し付ける。

 「後藤さんにもしものことがあったら中澤さんにも迷惑がかかるんですよ!
  少しは周りのことも考えて下さいっ!」

怒ったように言った紺野は、海面に顔を向けた。
少し眉を寄せてその横顔を眺めていた後藤が、
なにか思いついたように口元を綻ばせる。
ニヤニヤしながら、紺野の背後に立って耳元に顔を寄せた。

 「紺野を残して死ぬわけないじゃん」

耳元にささやいて、ふっと息を吹きかける。
びっくりした紺野が耳を押さえながら振り返ると、後藤はウインクを返した。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:47
――――

 「がんばりや!」

船上の中澤が、後藤に向かって声をかける。
後藤は笑顔で手を振って答えると、
ボードに腹ばいに乗って両手で水をこぎ始めた。
波を待つポイントまではジェットスキーで行くはずだったが、
後藤は待ちきれないのかどんどんと海の上を進んでいく。

 「ええか、全部撮るんやで」

離れていく後藤の後ろ姿を眩しそうに目を細めて見ながら、
中澤が横にいるカメラマンに指示を出した。

 「あのルックスで、あの技術。
  この撮影が終われば、後藤も一躍有名人や!」

中澤は興奮した声でそう言うと、紺野に笑いかける。
一瞬だけ中澤の顔を見上げてから、
紺野は船に横付けしてあるジェットスキーのハンドルに手をかけた。

 「そうですね」

顔を上げた紺野は笑顔を返して、
後藤の姿を追うためにスロットルを開いた。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:48
番組制作の仕事に関わっていた中澤と後藤を引き合わせたのは、紺野だった。
知り合いの中澤が家に来たときに、中澤を海へと誘った。
もちろんその日も、後藤がいるのは知っていた。

そこで見た後藤の姿が、中澤を強烈に惹きつけた。
後藤の動きは、身体の中にみなぎる情熱が外に溢れ出てくるように、大胆だ。
人によっては“粗い”と言う人もいるが、そうではない。
独創的な発想と、そこから現われる動きが理解できないだけだ。
実際に、後藤は高度な技術に精通している。
どのような状況でも、誰よりもうまく波に乗る。
そして誰よりも、自分自身を表現していた。

後藤を紹介すると中澤はその場で交渉を始め、
あまり乗り気ではなかった後藤をなんとか説き伏せて、
今日の撮影が実現した。
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:48
中澤は後藤に惹かれている。
だがそれは、純粋なものではない。

後藤という逸材を見つけたという、優越感。
それによって得られるであろう、賞賛。
そして、後藤の生き方に対する尊敬と、羨望。
中澤の言葉の端々には、後藤に対する交じり合ったさまざまな感情が感じ取れた。

紺野は小さく息を吐いて、顔を上げた。
目を細めて、かなり離れたところで波間に漂っている後藤の姿を見つめる。
後藤は、いくつかの問題を抱えていた。
すべてではないが、紺野もそれを知っている。
それは周囲を取り巻く環境であったり、
後藤自身の生き方の問題であったりさまざまだ。
確かに撮影が終り、映像が流れれば金銭的な物のいくつかは解決できるだろう。
しかし後藤自身が答えを出さなければいけない問題は、相変わらず残る。
それは金銭も含めて、他人が解決できるものではない。
中澤の考えも、自分の想いも、すべてのものはいまの後藤には届かない。
結局、自分は見ていることしかできないのだ。

広大な海と果てしなく続く空の間で一人波を待つ後藤の姿は、
恐ろしく頼りなくみえた。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:48
――――

波に乗ること以外、どういう特技もなかった。
サーフィンをやっている。
そう言うと、大抵の人は顔をしかめる。
同年代の反応は初めは好意的だがそれ以外には何もないと分かると、
見せる反応は同じだ。

いつまでも、そんなことができるわけがない。
遊んでばかりいないで、将来を考えろ。
二十歳を過ぎて、恋人の一人もいないのか。
言葉には出さない、しかしそう考えているのがわかる。

波に乗るために、すべての物を捨ててきた。
そんなものはいらないと、他人には強がって見せる。
だが夜中にベッドでシーツに包まると襲ってくる、将来への不安。
仲間に取り残されていく焦り。
答えのない雑多な考えが目を閉じた頭の中で入り乱れ、安らかな眠りを妨げる。

しかしここには、そういったわずらわしい一切のものが、ない。
焦燥も不安も、入りようもない場所。
ここはそういう、空間だ。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:49
五感のすべてを研ぎ澄まし、後藤は全身で感じる水の流れに注意を向けた。
それだけで、頭の中の喚き散らしていた雑音が、遠のいていく。
絶好のタイミングは、一瞬で過ぎ去ってしまう。
僅かな気配も逃さない。
この一瞬にすべてを賭けるために、自分は生きている。

次第に勢いを増す水の動きに合わせて、後藤はパドリングを始めた。
波に押されたボードが自然と動き出したのを感じ取り、体重を徐々に移動する。
後藤はボードを両手で掴み、一気に立ち上がった。

ボードの上に立った後藤は背後で崩れていく波を避けるように、
斜め下へと滑り出した。
スピードを上げながらボトムと呼ばれる波の下側を
緩やかな角度でターンしながら視線を横へと向けてタイミングを計る。

ふいに、ボードの片側を水面に深く食い込ませた。
ターンの角度が鋭くなり、
鮮やかな軌跡を残して切り立った波の壁を垂直に昇っていく。
崩れる寸前の波の頂上で、後藤の身体が一気に回転した。
180度回転したボードが波を弾き返し、白い飛沫を大気に散らせる。

その瞬間、後藤は心のなかで拳を突き上げ雄叫びを上げた。
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:49
数え切れないほどの波に乗ってきた。
何度も失敗しながらも、幾つもの技を徐々に身体に憶え込ませる。
その時の悦びは、後藤の中で眠っていた。

バランス感覚が良くなる。
集中力が身に付く。
有名になって金を稼ぐため。
そんなものは他のどんなスポーツにも当てはまる、ただのいい訳だ。
後藤には、そんな言い訳を口にするつもりはない。

理由などいらない。
ただ純粋に、楽しんでいる。
そしてその純粋さが社会では通用しないものだったとしても、
先のことは考えない。
続けることで得られる物があったとしても失う物があったとしても、
どちらでもかまわなかった。

眠っていた物が一気に覚醒し、身体の隅々まで血液に乗っていきわたる。
その悦びを、後藤は深く味わっていた。
それも、たまらない緊張感の中で。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:49
飲み込もうと追いかけてくる波を巧みにいなし、従える。
複雑に変化する波を自在に捉え、
後藤はいくつものトリックを鮮やかに決めていく。
自分の手足のようにボードを操り、崩れる波の鼻先で反転した。
追いついてくる波を迎え入れるために、スピードを落す。
次々と崩れていく波が作る空洞が、その身体を包み込んだ。

チューブのなかで姿勢を低く保ち、バランスを取る。
間近にある水の壁は深い紺色で、
激しい水量を物語るように黒い線が螺旋模様を描いていた。
後藤は手を伸ばして周りを囲む水の壁に触れる。
水を切っていく心地よい感触と共にさらにスピードが落ち、
チューブのなかに深く入り込んだ。
周囲にある水を透して陽の光が煌めき、踊る。
巨大な波の作る水のトンネルは、アクアブルーに輝く宝石の内側だ。
そして、後藤はその宝石の中を泳ぐ魚だった。

 (これほどの自由が他にあるもんかっ!)

心の中で大声で叫ぶ。
ここでは、どういう制約も受けない。
決めるのは目の前に立ちはだかる壁のような波と、自分。
情熱のすべてを、賭けてきた。
14才で初めて波に乗った時から、やめるなんてありえない。

後藤はチューブから出るために水のなかから手を抜いて、再びスピードを上げた。
すぐに広い海原が現われ、太陽の強い日差しが全身を照らす。
その瞬間、眩しさに目を細めた後藤の目の前を白い物が横切った。
反射的に避けようとした後藤の重心が崩れ、速度が落ちる。

背後から追いかけてきた波の一端がボードに触れて、
後藤は一気にバランスを失った。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:50
――――

チューブから出てきた後藤の目の前を、海鳥が横切った。
避けようとしたのか、バランスの崩れた後藤に背後から迫っていた波が追いつく。
次の瞬間、ボードと共に後藤の身体が宙に投げ出された。

 「あ……っ!」

思わず声を上げた紺野は、ジェットスキーの上で立ち上がった。
背後に迫っていた波が後藤の身体を飲み込み、
すぐにその姿が崩れる波のなかに消えていく。

スロットルを全開まで開いて、紺野は波の裏側に向かった。
波のエネルギーが無くなった後なら問題ない。
だが、いまは波の勢いは頂点を少し過ぎたあたりだった。
沖合いまで続く浅く尖ったリーフが、パワフルな波を作る。
あの波に巻き込まれては、海底の鋭い岩礁に身体を打ち付ける可能性があった。

 「だいじょうぶ……だいじょうぶっ……!」

激しく揺れるジェットスキーのバランスを必死に保ちながら、
紺野は言い聞かせるように口の中で何度もつぶやいた。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:50
そこに辿り着いたときには、巨大な波はすでに消え去っていた。
紺野は波が通り過ぎて穏やかさを取り戻した海面に
無事な後藤の姿を求め、必死に目を走らせる。

 「後藤さんっ!」

大声で叫んでいた紺野は光る海面の上で漂う何かを見つけ、
急いでその場所に向かった。

それは後藤のサーフボードだった。
近くに後藤の姿はなく、主を失ったボードだけが波間に漂っている。
そしてすぐそばには、後藤がつけていたライフジャケットが浮んでいた。

紺野は絶望感に駆られながらも、
祈るような気持ちでボードに付いているリーシュコードを手繰り寄せた。
離れたときにボードが遠くに流されないための物だったが、
コードの先端は後藤の身体とつながっている。
もしかして気を失っていたとしても、すぐに助けられる。

 「……後藤さん!」

紺野は先端の切れたリーシュコードを手に、叫んだ。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:50
――――

全身が水に入ったとき、一番最初に変わったのは音だった。
ボードから投げ出された途端、全身に感じていた海風と波の音が突然掻き消えた。
鼓膜が押し付けられるような水中のくぐもった音が、
後藤の全身を包み込んでいる。

海に投げ出されてすぐに、
ボードと身体をつないでいたリーシュコードが切れているのに気が付いた。
紺野が選んだ太く強靭なコードを易々と引きちぎった波の力に、
海面に出るのは危険だと判断して、後藤は海中でライフジャケットを脱ぎ捨てた。
荒れ狂う海流のなかを木の葉のように舞いながら、
目の前に現われた岩礁に手を伸ばして必死に捕まえ、しがみつく。
そうすることで、なんとか波をやり過ごすことができた。
15 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:51
波が過ぎ去り静かになった海底で、
後藤は巨大な岩礁を両手で抱えて上を見上げる。
圧倒的で巨大な波が過ぎ去り、水面は不思議な模様を描いていた。
海面の複雑な起伏を受けて、空のように広がる水面は揺らめいている。
掻き混ぜられた水のなかにあった空気が水泡をつくり、ゆっくりと昇っていく。
その無数の水泡のひとつひとつが陽の光を浴びて色合いを変え、
星のような光彩を放っていた。

視界を占めるその光景に、後藤は心を奪われた。
波に乗っていたときの突き抜けるような歓喜と、
そのあとに襲ってきた粟立つような一瞬の恐怖。

それらが去って目の前に現われたのは静かな、蒼の世界だった。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:51
目の前に現われた幻想的な光景に陶然と見入っていた後藤だったが、
それは突然終りを告げた。

無粋な直線が世界を切り裂き、後藤の意識を現実へと引き戻す。
岩礁に捕まりながら見上げていた後藤は、
それが自分を探す紺野の乗ったジェットスキーの描く航跡だと気が付いた。
怒ったときの紺野の顔が脳裏に浮び、口元を緩めた後藤は岩礁から手を離す。
全身の力を抜いた後藤の身体が、ゆっくりと紺野の待つ海面へと浮び始めた。

僅かに微笑んでいる後藤の開いた口から吐き出された空気が小さな泡になり、
青く輝く水のなかを踊りながら光のなかへと昇っていく。
そのあまりの美しさに、後藤は右手を伸ばした。
掴もうとしたわけではない。

ただ、手を伸ばした。
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:51
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18 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:51
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19 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/31(土) 00:51
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