19 シンメトリーな選択肢
- 1 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 17:54
- 19 シンメトリーな選択肢
- 2 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 22:50
- 小さい頃、鏡が不思議だった。
磨き抜かれた表面に、触れると伝わってくるその冷たい質感、湛える光。
何よりも左右逆転して映る自分がどうしようもなく不可解だった。
それを確かめるのはいつも化粧台の三面鏡で、だから自然、色々な角度から自分の鼻の高さや睫毛の長さや顎の形を観察することとなった。
後頭部を初めて目にしたのなんかも、たぶんその時だ。
いつからかだろうか、鏡の中には別の世界があるんじゃないかと感じるようになった。
大抵の子供が空想するように、この世とは全く異なったルールで動いている世界があるんじゃないか。そう考えた。
根拠とも呼べない根拠は、鏡を閉じる時に生まれる。
反映に次ぐ反映。世界はその度に小さくなっていったけれど、じゃあ、完全に合わさった状態ではどうなるのか。
誰も確かめることはできない。
ならばそこに未知の世界が広がっていてもおかしくないんじゃないかと、幼い子供だったあたしは思った。
- 3 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:05
- 「麻琴、何、いつまでも鏡見つめてんだよー」
振り返らなかった。彼女の言葉通り、あたしは鏡を見つめていたのだから。
わざわざ首を動かさなくても、吉澤さんはあたしの後ろに座り、自らあたしの視界の中に入ってくる。
「もう時間ですか」
尋ねると吉澤さんは言葉を濁した。そういうわけじゃないけどさ。
その気持ちは理解できた。きっとこの心優しきリーダーは心配してくれているのだ。
それをはっきりと表すことに照れと嘘臭さを感じているだけで、吉澤さんはあたしの変化に気づいてくれている。
ありがたいことに。ありがたくないことに。
「紺野がいなくなってから、ずっとだね。そうするの」
「さゆみたいですか」
「さゆ……ああ、まあ、さゆっぽいかなあ。あの娘もナルシストだから」
当人がいる場でそんな話をしているのだからたまらない。
むしろ後半は道重さゆみ本人に向けてしゃべっていたようなものだった。
二人してさゆの名前を口にする時、心もち声を大きくしていたのがその証拠。
ノリのいい彼女はその雰囲気を敏感に察知し、「もー、ひどいですよー」とあんまりひどいことを言われてないとわかってる口調で甘えてくる。
そして、すぐに元々一緒におしゃべりしていた相手の元へと帰っていく。
やっぱり、頭のいい娘だ。
- 4 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:15
- 「紺野がいなくなったのが原因なのか、自分の卒業が近いからなのかわかんないけどさ、急に今までになかったクセ身に着けられると驚いちゃうよ。もっと……」
「段階を踏んだほうがよかったですか」
「うん、そうだね。手鏡から始まって、少しずつ大きな鏡にするとか」
あたしが笑うと、吉澤さんは少し安心したような顔になった。
急にそれまでになかった感情が湧いた。
美容師とお客様に似た構図の、鏡を挟んだやりとりが申し訳なくなった。
あたしが彼女へ振り返ると、吉澤さんは満足そうに頷き、あたしの髪を乱暴な手つきでくしゃくしゃに撫でる。
「ちょっと」あたしは文句を言った。「ヘアスタイリストさんに怒られちゃうじゃないですかあ」
「怒られるのはあたしじゃないもん」
「ひっど。ふん、いいですよ、吉澤さんにやられたって告げ口するから」
「えっ、あたし何もやってないんですけど?」
「あはは、今から知らんぷり始めないでくださいよお。ずえったい、言いつけてやるんだから」
- 5 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:20
- 吉澤さんは立ち上がると、最後の仕上げとばかりにいっそう念を入れてあたしの髪をかき混ぜた。
そして最後に一回あたしの頭をぽんと叩くと、再び鏡のほうを向いた。
「……大丈夫。何か不安なことがあるなら、いつでも話聞くから」
立ち去っていく吉澤さんを顔で追わずに、やっぱり鏡を通して目だけで追った。
紺ちゃん。口の中だけで呼びかける。
紺ちゃんもずっと、こんな気持ちを抱えていたのだろうか。
罪悪感にも似た胸の痛みがあたしを貫き、涙が出そうになった。
ダメだ。そんなことになったらメイクさんにも怒られてしまう。
あたしは娘。としての最後の仕事であるこのミュージカルを、無事にやり遂げなくてはならない。
それだけは今、間違いじゃない。
カレンダーを確認するまでもなかった。あと10日。
千秋楽のその日に、あたしはモーニング娘。を卒業する。
□
- 6 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:27
- この一ヶ月間、休みはほとんどなかった。
新宿コマ劇場には大きくあたしたちのミュージカルのポスターが貼り出され、それはつまり、結構なことだった。
もうすぐ関係のなくなることでも、忙しくないより忙しいほうがずっといいことは、安定のない職業を選んだ者の習性としてあたしの中にある。
加入後しばらくして、自らをプレッシャーとは無縁の場所に置いてさえ、存在した。
じゃあ、プレッシャーを正面から受ける彼女はどうなのだろう。
訊こうとして、訊く権利を失っていたことを思い出して、あたしは天気の話をしたりする。
「晴れてよかったね、今日」
愛ちゃんは何かに気を取られていたらしく、あたしの声に反応しなかった。
しばらくそのまま二人して歩いて、彼女はようやくあたしの視線に気づき、言った。
「ん、何て?」
「だからぁ、たまの休みなんだから天気でよかったね、って」
「ああ、そうやねえ。最近は劇場だから晴れても雨でもそんなに気にせんかったからなあ。でもちょっと暑いけど」
「暑くても雨の中街を歩くよりいいじゃんよー」
「でも暑い」
- 7 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:33
- ここ最近のあたしの忙しさは異常だ。
卒業間近とあって、休みとなると誰かしらがあたしを誘い、残りの時間で想い出を作ってくれようとする。
ありがたい。ありがたいけれど感謝の気持ちが芽生える度、いつも隣り合わせの感情も疼く。
「こんなふうに五期が集まることも、もうなくなっちゃうんだね」
誤魔化すように口にしたが、それはかえってコースど真ん中だった。
愛ちゃんは困ったように笑い、何も聞かなかったみたいに右手で自分の顔を扇ぎ始めた。
「それにしても、とにかく暑い」
「そればっか」
「暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑ーい!」
そんなに一生懸命声出すと、もっと暑くなるよ。もしくは、暑い暑い言われるとこっちまで暑くなるじゃん。
二つの反応の選択肢が生まれて、だけど、どちらも選ばなかった。
あたしはただ曖昧な笑みを浮かべて押し黙った。
愛ちゃんとあたしは、全くと言っていいほど似たところがないっていうのに、核心を避けるという短所でのみ一致している。
ガキさんは使う電車の路線が違い、一人約束の店の前で待っているはずだ。
そこまでのわずかな道のり。こうして二人でいるのはこれで最後かなと思った。
離れるだけなら、今はもう構わない。会えなくなるのは、少しそれとは次元が違う。
- 8 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:40
- でも、こんこんがいれば、もっとよかったんやけどね」
「……え?」
「さっきの五期が揃うって話。こんこんがいれば、本当に全員やん」
「仕方ないよ、それは」
「うん、そうやね。でも今頃くしゃみしてたりして。それで誰かが噂してるってなって、そうなったらたぶんあたしたちだって気づくで。麻琴のことも、そういえばもうすぐ卒業だな、なんて思ってるかもしれん」
あたしは我慢できなくなり、視線を彼女から離した。
ショーウインドウに映るあたしたちは一見、何の問題も抱えてなさそうにその中にいた。
仲間という言葉が、面映いながらも一番相応しく思えるような。
それ以上踏み込んでしまえば、何かが壊れてしまう。
残念ながら愛ちゃんの予想はハズれ、紺ちゃんはくしゃみなどしていない。
けれど、あたしたちと共にある。あたしだけが知っている。
「それにしても、こんな日が来るとは思わんかったなあ……」
「…………」
「麻琴とガキさんとこんこんと、誰かが欠けて離れ離れになるなんて」
「あたしもそうだよ、そんなの」
「ガチガチに緊張して自己紹介したのが、昨日のことみたいやもん。信じられんで。ずっとライバルだと思ってた相手がいなくなるなんて」
- 9 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:46
- あたしはあたしが間違っていたことを知った。
あたしは今でもライバルだと言ってくれる彼女の目を見ることもできず、彼女は遠回りしながらも前進する。
流れた月日の長さを感じた。最前線で風を受けてきた者と、そこを避けた者。
それでもインプリンティングされた小鳥のように、どこか憧れに似た瞳の輝きでライバルだと口にする彼女を、あたしは殺さなくてはならないのだろうか。
相手が誰であれ胸は激しく痛んだけれど、彼女の場合を想像すると、そのどれとも種類が違うように感じた。
目的の店の前に着くと、先にこっちに気づいたガキさんが大きく手を振り、あたしたちはその大きな動作に顔を見合わせて笑い、暑い暑いと言っていたくせに、小走りになって彼女の元へ向かう。
一番年下だっていうのに、先頭に立ち行動を仕切り出すガキさん。
店のおしゃれなガラス戸を開けるのも、店員に対応を促すのも彼女だ。
全てが以前と変わらない。
こうして五期メンだけで集まったのは、あの日以来初めてのことだった。
あの日。紺ちゃんが卒業した日。行方不明になった日。――この世からいなくなった日。
- 10 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:49
- □
神様は時として残酷だ。使うことの許されないものを、人に与えたりするのだから。
たとえば人を殺す才能があったとして、それを使用したらたちまちに捕まってしまう。
だけどもし、禁じられた力を自覚し、それを使うことで状況を変えることができたとしたら。
使わなきゃいけなくなったとしたら。
神様は残酷だ。
紺ちゃんから事実上の告白を受けたのは、去年の10月のことだった。
「好きだから」とか「あなたのため」といった甘い言葉はなく、説明のように事実だけを話された。
実際、それは説明だった。あたしは全てを知ってるの。だから、娘。を辞めてくれないかな。
彼女は死を覚悟して、あたしにそんな内容を告げた。
聞かされた時点で、あたしにはもう、他のルートを選ぶ権利はなかった。
数日後、紺ちゃんに言った。条件はあなたも一緒に辞めることでどうでしょうか。
彼女は少し照れたように頷いてくれた。
事務所に二人して辞意を伝えると、希望する期限を尋ねられた。
もちろんビジネスなのだから、急に辞めたいと言われて、はいそうですかといかないことはわかっている。
来年の夏には。そう申し出ると、相手は幾分ホッとした顔になった。
- 11 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:51
- そこからのあたしたちの脱退に関する経緯を、あたしは知らない。
どういう企業的戦略があってそうなったのか、あたしたちは一ヶ月違いで辞めることとなった。
構わなかった。一緒に、というのは「同時に」ではなく、「同じように」という意味だった。
「でもさぁ、語学留学って、何処行くつもり?」
魔女のメイクを終えた美貴ちゃんが、鏡を見つめるあたしに、ぽつりと言った。
興味のなさそうな、それを装っているような、鼻にかかった声だ。
「……えーと、英語を使うとこ?」
「いやいや、何で麻琴が疑問系なの。ちゃんと決まってもないの」
「そんなことないよお。アメリカとかハワイだよ、きっと」
「決まってないじゃん。それと、地理が苦手な美貴だって、ハワイがアメリカだってことくらい知ってんだけど」
冗談で濁したけれど、ちゃんとわかっていた。
彼女が本当に知りたいのは、何処へ行くのかではなく、どうして娘。を辞めるのかだ。
そこは誰の卒業であってもデリケートな部分で、比較的ストレートな彼女も、安易に踏み込んできたりはしない。
- 12 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:52
- 「いいなあ、小春もアメリカ行ってみたいですぅ」
小春があさっての方向から会話に参加すると、亀ちゃんやれいなもそれに続く。
「あー、でも絵里はぁ、ヨーロッパとか行ってみたいかも」
「ヨーロッパええねえ。でも、アフリカとかもよくない?」
「アフリカ怖いよぉ。だって、大きな動物とかヘビとかいっぱいいるんだよ?」
「……ああ、やっぱりれいなもそれ、ダメっちゃかも」
他愛ない夢想話が、何気に核心を突いていた。
あたしは指令を仰ぐように鏡へと視線を走らせ、ハッとして冷静を取り戻した。
ごめんね、みんな。みんなはもう、外国の地を踏むことはないんだよ。
理論上永遠に続けることのできるモーニング娘。それを終わらせる手段が、この世にはあったんだよ。
あたしはその場を後にして、トイレに駆け込んで胃の中のものを全て吐き出した。
卒業すると決めてから、もう何度目になるかわからない。
紺ちゃんがこの世界からいなくなってからは、特に回数が増えた。
□
- 13 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:54
- 紺ちゃんがまず最初にしたのは、小さい頃の話だった。
自分に超能力があると気づいた頃の話。
未来が見えることがあり、それを変えることに本能的な恐怖があったという話。
「本能的な恐怖?」
あたしが尋ねると、紺ちゃんは説明しづらいんだけど、というふうに頷いた。
「小さい時って、夜が怖かったりしたでしょ? あんな感じなの。別に誰に教えられたってわけじゃないのに、そこに危険がありそうで、すごく怖かったんだ」
「だけど、ほとんどの人が成長するうちにさぁ、暗闇を怖がらなくなるじゃん」
「どこまでが危険で、どこからが危険か、確かめるからね。あたしもそうだった」
その許容範囲は、驚くほど狭かった。
未来を変化させる度、怪我をしたりだとか、相応の不幸が紺ちゃんを襲ったという。
両親に未来が見えると告げた時には次の朝、覚えのない打撲が腕にあり、一週間ほど手を持ち上げることもできなかった。
超能力の証明として、ほとんど意味のなさそうな事柄を言い当てた時、車に撥ねられて脚を骨折した。
「だから、親も一時はあたしの能力を信じてたんだけど、あたしが隠すようになって否定し出してからは、子供が小さい頃の不思議な出来事として片づけたみたい」
- 14 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:55
- 寂しそうな笑みだった。紺ちゃんはその話をしているあいだ、ずっとその顔をしていた。
うっかり口走ってしまって、屋根に積もった雪が自分の上に落ちてきた話や、番組の収録中に13針を縫う怪我をした話をしている時も、ずっと。
「だったら今、どうしてあたしにそんな話するの」
彼女が冗談でこんなことを口にする娘じゃないってことはわかってる。
紺ちゃんがこんな話をしたということは、それは真実なのだ。
簡単に受け入れたあたしは、そのうえで、この話をする危険性を思った。
「まずここから話さないと、信じてもらえないからね」
紺ちゃんは何でもないという感じだった。その感じが、何だか恐ろしかった。
「どういうこと?」
「本題はここからってこと」
本能的な恐怖に晒されているはずの紺ちゃんに、怯えを見つけることはできなかった。
大きな黒目で、しっかりとあたしを見据えていた。
「あたしが三週間前見た未来は、ニュース映像だったんだ」
「ニュースってあのニュース?」
「そう、飛行機事故」
尖った形をした紺ちゃんの唇がきゅっと結ばれた時、あたしは覚った。
航空機事故ほど死亡率が高い事故はない。つまり、誰かが死ぬとか、そういった類の話だと。
- 15 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:57
- 「もしかして……あたし?」
紺ちゃんはほとんど止まっているような速度で一度頷き、慌てて首を横に振った。
「そうだけど、だけじゃないの」
「だけじゃないって……」
「詳しくはわからないんだ。死亡者テロップが流れてて、それが途中までだったから。だけどマコっちゃんとか愛ちゃんとか、外国人に混ざってメンバーの名前がたくさん並んでて……」
何も考えることができなかった。
心の準備をして臨んだはずの紺ちゃんが泣きそうな顔をしていても、頭をなでてあげることさえ思いつかなかった。
あたしはただ、足元から地面が崩れていくような、狭い部屋に閉じ込められたような感覚の中にいた。
「娘。がそんなにいっぺんに飛行機に乗って、海外に行く機会っていったら、一つしか思いつかない」
それでも紺ちゃんの口調は淀みない。
「たぶん、ツアーなんだと思う。このあいだ香港に行ったばっかりだから、今ならすぐ辞めれば間に合う」
彼女の感じを恐ろしく思った理由がわかった。
本能的な恐怖を寄せつけないほど、もしくはそれよりも大きな塊として、覚悟を決めているのだ。
顔を上げたあたしに、紺ちゃんはくっきり言った。
「マコっちゃんは、死なないで済むんだよ」
- 16 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/20(日) 23:59
- □
あたしたちは、未来を変えるということを甘く見ていた。
最初からそうではなかったかもしれない。
だけど紺ちゃんの話を聞いてからの数日間、紺ちゃんの身に何も起こらなかったことで、ひとまず安心してしまった。
かつて紺ちゃんに降りかかった悲劇は、偶然のイタズラだったのかもしれないと。
能力を説明する時、紺ちゃんは言った。
マコっちゃんが飛行機に乗らないことで、自分がどうなっても後悔はしない。
それはつまり、死亡者テロップの中に彼女自身が含まれてなかったことを意味した。
そのことを彼女は一言も口にしなかった。
未来が予定通りに進んだとして、全員が死ぬのはまず間違いはない。
でも、それは現時点ではおそらくの話。
テロップに流れなかった以上、彼女の生死は未確定で、問題の便に搭乗したかどうかも未確定だ。
紺ちゃんは、黙っていれば自分だけ助かることができた。
わざわざあたしに教えた意味を、鈍感なあたしも覚った。
- 17 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:00
- 問題の便。それがどれなのかわからないことが、こんな奇妙な状況を作り出したとも言える。
紺ちゃんがもし誰かを助けるとして、その人物を絞る必要が生まれた。
わかっていれば何らかの理由をつけて、全員を他の航空機に変えてもらうことができたかもしれない。
しかし今の乏しい情報では、問題の便がそれかもしれない。
安全を確保するためには、ツアーに参加しないことしかないのだ。
じゃあ、休めばよかったんじゃない。
あたしが考えなしに発言すると、海外ツアーを? と紺ちゃんは理に適った返答をする。
どんな怪我をすれば欠席できるのか、見当もつかない。
少なくとも骨折程度では、吊ったまま参加させられるだろう。それくらい大きな仕事だ。
ましては、事故が起こる未来が見えたからなどという理由では、企画は微動だにしない。
しかし、とあたしたちは話し合ったのだった。
一人の命を救うという大きな変化をもたらして、何の代償を払わずに済んだ。
もしかしたら、というよりおそらく。必要になると思った引き換えの命を奪われることがなかった。
――だったら。いざとなったら、どんな手を使ってでもみんなの命も助けよう。
- 18 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:02
- 「麻琴、そろそろ時間だよ」
10日前と同じように吉澤さんがあたしに声をかけた。
いつの間にかあたしを取り巻くようにミュージカル出演メンバーの半円ができていて、あたしは慌てて立ち上がる。
「今日で最後なんだね」
当たり前のことを、当たり前じゃない口調で言うので、頷くことしかできなかった。
笑顔は作れたと思う。裏切り者の笑顔。
そのことで胸に痛みが走ろうと、何の支障もなく笑みを作ることができる。
あたしはこの人たちを見殺しにするのだ。救うことができるのに、その手を伸ばすことなく。
その言葉通りあたしは、殺すのだ。
紺ちゃん。声にせず、右腕を持ち上げ、鏡に向かって差し出した。
鏡面に触れた時、手のひらを重ねるように、紺ちゃんも向こう側から左手を合わせてきた。
あたしたちは鏡の前で、鏡に映ったみたいに一つだった。
頑張ってと、紺ちゃんが口を動かすのがわかった。
「……じゃあ、行こうか」
吉澤さんに促され、止まったようだった楽屋の時間が動き始める。
入れ代わり立ち代わり、ハグをされ惜別の情のこもった言葉をかけられた。
同じ気持ちだった。ずっと一緒にいたい。離れたくなんて、ない。
- 19 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:03
- 紺ちゃんは、紺ちゃんが卒業したその日にこの世から消え、鏡の中の世界へと押し込められた。
公になりづらい、もっともよい時期がそのタイミングだったのだと、あとになってから気がついた。
紺ちゃんを見ることができるのは、その行為によって命を助けられたあたし一人で、そのあたしとも言葉を交わすことはできない。
ただひたすらに鏡からあたしたちを見つめ、誰とも接触できずにそこで生きていくしかないのだ。
いつ終わるとも知れない、どのくらいかの期間。時々、紺ちゃんは震えるように泣いた。
どうしてこのような形になったのか。
あたしはこの一ヶ月のあいだに嫌というほど思い知った。
それはたぶん、紺ちゃんへの罰であり、あたしへの見せしめだった。
未来を見通す能力のないあたしにも、一つだけ今、変えることのできるものが残っている。
舞台までの短い廊下を歩きながら、少しずつ実感が湧いてくるのを感じた。
誰かとすれ違う度。温かさに満ちた挨拶を受ける度。
あたしは今日でモーニング娘。ではなくなるんだと、そう教えられる思いだった。
- 20 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:04
- 今のあたしにはもう、選択肢はない。
一人を助けて孤独な世界に閉じ込められるのだから、みんなを救おうとしたら、命を落とすのは間違いのないことだった。
そしてそれは、無関係でいられたのにあたしを守ってくれた紺ちゃんの行動を、無にすることだった。
「麻琴」
不意に声をかけられて、喪失感に近いものを覚えた。
支えとしていたものを取り払われたような、身体から力が抜けていく感覚。
「麻琴、本当にこれでええの?」
愛ちゃんは自分が何を言っているのかもわかっていない様子で、あたしを見上げていた。
身長差の関係で、大抵の場合、彼女の視線はそうなった。
直線的で、守ることをどこかに置き忘れたような視線。それがあたしを貫いていた。
「いいも何も、もう決まったことだから」
「……でも、本当にええの?」
- 21 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:05
- これだから嫌だったんだと、あたしは思った。
いつの間にか周りに人はいなくなっていて、あたしたちは二人きりになっていた。
あの時の覚悟が、揺らいでいるのを感じた。
二人きりで話をするのは、あれで最後だと思ったのに。
そう思ったから、耐えることができたのに。
「こんな形で卒業して、本当にそれでええの?」
アタシハコノコヲ、ミゴロシニシタクナイ。
その時、唐突な考えがあたしに降りてくるのを感じた。
それは、紺ちゃんとの話し合いでは決して姿を見せなかったカード。
あの頃知り得なくて、今なら結果がわかっていることが、一つある。
- 22 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:07
- 愛ちゃんを見つめ返した。
あたしの目に光でも宿ったのだろうか。
愛ちゃんはまるで初対面の日々のように、驚いた顔をした。
決断をしたのは久しぶりだった。
この卒業にしたって、あたしは自分で決めたことなんて、何一つなかった。
モーニング娘。に入って少しして、それを放棄してしまった。
紺ちゃんの選んだ道だ。そこを通るんだ。
あの時、一人の生命の長さを変えてしまうことで、どのような代償を払うことになるのか、わからなかった。
だけど、今は違う。
反映の中へ押し込められるということがわかっていて、そして、そこには紺ちゃんがいる。
その先のことで邪な考えが脳裡をよぎった。
それが現実になるかどうかはわからない。
未来のことがわかる人間は今、鏡の中にしかいない。
愛ちゃんの手を握り締めた。とりあえず一枚、あたしにはカードが残っている。
- 23 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:07
- □
- 24 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:07
- □
- 25 名前:シンメトリーな選択肢 投稿日:2006/08/21(月) 00:08
- □
Converted by dat2html.pl v0.2