07 沈み蝶
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:10
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07 沈み蝶
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:12
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『雨ふってきたからコンビニまでむかえにきて さむいよー』
夕方から吹き始めた風は強くなり、いつのまにか窓の外を雨粒が叩いていた。
眠る前には気付きもしなかった。初夏、夜の嵐。
前の晩から姿を消した同居人は何事もなかったようにメールを寄越す。
起こされた美貴は断る術もなく、二本の傘と彼女の上着を持って部屋を出る。
来月には自分ひとりのものになる広い部屋を。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:12
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傘の中におさまらない長めの裾を気にしながら、美貴は考える。
別居したいと言い出した亜弥と、それを拒否しなかった自分について。
謝りはするが意志を変えない亜弥と、責めたい時になると上手く言葉の出せない自分
について。
夜中の一時にメールで呼び出す亜弥と、夜中の三時に電話をかける自分について。
そして、今、自らを沈めているのは何か考える。
彼女への変わらぬ想いか、それとも怒りさえ打ち消す慣れと締念か。
もしくは両方、その矛盾かもしれない。
幼く在るのが許される時間が過ぎたのを知りながら身を寄せたままでいることは不自
然だという主旨の亜弥の言い訳は、とても上手だった。
美貴にもちゃんと共有できるように優しさで包まれていた。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:13
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亜弥は待っていた。
店の中にいれば良いのにわざわざ雨の叩き付ける硝子の外で背を丸くしているのが彼
女らしい。いつものように、美貴の姿に気付かないふりをしている。自らをより劇的
に見せる巧みな演出は亜弥の十八番だ。
美貴は十分に知っているのでわざわざ咎めたりはしない。腹立たしくもない。
蛍光灯が、亜弥の頬を青白く照らしている。髪が濡れて乱れている。
雨と風のせいのはずだ、この嵐のせいでなくてはいけない…美貴は強風に煽られる黒
い傘の柄を握りしめ独り言を漏らした。露先から落ちた雫がぼたぼたと袖を濡らす。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:13
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「寝てた?」
雨粒まみれの美貴を見るなり亜弥は言った。少しばかり微笑みもした。
「ひっどい顔してるねぇ…心配かけちゃったか?」
美貴が返事を渋るので亜弥は満足げだ。
絞り出した美貴の声にどんな気持ちが隠れているのかもよく知っているだろう。
「…もう帰ってこないかと思った」
「やだ、漫画の読み過ぎじゃない?ほら、帰ろ」
「連絡くれないからまたどっか行っちゃうかと思ったよ…亜弥ちゃん、なんかあったの?」
「…ないよ」
ばちっ。
鈍い音が響いた。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:14
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驚いた美貴は一瞬身を竦める。
音のした方向、ふたりの頭上には、青い光がこうこうと瞬き、その周りを羽虫が飛ん
でいた。悪天候の中を必死に舞う虫たちは青い光を囲み、寄っては離れ、また近付く。
不規則な軌道が幾つも集まって一つの生き物のような影を描いている。
「誘蛾灯だ」
風音の間から亜弥が呟く。
ちらちらと力ない点灯も横殴りの雨に打たれて濡れていた。
「ゆうがとう?…なんか綺麗だね、青いのが」
「はぁ?あんた知らないの?あれって蛾を殺すためにあるんだよ」
「…光で?」
美貴はもう一度眼を凝らしてみるがやはり変わった色の電灯にしか見えない。
一体どこにそんな仕組みがあるのか見当もつかない。
「光じゃなくて紫外線。紫外線でこう、ばーっと呼び寄せて…」
下んとこに水が張ってあってさ、溺死よ溺死、それは昔のやつか…と亜弥は説明を続
けた。最近のはなんだろう?音がするね、ばちっ、てさ。電気かな、感電とか?
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:15
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「そうなんだ…虫は明るいのが好きだから来るのかと思った」
「明るいのは好きでしょうけど紫外線に集まるのは、習性」
「そうなの?亜弥ちゃん、詳しいね」
「学校でやんなかった?」
「やらないよ」
都会の蛾の末路について学んだ記憶はない。美貴には蝶と蛾の区別もよく解らない。
「しゅうせいかぁ…」
美貴は黒い傘をぎゅっと握りしめた。
『習性』。
なんという残酷な響きだろう。
相手の正体を知り得ないのに、近付かずにはいられないなんて。
挙げ句、光に辿り着いた瞬間に地に落ちるというのだから、たまらない。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:16
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「可哀想にね」
思案に沈む美貴の隣で、亜弥が唐突に声を上げた。
哀れみの言葉は水底に落ちる虫たちに向けられているはずだ。
亜弥の視線はちゃんと誘蛾灯を見詰めていた。
そしてその顔は、笑っていた。
突風がふたりを乱す。
雨風は激しくなるばかりで、路面を波打つ水にタイヤを掴まれて不安なのか速度を落
とした車の前照灯が乱暴に道を照らす。眩しさに眼を細めれば、美貴の視界はますま
す暗くなる。
何処までが偶然か、それともこれも亜弥の演出か、美貴にはもう解らない。
冷たい雨に痺れた指が亜弥の腕を強く掴む。
全てが仕組まれていたとしても、彼女のそばにいられればそれでいい。
「…習性ってやつはさ」
大人びた笑みが振り返った。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:17
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亜弥の眼に青い光が閃いたような錯覚を覚えて美貴は軽い眩暈を起こす。
眩んで瞑った瞼の裏では羽虫たちの影がぐるぐると廻る。
「うわ、どした」
風に煽られたと勘違いした亜弥の腕が細い身体にのびた。
その中には確かに安堵があった。冷え切ったはずの両手が美貴にはあたたかい。
悪循環だ。
逃げられる前に、ここから離れようとしているのに。
美貴は縋り付いたまま自嘲の笑みを漏らす。
「だいじょぶ?」
耳元に触れそうな甘い声が追い打ちのように響く。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:17
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「ん…ごめん。ね、亜弥ちゃん、『可哀想』なのかな。しょうがないんじゃない?
習性で寄って来るんなら」
「だって、もしかしたら『好き』で寄って来てるのかもしれないでしょ」
「光だと思って?」
「うん。光と間違えて」
「…」
「可哀想だよ。光に見えても、それは光じゃないんだよ?」
亜弥は、その言葉の持つ残酷さなど微塵も感じさせない。思ったままに言い放ち、溺
れた美貴が見つけた青い光の符号になど気付くこともない。美貴が返さないのを理解
と取ったのか、亜弥は青い傘を拡げた。
「さ、帰ろ」
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:18
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ふたりの脚はすでに膝の辺りまで濡れていた。
靴は雨を吸って動かそうにも重く、上手くいかない。
地面に浅く張られた水が、逃げ出そうとするのを邪魔している。
ばちっ。
また羽虫が落ちた。
青い光に憧れて、近付いて、辿り着いたと感じた時にはもう遅い。
あとは水底へ堕ちるだけになる。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:19
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- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:19
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- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/03/27(火) 23:19
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