08 春と夏の衝突

1 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:14
08 春と夏の衝突
2 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:15
ステージの上では、先輩達がリハーサルで歌っている所だった。
夏焼雅はひとり観客席側で彼女達のダンスを見ていた。スタッフから声が掛かり
リハーサルが一時中断され、ステージ上のメンバーがそこから降りていっても、視線を
逸らす事はなかった。

大きな会場に、小さな舞台。
沢山の観客のために。席が遠すぎて、米粒程度の大きさでしか自分達を見る事ができない
観客のために組まれた、高さのある舞台セット。
夏焼は今回、アンコール用の曲中後半で、下手側に設置された階段を駆け上がって、上の
ステップで歌う。他に同じ場所で歌うメンバーは他のユニットからランダムに選ばれて
いて、自分の所属するBerryz工房からは、夏焼のみがこのステップに上がる事になっている。

パイプで組まれた階段には手摺がついていたが、これもまた同じパイプで組まれた簡素な
造りのものであった。
上下の段差の間が塞がれておらず、極端に言えば骨組みだけ。まるで、工事現場で組まれた
階段のような頼りないものだ。

夏焼は舞台セットの様子を一通り観察し終えると、やや神妙な面持ちで楽屋へと戻っていった。
3 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:16
『誰かに足を掴まれた』

その最初の冷たい感触は、今でもはっきりと憶えている。
熱気に包まれたコンサート会場での、身も凍るような恐ろしい出来事。

この時も舞台上にはセットとして階段が組まれており、夏焼は次の位置へ向かうために
ステップを駆け上がっている最中だった。
やはりこれにも段差に隙間があった。油断すればつま先が奥の何も無い空間にはみ出して
しまう。
勢いを殺さない程度で、足元に注意を払いながら駆け上がっていた。

すると突然左足首に、まるで氷のうを押し当てられたかのような冷たい感触があった。
それはまるで『掴んだ』ように強い力で足首を拘束し、そのせいでバランスを崩して、
あげた右足が意図した位置に届かず2段上の角を蹴るようにして引っかかった。

転んでしまう。

夏焼は転倒を覚悟したが、左足が『何か』に固定されたままなので、そこに支えられた体は
大きく傾いて、浮いた右足が段のどこかに着いたその時、左足も解放された。
一瞬の出来事だった。
4 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:16
幸い背後に他のメンバーの姿は無く、やや遅れたものの許容範囲内の時間で移動する事が
出来、大事には至らなかった。
夏焼自身も、原因は自分の不注意だと思っていたのだが、翌日の公演でも、全く同じ場所で
同じ事が起きてしまったのである。

昨日の失敗を2度とするまいと挑んだ手前、また左足首に違和感を憶えたその瞬間には、
全身から体温が落ちた。
意識が足首にだけ集中し、ほんの一瞬、自分が一体どこで何をしていたのかがわからなく
なった。
ただこの時は、早々に危険箇所から逃れたくて、昨日より早く駆け上がろうとしていた
せいか、その勢いもあって無意識に上体が上へ上へと向かっていたので、今度は倒れる事なく
それに引っ張られるように、からがらその場所からの脱出に成功したのである。

この些細な大事件を『2度続いた偶然』と処理する事は、夏焼には出来なかった。
多くの会場ではセットに段差を設けてあるせいで恐怖心が先に立ち、公演に集中する事が
出来なくなってしまった。
最中に歌やダンスの事しか考えられなくなってくると、不意にセットの段差が目に入り、
我に返る。熱くなっては文字通りまた足元を掬われてしまう、と気を取り直す。
今の彼女は、舞台上で『怪我をしないために集中』しているようなものだった。
5 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:17
久住小春は、先輩方とともにコンサートのリハーサルのため舞台上に立っていた。
主に位置を確認するためのリハーサルで曲はかかっておらず、振り付け担当スタッフの
手拍子に合わせて踊る。確認の仕方はそれぞれで、手拍子に合わせて歌を口ずさむ者、
叩く音のみに合わせて体を動かす者がいた。

客席側から見て左サイドの位置にいる久住は、自分の出番が済んだ後に一旦舞台裏へ捌ける
ため、セットの階段横を通って下手側の舞台袖を抜ける段取りになっている。
曲が終わり自分がいた位置から裏に捌けるまでには、きっちりと時間が決められていた。
『5秒以内に戻れ』と。

「じゃあ、曲終わりの位置から一度捌けるまでやってみます」

スタッフの手拍子で、軽く流す程度に最後まで踊る。振りが終わってからも手拍子は
そのままに、パン、パン、パン、と3度目のタイミングでメンバーが一斉に走り出した。

「いち! にい!」

背後から聞こえるカウントの中、一目散に舞台袖を目指していた久住に、思わぬ邪魔が
入った。
それまでやや暑く感じていた舞台の上のある箇所を通った時、突然横から冷たい風が吹き
込んできて、彼女はそれに気を取られ速度を緩めてしまったのだ。
次いで背後からどん、と衝撃を受け、膝をついて倒れてしまう。
急に減速したため、後ろから走ってきた誰かとぶつかってしまったのだが、床に投げ
出された左腕をその誰かに取られるまで、一体何が起こったのか理解できていなかった。
6 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:17
「ごめん! 大丈夫?」

腕をぐいっと引っ張られて顔を起こす。ぶつかってきたのは吉澤ひとみだった。
久住はそこでハッと我に返り、空いていた右腕をバッと振り上げて横にあった階段を
指し示して、叫んだ。

「いまっ、そこ! そこから何か冷たいのが来たぁ!」
「はあ?」

予想外の言葉に吉澤が眉を顰めるのにも気付かずに、久住は続ける。

「あの階段の方から、冷たい風がひゅうって!」
「…………なんも来ねえけど」

指し示した位置のちょうど真横にいた吉澤だが、空気に違和感は感じられない。
同意を得られず納得できないのか、久住は身を起こす事もせず、四つんばいで吉澤の横に
慌てて戻ってきた。
その途端、階段側にあった半身からさあっと血の気が引く感覚があり、久住は思わず吉澤に
縋りついた。

「ほらここ、ここだよ! やだ寒い!」
「あたし暑い」
「なんで? なんで?」
「いやあんたがくっついてるから」
「じゃなくて、ここだけ空気が」
「……あーわかった。とりあえずここから離れよう」
7 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:18
夏焼が楽屋に戻った直後、清水佐紀が大声で同じユニットのメンバーに集合をかけた。

「はーいBerryzの皆さん集合ー!」

もしかして自分を待っていたのだろうか、と夏焼は思う。
楽屋は他のユニットメンバーとも共同で使用している。室内に散り散りになっていた
メンバーが、やや間を置いてから清水のもとに集まってきた。

「それじゃあ今日も神棚にお祈りをしましょー」

公演のたびの決まりごとであるので、清水のその台詞はいささか事務的であった。
7人のメンバーはぞろぞろと楽屋を出て、清水を先頭に廊下を歩いて小さなホールに出た。
ホール中央の壁面、天井近くに設えてある神棚の前に集まり、清水の合図で一斉に手を
合わせる。
夏焼も当然習慣のように手を合わせ目を閉じたが、舞台の無事を祈るためと教えられた
この行為が、ほとんど無意味である事を身をもって体験してからというもの、真剣に祈る
気にはさらさらなれなかった。
こいつは、神棚は一体なんのためにここにあるんだ、と荒んだ気持ちを隠しきれず、隣で
真剣に祈っている徳永千奈美の脇腹を小突いて苛立ちを発散させた。八つ当たりされた
徳永は、目を閉じたまま口を尖らせている。彼女は基本的にお調子者だが、こういった時には
決まって無視されるのだ。本当に真剣に神って奴を信じて祈っているようだ。
それが夏焼には面白くない。
8 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:19
「……はいっ、終了!」

清水の合図で『お祈り』が終了し、みなそれぞれやりかけていた事があったのか、すぐに
神棚から離れて楽屋へと戻って行った。
しかし、夏焼は忌々しく神棚を見上げたままだ。
その場から動かない彼女を不審に思った清水が、声をかけてきた。

「どーしたの、もうあんまり時間ないよ」
「……こんなのやってて意味あんの」
「まあ無いかもね」

反論されるかと思っていたのに意外な返答をされて、夏焼は驚きを隠せない口調で問い
返した。

「え、そうなの!? やっぱみんな意味ないって思ってんだ?」
「だってあんな一杯人がいるのに神様フォローしきれないって。凄そうじゃん、なんか」

またしても予想だにしなかった言葉が清水の口から出た。
これから我が身の悲劇をせつせつと語ろうとしていた夏焼は、全く考え付かなかった清水の
持論に息を呑んだ。
彼女は続ける。
9 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:19
「お客さんは、出てるメンバーに嫌いな子がいたりすると、その嫌いな子に
 『転べ転べ』とか思っちゃったりとか、あるのかなあって」
「…………え?」
「それが1人や2人じゃなかったり……あんなにたくさんいたらさ、
 神様がうちらを守ろうとしても、守りきれないくらいになっちゃうかもしんないじゃん。
 たまにメンバーが何も無いとこで転んだりしてるの見てて、前から思ってたんだよね」
「そんな……じゃあ」
「なに?」
「……なんでもない」
10 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:19
リハーサルを終えてなお仔犬のように吠える久住を宥めすかしながら、吉澤は楽屋に
向かう途中の小ホールで足を止めた。
後輩達が神棚の前から離れるところを見て、これ幸いと小春の背を押して自分達も神棚の
前に立つ。

「さっきのはユーレーかもしんないから、神様に祈っとくといいかもよ」
「……そっか!」

我ながら有り得ない理由だと思ったが、久住はすんなりと納得してはりきって両手を
合わせ、目を閉じて何事か祈り始めた。
あまりにもうまく行き過ぎて可笑しさがこみ上げてきたが、吉澤はそれを堪えるため
周囲に目を向けて気を紛らわせようとする。するとちょうど廊下の奥から、リハーサルを
終えた他のメンバー達が、ぞろぞろとこちらへやって来ているところだった。
その集団の中でも、2人並んで歩いている新垣と高橋の声は一段とうるさかった。
会話の内容を意識しないで声だけ聞いていると、まるで喧嘩でもしているかのようだが、
よく見てみると互いに笑顔なのでそうではないのだろう。

そのうち高橋が話に熱中し始めたのか、歩きながら横にいる新垣の方に上半身を捻って
盛んに何事か喋っている。
よそ見すると転ぶぞ、吉澤が心の中でそう呟いた途端、高橋はお約束のように足をもつれ
させて、ホールの真ん中で転びかけた。
11 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:20
「ぶっ」

耐え切れず噴き出した吉澤に気付いて久住が振り返ると、なぜか高橋が新垣に説教を
食らっている。

「高橋さん、なんで怒られてるんですか?」
「転びそうになってガキさんの腕掴んだんだよ。お祈り終った?」
「終わりましたっ、バッチシ!」
「何て祈った?」
「悪霊退散!」

吉澤は今度こそ大口を開けて笑い出した。久住はキョトンとしている。

「ごめんごめん、悪かった。お詫びにいっこ教えてやるよ」

なにが悪いのかよく理解できなかったが、久住は頷いた。

「本番の最中に、さっきあった事を思い出さないようにする事。
 そうすりゃ絶対大丈夫。もう何も起こんないから」
「なんで?」
「舞台の上だと、ここで何かあったなって思ったら同じ事起こったりすんの。
 気にすればするほど確率高くなる」

言い終えた直後、吉澤は急に真剣な表情で、内緒だけど、と前置いて久住に耳打ちをした。

気にし始めた時自分の近くに他の誰かが居たら、その人が自分の代わりに被害に遭って
しまう事もあるから、舞台の上では特に、余計な事を考えてはならない、と。
12 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:21



13 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:21
開演時間が刻一刻と迫っている。
楽屋に戻った夏焼は、ずっと清水の言葉について考えていた。

階段だから平坦な場所より転びやすいのは当たり前だ、となるべく現実的な理屈で納得
しようとしてきたが、もしかしたらこの世の者ではない心霊的なもののせいではないか、
そんな風に考えたこともあった。
清水から聞いた話はそれらよりも、ある意味心霊現象云々よりも非現実的だとさえ思った。
しかし、そう、あの場所に集まる何千何万という人間の思いの強さなら、何が起こっても
不思議ではないかもしれない。奇跡でも大事故でも簡単に起こせてしまうかもしれない。

自分達が知らないだけで、過去にこの会場で説明のつかない事故のひとつやふたつは
あったはずであろうし、予防できないから、神棚というものを置いて祈ったりする習慣が
出来たんだろう……

夏焼の思考はどんどん深みに嵌り、とうとう幕が上がるその瞬間まで、最悪の想像から
抜け出す事は出来なかった。
14 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:21



15 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:21
場内にアンコールの声が響く。
……いよいよこの時が来てしまった。
舞台袖で登場順に一列に並び、スタッフの合図を待っているこの時間が、妙に長く
感じられる。

やがて奥の方に居たメンバーが、次々に舞台上へと駆け出した。
アンコールが歓声に変わる。



どうか何事も起こりませんように。



極限まで追い詰められた夏焼はついに、心の中で、あんなに否定的な感情を抱いていた
神に祈ってしまった。
16 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:22
アンコールで飛び出した久住小春は、舞台狭しと元気に駆け回り、いよいよラストの
サビ部分を全員で合唱する時の立ち位置を目指して、階段へ向かっていった。
花道から舞台までは観客に手を振ったり笑顔を振りまきながら移動していたが、舞台に
入ると改めて位置を確認するためにセットの方を見た。
瞬間、表情が笑顔のまま凍りつく。

……返ってあんな事を言われたせいだったのかもしれない。
思い出してしまったのだ。開演前、吉澤から受けた忠告を。

忘れなければと思えば思うほど無理だった。
何度も何度も吉澤の低い声が頭の中で木霊している。



『気にすればするほど』
『近くの誰かが……』



瞬く間に階段が目の前に飛び込んでくる。気持ちに反して足が勝手に段を昇り始めた。
あの時冷たい風を受けたのは、……そう、ちょうど今、自分の前を行く夏焼雅が居る辺り
だった……
17 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:23
「あっ!」

その時突然斜め上の夏焼の体がガクンと揺らぎ、危ないと思った時にはもう遅かった。
久住は下段から減速も何も出来ないまま、屈み込んだ夏焼の背中に膝から衝突して、
バランスを崩した。
咄嗟に手摺に手を伸ばして、掴んだパイプに全体重がかかる。ギッと嫌な軋みを手の平に
感じ、手摺ごと大きく揺れた。一瞬外れて落ちてしまうかと思ったが、何とか無事だった。

体勢が整うと同時に、冷たいものが背筋を流れて行く。

思わず生唾を飲み込んだ久住が、恐る恐る眼下の仲間の様子を伺う。
真っ青な顔をしてこちらを見上げていた夏焼と、目が合った。
18 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:23

19 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:23

20 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 18:24
end

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