17 上から数えて三番目
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:39
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17 上から数えて三番目
- 2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:41
- 目の前にレースのカーテンがあるみたい。
どんな感じかと聞かれ、里沙は自分の口からそう語った。
「こう、うっすらと、ほんとにもうぼんやりとなんだけど」
真っ白な霧が膜を張っているかのように、里沙の視界は白濁していた。
「ほっとんど見えないんだよね」
「そうなの……?」
「うん。カメの顔も全然わかんないの、ていうか顔と体の区別もつかない」
里沙の腕を掴む手に、微かに力が込められた。
右隣から零れてくる息遣い。里沙はそれから、驚きと不安を感じ取った。
「誰かいるんだなー、とか、何かあるんだなー、とかはわかるの。でもそんぐらい」
覚束ない足取りで進む撮影所の中は、決して明るいとは言えない。
二人はこれから楽屋に向かうところだ。
だが今の里沙にとっては、電池の切れかけた懐中電灯で、真っ暗な道を進むような心持ち。
支えてくれている絵里の手が暖かい。
視力が役に立たない今、彼女のその手だけが頼りだった。
騒がしい建物の中でも、耳を澄ませば彼女の声は容易に拾える。
「あ、そこ、階段あるから」
「ん、オッケーぃ。ちゃんと支えててよぉ?」
「おっけ。任せて」
一度強く腕を握られた後、その手が右の肘に絡まって、絵里が体を寄せてきた。
自然と、里沙の体に緊張が広がっていく。つばを飲み下してそれをごまかした。
「はい、前。もう一歩。……もうちょい、あ、そこ」
「こっから?」
「うん。ゆっくりね?」
一つ頷く。見えているかどうかはわからない。
絵里にしっかりしがみついて、里沙は右足をそっと前方に伸ばした。
バレエの仕草のように爪先を床に滑らせながら、ゆっくりと確かめていく。
ふっと床の固い感触が途絶える。階段の始まりだった。
「いいよガキさん、自分のペースで」
ゆっくりと右足を下ろして、体重を乗せる。左足をそろえて、先ず一段。
同じように右足を下ろし、左足。オーケー二段目。
一息ついて、三段目に足を下ろした時。
しまった。
半歩、大きく出すぎてしまったのだろう。靴底が階段の縁を滑り落ちた。
重力にしたがって落ちる体を、冷たい戦慄が駆け上る。
「ガキさん――!」
絵里の悲鳴が響いても、全ては動き続けている。
本当に災難だ。
ぎゅっと歯を食いしばって、里沙は目を閉じた。
- 3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:42
- 昨日、里沙を襲った急激な視力低下。
それは唐突なものだった。
ミュージカルも無事盛況に納め、メンバー含めスタッフが一息ついた頃。
コンサートツアーの打ち合わせを控えた休み明けの朝、目が覚めた時の出来事だ。
起きてすぐは、自覚できなかった。
ただ、寝ぼけているのだと思っていた。
それでも数分すれば、だんだんと現状が見えてくる。
いや、正しくは、見えなかった。
全て見えない。
目が、見えない。
突然のことに、パニックに陥ってしまう。
肺の入り口に空気の塊が詰まってしまったように、浅い呼吸を何度も繰り返す。
ベッドの上で、ぎゅうと布団を握り締める。それすらも見えない。
内心の動揺を必死に抑え、枕もとの辺りを手探りで漁る。
全てが白くけぶって、微かな色の違いすら掴みにくかった。
それでも何とか目当てのものを見つけ出す。
出来る限りの記憶を引き出して、それを慎重に操作した。
母に言うよりもマネージャーに伝えるよりも、何よりも先に。
同じメンバーである、高橋愛に電話をかけた。
「どーしたぁ?」
「はっ、はっ、どーしようっ、大変っ、目が見えない!」
愛が電話に出るや否や、受話器に噛み付くように話し出した。
向こう側で、素っ頓狂な声が跳ねる。
「は?」
「なんか白くなっちゃって、はっ、全然見えない!」
「何? ガキさん何言っとんの?」
「だからぁ! 目が見えないの!」
肺から全部の空気を搾り出して、叫ぶ。
そのせいで咳き込んでしまい、布団に額を押し付けた。
- 4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:43
- 「どーしたん、だいじょーぶ?」
げほげほと大きくむせている里沙の耳に、呑気な声が届く。
暴れる喉を何とか押さえ込みながら眉根を寄せた。
こいつ、わかってない。
「だから大変だって言ってんの!」
「目、見えんのやろ? それはわかったわ。早くお母さんに言いなさい」
「……は?」
すぽんと、気の抜けた吐息が口から逃げていく。
里沙はふっと顔を上げた。
相変わらず視界は霞みがかっていて、何も見えない。
鏡など見えないが、自分は今呆けているのだろう、と思った。
「ちょ」
「あー、マネージャーさんにも言わなあかんわ。あーしから電話しとく」
「え、あの、ちょ、……愛ちゃん?」
「ん? なに?」
電話から聞こえてくる声は、普段の高橋愛だ。
人の話を聞かなくて、早口で、少し訛っていて、透き通るような声で。
いつもの愛だった。
あくまでも、普段どおり。
里沙の頭の頂点から、冷えた何かがすぅっと背骨を抜けていく。
「ガキさーん?」
「……ううん。あとでね」
「はい? そう? マネージャーさんに迎えに行ってもらうよう言っとくからね」
「うん」
「スタジオ着いたら、誰かに付き添ってもらいな?」
「うん。わかった。ありがとう」
そう言って、里沙は無表情で電話を切った。
あからさまに早口になってしまったが、気にせずそのまま携帯を閉じる。
ふっと息を抜いて、天井を見た。
何も見えなかった。
- 5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:43
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自慢なんですけど、視力がすごい良いんです。
本当に良いんですよ。
だから、ライブの時とかも、お客さん一人一人の顔をちゃんと見ようって思うんです。
ちゃんと、全部見ようって。
- 6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:44
- 「ガキさん? ガキさーん?」
ソプラノの澄んだ声に、我に帰る。
柔らかく細い体に、力強く支えられていた。
「愛ちゃん……」
「おー、見えんのによくわかったなー」
「ガキさぁん!」
背中から頼りない声が下りてきた。絵里が慌てて階段を下りているらしい。
声はそう遠くなかった。階段自体は大した段数でないようだ。
「大丈夫!? 怪我なぁい!?」
絵里が駆け寄って、腰に腕を回す。その腕を支えにして、愛から体を離した。
なんとなく、彼女に支えてもらうのは癪だった。
「や、うん。大丈夫」
「よかったぁ……ほんと、マジびびった」
「いやいやいや、カメよりあたしの方がびっくりだから」
「もー、気をつけんとあかんよ」
愛がそっと手を伸ばして、里沙の服の乱れを正した。
その顔は見なくてもわかる。眉尻を下げながらうっすらと笑っているんだ。
いつものように。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:45
- あの時感じた、氷のようなものが体の内側を滑り落ちる。
階段を踏み外した時に感じるような、滑稽な肌寒さ。
歯を食いしばる。里沙は絵里の腕をしっかりと掴んで、愛の腕を振り払った。
「ガキさん……?」
里沙のただならぬ気配に、絵里の語尾が掠れている。
だが、愛は。
「ちょっと、なにすんのー?」
「何で」
「ん?」
「アンタ何でそんな普通なの?」
「何、ガキさん、どうしたの?」
絵里が肩を掴んで揺らしてくる。
視界は真っ白だけれど、絵里の不安げな表情は目に浮かんだ。
それを黙殺して、低く唸る。
「何でそんなに、いつも通りなの」
「や、意味わかんねって」
イントネーションが跳ねている。愛と思しき人影は首を傾げている、ように見えた。
変わらないその態度に、里沙は目の前の影を睨みつけた。
体の中で冷たいものがはじけて、全身にぱっと広がる。
その破片は言葉となって口先から飛び出した。
「見えないんだよ? 何でそんな普通なの!?」
視界が白い。何重にも霧を重ねて、出来上がる白濁の世界。
現実は霞の向こう側にあって、何も見ることができない。
全て見えるのが唯一の自慢だったのに。
見えるものが、見えない。
見えないものも、見えない。
そして、見たくても。
- 8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:46
- 「なぁ、ガキさん」
唐突に、愛が口を開いた。
その口調はいつもどおりに穏やかなものだったが、嗜めるような響きも含んでいた。
聞きなれないものを敏感に感じ取って、里沙は口をつぐむ。
目つきの鋭さは変わらない。その視線をさえぎるように、愛は手をかざして里沙の目元を覆った。
白かった世界が、暗く闇に呑まれていく。
「な、何……」
戸惑いつつも、里沙はされるがままでいた。
愛の手はぬるかったが、不快なほどではない。
「あんた、最近眠っとらんやろ」
「……何で知ってんの」
「見えてたもんが見えなくなるのは、寂しいよなぁ」
「や、人の話聞いてんの?」
「でもさ」
聞いていない。
いつもの高橋愛は、そのまま話を続ける。
「見えなくなったって、別に何も変わらん」
「……え?」
「見えんくなったもんやって、ちゃんと感じられるやから」
絵里の気配が動く。背中に回っている腕に、緩く力が篭っていた。
服越しに感じるその腕は、少し熱い。
その熱が体の中にゆっくりと染み込んで、散らばった欠片を緩く溶かしてゆく。
溶けた欠片は全身に満遍なく広がってから、体の中心に戻ってきた。
欠片たちには、温もりがある。
- 9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:46
- 暗い視界の向こう側で、愛が笑う。
鼻の所にしわを寄せて、笑っている気がした。
「なーんも変わんないって。見えなくなっただけで、そこにあるんやから」
「愛ちゃん」
「心配することなんて何もないわ。わかってるやろ?」
目元を覆う手がぐっと押さえつけてきて、視界が完全に閉ざされる。
温い手が、そこにある。
「いなくなっても、あの二人はちゃーんと頑張るんやから、あーしたちも頑張ろ」
「……うん」
小さく、うなずく。少し掠れてしまったが、しっかりした声音で里沙は答える。
それに満足したのか、愛がそのまま抱きついてきた。
里沙を絵里ごと抱きしめる。そのため、里沙の顔から愛の手が離れてしまった。
愛の体に腕を回して、その肩口に目元を押し付ける。
暗闇にこれほど心を許せるのは、初めてかもしれない。
気が抜けたのか、急にふっと睡魔が落ちてくる。
暗闇の向こうで霧が渦を巻いて消えていくように、眠気が里沙の頭を揺らす。
目を閉じたまま呻く。
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:47
- 「愛ちゃん……なんか眠くなってきた」
「ん。えぇよ。寝て起きたら治ってるやろ」
「えぇー、そんな簡単に治っちゃんですかねぇ」
「アンタその言い方間違ってるよ」
顔を押し付けて、その螺旋に身を任せた。これならすぐに眠れそうだ。
姿勢を保つのも億劫になり初め、体の力を抜く。
愛は慌てて里沙を支えた。
「ここで寝たらあかんて!」
「わかってるけど、体重いんだもん」
「ガキさん、楽屋いこ」
服の裾を引っ張って絵里が囁く。
わかってはいるが、よっかかっているこの体制はとても楽だったので、なかなか離れがたい。
「もー、世話のかかる末っ子ですこと」
愛と絵里は笑いながら、里沙を引いてその場を後にした。
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:48
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うっすらと霞む意識の中で、もう三段目は踏み外さないだろうと、里沙は思った。
- 12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:51
- 川o・-・) <まめー
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:51
- ∬∬´▽`) <ガキさーん
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/19(土) 06:52
- 川*’ー’)ノ <ほらね
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